水迷宮
「綾鹿、お父様にご挨拶なさい」
母にそう促されると、緊張と愉悦のふたつが幼いわたくしの身体の中で跳ねまわったのを覚えております。
なにしろ、半年に一度しか逢えない父が、あのうつくしい水底から姿を現してくださる、奇跡のような逢瀬のひとときなのですから。
あたりは刈り込まれた槇や満天星、五月ならば長く尾を引く藤棚がきらきらと季節のきらめきをはね返す見事な日本庭園です。
その中心に位置する、睡蓮の花咲く池に寄り添えば、そら、澄んだ水底からいましも、青く光るような黒髪をするりと身に纏い、ろうたけて美しいこの世のものとも思われぬ青年がつぷりと身をあらわすのですよ。
「あやか。よく来た。大きくなったね」
そうして、清い水にぬれてひんやりとしたお手を、母の膝に乗せられたわたくしの頬に乗せてくださるのです。
細筆で引いたような切れ長の目は濃い睫にけぶり、朱塗りのような唇は、清水を乗せていやがうえにも怪しく艶めかしく光っているのでした。
言葉にできぬような容姿の、長い髪を背中まで垂らした真っ白な肌の青年が、わたくしの「お父様」なのだと、わたくしは何の説明もなくとも信じておりました。
まだ年の近いお友達もおりませずさらに社会や世間を知る前で、他と比べることもなく、ただ何かの事情で、お父様とはこの地上でともに暮らせぬのだというぐらいにしか思ってはいなかったのです。
母も、お父様にはお父様の世界があるの、でもこのことは秘密ですよ、誰か一人にでもお話したらもう永遠にお父様とは会えませんからね、とよくよくわたくしに言い含めておりました。
澄んだ水の揺らめきと母の淋しそうな笑顔、いつ見ても二十歳前後としか思えない若い父の容姿、あたりに点在していた大小の池、それはいまも幻のような記憶となってわたくしの中にあります。
小学校に上がったころから母はその庭に通うことをやめ、もう行かないのかと問うと、あそこの場所はもうないのだと謎のように答えるばかりで、そのうちわたくしが父に会いにそこに通った記憶を夢物語のように否定しはじめました。
ですので、わたくしはこどもらしく混乱し、そのうちにすべて夢であったのだと思いなすようになりました。
実はわたくしにはちゃんと「地上の父」がおり、母はその「地上の父」と睦まじい家庭を結んでいました。
やさしいその「地上の父」が、あの庭通いを知っていたのか、「もう一人の父」についてどう考えていたのかは知りません。が、小学校三年あたりになったころ、ふと思い出して、わたくしのお父様はほんとうは水の底に住んでいるの、とそうっとお話ししますと、ただ微笑んで、
「悲しいお話だね、でもぼくが、綾鹿のお父様がここにいるからね」
と頭を撫でてくださるのでした。父の職業が童話作家であったことも、その反応に関係していたかもしれません。
どうもわたくしの「水の中の父」は事故で溺死したことになっているらしい、と知ったのはだいぶ後のことになります。
では、自分は死人と逢っていたというのでしょうか。
外から入ってくる話と自分の中の不可思議な記憶の乖離。口を閉ざし、何も語ってくれない母。自分の中心に落ちたら溺れてしまいそうな泉のごとき謎を抱えたまま女学校に入ったわたくしは、やがて十六の春に、その母をも失いました。免疫もないままにかかった初めての麻疹に命を奪われたのです。
いまわのきわに、母はわたくしを枕元に呼び、繰り返しこうささやいておりました。
「きもの、きものの、おび……」
そのときはなんのことかわからずただのうわごとと思い、母の手を握り泣いていたわたくしですが、それが意味するところを知ったのは、母の死後二週間ほどたったころでした。母の遺品を整理していたら、箪笥にしまってあった西陣織りの帯の中に、なにか四角い塊を触れたのです。取り出してみると、何やら手作りの小冊子のようなものでした。
明らかに隠してあったと思われる小冊子は、にわかにわたくしの心をざわめかせました。
父には何も言わずそっと自分の文机に隠し、孤独をかこつ父が深酒をして寝入った深夜、綴じ穴にひもを通して丁寧に綴じられたその小冊子をそっと引き出しました。表紙には流麗な筆字で、ただ題名だけがこう記されてありました。
「水迷宮」
最初のページをめくったそのときから、日記とも小説とも覚え書きともつかないそのものがたりに、わたくしは魂を奪われました。
そしてそこには、わたくしの知りたかったすべてが書き記してあったのです。誰にどう話しても、決して信じてはもらえない彼岸のものがたりが。
読み終わった時、わたくしは長年の謎がすべて解かれたことを知りました。
今二十一のわたくしを妻にと望んでくださるあなたにお返事するにあたり、今まで誰にも言えずに来たわたくしの出生の秘密を、包み隠さずお伝えし、そのうえでもう一度同じ言葉を言っていただきたく存じます。
それはもちろん、このわたくし自身があなたの御言葉を嬉しく勿体なく思っているからなのですが。
今までわたくし以外の誰の目も通らなかった冊子です。重荷ならばどうぞこのまま送り返してください。でなければ、どうか最後まで読み切ってくださいませ。
今、わたくしという存在と、その存在をこの世にあらしめた常世の不思議を、いとしいあなたに包み隠さず捧げます。
1951年 3月7日 蓼科 綾鹿
水 迷 宮
「飛鳥井の若様を覚えておいでかい、鹿の子?」
女将の私室に呼び出され、そう問われた時、十七歳の私の脳裏に浮かんだのは、ただ濡れ羽色に光る若君の漆黒のお髪の艶やかさでありました。
「はい。一年前に当鳴神楼にご投宿いただいた、飛鳥井子爵様のご長男、葵様ですね」
「さすがお前だ。よく覚えておいでだね」
女将は私の運んで来た煎茶に口をつけると、茶托に湯呑を戻して続けました。
「お妹君の沙耶さまと、若様である葵さま、御母堂の綾子さま。お伴のものとともにこの鳴神楼にお泊りくださったのはまことに光栄なことでした。
なにしろ、飛鳥井家といえば、堂上家の中でも名門の誉れ高い、京の羽林家のひとつ。蹴鞠と神楽を家芸として受けつぐ、殿上への参内をも許される正当なお公家の家柄ですから。
武勲によって爵位をいただくような新華族とはわけが違います」
「はい……」
言われていることの半分以上が耳から頭を通りすぎていったけれど、確かご投宿の前にも同じ説明を受け、やはりこのように理解しきれないまま畏まるだけ畏まった覚えがありました。
「お麗しいお姿でした。殿方ながらに、肩口まで伸ばした御髪がそれはお美しくて。妹君の沙耶さまも、流れ落ちる滝のような御髪に陶器のお雛様のような綺羅綺羅しいお顔で、お人形のようなお二人のお姿に思わず見入った覚えがございます」
女将があくまで若様と妹君、と呼びなしているのは、一部で獣腹と忌まれる「双子」という呼び名を回避しているのだと、私は察していました。それゆえあえて、「瓜二つ」といった表現は口に出しませんでした。
が、実はお二人は服を取り換えてもわからぬのではないかというぐらい、似通った相貌だったのです。
