第八話 【聖女】の哀歌が聞こえる
『地獄』と聞いた時、人はどんな場所を思い浮かべるだろうか。
鬼の獄卒が徘徊をし、事あるごとに金棒で叩き潰される世界。
腹をすかせた餓鬼が纏わりつき、自身を貪り続けられる世界。
血の池、針の山、業火に灼かれ、延々なる苦痛を味わう世界。
そんな、望ましいとはとても言えない、恐怖ばかりの裏世界。
そういう所を想像するのが、常識的な地獄観って奴だと思う。
だからこの地も例に漏れずに、そんな地獄の様相をしていた。
聞くに堪えない怨嗟の声が嘆き響いた、どこまでも赤い地平。
ぬらりと光る大地はうねり、空から生えた鉄塔が崩れ続けて。
赤黒い雨が延々と降り続け、得も言われぬ悪臭はとめどなく。
まさしく地の底。地獄の世界。罪人が行き着く最果ての煉獄。
悪夢の中でしか見る事の出来ない、人が夢見る災禍の坩堝だ。
……それだけだったら、良かったけれど。
だけどこの地は、そうじゃない。
VRMMOだなんていう、ヒトの精神を掌握し尽くす機構。
それを司るAIたちが、"来たれ混沌" と生み出したのが、この『地の底エリア』だ。
ならば、角を生やした鬼が歩いて、けたけた嗤う悪魔が飛んで――そんな、人間が想像した別世界としての地獄というだけでは収まらないのが道理だろう。
ありがちな地獄にプラスされるのは、リビハを作った冥府の番犬たちによる、害意満点の追加要素だ。
――――悪名轟く『地の底エリア』。
そこは地獄と現実世界の闇を根こそぎ掻き集めまくった、天地昏冥の特別区域。
ここで受ける極刑は、どこかの誰かの地獄の日々の、追体験。
◇◇◇
『何遍言ったらわかるのッ! このクズッ!!』
ぱちん、と頬を張られた。
うるせえよ、何だよコイツ。
見知らぬおばさん。般若のような顔つきの、赤の他人のクソババア。
……だけどこいつは、俺の母。
知らないけれど知っている。そうじゃないけどそうなんだ。
『ほんっと、どうしようもない子だね! ああ!もううんざりっ!!』
そうだから俺は、とても悲しい。
母に叱られ、暴力を振るわれ 愛とは真逆の感情を言葉に乗せてぶつけられるのが、たまらないほど悲しいんだ。
『はぁ~ぁ! 全く! アンタなんか産むんじゃなかったよッ!!』
なんて事を言うんだよ。
そんな風に言われたって、俺にはどうしようもないじゃないか。
好きで生まれた訳じゃない。産んでくれと頼んじゃいない。
だけど、俺は生まれてしまったんだ。アンタの子として、この世に、こうして。
だったらせめて、愛してくれよ。アンタにそうされなかったら、俺は誰に縋ればいいんだ。
愛もなく、情もなく、そうして俺の全てを台無しするのは、やめてくれ。
謝るから。何が悪いのかわからないけど、誠心誠意謝るから。
だから、許してよ。
許して下さい。
お母さん。
『……ご、ごめんなさい……』
『うるさいッ! あやまるなッ! 気持ち悪いッ!』
『ごめん、なさい……ごめんなさい……っ』
『死ねッ! お前なんか死んじまえッ!!』
これほどの絶望があるだろうか。
たった1人の母に見捨てられ、悪意をぶつけられ、拒絶され。
これから向かうこの先は、寄る辺のない人生が確定するんだ。
悲しいなんて物じゃない。胸が張り裂けそうだ。
『う、うぅ…………』
『泣くんじゃないよッ! 鬱陶しいッ!!』
『…………ッ!』
体が焼かれる。母の言葉が炎となって。
心まで焼け爛れ、炭のように真っ黒になっても、延々と。
熱い。熱い。熱い。業火で涙も水煙となって。
ああ、死んでしまいそうだ。
◇◇◇
『うぇぇ~ん』
『ちょっとキノサク! アンタ "譁?ュ怜" に告ったって本当!?』
『……うぇぇ~』
知らない女が2人いる。片方は泣いて、片方はガン切れで。
その泣いている女は初対面で、別に好きでもなんでもないが、ずっと恋い焦がれ続けた俺の想い人。
そんな彼女に、人生全ての勇気を振り絞って告白したら……激しく泣かれた。
何故そうなるんだ? 俺にはわからない。
俺はただ、キミが好きだと伝えただけで……。
『アンタみたいなキモい奴に告白されて、"譁?ュ怜" がかわいそう!』
『うぇぇ~ん』
