第二十七話 ヒーロー 下
荒野の澄んだ青空に、厚くて重い、心まで闇で覆い尽くすような、暗雲が立ち込める。
それは、針。リスドラゴンから射出された、無数の体毛。
一つ一つがハガネのように硬く、そして鋭く尖った燃える棘。
見渡す限りの雨模様。それが空へと浮かび上がって、ぴたりと止まって構えてる。
…………終わる、と思った。
【天球】は居ない。【死灰】でも対処は出来ない。
そしてもちろん、この【正義】が万全だったとしても、あれをどうにかするのは無理だもの。
誰もが空を見上げては、これから始まる悲劇に顔を暗くしていた。
みんながみんな、動けずに、下を向くばかりだった。
ラットマンも、プレイヤーも、死ぬのを待つだけ。
敵も味方も関係なく、誰も彼もが諦めきっていた。
――――ただ一人を、除いて。
「この世界で、きっちり生ききってやる」
「……!」
静止した世界の中で、唯一動いた男の子。
金色のオーラを身に纏い、駆け出した、サクリファクトくん。
その声は、目は、心は……諦めてなんかいなくって。
片手に棒のような物を持ち、一心不乱に走る姿。
『目にも留まらぬ』を体現するかのような、理外の疾さで加速を始める。
きらりと光る金の残滓を後に名残らせて、およそプレイヤーには出来ないような、信じられない速度で駆けた。
諦めた私たちを、身を縮こませる人たちを、世界の全てを、置き去りにするかのように。
「――――行くぞっ!」
吠える。転びそうになるのを堪えて、懸命に駆けて前を向く。
「――――やるぞっ!」
腕を振りかぶった。持っているのは、棒ではなくって……"何かの腕" ?
「――――やってやる!!」
そして、投擲。リスドラゴンへと一直線で、前歯に当たってお口に入る。
もぐ、とお口が動いた。
「…………」
……何を、しているのだろう。何をしようと言うのだろう。
彼はローグ。戦闘職でありながら、攻撃力に欠けた存在。
『嫌がらせ』や『妨害』、そして『罠』を得意とするだけの、決して戦場の華にはなれない職業。
守る事だって、攻める事だって……サポートする技能は持たないはずなのに。
……ただの普通な『補助職』で、何の変哲もない一般プレイヤーに、一体何が出来るのだろう。
「…………」
だけどなんだか、胸が疼いた。止まった心臓が動き出す。
何かの効果で得たその早さ。迷うこと無く飛び出す自信。
そして何より、『自分がどうにかする』という、強い意思。
"サクリファクトくん" なら何か出来るかもって、思わせてくれる何かを感じて。
「――――があぁっ!」
そんな彼が呻くような声をあげ、リスドラゴンを蹴りつける。
……違う。蹴りじゃない。
踏み登った。
曲がった後ろ足の太ももに、そして肩、更には頭を蹴飛ばすようにして、上へ上へと登って行く。
目で追いかけるのがようやくな、つむじ風より疾い速さで。
「……サクリファクトくん、君は一体何を……」
「…………」
隣でキキョウくんが呟く。私も心中で同意する。
必死で空を目指しても、その先にあるのは燃える針。
空を埋め尽くす無数のソレを、1本や2本どうにかした所で……何も変わらないはず。
「――――ッ!」
そうする間にも、彼は動きを続けている。
私たちを絶望させるそのトゲを、サクリファクトくんがその手に掴む。燃える針を、私を救った手のひらで。
「だぁっ!」
針を掴んで、引っ張った。
空中に静止した燃える針を引き寄せるようにして、自分の身を持ち上げた。
次いで、靴裏で針を蹴る。
また1つ、彼の標高が増して行く。
「……あれは……」
「…………登って、る……?」
針を掴んで一歩上。針を蹴りつけ、また上に。
黒い手袋から煙が上がる。蹴った足裏からは、ハンマーで鉄の杭を打つような硬質な音色。
誰もが手を止め足を止め、じっと見つめる止まった世界で。
一人で鳴らす決死の音を、どこまでもどこまでも響かせて。
「…………」
……それはとっても不格好だった。
芋虫が坂道を進むように、のそのそと。
川の流れに逆らうアメンボのように、ふらふらと。
向かい風に向かって飛び立つトンボのように、ぐらぐらと。
力のないものがそれを自覚出来ずに、無闇に頑張る様子を思わせるよう。
針を掴んで2つ上がり、足が滑って1つ落ち……駆け上がるとはとても言えない、這いずるような つたなさで。
そしてそれをする彼が、早送りのような速さであるから、ことさら滑稽に見えて。
「…………っ」
でも、どうしてだろう。目が離せない。
知らずに両手を胸に当て、彼に何かを想って震える。
針が身体に引っかかる。出血した右腕を、懸命に伸ばして針を掴んで。
踏み外した足に、針が突き刺さる。そこを支えに、もっと上へと身体を伸ばす。
格好悪い。下手っぴだ。華麗とは程遠いし、とっても不出来。
だけど、とっても綺麗に見えた。
血に濡れ、怪我をして、全身に痛みをこさえながらに……何かをするため懸命で。