それはまるで、清い池に咲き揃う真っ白な睡蓮のように。
「その一年前の一週間のご滞在は、季節の変わり目に変調をきたすという若様のご静養のためでもありました。鳴神楼の出湯は万病に効くと評判ですからね」
「はい。そして若様がお熱を出されたときのことも覚えております。沙耶さまがそれは甲斐甲斐しくお世話をなさっておいでで」
「その沙耶さまよりも、お前のことですよ」
「わたくし?」
「ええ。お前の行き届いた看病、気遣いにいたくご母堂の綾子様が感激なされて、ついては是非、飛鳥井家別邸に女中として奉公に上がってもらいたいとのお召です」
「……」
「それも、若様付きのお世話係として」
私は仰天しました。
「私が…… わたくしごときが? 若様の?」
「お前をとの、名指しでの仰せです。それも、葵様ご当人のお望みとのことです」
私は思わず座りなおしました。
「あの、そのような高貴な方の御屋敷にお付きのものとして上がるには、それなりの御家柄かお育ちが必要なのではないでしょうか。私の出生のその、事情を知るのはここではただ……」
「ええ、私だけです。お前は、山菜取りに山に入っていた私が、竹やぶで見つけた捨て子でした。そこを連れ帰ってうちで面倒を見たのです。出生の事情はすべてあちらにはお伝えしてあります」
「本当に…… 先さまも、それをお聞きになって……?」
「趣深い深い話だと笑っておいででした。そうしてただ、息子が望むなら望ましいことですと仰せになったそうです。どうです。お前にお断りする理由がありますか?」
混乱する頭をどう巡らせても、お断りする理由などありませんでした。私はただ首を垂れ、頬染めて、こう答えました。
「本当に…… 本当にこんな私で、よろしいのでしたら……」
「では先方にそうお伝えしておきましょう。御奉公は再来週からです。きちんと用意しておくように」
頭を下げて部屋を退出し、女中部屋に戻ると、障子の向こうで聞き耳を立てていたらしい菊子がひと足先に部屋に戻っていて、話はすでに仲間にわっと伝わっておりました。
「すごいじゃないの鹿の子ちゃん、これは大出世よ」
「出世というより、あの麗しい若様お付きのお役目なんて、私だったら気が遠くなってしまいそう」
「あんたそういうけどね、葵様には沙耶さまがおいでなのよ。身の回りのお世話なら他人の手など必要としないぐらいのお仲だわ」
「お仲って、双子の兄妹じゃないの。恋人じゃあるまいし」
「双子は禁句でしょうよ。鹿の子ちゃんはあくまで看護婦としてのお役目よ。あんたたち何を期待してるの」わいわいと私を取り囲んでかまびすしく騒ぐ中に、冷たい声が響きました。
「それでも、いいのかしらねえ。竹やぶで拾った赤子の近くには大きな鹿が立っていたと、女将さんはおっしゃったわ。だからそんな奇矯なお名を付けたのでしょうよ。人の子じゃなくて、もしもほんとに鹿の子だったとしても、やんごとなきお方の看護婦として雇ってもらえたのしらねえ」
一番年かさの女中頭でした。いきなり女中部屋の扉が開いて、女将さんが大声で彼女の名を呼びました。
「お梅。そのような人を見下したことを本人に向かって言うとは、どういう了見です。そんな心根の卑しさではここでの仕事は務まりません」
お梅は平伏しました。
「申し訳もございません」
「よろしいですか。仲居同士、どんないさかいや羨みがあろうとも、かけらもお客様の前に出してはならぬものです。言葉に出さずとも人の卑しさは匂い立ちます。それが守れぬものはここにはいられません、二度と同じことをしたならすぐ暇を出します。それと菊子。立ち聞きの癖が治らぬならお前も同じですよ」
「はいっ」菊子もそう言って、頭より尻が上がっているかのような姿勢で平伏しました。
「ではそれぞれお仕事に戻りなさい。鹿の子。当日までここでのお仕事をしっかり収めてくださいね」
「はい、承知しました」
自分にかけられる女将の声がすでにいつもより数段優しくなっていることを、私は感じていました。
荷物は風呂敷包み二つの軽装にまとめました。千鳥格子文様のひとつを首にくくり青海波のひとつを手にもって、六月の朝、なれない一人旅に出立です。生まれてこのかた鳴神楼から出たことがない自分は、女将さんに手を振られつつ、胸元がきゅうっと縮まるようでした。
時は昭和に入ったばかり、停留所で待つバスはバスと言っても乗合自動車のようなもので、十人も乗ればいっぱいです。和装の足元は、段を上り下りするにも難儀します。
固い座席に揺られ、高崎駅で降りて、人込みに押されながら信越線に乗りこみます。行程を書いた紙を何度も見直しました。そして座席に腰を掛けますと、ひと息付いて自分を落ち着かせ、笹の葉に包んだおにぎりを開きました。自分で結んだ菜飯の御結びが二つと沢庵と奈良漬け。俯いて食べていると、お向かいの、檜笠を膝に載せ、白足袋に日和下駄のお上人が尋ねてきました。
「奉公明けの帰郷旅でもありますまい。さても上等なお着物だ。いかなお出かけかな、女人おひとりで」
「その奉公に出る旅路です」裾の牡丹柄を見ながら小声で答えますとお上人は黙って私の顔を見て
「道中、いや行く先に、さもしい異形が待ち構えている旅と拝見した」と呟くようにおっしゃいました。
「さもしい? いぎょう?」
「いや、失礼した。いけ年を仕った和尚の戯言とご勘弁いただきたい」意味深く言って言葉を切り、じっとこちらの目を見ます。
いたたまれなくなって車窓に目を移しますと、ふと思い出すことがありました。
さもしくも異形でもないのですが、どうして思い出したことでしょう。
鳴神楼で葵さまが突然の高熱を出して床に伏せられ、お薬とお水をお部屋にお持ちしたときのことです。正座して襖を開けようとすると、すでに人差し指の先ほど襖が開いていて、そこからお二人のご様子が見えました。ひっそりと薄暗い部屋の中、妹君の沙耶様は横たわる葵さまの着物の胸をはだけるようにして顔を近づけ、静かにお声をかけていらっしゃいました。
「お兄様、……お苦しい?」
そして、寒椿の花びらのような赤い唇を、兄君の御胸に押し付けたのです。
菖蒲の花の描かれた浅黄色のお着物の衣紋は乱れ、乳の端さえ見ゆるかと思われる、ふくふくとしたお胸が、汗ばんだ葵さまの胸にもったりと乗っかっていました。紅潮した葵様のお顔は襖と反対側にゆっくりと傾き、白く広がった細い指が、部屋の暗がりの中で沙耶様の袂をひしと掴まれました。
電車の窓には盛夏を迎える妙義山、燃えるばかりの緑また緑、横川、浅間の山が続きます。
「次で降ります、支度をしなくては」と弁当がらを下げると、「左様か、道中お気をつけて」と言ってお上人は手元の鈴を凛と鳴らし、一言だけおっしゃいました。
「水に気を付けなされ」
「はい?」
「ここいらは続けて大雨が降った。水に、捕らわれなさるなよ」
不思議な言葉の余韻に胸をもやもや乱されつつ、頭を下げてお別れの挨拶をしました。駅前に出ますと、話に聞いていた通り迎えの俥が車体を黒々と光らせて待っておりました。運転席を開けて出てきた初老の運転手が
