夏の深海魚
大学3年の夏、私は火照りを持て余していた。
身体がやたらと熱を持っているのは単に気温の高さが原因なのではなく、身体の内側の感情なり何なりが熱エネルギーに変換されるせいだと自分なりに分析していた。その証拠に水風呂に入っても火照りは消失しなかった。
これを消す為には、誰かと肌を合わせてその誰かに熱を移さなければならないと本能的に思った。性欲ではないけど、それに限りなく近い何かだった。多分。
でもその時私には交際相手がいなくて、早急に対処しないとそこら辺の適当な男を襲ってしまいそうだった。
吉岡君と出会ったのはそんな時だ。
大学時代、私はドラッグストアでアルバイトをしていた。講義が終わってからの勤務なので、平日は大抵夕方から閉店までのシフトだ。その日も私は遅番で働いていた。
私は吉岡君の事を最初SVだと思って、次いで万引き犯だと勘違いした。
※
梅雨入り間近の6月半ば。
私はレジ打ちしながら、レジの右方10メートルあるかないかくらいの距離の店頭をウロつくスーツの男を横目で監視している。店は入り口に扉がなくて、閉店時にはシャッターを閉じるタイプの解放的な造りだ。
スーツの男は店頭からこちらを不自然にチラチラ見ているので、最初は新しいSVが店の様子を視察しに来たのだと思った。だからいつもより馬鹿丁寧に接客をして、袋詰めも入念に行っていた。
SVと言うのはスーパーバイザーの略で、店長より上の偉い人だそうだ。時々来て店内を回って店長と何か話して帰って行く。
私は丁寧な接客を心掛けながらも視界の隅にいる男の様子を仔細に観察した。
彼にあだ名を付けてやりたいからだ。前のSVはいつも青いスーツを着ていてしかもずんぐりむっくりだったので、「ドラえもん」と密かに呼んでいた。それはいつの間にかバイト仲間達の間に浸透して、皆がそう呼ぶようになった。それは私にとってこの上ない喜びだ。
男はひょろりとした体形で、意外と若そうに見える。でもSVになるくらいだから、多分30歳は超えているのだろうと勝手に思った。だからあだ名の第一候補として「とっつぁん坊や」はどうだろうと考えて、これもみんなの間に定着すると良いな、と笑いそうになったけれどレジ打ち中なので耐えた。
でもスーツの男はいつまで経っても店内に入って来ないので、私はやっと彼がSVではない可能性を考慮し出した。それどころか彼は万引きしようとしているのではと思えてきた。それくらい男は挙動不審なのだ。
レジを打ちながら彼にさらに意識を集中し続けた結果、次第に彼の行動パターンが読めてくる。以下の通りだ。
①店頭の端の、集客のための安売りのお菓子(キャベツ太郎やアルフォート、亀せん等だ)のカゴの前でお菓子を見つめる(7秒くらい)。
②上体を15度くらい、向かって左に傾けて店内をチラッチラ見る。
③店頭を、店内に入るか入らないかのギリギリの線に沿って移動し、私の視界から消える。
④再び視界に入り、店内をチラッチラ見ながらお菓子のカゴの前に来る。
男は既に①から④までの動きを10回以上は繰り返している。縄張りを往復する深海魚みたいに。
レジの客が途絶えた隙に店頭へ向かう。近づいて見ても男はやっぱり若くて、私と同年代くらいに見える。そして天然パーマなのか短髪なのに髪がうねうねしていて、半笑いの表情を浮かべている。半笑いなのにどこか切なげなのはどうしてだろう。
「何か御用ですか?!」
私は強めに聞いてしまった。彼の挙動不審さが私をイラつかせていたからだ。男は目を泳がせながら答えた。
「あの僕、吉岡と言いまして、面接の、時間が早く着いてしまいまして、」
「主語と述語がおかしいよね?! その文章だと時間が店に着いた事になるよね?!」
私は大声を出してしまった事に自分で驚いていた。面接に来た初対面の切なげな若者に声を荒らげるほど私は凶暴な性格じゃない。でも何故か彼に対しては強気な態度を取ることが出来た。きっと火照りのせいだ、そうに違いない。
吉岡という若者は固まっている。多分、おうちに帰りたいとか思っているのだろう。
私は振り返ってレジを伺った。レジは2台横に並ぶ形で設置してある。その内の1台でフリーターの本多さんがレジを打っていて、いつの間にかお客さんが2人並んでいた。本多さんがこちらを見た。戻らねば。
「店の奥に店長いるからそっち行って!」
レジに戻り際、また怒鳴ってしまった。吉岡君は「はひ」と声を裏返して言い、奥に駆けて行く。
あぁ彼がどこか切なげなのは眉毛が下がっているからか、どうでも良い事を私は考えた。
しばらくしてまた客が途切れた。暇だ。面接中なら店長が監視カメラで私達を監視している事もないだろうと壁に寄りかかる。
すると隣のレジから本多さんが話し掛けてきた。彼女はパンダメイクの癒し系なので、私は密かに「パンダ本多」と呼んでいる。
「なんかさっき喧嘩してなかった? 彼氏?」
「違いますよ! 面接に来た子らしいです。オドオドしてたからムカついてつい喧嘩腰になっちゃいました。面接があるなんて聞いてました?」
「私も初耳。でもスーツで気合い入ってたね」
「他にマトモな服が無かったんじゃないですか」
投げやりに言うとパンダ本多さんは笑った。
知らない内に面接は終わったらしく、いつの間にか吉岡君はいなくなっていた。
閉店作業を済ませてバイトが終わった後で、私は店長に聞いてみた。店長とは特に仲が良い訳ではないけれど軽い世間話くらいは時々している。多分、変態ばかりの社員の中で一番マトモな人物だ。バツイチの37歳男性、離婚理由は不明。
「今日面接に来てた男の子、採用ですか?」
「うん、彼真面目そうだったから。ちょっと接客向いてなさそうだけど、人足りないから贅沢言えないし。早速明後日からシフト入れる事にしたからいろいろ教えてやって」
「わかりました」
いろいろ教える気はなかったけれど、とりあえず頷いておいた。
ありがとうございました。