転ぶように崩れたり、もつれるように踏み外しても、必死に身体を押し上げる。
その目にあるのは、固い意思。強い気持ちと、貫く心。
目指す所にあるものを、ただひたむきに握ろうとする……本気の目。
「……何を、しようと言うのですか……サクリファクトくん」
「…………」
「私には、君の考える事がさっぱり……」
「……がんばれっ……」
「…………クリムゾンさん」
「……がんばれっ!」
私には、あなたが何をしようとしているのかは、わからない。
どうして金色に光っているのかも知らないし、何で速くなってるのかだって見当もつかない。
……だけど、精一杯だっていうのは……伝わるよ。
あなたが願う何かのために、全力で頑張ろうとしているんだよね。
それが正しいと信じ切って、良くなるように一生懸命なんだよね。
……だったら、私も信じるよ。
信じて声援を送るから。
だから、がんばれ。
「がんばれっ! サクリファクトくん!」
「……クの字ぃーッ!」
「……く~ん!」
私の声とほぼ同時。戦場のあちこちから、彼の仲間や友達の声がする。
……きっとみんなも一緒なんだ。空気で溺れるようにしながらも、一生懸命な彼を見て、居ても立ってもいられないんだ。
だから目いっぱい、声を出す。
自分の身体を犠牲にしながら、それでも何かのために頑張る彼を……少しでも支えられるよう、下から背中を押し上げるように。
「――――あぁっ!」
そんな声に返答したのか、それとも気焔をあげたのか。
1つ叫んだ彼は加速し、とうとう空まで……針の上まで、駆け上がる。
太陽を背にして、腰に手を伸ばし……上へと投げるのは、幾つかの小瓶。
それらを繋いだ一本の紐を思い切り引きながら、くるりと体勢を整える。
「ギヂヂヂィッ!」
リスが鳴く。
いよいよ燃える針を発射しようと。
あれが降ったらみんなが終わる。
迫る針に目を背けたくなり、少しだけ目線を下げようとして…………。
――――ボボボンッ!
破裂音。サクリファクトくんの背後で、何かが続けて爆ぜる音。
思わず下がった顔を持ち上げ、空の彼へと目を向ける。
黒煙が膨らむ爆風を背に浴びて、誰より疾い黒い彼が、針を追い越しリスへと迫っていた。
……ああ。
……なんてこと。
……こんなに胸打つことは無い。
その体勢は、知っている。私はそれを知っているんだ。
右足を伸ばし、打ち倒すべき敵へと真っ直ぐ突っ込む、幾度も目にした必殺技。
私がRe:behindで何度も真似た、特撮ヒーローの決めの技。
悪を滅ぼし、誰かを救い、世界に平和を取り戻す……とっておきの技!
「うらぁぁーっ! クソリスゥゥゥッ! こっち見ろォォォッ!!」
金色のオーラを纏った彼は、全身を血で真っ赤に染めて、黒い外套をなびかせる。
誰より疾いスピードで、針を追い越し、音を置き去りに、全てを超えて飛んでくる。
不器用な下準備、気取らない手法、飾らない言葉を携えて。
私が信じたあの技を、私の信じたRe:behindのヒーローが。
この場のみんなを救うため、その必殺の一撃を…………今。
「これでも食らえっ! ボケネズミィーッ!!!」
――――リスドラゴンへの脳天へ、正義のキックを突き刺した。
◇◇◇
…………雨が降る。
だけれどそれは、針じゃない。
みんなを泣かせる地獄の雨は降り止んで、残り火のカケラがチラチラと。
みんなの命を祝福するよう、暖かい光で包み込むよう、優しい速度で降りそそぐだけ。
そう。これはお祝いなんだ。
"リスドラゴン" の死亡判定を受け、燃えていた針は……悪いものは、消え去ったのだから。
……倒れ伏す恐怖のリスドラゴン。10回生き返るけど、今だけは静かな茶色い毛玉。
その上に立っているのは、金のオーラをすっかり失くした、黒い彼。
黒と深緑で構成された彼の装備は、どこもかしこも血で赤黒く。
全身から爆風の名残りか、黒煙をぷすぷすと上げながら、気だるげにリスドラゴンを踏みつけて。
「…………」
誰も喋れない戦場に、ひらりはらりと炎が舞い散る。
まるで時が止まっているよう。それほど静かで厳かな、絵画の世界のようだった。
ドラゴンを1人で倒した英雄を、この場のみんなが見つめている。
ラットマンは、恐ろしいものを見るように。
プレイヤーは、熱に浮かされた表情で。
それぞれがこれから紡ぐであろう、叙情詩の一幕を目に焼き付けようと。
……もちろん私も、例に漏れない。
何故か潤んだ瞳から、涙が溢れないように堪えつつ……彼をじぃっと見つめてた。
パーティメンバーを、友達を……そして私を1人で救った、完全無欠のヒーローを。
「……ざ……」
「…………」
「…………ざまぁ、みやがれ……はは……」
口から少しだけ煙を漏らしながら、吐き出すように悪態を吐いたヒーローは。
満足気に笑って、前のめりに倒れ込んだ。
私はきっと、濡れた目で見たこの情景を、生涯忘れはしないんだ。