「鳴神楼の鹿の子さんで相違ないですな」帽子をとっての挨拶です。
「はい、よろしくお願いいたします」丁寧なお振舞に深々と頭を下げますと
「ここのところ大雨が続いて道はあちこち分断されております、多少遠回りになりますしお道も悪いですがお気になさらず」と言い、俥は緑の重なる道を走り始めました。
水に捕らわれなさるなよ。否応なくあのお上人の言葉が耳によみがえります。
降り込めた雨の余韻はやがて霧になり、夏の初めの山道を白くけぶらせて不安な気持ちはきいぃっと尾を引く山鳥の声の余韻のなかへぼうと散逸していくのでした。
……葵さまがご自分から私を指名した。
それは光栄なことには違いないのですが、あのお二人の間にある特別なつながりの中に自分が入っていく重さを思うと、重い暗幕に手を差し入れるようで、喜びは簡単に不安に変わるのでした。暗幕の向こうでこの手を摑むのは誰なのか。沙耶様が兄君にことのほか執着していたのは間違いのないこと。そして私の覚える限り、葵さまもまた……。
私のことなど、ご覧になってもいなかった。あの切れ長の目に、自分が映った瞬間すら数えるほどもなかったのです。
いつまでも続く、見通しのきかない長い上り坂。夏の本格的な暑さをこれからに控えて、軽井沢に近い別邸は飛鳥井家の夏の避暑先と聞きおよんでおりました。というよりも、東京の本宅は近年火災に遭い、飛鳥井家の方々は主にここに住んでいらっしゃるとのことでした。
俥は山すそから幅の狭い道を上がり、雑木林の中へ入り、木の根が大蛇のごとくぬたりぬたりと道を遮るぼこぼこ道の上に乗りまた下りる、前の席につかまり尻に力をいれぬと身体が収まりません。その間も、山間から谷川の分け出でたのがざあざあと道を流し、大小の落石に乗り上げて右へ左へ傾ぐ車体、座席に座っていても生きた心地はいたしません。そのうち車窓に大小の沼が見えるようになりました。
「ここいらはこのように池や沼の多いところですか」と尋ねますと、
「ここのところは特別です、大雨が降ると地下水脈とつながって深い池が生じます、岩や倒木の合間に深い淵を見せているので油断なりません」
「富士のふもとの忍野八海のようなものですね」
「偽八海と呼ばれています。まともな生き物はおりませんがな」
何か含みのある物言いでした。
そのうち道はなだらかになり、幅も広くなりいくつかの小さな民家も見え、多少の落水が流れる程度、その先に苔むした立派な石垣が見えてきました。石垣の上には屋根付きの立派な塀、それがどこまでも続きます。人里離れた山奥に、突如現れた大邸宅でした。まるで霧深い魔界を抜けて、異世界に飛び込んだような心持がいたします。正面には閂のかけられた棟門。私を降ろしますと、「じき迎えのものが出てきます」とだけ言い置いて運転手は車をターンさせていってしまいました。
山道を歩く必要はないから杖も脚絆もいらぬと言われ、着てきた訪問着がどうにも山奥に似つかわしくなく思われ、苔むした石垣を眺めるともなく眺めていると、石垣の隙間に光る目が見え、はっと身を引くとそのままにょろり!青大将がまっすぐにこちらに身を伸ばしてきました。
甲高い悲鳴を上げて風呂敷を取り落としますと、
「濡れますぞ」
拾ってくださったのは作務衣姿の、五十前後のいかつい体格の男性でした。棟門の横の通用門から持って出てきた箒を壁に立てかけると、「雑用を仰せつかっております、作造です」と頭を下げ、「石垣の隙間は七割がた蛇の寝床じゃ。背の荷物はよろしいか」と尋ねるので、「はい、御奉公に上がった鳴神楼の糸井鹿の子でございます、宜しくお願い致します」と下げた頭を上げると、灰色の作務衣の背はもうすたすたと邸内を行っていました。
通常女中は使用人口から上がるものですが、通されたのは堂々たる奥玄関でした。鳳凰の透かし彫りの施された衝立の前で、銀髪をきりりと結い上げた老女が正座して迎えてくださいました。おそらくは女中頭と言った身分でしょう。
「ここを取りまとめております多枝と申します。旦那様は所用あって東京へお出かけです、奥様は気分すぐれず奥で横になっておられます。邸内をご案内申し上げましょう」
「ありがとうございます。あの、まずは、葵様にご挨拶を……」
あまりに丁寧な迎えぶりに驚いていると
「お目覚めはいつも午後遅くです、のちほどに」
「では、あの、沙耶さまは」
一瞬の沈黙のあと
「亡くなられました」
鹿威しの音がこーんと響き、私は思わず鸚鵡返しに問いかけて居ました。
「亡くなられた? ……いつ、ですか?」
「半年前です。葵様の前でそのお話は口になさらぬように」
お兄様、お苦しい?
……沙耶がこうしても?
まぼろしのように浮かぶあの甘い声と、暗がりを向いた葵様の横顔。さらさらと廊下越しに響いてくる竹藪の音に、私は気の遠くなる思いであの現世のものとは思われぬ光景を思い出していました。
一応若様の様子を見に行ってみましょうと多枝さんは先に立って邸内を案内してくださいました。いくつか廊下を曲がり、ある部屋の前で足を止め一言二言中の誰かと言葉を交わすようでした。
「きょうは調子がいいんだ」という男性の声がはっきりと聞こえました。
そのまま彼女はこちらの方を向いて少し頭を下げるようにして手招きし、廊下の奥の暗がりに消えてゆきました。
胸を高鳴らせて、庭に向けてあけ放たれた広い和室の入り口に立ちますと、薄い波模様の絽の着物をお召しになった、ああ、あの葵様が、あのかたが、肩で切りそろえた漆黒の髪を風に揺らしながら庭をご覧になっていました。それはちょうど、部屋の暗がりに顔を向けていたあの時の怪しさとは逆に、夏の光のほうに顔を向けて。
お部屋の正面には広い池があり、真っ白い睡連が群れ咲いていました。その中ほどで、ぱしゃり!と水しぶきが上がると、
「よく出て来るのだなお前は」
と、葵様がこちらに顔を向けぬまま呟くように言いました。そしてゆっくりこちらを向くと、額の真ん中で分けた髪の下、墨で描いたような切れ長の、長い睫が影を落とす瞳で私の全身を見て、形のいい花弁のような唇が開きました。
「麝香をつけているのか?」
「……いいえ」
私は頬が熱くなるのを感じながら視線を落として言いました。
「お懐かしゅうございます。最初にお会いした時、葵様にかけていただいたお言葉もそれでした」
私には独特の体臭があると、ときどき人に言われてはいました。日によって強さは違うようですが、ジャコウのような甘い粉っぽい香水のような香りが首のあたりから漂うようです。
「今跳ねたのは錦鯉でしょうか」赤面を隠すように言いますと
「鼈だ」こともなげに言います。
「鼈がいるのですか、睡蓮の池に」
「未練がましい生き物だ」
「?」
葵様は初めて私の顔に焦点を合わせ、改めて問いかけました。
「で、お前の名は?」
「……!」
夕餉の席には三人だけでした。奥様の綾子様、葵様、そして私。
綾子様は緩く波打つ癖のある短髪を鼈甲の櫛で止め、水仙の柄の薄い水色のお着物を着て、金屏の灯映りの中、み目清く切れ長くはたりと瞬くさまは、葵様によく似た涼やかさでおいででした。