『アンタみたいのに「俺ならイケる!」って思われてコクられたから、"譁?ュ怜" はこんなに傷ついてるんだよ!? わかってんの!?』
『うぇぇ~ん』
『そんなブサイクなのに、ちょっとでも可能性感じるとか……ウザッ! "譁?ュ怜" を泣かせて、最低だよアンタ!』
そうか、俺はキモいのか。
キモくてダサいクソ陰キャだから、告白する事さえ罪なのか。
だから彼女は、俺の想い人は――――俺に告白された事を、嘆いて泣いてるのか。
……はは。何だよそれ。
俺は、ただ伝えたかった。
彼女を愛しく思って、それを彼女に伝えられたら……それだけで十分、満足だった。
それ以上何も望まずに、せめてこの気持ちを与えてくれた彼女の今後の、手向けになればと……そう思っての事だったけど。
俺の決死の告白は、彼女の心に傷をつけるだけだったのか。
俺のような人間は、誰かを想う事すら許されないのか。
俺は、誰かを慈しむ事すら、してはならない人間なんだな。
『ほんと最ッ悪! 早く消えろよッ! キモ男!』
『うぇぇ~ん』
全身が針で串刺しになる。
言葉の棘と、懺悔のつららで、余すことなく穴だらけだ。
酷く痛い。生きる理由を見失うほど。
◇◇◇
『マジで才能ないよ、お前。ヒサンなレベル』
そんな言い方するなよ。俺だって俺なりに一生懸命なんだよ。
……絶望の中に蟲が湧き、俺の体を貪り食らう。
『あなたは周りを不幸にさせる人よ。もう付き合いきれないわ』
待ってくれ。俺が悪かった。浅はかだったんだ。だから行かないでくれ。
……足がどぷりと沼に落ち、頭のてっぺんまで血反吐に飲まれる。
『お前と遊んでても面白くないわ』
嘘だろ? おい、待ってくれよ。さっきまで一緒に笑ってたじゃないか。
……いたずらに笑う妖精が、俺の体を引っ張り合って、遊び半分でバラバラにする。
『ごめん、仕事以外では話しかけないでくれるかな?』
どうしてそんな事を言うんだ。俺が何をしたっていうんだよ。
……言葉のハンマーで吹き飛ばされて、ぐつぐつ煮立つ釜の中へと飛び込んだ。
『きゃははは! なっさけない! キモチワル~イ! アンタ本当にオトコなの!? きゃはは!』
俺を笑うなよ。やめろ。やめてくれ。傷つくから、やめてくれ。
……四方八方から迫りくる壁に、紙より薄くなるまで押しつぶされた。
◇◇◇
――――マジでヤバい。これが地獄か。ヤバすぎるだろ。
知らない顔の恐ろしいおばさん。
そいつが出てきたと思ったら、次の瞬間に『この人は俺の母親で、俺は6歳の子供だ』と認識させられた。
そしてその上で、耳を塞ぎたくなるような言葉をかけられて、猛る炎に襲われて、心を芯まで焼き尽くされた。
その次はどこかの学校で、女2人と俺だけがいる教室だった。
まるで見に覚えのないシチュエーションだけど、そこにいるのは確かに俺で、眼の前にいるのは好きな女の子で。
そいつに俺が告白したら、思い切り泣かれて罵倒をされて、針を食らってこれまた再び死にたくなった。
その後も絶え間なく訪れる、どこかの誰かの悲しい経験。
才能を否定され、この身を食われた。
伴侶に見放され、血反吐の沼に飲み込まれた。
友人に拒絶され、四肢を無残に引き裂かれた。
同僚に嫌われて、煮え油で骨の髄まで溶かされた。
その全てが、俺じゃないはずなのに俺だった。
俺の母さんはあんな鬼ババアじゃないし、泣いてた女はまるで好みじゃない。
その他の全ての状況が、俺の知らない物だったけど……その時ばかりは、完全に『俺の経験』となって味合わされた。
バリエーションに富んだ状況下で、体と共に心を酷く痛めつけられて。
ありとあらゆるシチュエーションの、死にたいくらいの日常が、延々と繰り返された。
……悪趣味すぎるだろ。なんなのこれ。
痛いし、辛いし、すげえ悲しい。
手足の震えが止まらない。涙なんて出っぱなしだ。
『愛』と真逆の悪感情。見に覚えのない自己の否定。
襲い来るどれもこれもが、心に爛れるような爪痕を残してる。
嫌な思い出は俺の物じゃない。
だけどそれが起こる時、俺はソイツに成り代わっていて。
知らないはずのトラウマを、俺の物として呼び起こされるんだ。
