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血沼に現る花

「・・・・・・らーっしゃいませー」


 コンビニの前を丹念に箒で掃くバババが、寝不足を我慢しきれなさそうに目を擦っていた。朝も十時になるのに、彼女も年だろうか。


「失礼なこと考えてたら働かせるわよ幸一くん。いえ、社会に貢献しない世間のコバンサメ君」

「俺の職業は給料を貰わないでも名乗れる高校生です。通信教育ですけど。いつものください」

「・・・・・・あいよ」


 頷いたバババの背を追って店の中に入る。バババの背が低いせいで、カウンターに彼女の下半身はもぐらみたいに隠れている。おばあちゃんになると背が縮むっていうのは本当らしい。


「はい、純鉄製のライター。千と六十キナね――まいどあり」


 この国の通貨を手渡す。頭を下げるジャージ姿の三十路は、眼鏡がずれたのか手で何度も直して、上目遣いにちらちら俺を見上げてくる。


「なんですか?」

「いや、なんでも。あのさ、今日、実は私の」


 訥々と喋っていた彼女の言葉は、開いたコンビニの扉から舞い込んできた若い男の声に遮られた。


「ヒャッハー! おはようございます姉御ぉ! 誕生日の祝いに幹部の頭をぶべほっ!」

「楠木、テメェは表出てやがれ!」


 楠木と呼ばれたモヒカンが、目にも留まらぬ身のこなしでカウンターを乗り越えたバババに吹き飛ばされてシャングリラまで届く奇声をあげた。バババは汗一つかかず、何事もなかったかのように再びカウンターに隠れた。


「今日誕生日なんすか?」

「ち、違うわよ! あんな理髪店の理の字も知らない部下なんて知人じゃないわよ! こんな国だもの、変な人は刑務所がカンストするほど一杯いるからね。この間だってグローブにサングラスはめ込んだ男が、いきなり私の手を握ってきたんだから!」

「サングラスにグローブですか」

「えんぴつ削りで風船膨らます人にお尻触られたし!」

「それは器用ですね」

「USBメモリでドナドナを吹く人に求婚だってされたわよ!」

「あ、このサンドイッチいくらですか」

「・・・・・・七.四キナよ。もういいわよ」


 バババが呆れるように肩を落として、陳列棚でポップが踊っている商品を俺に手渡した。


「はいこれ。変な客を忘れる薬だから。食べて」

「・・・・・・なんすかこれ」

「独裁者の顔が描かれた金太郎飴。一口毎に怒りが消えるよ」


 こんなんで俺の怒りが消せるわけねえだろ。しかも商品のターゲットが特定層過ぎる。


「はあ。ありがとうございます」


 コンビニの外は熱射ばかりで風がない。南国特有の吹き抜けるような微風も働き者の太陽が打ち落としたみたいだ。扇風機よこせ扇風機。

 店内にいるバババが背後でぼそぼそと喋っていたけれど、公道を暴走するスクーター族の群れのせいでよく聞き取れなかった。


 自前の一軒家に帰宅して早々、買ったライターをそこらに投げ捨てる。あのコンビニで一番高い商品。千六十キナ。日本円に還元したら十円もしない。それでも、奇異な国の更に辺鄙な街でバババが暮らすには十分なお金だろう。どうせ金なら余るほど持っている。こうやって世間に配ったって困らない。

 パソコンを立ち上げる。日本産のパーツで組み立ててからこの国に輸送した優れものだ。時計を見やる。十時半。丁度いいだろう。擬似的な教室に身を置いて、俺は勉強を始めた。


  ――――――


 俺がこの国に来たのはある法律が施工されて二日と経っていない時期だ。

 国が大荒れに荒れた時期、行きの列車はエコノミーですらワンコインだった。数えるほどしかいない乗客をこの国に運んだ特急は、帰りに立ちんぼとなる客さえも詰め込んで、二度と帰ってこなかった。


 印鑑を忘れたことに気付いたのは到着してからだった。家捜しや諸々の契約に必要かと懸念したが、通りすがりで泣いていた亡命未遂者が彼の家の鍵と少々のお金を交換してくれたことで決着はついた。次に新居でどうやって暮らそうかそれなりに悩んだ。ネットがなければ日本の教育は受けられないし、料理もキッチンに立つのは三分が限度だ。ネットインフラの整備や食糧問題に困っていたときに、気を利かせてくれたのがバババだ。


 この国の文化も知らない俺を、甲斐甲斐しく世話してくれたいつも赤ジャージの近所のお姉さん。くたびれた風体といつも疲れたような姿が老衰のようで、胸中でだけバババと呼んでいる。本名は絵尾なんとかさん。