「今朝ほどは御免なさいね。私も葵も、季節の変わり目にはよく変調をきたすのです。ここにいる間だけでも、この子のいいお話相手になってやってください」
「はい」
囁くような優しいお声でした。けれど、お話相手。名前も覚えられていない私などが。それは本当に葵様のお望みなのか。私はそっとあたりを見廻しました。
違い棚の上には象牙の麒麟、欄間には睡連が彫りこまれ、付書院は竹に雀が刻み込まれた凝った作りで、置き膳が三人の前に一つずつ。配膳をする女中たちは「失礼します」以外口をききません。何かいたたまれなくなって、私は聞きました。
「あの、昼間私を案内してくださった作造さんと、多枝さんは……」
「作造と多枝なら使用人室で食事をしている」葵様は言いました。
「私も同じです、同じ使用人です。なぜ、私だけこんな……」
「葵。あなた、鹿の子さんのお名、お忘れだったんですってね。多枝が直前に伝えたものを」
「鼈がはねたからだ」
「何の関係があるのです」
「すっぽんと忘れました」
私は吹き出しましたが、奥様は涼しい顔をして、「何を言っているのでしょうこの子は」と言って箸を置かれました。
「では私はこれで。あとで下げさせてくださいな、あまり食欲がないのです」
さっさと席を立ち、襖を閉めて行ってしまいました。
あとには私と、向かい合って葵様。
「私は……」
お漬物をかじる音も立てられない雰囲気の中で、私は俯いて言いました。
「あの、私はここで、何をしたらよろしいのでしょう。使用人としての何も、まだ何の指示もされていないのです。それに、どうして私だけこのような扱いを……」
「お前は使用人ではない」
「はい?」
「そう思って居ればいい。必要最小限のことは多枝が明日教えてくれるだろう」
「では私から伺っていいですか」
「何だ」
「鼈はすっぽんと跳ねるのですか」
「普通の亀も普通の鼈も跳ねない」
にこりともせずに葵様は言いました。
「でも、昼間」
「あいつは聞き分けがないから暴れているんだ」
葵様は涼しい顔でお吸い物に口をつけました。
翌日は良く晴れて、廊下から差し込む光が肌に痛いほどでした。多枝さんはこの私に女中なりの和装を与えてくれ、(私の望みもありましたが)私はたすき掛けにエプロンで仕事に向かいあいました。よく御熱を出す葵様のお着物のお洗濯、タオルその他の取り換え、毎日飲む薬の管理と監視、お風呂に入れない日の清拭、お食事の工夫。おもなところは今までのベテランさんが受け持ってくれましたが、それをあえて私にさせようとする工夫が今度は不自然に思えるぐらいでした。なんの、葵様専任の看護婦として選ばれた私です。その朝、私は塗りのお盆に粉薬とお水、タオルにお好みののど飴を載せ、館の突き当りにあるという洋室に張り切って向かっていました。そのとき、向いから綾子さまのいらっしゃるのが目にはいり、おはようございます、と身を曲げてご挨拶しました。反応はありませんでした。奥様は無視したまますいと廊下を過ぎて行ったのです。胸に薄墨色の不安が落ちました。
離れの廊下の突き当りは洋室になっていて、体調のいい時は、葵様はここで絵や文章をお書きになっているということでした。
洋室らしく、ドアの上半分が菱形の連続模様で飾られた洋風のドアをノックして、呼びかけました。
「坊ちゃま、鹿の子です。失礼します……」開けた途端、
「閉めろ!」
葵様の叫び声が聞こえました。盆を床に置いて慌ててドアを閉めたときは、あけ放った観音窓から吹き込んだ風が葵様の作品を床中に散らばせていました。
「申し訳ありません、今すぐ」大慌てで床中のデッサンや句集をかき集める私の目の前で、厳しい表情の葵様が私の手首をつかんでいました。
「返せ」
一瞬で目に入った文章がありました。
『わが妹はあてに清けし山の井の塵一つだにとどめたまはず』
その句の横には、睡蓮の花々に総飾りされたあでやかなお着物の沙耶さまの立ち姿が、それは見事に描かれていました。
覚えがありました。これは北原白秋の、御母堂を語った歌。母、を妹に変えて詠んでいる。葵様は永遠の思慕を妹君に抱いていらっしゃる……
ならば。ならば、なぜこの私をここに?
ああ、やはり聞きたい。私は禁を破って、沙耶さまの最後について、お尋ねしたのです。
「申し訳ございません。お許しがあれば、お聞かせいただきとうございます。お妹様は、沙耶さまは、御病気か何かで……?」
数秒黙った後、葵様はおっしゃいました。
「……池に落ちて」
「まあ! それはあの、雨季にあらわれるというにせ八海のうちのひとつに? それともこのおうちの……?」
「その偽八海のうちの一つがうちの池だ。落ちたら二度とは上がれない。沙耶はいつも冷たく澄んだ水の底に住みたいと言っていた。あこがれの地に安住できて満足なことだろう」
感情を表さぬ葵様の言葉のうちに、なにか限りない痛みを見て、私は言葉を詰まらせました。
「……済みません。お聞き及びでしょうか。私は鳴神楼の裏の竹やぶで拾われた捨て子だったそうです。女将さんがわたしを抱き上げたそのとき、近くに大きな鹿が立っていたそうです。そのときから、麝香が香ったそうです。
私には、血のつながった肉親はおりません。ですから知っている方はみな大切な宝物です。よく働くのね、とおっしゃってくださった沙耶さまも、そのお一人です。私の見た中で一番麗しいかたでした。ですから、そんなお話は、悲しくて……」
「お前に麝香の香るはずがない。麝香はオスのジャコウジカの腹部にある香嚢から得られる分泌物で、繁殖期の雌を引き寄せる香りともいえる。遠くの、はるか遠くの異性を引き寄せるために放たれるという」
「何を……。そんなこと知りません!」
私は思わずむくれて反対側を向きました。
「そんなつもりはなかった。気を悪くしたか」
葵様は笑みを含んでおっしゃいました。
「……」
「だが、香る。これは、お前の香りだ」
「雄鹿の香りでございましょう」
「こっちを向いてくれ。遠方からお前を呼んだのは僕だ。気に障ったなら謝る」
「……」
途端に、葵様の足元がふらついて、どんと肩がわたしの首に触れました。
「葵様!」
「大事ない、騒ぐな、いつものことだ」
見れば口元から血がにじんでいます。そして鼻からも。咄嗟に持ってきたタオルで口元をぬぐうと、真っ白な顔色で、そのまま葵様はそこに座り込みました。タオルには鮮やかな朱色が広がりました。
あのときのように、袂にしがみついてくるからだの重さを身に感じて、とたん、部屋中に散らばる追憶の詩と歌と、デッサンが私の胸に覆いかぶさってきました。
この人は。
誰に心預けることもなく、一人一人が距離を置くこの冷たく広い館で、ただ一人だったのだわ。ただ沙耶さまを、沙耶さま一人を思って。
そのまま二つ折りした座布団を枕に横になり、口元をタオルで押さえたまま、葵様はおっしゃいました。
「僕はあと一年、おそらく二十歳までしか生きられない。それも、楽観的に見ればの話だ、そう、医者が言った」
私は思わず口元を両手で覆いました。こーんと、鹿威しの音が遠くに聞こえました。