誰かがリアルに苦しむ記憶が、俺の脳に捻り込まれて、俺の心をゴリゴリすり減らして。
……歯を食いしばって耐えられるのは、体の痛みばかりだろう。
なら、心の痛みを耐えきるのには、一体どこに力を入れればいいんだ。
駄目だ。こんなの耐えられない。俺はコレの耐え方を知らない。
多分まだ5分くらいしか経ってないけど、もう限界だぜ。勘弁してくれ。
いつの間にか始まる悪夢の再生に、知らぬ間に終わって地獄へ帰るの繰り返し。
いつまで俺が俺でいて、どれが本当の自分なのかもわからない。
これが精神の処刑場か。誰かが心を殺された経験を、この身で味わう『地の底』か。
肉焼く炎が魂を焦がして、刺さる棘は魂を穿ち、心臓の奥に辛苦の杭を打ち立てられる。
…………ああ、そうか。わかったぞ。
この地がこうだから、 "MOKU" は『精神硬度の推し量り』と言ったのか。
心の痛みを可視化して、心身に思い切りぶつける場所だから、心の強度を試せるってのか。
こうした『精神を壊す地獄』に送り込む事で、VR空間に没入する『精神体』の、過負荷テストをしているんだろう。
ああ、全く嫌になる。
自分の心を持たないクソAI共は、そういうブサイクな形でしか、試験が出来ないんだろうよ。
……ちくしょう。意識が朦朧としてきた。
また始まるぞ。誰かの悪夢が俺に来る。
"血も涙もない" ってのは、まさにこの事だと知るぜ。
地獄に落ちろよ、クソAI共。
◇◇◇
「ぐ……うぅ……おぇ……」
「…………」
「……ああ……やべぇ……これは本当に……すげえ無理…………ぐぉぉ……」
知らない奴のトラウマを、ソイツになりきって受けさせられる。
誰かが心を壊された、精神クラッシャーのリフレイン。魂を拷問にかけられてる気分だ。
断言出来る。今までの人生の中で、一番にキツい。
……ああ、もう嫌だ。疲れたよ。
もう2時間くらい経っただろうか。
いや、多分20分も経ってないよな。だけど、そう思わないとやってられない。
あとどれだけ続くのだろう。
もう何もしたくない。
見たくない。聞きたくない。これ以上傷つくのは嫌だ。
目を開くのも億劫で、暗闇の中を手で探り、程よい段差に頭を乗せる。
ひたすら嫌悪感のあるネチャネチャザラザラの地面と違って、いい感じの枕があった。
……柔らかいな。なんかいい匂いもするし、温かい。
まるで奈落へ垂らされた蜘蛛の糸。ここだけすっかり天国のようだ。
こうして少し、休憩しよう。
「……はぁ……あ~…………つれぇ……。これは本当、死んだほうが……楽かもなぁ…………」
「…………」
「は~…………つーか、狂ってもおかしくないぜ、こんなのさ…………あっ」
「…………」
「ああ、そうか……。"MOKU" が言ってた『合格保証』の意味、わかってしまったぞ……」
「…………」
「今の俺は擬似的な精神だから、きっと制御されてんだ……。狂わないように、壊れないように、大事に丁重に扱われて…………きっちり規定の時間まで過ごせるよう、無理やりに維持をされてるんだな……」
「…………」
「……はは、マジでクソだぜ、あいつ。だいっきらいだ…………」
「……む~?」
「…………えっ」
突然聞こえた声。
それは今までとは違って、俺を蔑んだり傷つけたりしない、柔らかい物だった。
それに、何だかずいぶん近くで聞こえた気もするぞ。
それこそ、俺が枕にしている柔らかい物の、ちょうど真上くらいから。
「――――白…………お前、【聖女】? チイカか?」
「…………?」
「……ああ、そういや一緒に居るって言ってたなぁ」
「…………」
目を開ければ、すぐの所に白い顔。
頭にトレードマークの白百合は無いものの、服や髪まで余す所なく真っ白なのは変わらない、忌々しいヒーラーのクソ女。
【聖女】のチイカが目を閉じたまま、俺の顔を覗き込んでいた。
「…………」
「…………」
「あ~……」
「…………」
あれ? ちょっと、何これ。困ったな。
知らなかった事とは言え、ナチュラルにコイツの膝に頭を乗せてしまった。
その上、柔らかくて具合が良かった事もあり、目をつむって泣き言を漏らしながら顔をこすりつけてた気もするぞ。
……まずいな。
俺の行動、すげえ変態っぽくないか?