 国境を越えてからもう一年が経つらしい。逆立ちした国に来てからの俺の生活は、平穏な日本で過ごすのとは万別が違う。誰もメンテナンスしないロボットみたいな日々だ。

 朝遅くに起きては散歩がてらにコンビニに寄り、夕暮れまではモニターの前で糖分を消費して、夜は街を遊歩する。

 変わることのないルーチンワーク。見える情景から色が失われて、もう一年だ。

 ・・・・・・考えると、いらつく。


 レールを走るようだ。太陽の下を歩くようだ。指導された囚人のようだ。

 考えると、こうなる。


 だから、夜を歩こう。


 時計を見やる。十時半。機械仕掛けの街灯夫だけがはたらく、夜の時間だ。


 玄関脇のバッドを持って家の外に出る。まん丸な月が存在を浮き彫りにさせる。道路も、草葉も、人も。

 新品の金属バッドを何度か振りかぶる。コングリートを粉砕する耳障りな音が自宅の壁に反響する。ここ数日は外に出ていなかったから力が有り余っていた。上々。


 黒色のフードを被る。日本人遺伝の黒髪があるけれど、念には念を入れる。駆け出し、風で擬態が飛ばないように紐を引いて縛る。スニーカーは、真っ黒に汚れていた。

 一歩歩く毎に脳が活性化するみたいだ。プレゼントの包装紙をほどく瞬間をそわそわと待つような感覚が、犬歯をむき出しにさせる。


「見つけた」


 飛び込んだ空き家の庭先から獲物を見つけた。街灯に照らされた歩道を地雷原でも歩くかのように、ストライプ柄のスーツを着たサラリーマンが歩いている。背丈は俺よりも高い。首をのべつまくなしに振り回している。まるで麻薬現場を抑えられたくない犯人だ。おあつらえ向きに、胸にはビジネスバッグを抱えてこんでいた。


 罠の可能性を吟味、軒先や向かいの縁側を視認する。でも、居たって構うものか。獲物を見つけた際のルールなんてない。早い者勝ちだ。


 サラリーマンの後ろに立つ。危機察知の能力が長けていたのだろう、すぐさま振り返られる。


「・・・・・・ひっ! た、助けてくれ!」

「待て、逃げんな!」


 大声で叫んだサラリーマンのバッグが顔面に飛んできたが、構えていたバッグで打ち返す。ホームランを見上げているうちに、男は逃げ出していた。本能に突き動かされた男の健脚に追いつこうと必死に走る。決めた、あいつは脚からだ。


 住宅街から廃れたビル街まで走る男。石が風化した独特の乾いた空気。住宅街ならまだ警察もいたかもしれないのに。頭には逃げることしか考えていないんだろう。


 近くの廃ビルの壁を壊す。ここいらは半年前に起こった内戦で誰もが手放した場所だった。地主不明の建物を壊したくらいでは法に抵触しない。何より、警官すら機能していないこの国の誰に見咎められることもない。壁から拳より一回り大きいセメントを抉り出して、中の錆びた鉄柱を抜き出す。衰えを見せた男の脚に投擲する。


「ぐっ・・・・・・はぁはぁ。助けてくれ! 助けてくれ!」

「都合よく刺されよな。ああ、いらいらする!」


 布地を掠めて肌色の素肌を曝け出すだけで、白鳥のバタ足は止まらない。しかたなく、また走る。もう別の奴にしようか。あいつに拘る理由はないし。

 あいつを逃がしたからといって、誰に咎められることもない。ゲーセンにお金だけ入れて立ち去っても文句を言われないのと一緒だ。


 ビル街を走りぬけた先は団地しかない。殺し屋が犇めく巣の中に入るのはご免被りたい。もしかしたら、あの男はそれを見越して団地に向かっているのかもしれない。

 関係あるか。それまでに捕らえればいいんだ。


 足を止めて足元から岩を見繕う。男との距離は二十だろうか。一昨年の身体測定の記録を思い出す。あれはハンドボールでこれは瓦礫だけど、似たようなもんだ。振りかぶって、投げ上げる。宙に発射された瓦礫は山なりに飛翔し、空中で遠心力に負けて四散した。男の頭上に雨みたいに降り落ちる。