「一生ともにいると約束した沙耶ももういない」
「……」
「この家は亡びる運命だ。自分ごときでどうなるものでもない。それはいい。しかし、諦めきれないこともある」
「何を、……でしょうか」
「いずれそれをお前に話したい」
手を握れば氷のように冷たいのに、額に手を置くと明らかに御熱があります。
「今体温をお測りします。お薬も」
「いい。しばらくこうしていてくれ」
葵様は短い息の下、ほんのり笑みを浮かべて、手を握る私の顔をひしと見て居ました。それはここにきて初めて見る、血の通った人の、葵様のひととしてのお顔でした。
具合がよくなった翌日から、葵様は広大なお庭を案内してくださるようになりました。睡蓮の浮かぶ池にわたる太鼓橋、中の島の石灯籠の見事な苔とそこにとまるジョウビタキ。池は上から見れば見事な錦鯉が何匹も泳いでいましたが、私が覗き込むと葵様は必ず腰のあたりを神経質に抑えるのでした。
「この見事に刈り込まれているのは、松ですか」
「槇だ。作造が剪定している。屋敷の北川は槇の垣根になっている」
「あら、もう七月なのに、白椿が」
「シャラの木だ。夏椿ともいう。一日花で、日の暮れと同時に首ごと落ちる」
「……」
何か不吉な話をした気がして、私は木槿の群れ咲く池の端を見やりました。
「本当にきれいな水ですね。中から湧き出ているのでしょうか」
「誰も見たものはいないが、池の最深部に地下水脈とつながった穴があって、そこから湧いて出ているらしい」
「飲めるのでしょうか」
「鯉と鼈の味がするぞ」
そのとき、私は見たのです。真白き睡蓮の花々の、その葉の間から、深い水底にふらりと揺れ出た白い女性の顔を。
「きゃっ」
声を上げて身をのけぞらせた私を抱きかかえ、「どうした?」と葵様は聞かれました。
「今そこ、そこに、女の人の、顔、かおが」
「自分が映ったのではないのか」
「違います! なにやら、平安時代の姫君のような髪飾りをお付けの、沙耶様によく似た」
しまった、と思った時はもう遅く、葵様はいきなりざぶざぶと池の中に踏みこみました。私がとり付いた袂を乱暴に振りほどき、叫びます。「どこ? どこ? 鹿の子、どこに!」
「いけません、溺れます! 見間違いです、葵様、どうかお戻りを」
叫ぶ傍からずぼりと葵様の姿が肩あたりまで沈み、私は悲鳴を上げました。
「作造さん、奥様、誰か!」
葵様は一度頭まで潜ると、なにか片手に絡ませたまま池の際の大石にしがみついて上がってきました。
「右手と足に何か絡みついている、人ではない、なにかが」肩で息をしながら言います。
作造さんと厩番の男性が物置から走り出て、びしょ濡れの葵様の脇に手を入れ、渾身の力で引き上げました。
「せいのっ」
「何ちゅう重さだ」
「若様、手のものは外れませんか」
途端に葵様の全身がずばりと池から引き上げられました。その手には縮れた髪の毛がぐるぐると絡み、それに続いて茶色に変色した骸骨がまるで葵様の下半身に絡みつくようにして現れ、髑髏の黒々とした眼窩からは青色の蛇がにゅるにゅると姿を現しました。それなり、私は気を失ってしまいました。
行く先に、さもしい異形が待ち構えている旅と拝見した……
石垣の隙間は七割がた蛇の寝床じゃ……
水に、捕えられなさるなよ……
鼈は跳ねない……
一日花のシャラのように、白い沙耶さまのお顔が闇に咲きます。
生まれ変わりよ、生まれ変わりなの。
がさり、がさり。
私はあんな醜いものになりはしないわ。
がさり、がさり。
見てて、お兄様。見て居て……
ケロロコロコロ、ケロロコロコロ。
夜半の寝床でふと目覚めたとき、夢の中で聞こえていたがさり、がさりという音が、カエルの鳴き声とともに庭で続いているのに気付き、途端に背筋が凍りました。二つ足の人の歩く音ではない。四足の、背の低い、巨大な物の怪の歩むような……
その物の怪の影が、月あかりで障子に落ちました。
がさり、がさり。
身の丈一メートルはあろうかという、亀のごとき影です。私は悲鳴を上げてしがみついていた布団を飛び出ると、廊下に走り出ました。そしてそのとたん、背の高い人影にぶつかりました。
「どうしたの」
「葵様、今、今、庭を異形のものが。大きな亀のような姿の。ああ、私、わかりません、どこからが夢なのでしょう。葵様、葵様は、お池に…… ああ、御無事で……」
そのまま葵様はずかずかとお部屋に入ってくると、障子をあけ放ち、暗い庭に行燈を向けました。庭の草ぐさは踏みしだかれ、なにか巨大なものが通った後が平らになって濡れて居ました。
「父だ」まっすぐな這い跡を見ながら葵様は言いました。
「父?」
「つまらないものになったな。ああして未練がましく家の周りを這いずり回る。もっともこんな家に来なければこの池に捕らわれることもなかったろうが」
「あの、お父様……って、東京に行っていらっしゃるのでは……」
「行こうとして失敗したのさ、愛人と二人。多少見目がいいだけの女中だったが。雨の日に庭を横切ろうとして、ふたり仲良く池に落っこちたのさ」
「……ご覧になっていたのですか」
「沙耶と二人、窓から見て居たよ。無様に水しぶきを上げて落ちるところもね。足を何かに掴まれたように見えたな。
俗人代表みたいな父が出て行きたがったのは分かる、実際ここには沢山棲みすぎているからね」
「……」
「沙耶は笑いながら言った。ご覧なさい兄様、私が言った通り、あの池には住人がたくさんいるでしょ。あの人多分鼈にでも生まれ変わって御仲間入りよ。女は何に? と問うと、さあ、蟇蛙か何かかしらと」
「ご遺体は……」
「遺体は二つとも上がらなかった。旅から帰った母に話しても実際平然としたものだった。ここに落ちたものはみな異形のものになって水の世界にとらわれる。そいつが今頃になって上がるとはね」
では……
聞いてはいけないことと知りつつ、私は口にしていました。
「あの骨が沙耶様でないとすると、沙耶様は、では、何に……」
しばらく黙ったのち、葵様は語り始めました。
「沙耶には縁談があった。十九ともなれば当然なのだが。相手も宮家とつながりのある爵位のある家の者だ」
そこで障子を閉めると、葵様は座布団の上に座り込みました。私はふとその手に触れました。熱い。熱があるのは明らかでした。
「体のことは気にするな、いつものことだ」
「ではせめて丹前をかけて差し上げましょう、あんなことがあった後ですもの」
あんなこと、を思い出して体がぶるりと震えました。葵様は続けました。
「見合い話を受けたと聞いたとき、正直、心外だった。あいつはいつも言っていた。
真実のない結婚は結局ていのいい売春だ。自分には兄様一人、貞淑面した売春婦どもの仲間入りはしないと」
葵様は丹前の袂に手を入れました。
「それが見合い話が出た途端こうだ。真実などこの世にはない、そのうちいいところも暮らしているうち見つかるからいいのよ。私が普通の人生、普通の幸せを望んでなぜいけないの? と」
「……」
