④
目を見開くと、木造の天井が見えた。ぼんやりとする頭のままに体を起こしてみる。
「おはよう」
「おはようございます」
かけられた言葉に反射的に返すように目覚めの挨拶を返した。この声は。
声のした方へとのっそりとした動作で顔を向けると、濃い赤茶色の長い髪の美しい女性がこちら見ながら微笑む顔が見えた。
「あ、あの。あれ。私どうして」
彼女の顔を見ると、意識がはっきりしてきた気がする。
女性は『魔女の屋舎』という名前の相談所の所長だった。そう。私が今いるのは不思議な雰囲気の『魔女の屋舎』だった。
そしてどうやらさっきまで、ふかふかのソファーで横になって眠っていたらしい。あまり記憶はないんだけれど、どうしてこんなところで眠っていたのだろうか。
窓からは夕日が差し込んで、部屋全体が少しオレンジがかった色に染まっていた。
「あなたが一人で駐車場にいたからびっくりしたのよ。あんなところで眠っていたら風邪を引いてしまうわ」
「あっ。そうだったんですか。ここまで運んでくださったんですか? ありがとうございます。すみません。迷惑かけちゃったみたいで」
「気にしないで」
優しく慈愛に溢れたような、心からの言葉に安堵とともに温かさが心に溢れてくる気がする。
でも、何かを忘れているような気がする。何か大事なことを。何か大きな事を。
そしてふと、細い糸を手で手繰り寄せるように、記憶を引っ張りだそうとした。片手じゃだめだ。両手で丁寧に引かなくちゃ。そして、糸を引っ張り出すことに成功した。
「あの! 私の他に、その私がいたっていう駐車場に、その、他に人がいませんでしたか?」
私はあそこにいた。あの夢と同じ場所に。そして人を殺そうとしていたはず。そして、私に殺されるはずの人がいたはず。もしくは、死体が。
「いいえ。あなた以外に人はいなかったわ。あ、ううん。いたわね。人が一人」
やっぱり。私は体が震えそうになるのがわかった。
でも、私がそうなるより先に、美しい唇からは予想とは違う言葉が聞こえた。
「あの駐車場の方が一人いたわね。作業服を着た。私があなたを見つけた後に、会った人だけど」
「え」
違う。その人じゃない。私が夢で見た人は、作業服なんて着てなかったし、駐車場の人じゃなかった。
「その、一人だけですか?」
「ええ。その一人だけよ」
気のせい、だったのかな。でも確かに対峙した気がするんだけど。
曖昧になっている記憶を探しても、それ以上の記憶や確証は導き出せなかった。
そんなことがあった翌日の朝、テレビでは通り魔事件の犯人が自首をしたとニュースで話している。ここ何日も騒がせていたあの通り魔犯がまさか自首をするなんて、と騒いでいる。
テレビの画面を見て、目が釘付けになった。
あれは、私が殺すはずだった人。そして、昨日私が殺されかけた人。間違いない。ちゃんと覚えている。
でもあの人は、生きて、いる? 死んでない。死体として、死人としてテレビに上がっているわけじゃない。
自首をしたということは、生きて自ら名乗り出たということ。
それに私は人を実際に殺した記憶はない。感触も、ない。私は人を、殺していない? 夢の出来事は、起きなかった? 予知夢には、ならなかった? 私は、人殺しには、ならなか、った?
全身がふるえるような感覚だった。身体を熱いものが駆け巡るような気持ちだった。
私はその日、一日中不思議な感覚を味わっていた。
そしてその日の夜、現実では起こり得ない不思議な夢を見た。それはまるで、魔法のような夢だった。
次の日私はまた、『魔女の屋舎』を訪ねていた。大事な報告をするために。
「いらっしゃい」
前と同じように、美しい魔女が笑顔で迎えてくれた。
「本当にありがとうございます!!」
私は夢が予知夢にならなかったこと。人を殺さずに済んだこと。今ニュースになっている通り魔事件の犯人が、私が殺す予定だった人だったことを話して、これ以上にないほどに感謝の気持ちを込めて頭を下げながらお礼を言った。
「あなたのお悩みが解決して、本当によかった」
目の前の彼女は本当に喜んでくれているように見えた。いつにも増して微笑んでいるような気がしたから。
「それともう一つ、良いことがあったんです! だから、その聞いてほしくて。変な話かもしれないんですけど」
「なんでも話して」
女性の微笑ましいものを見るような視線と言葉に促されて、話したくして仕方なかったことを話した。
「今朝夢を見たんですけど、その夢がなんと動物が人間の姿になったり、猫が人間の言葉をしゃべったりする夢だったんです! こんなことってありますか!? あり得ないですよねこんなこと! 予知夢じゃないこんな不思議な夢見たの初めてなんです! あ、すみません! こんな変な話。急に意味わからない夢の話をされても困りますよね。その、すごく嬉しくて! 本当にありがとうございます! 感謝してもしきれません!」
嬉しくって嬉しくって、誰かに話したくって、一気に捲し立てた。
相変わらず女性は嫌な顔を一つせずに笑顔で話を聞いてくれている。だからこそ、こんな話が出来たのかもしれない。
「ありがとうございます! 魔女さん!」
最後に思いっきり気持ちを込めて、もう一度お礼を言う。言った後に、心の中でのみ呼んでいた女性の呼び方を、声に出して言ってしまったことに気づいた。でも声に出してみて、その呼び方に全く自分の中で違和感がないことにも気づいた。
「あ、すみません! その、あんまりはっきりとは覚えてはいないんですけど、なんだか眠る前に、本物の魔女みたいな恰好で魔女さんが助けにきてくれたような気がするんです。だからその、悪い意味とかではなくて」
言い訳みたいな本当のことを言うと、女性は今まで見た中で一番楽しそうにフフッと微笑んだ。
「気にしないで。私は『魔女の屋舎』の“魔女”だから」
そして茶目っ気たっぷりに言った。
「なんてね」
扉を丁寧に閉めた後、彼女は軽い足取りでリズムを刻むように階段を降りる足音とともに遠ざかって行った。最初に来た時の重い足取りだったのが嘘のように。
「あなたが記憶を残したままにするなんて珍しいわね」
突然、ソファーで横になっていた黒猫が、人間の言葉で扉を見つめている美しい女性へと話しかける。その声には僅かに疑うような驚くような感情が込められている。
「記憶はちゃんと消したはずなんだけどな。あの子、とても強い魔力を持ってるわ」
表情にも声にも表さずに、椅子に座る女性も驚いたような言葉を放った。少し嬉しそうに口の端を上げながら。
「でもいいんですか? 本当のこと言わなくて」
どこからか飛んできたふくろうが降り立つと同時に人間の男性の姿になると、去って行った少女を心配するようにそう言った。
「あんなに嬉しそうにしてるんだもの。言えないわ」
「意外と残酷なのね。真実は早目に知っておいた方がいいわ。遅ければ遅いほど落胆は大きくなるわよ」
黒い猫は試すように女性に話しかける。
「いずれ話すわ。きっと近いうちにね」
魔女と呼ばれた女性は、扉の先に少女を見るように、いずれ訪れるであろう未来に思い耽るようにそう言った。
これで完結です。
不思議に思う部分もあったと思いますが、続きを書くと今のところ収拾がつかなくなるので、ここまでにします。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。