③
あの夢を見てからもうすぐ二か月、そして『魔女の屋舎』を訪ねて一か月が経とうとしている。
今のところ特に変わったことは何も起きてないし、起こるような感じもない。あれから夢も特にこれといって見ていない。何も起きないなら、それが一番だし何よりだ。このまま何も起きないでほしい。
そう願ってはいるものの、でも何だかこわい。未知の恐怖が迫っているようで。それとも、その未知ということがそもそもの恐怖なのかもしれない。
やっぱりもう一度相談に行ってみよう。誰かに話すだけでも気分は幾分か落ち着く。今このことを話せる人は一人しかいないから。
そう考えて、放課後になると私はそのままの足で『魔女の屋舎』を目指した。
でも、それは出来なかった。
相談所に行こうとした道程で、目の前に立ちはだかる人が見えた。他には誰もいない。遠いし影っていて顔がよく見えないけど、手に持っているものはなんとなくわかる。
あれは、知らない人。いや、知ってる人?
手にはナイフ。あれは食事に使うような小さなものじゃない。もっと長くて大きいもの。
危険な気がした。ここにいてはいけない気がした。
目が合った気がした。こっちを見ている。私を目で捉えたような気がした。そして、恐ろしくも口が笑った気がした。
男は歩き出し、こちらに近づいてくる。
悪寒が走った。寒気がした。鳥肌が立った。恐怖が背筋からのぼるように全身を駆け巡った。
逃げなくちゃ。逃げなくちゃ。逃げなくちゃ。
私は振り返り、ナイフを持った男とは逆方向に走り出した。
周りのことや先のことなど考えずに一目散にここまで走ってきてしまった。ここは一体どこなのだろう。
確か走ってる時に坂を下った気がする。
乱れた息が落ち着くように、少しでも心を落ち着かせようとした。
顔を上げてみるとコンクリートの柱や地面、天井には骨のように武骨な管が通っている。そして僅かな蛍光灯の明かり。車を停めておくような白線が見えた。そこは駐車場のようだった。
でも車は一台も停まっていないし、人の気配もしない。誰もいないのだろうか。でも僅かだけど明かりが点いているということは、使われているということだろうか。
よく見れば柱は傷がついてボロボロだし、地面のコンクリートも綺麗とはいえなかった。薄暗い地下の明かりが少しだけ恐怖を煽っているようにも感じた。
どうしよう。こんなとこに入ってきちゃった。誰かいるなら通報させてもらえないか言おうと思ったけど。
もういなくなったか確認するのも怖かった。だから誰かに一緒にいてもらいたかった。
こんな日に限って携帯を家に忘れてしまうなんて。なんて日だ。
この駐車場を管理している人がいないか探そうとすると、足音が聞こえた。
振り返ると、私が入ってきた場所と同じ入口から、人が見えた。
ナイフを持った男。
恐怖が息を吹き返したように私の中を這いずり回る。
逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ。
男は走ってくる。
私は男から少しでも距離をとろうと、駐車場の奥へと入って行く。
だけど、それも永遠には続かない。一番奥、壁へとぶつかってしまった。
そこで男も足を止め、こちらを見ている。
ナイフの刃がひかり、男の口が弧を描いているのが見えた。
いやだいやだいやだ。来ないで来ないで来ないで。
恐怖で頭が真っ白になった。
私はただひたすらに念じた。
徐々に男が近づいて来ている。そう思っていたら、急に動きを止めたかと思うと、ナイフが手から落ち、お腹を押さえだした。
「は、腹が」
そう言ったまま、男は何故かその状態で固まった。
そして、ナイフが滑るように、近くまで転がってきていた。
ドクンッ
それを見た時、そのナイフを見た時に、何かが頭をめぐるような気がした。血が躍り、熱を持ったような気がした。
転がってきたナイフ。あのナイフ。
あれがなければ、あいつは殺すことができない。
私を殺すことができない。
どう見積もっても私の方が近い距離。
ドクンッ
そうだ。この光景、見たことがある。
そう。夢で見た。
夢で見たのと同じナイフ。同じ場所。同じ人。
あのナイフをとれば、私は殺されない。
私が殺せば、私は殺されない。
私ならできる。確信があった。
だって、夢でも人を刺し殺していたでしょう?
夢ではできていた。絶対にできる。だって夢は絶対だから。
そう。私には絶対にできるという確証がある。自信がある。やり方だって完璧にわかってる。夢で見たのと同じようにやればいいだけ。それだけ。
だって、そうしなければ。
ドクンッドクンッ
鼓動が早く波打つ。私にそれを促すように。定められた運命を追うように。
殺してしまえばいい。夢のように。そうすれば楽になれる。
もう何も怖いものはなくなる。殺されることを怯えなくて済む。
今、男は何故か固まって動かない。今この時しかない。
動かないと思っていた足は難なく動き、私は走り出した。転がっているナイフに駆け寄り、急かす鼓動の音のままにナイフを掴む。そして、私は両手で持ったそのナイフの刃を男に向けて振り上げ――
――私の前であなたは絶対に人を殺さない
何故か頭に言葉が木霊した。私の動きは、停止した。ナイフを振り上げた状態で。刃が相手へと刺さるその前に。
コツ。コツ。コツ。
コンクリートに高い靴音が響き渡る。辺り一帯が急に静まったように感じる。聞こえるのは、存在する音はその靴音だけ。まるでその音がこの空間を支配するように。世界にその音しか存在を許されなくなったみたいに。
徐々に近づいて来て、大きくなっていく音。
高く大きく響き渡るそれは、ヒールの踵をわざと響かせているようにも聞こえる。大きな音は時として場を支配する。そう感じた。
「間に合ってよかった」
美しい声が、あまり感情の見えない声が言った。
カランカランカランッ
持っていたナイフが手からするりと落ち、コンクリートに当たった音が響いた。誰にもナイフは当たらず、独りでに転がって止まった。
――私の前であなたは絶対に人を殺さない
その呪文が思い出したように頭に響く。今まで頭からは消えていたのに、強く響く。抑えつけるように、戒めるように。そして、落ち着かせるように。
一瞬にして心が凪いだ気がした。さっきまで荒れ狂っていたのが嘘のように、心は静まり返っていた。ただ朦朧としていた。
何が起こったのかはわからなかった。今がどういう状況なのかも、わからなかった。
ひどく眠たくなってくる。目を開けていられないほどに。美しく優しく、耳に心地よい声が聞こえてくる。
瞼が重たくなって、徐々に落ちていく。
そして、目を閉じる寸前に見えたものがある。
ああ。そこにいるのは――
「おやすみない」
次で最後です。