「僕は言った。本心で言っているのか。お前は醜い、なぜ何のためにそんな偽りの幸福を望む。人並みの幸せのためなら何でもできるのか。逃げるのか。僕から逃げたいんだな、そうだろう! 沙耶は言った。お兄様は綺麗に生きればいいわ、最後まで。お兄様はいいわ、未来がないんだもの!」
私は目を見張り、その瞬間に葵さまの身を駆け抜けたであろう激怒と絶望に打たれていました。
「そのあとのことはよく覚えていない。体が浮き上がるような心持ちがして、自分が自分でなくなった。黒に百合模様の着物を着ていた美しい沙耶の細い首を、自分の指が絞めるのを見て居た。沙耶の切れ長の瞳から、一筋涙がこぼれ落ちた。細い声だった。
殺して。兄様、殺して。あなたが死ぬのを、この目で見たくない……」
私は両手を口に当てたまま、体を震わせました。
「言い訳なんてするつもりはない。その言葉にふと力を緩めた僕を突き飛ばして、沙耶は頭から池に沈んでいった。何か魔術を見るようだった。睡蓮の群れ咲く池で、まるで底なしの泉に落ちるように、彼女の体はすうっと見えなくなり、あとはまるで水に溶けたかのようだった。
飛鳥井では男はみなこの池に捕らわれて非業の死を遂げると言われている。子は育たず夫は若死にし、それでも血筋を絶やさぬため婿を取り続け、……父も哀れな犠牲者だったのさ」
私は思いきってたずねてみました。
「……若様。失礼を承知で申し上げます。私がここに呼ばれたのは、沙耶様を失ったその寂寞の思いからでしょうか。それとも、本当に、本当に看護婦として……」
葵様の頬に赤みがさしました。一度きつく唇を噛んでから、悔し気に語りだしたのです。
「僕は、待ったんだ。ずっと待って居た。どんな醜いものにもならぬと宣言した沙耶が、水底の玉座に迎えられて、いつかあの美しい姿のまま自分を迎えに来るそのときを。だから暇さえあれば池のはたに立った。だが、真白い睡蓮が咲き乱れるばかり、めだかに錦鯉が泳ぎ鼈が水音を立て蛙が鳴き、蛇がのたうつばかり。沙耶は現れない。姿を見せてくれない。僕にはもう時間がないのに。
それで、鳴神楼で一番優しく心細やかだったお前をそば近くに呼んで二人で過ごしたら、沙耶も様子を見に現れるかと思った。愚かなことだが、ほかに、方法を考えつかなかったんだ」
私は思わずため息をつきました。
「私は、……囮だったのですね」
「お前のことは、好ましいと思っている。今は嘘ではない。そばにいると温かいのはお前ばかりだ。朝起きる、お前の笑顔を思い浮かべる、それだけで一日の始まりがこれまでと違う。こんな気持ちは初めてだ。だから……」
だから? 私は身を細かく震わせながら、黙って次の言葉を待ちました。
「沙耶と僕はあくまで双子の兄と妹だった。だが、お前は違う。ここにいてほしい。女中ではなく、看護婦ではなく、この手をやさしく握るものとして。……そして、それ以上を求めるのは、罪というものだろうか」
私はゆっくりと目を上げて、紅潮した葵様の顔を見やりました。残り少ない命を切ない情念に燃やすこのうつくしい青年の顔を。
この人は…… きっと、私に恋心など抱いていない。きっとそうだ。違う違うと駄々をこねる自分の身の内の言葉に蓋をしつつ、私は自分に言い聞かせました。この人は最後の賭けに出たのだ。私と葵様が男と女の仲になっても、沙耶様は気にもかけずどんな姿にしろ現れることはないのか。そこに賭けているのだ。それだけだ。いい気になっては駄目。
それでもいい。それが賭けでも囮でも、それは私の夢だった。葵様の本音がどこにあろうと、私はそれを利用しよう。そう思いました。どんなに卑怯でも、それを成就と呼ぼう、と。良い悪いだけで、人は生きてはいけないのです。
「……わかりました」
「僕のこころは、おわかりですね。鹿の子、そのうえでのお返事ですか」
「はい、私も、心よりお慕い申し上げております」
私たちは膝をよせ、互いに手を取りあいました。そして双方幽かに首を傾け、目を閉じ、互いの唇の感触を震えながら味わったのです。柔く生々しく、お互いのほのかな罪に打ち震えつつ、背中にはしきりに蛙のなく声がしました。
初めてのお床で、暗い行燈の光に照らされながら、葵様は言いました。
「鹿の子。こんな時に聞くことではないかもしれないけれど」
「はい」私は細かく震えながら答えました。
「お前が見た水底の沙耶は、どんな、……どんな風だった?」
やはり。そう思いながら、私は見た通りを答えました。
「よくは覚えて居ませんが、何やらお頭に心葉や釵子をつけて、柏扇をお持ちで、まるで雛壇のお雛様のような……」
「そうか。やっぱり……」
葵様の細い目がますます長い睫に隠れ、感極まったように目を閉じてその長い指を私の頬に当てました。
互いにぎこちなく、服を脱ぎ捨て、手伝うこと手伝わなくともよいこと、まるで戸惑う子供のように互いの四肢を見ては目を逸らし、抱き付き、寄り添い、でもそれ等のすべてに恐怖とうしろめたさが張り付いていたのも事実でした。そも、奥様はこのことをご存じなのか、御同意なのか。
けれど。
触れられて初めて知る、自分の腕、脇、乳房、くぼ、腰のしなり、尻、それらの持つ微妙に違う感覚。それを、夢の世界のかたのように思っていた男性の唇にひとつひとつ教えてもらう。女として何という幸せであることか。このひとときに、その痛みと享楽に、私はすべてを自分に許し、投げ出したのです。
ああ、これは永遠、永遠に続くただひとときの夢物語。
その翌日から体調を崩された葵様は、一日言葉も発せないほど高熱でうなされて居ました。つきっきりで看病する私のひざ元で、ある日の午後、とつぜん葵様は目を開きました。
「やはりお前からは、麝香の香りがする……」
そうぽつりと口に出しました。そして充血した目で私を見てにっこりと微笑まれました。
「お気がつかれたのですね、ああ、よかった……」
「ずっと水の中にいた」
「まあ。それで沙耶様は?」
「髪の毛の端だけ、長い振袖の袂だけが見えるが、手繰っても手繰っても手が届かない。すると、獣の足がそれを遮った、先が二つに割れた、鹿の足だ。髪の毛を手繰ろうとする僕の手をなめると、そのまま咥えて、水面へ。すると、お前がいた」
「残念でございましたか」
「僕を邪魔したあの鹿は、きっとお前だ」
にこりと笑うと、葵様はおっしゃいました。
「水の中でも、粉っぽい、甘い香りがした。床の中と同じように」
「知りません」
私は桃色に染まった顔を背けて薬の紙包みをほどきました。
綾子様は、不思議なほどに私たちの関係に無頓着でした。あるいはご存じでいらしたのか、とにかく何の詮索もなさらないのです。邸内の女中も、多枝さんも同様でした。あるとき、お煎茶を正式に立ててくださるというので、お道具をそろえた綾子様の正面でかしこまっておりますと、綾子様はふと口を御開きになりました。
「あなたには、いろいろなものを背負わせて申し訳ないと思っているのですよ」
意味が分からず、答えに窮しましたが黙っているわけにはいきません。
「私ごときが若様のお役に立てているなら、光栄なことでございます」