勝手に膝に頭を乗せて、堪能するようにぐりぐりやるとか……いや、完全に変態だよな。
参ったぜ。地の底に住む性欲小鬼とは、俺の事だったのか。
「…………」
「…………」
……かと言って。
コイツに素直に謝るってのは、どうにも気が進まない。
俺は一度手酷く殺されているし、そのせいでそれこそ地獄のような目にあったんだ。
次に会う時は復讐か、もしくは謝罪を求めると決めていた……そんな相手だから、普通の応答をしてやるのも気が引けるんだ。
しかし、いきなりの膝枕。
しかも、俺が勝手に、だ。
……この状況は困ったな。
俺が取るべき行動は何だ? コイツに何を言えばいい?
謝りたくない。悪いとは思ってるけど、それはお互い様って物だし。
じゃあ、何を言おう?
プレイヤーを殺して回っている事を問いただす?『ヒール』で殺せる理由を聞くか?
っていうかその前に、この状態は良くないよな。
……いやでも、今いきなり飛び起きたら、何だか嫌な感じにならないか?
ここで激しく動いたら、まるで汚らわしい物を触れたみたいにも見えるだろうし……それはちょっとおかしいだろう。
こうして見れば普通の女の子っぽいし、そうなってくると何だか色々尻込みしてしまって、俺は不得手と言わざるを得ない。
ああ、わからん。めんどくさい。
女の子の相手って難しいよな。
それこそ、ドラゴンを相手取るより大変だ。
「…………」
「…………」
……ああ、そうだ。
次の『恐怖の追体験』が来たら、その流れでさりげなく、どさくさ紛れで頭を上げよう。
そうして普段通りに振る舞って、そうしたら――――……そうしたら、どうしよう。
よく考えたら、何を聞いても記憶に残らないって状態なんだよな。
だったら疑問を解消するより、他の事を話すべきなのかもしれない。
例えば――……。
例えば、何を話せばいいんだ。
なにせこいつは、正真正銘のおかしい奴で。
微笑みながらPKする女で、意味のわからない事しか言わない、清々しいほど異常な女なんだ
――――そして何より、あの【聖女】のチイカなんだぞ。
そんな奴と話す事なんて、これっぽっちも思いつかない。
◇◇◇
「…………あ……」
「…………」
知らん "おっさん" に性的虐待を受けるという、おぞましさが限界突破する体験を経て、再び地獄に舞い戻る。
後頭部に柔らかさを感じて目を開ければ、見えるのは相変わらずな白い顔だ。
……これは確かに、救いだろう。
優しい香りと朗らかな空気。
見渡す限りの地獄にあって、ここだけ陽気な日向ようで。
だから余計にムカつくぜ。
なにを【聖女】ぶってんだよ。俺殺しのくせしてさ。
つーか、どうしてコイツは動かないんだ? 何考えてんのかな。
「…………」
そんな先程と変わらず膝枕をする彼女を、悪夢見心地な頭のままで見つめる。
白い。全部が。
まつげの一本まで真っ白で、雪で出来た人形みたいだ。
目を閉じてる所も合わせてソレっぽい。
そんな彼女をぼーっと見つめて、不意に浮かんだ一つの考え。
結局俺とコイツは、顔見知りとも言えない間柄だ。
ここはちょっと、小粋なジョークで場を和ませてみてはどうだろう?
ああ、それがいいな。
せっかく地獄で2人きりだ。いくら嫌いな奴とは言っても、多少は仲良くすべきだろうさ。
与えて貰った安寧に対するお礼の意味も込めて、ナイスでグッドなコミュニケーションと行こうじゃないか。
「……あ~……あのさ」
「…………?」
「…………お前ってやっぱり、下着も白なの?」
「…………!!」
白い頬が、ピンクに染まる。
俺の頭が【聖女】の膝から転がり、地面にドチャリと投げられた。
……うん。
ちょっとスベっちゃったかもしれない。