「あの子に何かあれば、飛鳥井家も終わりです。それがこの家の宿命であれば従うしかないのでしょうけれど、せめて、子どもができれば……」
そこで私は、奥様が全部ご存知で、あるいは勘づいていて、見て見ぬふりをしている事を知ったのです。
「それでも、小さな罪なき命がこの家の水の囲いに捕らわれるのは切ないこと。風の向くまま、天意の趣くままに、と心得ましょう」
奥様の淹れてくださったお茶には、茶柱が一本、立っていました。
蟋蟀がりいりいと鳴き始め、ガシャガシャと賑やかなクツワムシや鈴虫のしゃりんしゃりんりんと翅を鳴らす音が重なるころ。
かまどで火を焚いていた私は、沸騰したお米の香りにとつぜんの吐き気を催し、厠に駆け込みました。
……まさか。
それはありえないことだ。だって、今はまだ……
でも……
後ろを振り向くと、複雑な表情の多枝さんが立っていました。
「どうしました」
私は無言のまま口元を押さえ、俯きました。
それでこの件は、奥様―綾子様と葵様も知ることとなったのです。
三人そろった広間で私のお腹を見る葵様の瞳には、明らかに戸惑いが見て取れました。私を女として抱く、でもその先に、父として子と向き合う、私の夫となる、その覚悟まではなかったことでしょう。そしてこの私がそこまでを望むのは図々しく常識に外れているのも事実です。宮家とのつながりのある名門の子爵家の長男が女中に手を付けた、世間ではそれだけのことなのですから。
「これが本当のことなら、どうするのです、葵」
「……ならば、僕が宿したいのちということになります」低い静かな声で、苦悩をにじませて葵さまは言いました。
「鹿の子さんを正式な妻とするつもりがおありですか」
「そんな時間が僕にあればですが」
奥様はそこで言葉を切りました。
私には口に出せる言葉はありませんでした。子を授かったやも知れない。自分の様子からそうにおわせたのは私。けれども、月のものが来つづけている以上、それがありえないことであるのも事実。私は自分に言い聞かせておりました。これは、必要な嘘だ。死にかけたようなこの家で、若様に、生きる気持ちを取り戻していただくために、必要な嘘だ……
葵様はきっと顔を上げると、おっしゃいました。
「この家で死を見るのはもうたくさんです。僕は鹿の子を好いております。一時の気の迷いではありません。命を見守りともに育てる豊かな時間を、人生最後に、僕にください」
私の腹の中から湧きたつような喜びが体を持ち上げる勢いで吹き出しました。
「では本気で正妻にするということですか。その前にお医者に診てもらわなければ結論は出ません。でも世間の目も口も油断ならないこと、かかりつけ医をおねがいするのはあと二、三週様子を見てはっきりしてからにした方がよろしいでしょう」
「奥様、私はいいのです、一人でも生きていけます。鳴神楼でも女将さんは捨て子の私を拾い育ててくださいました。あそこに戻っても、子どもと二人、何とかなるでしょう」
「ここでその子を育てる気はありませんか」
「もったいないお話でございます、けれど女中の子など名家にいては肩身の狭い思いをします。跡取りや世間体、遺産分配をめぐって反対なさる親戚の方も多くいらっしゃることでしょう。私は子どもとともに生きることを許されればいいのです、そしてこの家にいることを許される期間は、葵様がお望みなら葵さまとともに」
「……」
「そして葵様、御病気の件、決して絶望してはなりません。生きる道はきっとあるはずです」
「奉公があけても、子を置いていってほしいという願いは、無理でしょうね」
「母上。人としてそういうことを口にしないでください。僕に何かあれば、鹿の子には不自由ないだけの十分な養育費を必ずお支払いくださいますよう」葵様はきっぱりとおっしゃいました。
会話の間、刺すような痛みが胸の底をうずかせていました。私は罪深い。こんな嘘で、善良な人々を苦しめている。でもわかる。この池の底にはきっと、沙耶さまの魂が何かに変化しておいでになる。放っておいたら、葵様もこの家の男子の宿命通りに……
そうはさせない。私がここにいる限りそうはさせない。そして、そして葵様と夫婦同然の生活を重ねていればそのうち、そのうち本当にきっと……
その翌日から、葵様は知り合いにろくろでこねてもらった花瓶に、絵の具で熱心に絵付けを始めました。何を描いているのか覗きに行っても、決して見せてはもらえませんでした。
やがて二週間ほどして出来上がった花瓶は、優しい顔つきの女鹿がすっくりと立ち、その腹のところに背中に斑点のある小鹿が背中を丸めて座っているという柄でした。背景はうっすらとした青白い竹藪です。満月の月夜のような美しい色調でした。
「どうぞ、季節の花を活けてください」微笑を浮かべる葵様に丁寧に手渡していただきながら、私はもう涙のにじむような思いでした。
「何とも見事な。嬉しゅうございます。葵様、市井のかたなら芸術家として名を成せたでしょうに」
「それもこれも、時間がない。残念ながら」寂しそうな横顔を見せて、葵様はおっしゃいました。
「では、一緒に花瓶に似合うお花を見つけてくださいますか。これからお庭で」そうお答えして、花瓶を内縁の飾り棚に置きました。
「この色合いですと、萩や竜胆が似合いそうですね」
「それなら、裏庭の竹やぶの近くにある。採りに行こう」
先を歩く葵様の、肩のあたりに降り積もる、なんとはなしの淋しさを、私は後ろから見つめて居ました。時に横顔に落ちる影、池を見つめるのをやめない癖。時間がないという口癖。
このかたの心から取り除くことができない存在を、私は見て見ぬふりしている。
でも、そんな思い出に負けはしない。いつか忘れさせて差し上げます。その胸の中で呼び続けている名を、いつかきっと、自分の名に変えて……
突然、葵さまが振り向きました。
「花を活けたら」
「はい?」
「花の前で、二人だけで、祝言を挙げないか。誰の同意もいらない。この邸内で、ひっそりと、月の明るい夜中に」
そのとたん。
池から流れ出るささやかな小川のような流れから、滝が逆流するように水が吹きあがってきました。
間欠泉? いえ、そんなばかな。
突然の噴水とみえるその水は葵様の前に立ちはだかり、やがて人のカタチとなってみるみる色と姿をはっきりさせました。
ああ、平安時代の姫君と見えた、あの、髪の長い、心葉や釵子をつけて、柏扇をお持ちの、鳳凰の紋様のお着物を召した……
真っ白な顔色で、ひと筆で描いたような美しい切れ長の目の、葵様とうり二つの容貌の沙耶様が、そこに夢まぼろしのようにすっくと立っていらっしゃいました。
「……沙耶!」
葵様はかすれた声で叫びました。沙耶様は両袖を広げると、そのまま葵様を包み込み、首元に軽く噛みつくような様子を見せました。ふと見える血の赤。固まっていた私は正気に返り、「駄目、駄目、私に! 恨むなら私を!」と叫んで、いきなり幅の広がった流れに踏み込みましたが、見つめあうお二人の瞳は怨みというより、ただ思慕、ただ恋慕、そして涙に霞んでいました。お二人はひしと抱き合い、そのまま沙耶様は、すさまじいと言える力で池の方へ葵様を引きこんでいきました。すでに葵様のお着物は半分脱げ、上半身はあらわになっています。私はもう夢中で、待って、待って待って、葵様葵様と叫びながら池に踏み込んでいきました。もうようよう水面に葵様のお顔が出ている状態です。まだ水面を揺蕩っている葵様の着物を捕まえたと思った途端、それが自分の手ではなく口、踏み込んでいるのは四つ足、細い蹄を踏ん張って着物を咥えて引こうとしている一匹の女鹿となっている自分の姿が、水に映っておりました。咥えていた口から着物がちぎれた途端、葵様の「鹿の…… 子!?」という驚嘆の叫び声を最後に、すべては水の下、揺れ揺れる睡蓮の下に消えました。
喉の奥から、キャアアーンというような、人とも獣ともつかない悲鳴が吹きあがりました。そのまま私は池の淵に倒れ伏しました。
……お前は醜い、なぜ何のためにそんな偽りの幸福を望む。人並みの幸せのためなら何でもできるのか……
葵様の言葉が耳の中で反響し、やがて意識は遠のき、作造さんや奥様が駆け付けたときには、着物を背にかぶっただけのほとんど裸体で気を失っていたそうです。
私は、鳴神楼に戻りました。
奥様からは特に引き止められはしませんでしたが、その子が生まれたらときどきお顔を見せに来て頂戴ね、と寂しそうに言われました。私の罪は時とともに重なり続けていたのです。そして、遠い親戚にあたるやんごとない家から養子を取ることにしたと、言葉少なに言われました。
ところが。
お腹の中に本当に子が宿っているとわかったのは、鳴神楼に戻ってからふた月ほどたったころでした。
一体どういうわけでこのようなことに、と女将さんは気絶しそうになっていましたが、私は相手の名を口にしませんでした。当然のことです。女将さんは、どうせ男の使用人当たりに悪さをされたことであろうし、悪いのはこの子ではあるまいと庇う立場に立ってくださいました。そして飛鳥井家からは、くれぐれも鹿の子さんをお責めなさいますな、お給金に加えお世話代も十分振込みますと手紙を頂いていました。その金額を見た時、女将さんの私を見る目がはたと変わりました。
「……鹿の子。もしかして、お前は……」
「その子は私の子です。それだけです」
赤子は六月に生まれました。葵様によく似た容貌のまるまるとした女の子で、綾鹿と名付けました。愛らしい赤子をかまいたがる手は、若い女中の多い鳴神楼には余るほどありました。そのころときどき泊まりに来ていた東京の作家先生が私と、生まれた綾鹿をいたく気に入ってくださり、いい遊び相手になってくださいました。そのかた、蓼科孝三氏に求婚されたのは、綾鹿が二歳になったころでした。優しく穏やかなそのかたを、私は受け入れました。
奥様とのお約束通り、綾鹿を連れてときどき軽井沢の飛鳥井家を訪れました。すると奥様は、あらいらっしゃいと昨日別れた友を迎えるようにさっぱりと迎え入れてくださるのです。
「ああ、ますますお父様に似てきたのね。可愛らしいこと」と言って奥様は綾鹿をお抱きになり、
ところで鹿の子さん、なんだかだんだん池が小さくなる気がするのよ、ほら久しぶりに見るとわかるでしょう、寂しいことだわとおっしゃるのでよく見ますと、なるほど少しずつ陸地が池のほうにせり出してきて、水量も減っています。お話では、あちこちにあった小さな湖沼も少しずつ姿を消しているとのことでした。奥様はその池に向けた庭の藤椅子に腰かけたまま、おっしゃいました。
「さ。待っていますよ」
そして私の手に綾鹿を渡します。私の何よりの喜びは、そのお言葉のあとにありました。
あの底なしの睡蓮の池の淵に寄り、綾鹿をしっかりと抱き寄せ、
「葵様、葵様」
と呼ぶと、深いところから細かいあぶくが上がり、ふわと水紋が広がって、
ああ、あの最後の時の姿のままの葵様が水中から姿を現してくださるのです。
青黒いとさえ見える黒髪をひたりと身につけて、真っ白な肌に、描いたような紅色の唇、黒曜石のような瞳。
「あやか。よく来た。大きくなったね」
「もうじき四歳になります」
「おいで」
人魚のように上半身だけ水の上に乗りだし、白魚のようなお手で綾鹿の頬に触れてくださるのです。
「ちゅめたーい」
「そうか、お父様は水と同じ体温だから、すまないね」
「でてきたら、あったかくなるよ」
綾鹿は無邪気に言います。小鳥が羽根をそろえたような睫毛の長い目もとは、父親にそっくりです。
「出て行ったら、生きていけないのだよ」
「お母様は? お水に入ったらどうなるの?」
「お母様は、鹿になる。本当は鹿だから」
「もう、おやめください。この子が本気にします」私は慌ててとどめます。
「覚えていないのかい、本当に。それは美しい鹿だった」葵さまは笑いました。
「鹿であったとしても、何もいいことなどありませんから」
「そう、綾鹿のためにも今はその姿がいいね。ご主人とは幸せにやっているのかい」
葵さまは、ずっと背負ってきた重荷を解き放ったように、清いお水そのもののごとく涼しげで麗しい表情でした。
「幸せです、綾鹿が何を言っても笑って受け止めてくださる優しい人です。綾鹿、じゃあ、お父様にキスをして」
綾鹿は葵様に支えられるようにして、その冷たい頬に温かい唇を押し付け、葵様もまた朱で描いたような唇で綾鹿の耳元に接吻するのでした。
「お父様、もっとたくさん、会えないの?」
「池の底の世界のしきたりでね、これ以上身体を外気にさらすことはできないんだ。さ、お別れだ」
「バイバーイ……」
綾鹿の幼い声に答え、手を上げて水に沈む葵様のお姿は、まるで奇跡そのものでした。
あらゆるものを異形に変えるこの池で、あのかたは人の姿のまま、あのお美しい姿のまま、年も取らないのです。
そしておそらく、沙耶様もまた。
「お母さま、鹿なの?」
葵さまの余韻を広げる水紋をいつまでも見つめる私に、綾鹿は真面目な顔で聞いてきました。
「そう…… かも、しれないわね」
そう、あの方が水の子なら、私は山の子、
そしてこの子は大地の子……
庭に通うのはこの子が物心つくまでと決めて居ました。でなければお友達に嘘吐き呼ばわりされ、自身も混乱し、次々繰り出される質問に私が答えられなくなるからです。
けれどそれは葵様との別れにもつながること。私の心は乱れに乱れました。
綾鹿が小学校に上がった年の秋、飛鳥井家周辺は歴史に残る豪雨に見舞われ、鉄砲水で村ごと押し流されてしまいました。
綾子様や作造さん、多枝さんの消息については、残念ながら私の耳に入ってくることはありませんでした。
葵様も沙耶様も異形のものたちも、……そして綾子さまも、異界への水脈を通じて私の届かぬ世界に居を移したのでしょう。私はそう信じています。
今、池は多少大きめの水たまり程度になって生物の気配もないと聞きます。
この果てしのない寂しさは、私の罪への宿命の置き土産だと受け止めております。
……嘘偽りのない真実の姿のみで棲む水迷宮。
いつかあの池も消えたとき、胸底に沈む思い出だけが、
誰も信じないお伽話だけが、愛しい綾鹿の故郷となるのでしょう。
《了》