「うああ、がはっ」

「やっとかよ。こんな石ころばかりの場所に飛び込んだ、あんたの落ち度だぜ。おっさん」

「や、やめてくれ。金なら、家だって、家には妻にプレゼントした二カラットのダイヤが」

「興味ねえな。そんなんで、俺の気持ちは晴れねんだよ!」


 子気味良い音が外耳を優しく引っ張る。白鳥の骨が粉微塵になる音だ。



 調べた科学者は真理を追究したまでだ。

 認めた国々は戦争の合理性を手に入れただけだ。

 広めた人々は常識と照らし合わせて冗談だと三行半をつけた。

 つまり、世界は認めた。

 人が人を殺すとストレスを発散できることを。

 『動物が同種族の生物を殴打することによって感じる痛みは、得るのではなく失われるために生じるものである』

 その論文が発表された翌日の報道は、加害者と被害者の名前を発表するだけで終わった。

 死んだ人間と殴った人間の一覧を述べるだけで二十四時間を費やした。

 道と道じゃないところの至るところで撲殺死体が映画のように転がった。

 国は法律を決めた。

 人は人を殺してはいけない。

 動物的本能にかけた首輪のたがを人間同士で締めなおして、今まで以上に罰則を強めた。

 それと反するように、地球上でただ一国だけが、正反対の法律を取り決めた。

 人が人を殺すための行為を殺人と呼ばない規則。

 ストレス解消のためのその行為を認めたのだ。

 俺がこの国に根を下ろしたのは、国がアナーキーと成り果てた数時間後だ。



「・・・・・・」


 バッドがひしゃげる音も聞きなれた。人の肉を叩いても曲がらない。こうなるってことは、肉が潰れきって金属部が地面に衝突したことを示している。

 赤色の絵の具が地面を花びらみたいに彩った。


「最近溜まってたからな。能無しの暴走族とか、サイレン喧しい救急車とか。テストの点数も悪かったし。すっきりした」


 胸がロードローラーでならしたみたいに空く。ビルの間を鳥のように抜けていった風が余韻を湧かせる。


 今朝買ったライターの蓋を開けて、綿を絞って、オイルを肉塊に撒く。石や赤身が砂糖水をコーティングしたみたいに艶が出た。地面にライターを近づけて、端に着火させる。

 みるみるうちに火は侵食して、あっという間に男の血で濡れた裾に燃え移った。


 人の脂肪が焼ける匂いは嫌いだ。またいらついてくる。ストレスが消えたのに、またストレスが溜まるだなんてでんぐり返しみたいな本末転倒を起こす気はない。帰ろう。第一、人を殴打で殺しきるのにはそれなりにエネルギーを使うのだ。帰りにコンビニで何か買っていこうかな。バババの店はこの時間に営業していないから安全な飯を得るためには少しばかり遠出だ。


 振り返る。対象を捉えると同時に、喉が勝手に働いた。


「お前誰だ」


 バッドをそいつの一直線上に構える。そうしろと、目の前の少女に対し本能が警告した。

 明らかに、異質。

 緑の髪色の時点で頭がおかしそうなのに、更に訳のわからないことを少女はのたまう。


「始めましてサツジンキさん。あなたは私を知っていますか?」


 幼い声。いや、外見も相当に幼い。俺の半分くらいの年端もいかない少女だ。

 だというのに、俺はバッドの構えを解くことができなかった。

 きっとそれは、少女の愉悦の籠もった表情が、不気味でしょうがなかったからだ。口角は上がり、頬は深夜に差し掛かるというのに上気し、目は爛々と燃え上がる炎を背にした俺を眺めていた。

 どうしようか悩んでまんじりと動けない俺を見ながら、少女は首を傾げた。


「知っていますか? 私のことを」

「・・・・・・知らない」

「それは本当に好都合です。では、お願いします。私を殺してください」

「ほらよ」


 天辺がひしゃげたバッドを振り下ろす。血が、少女の薄汚れたワンピースを染めた。


「うわっ! ななななな、何するんですか! 死んだらどうするつもりうわきゃ!」


 バッドに付着していた血が彼女の袖にべったり。二度目のバッドもいなされた。

 軽く、手を添えられただけで、バッドは滑るように軌道を外れた。

 おいおい、金属バッドだぞ。たかだか小学三年生くらいの子どもに受け流されるような手加減なんてしていない。きっとカンフーの達人だ。子どもチャンピオンだ。姿勢を構えなおす。内心で焦燥感を燻らせた俺とはまた正反対の焦った顔で、少女は手を前にして交差させた。


「ちゅ、中止です! いいですいいですもう理解しました。あなたは私を知らないようです。少しだけ待っていてください」


 そう言って、少女は何度も深呼吸を始めた。大きく吸い込んで、吐き出す。胸が上下すると汚れたワンピースの肩紐が浮いてしまう。肉付きがない。孤児なら珍しくもない。


 夜の気温は刻々と冷えるが、いぶるような煙がこの場の温度を上げていた。それでも、時間が経てば肌寒くなる。サラリーマンを追って発汗した汗が気化して体温を下げてくる。


「いつまで待たせんだよ。早く帰りたいんだけど」

「も、もおすこしだけ、待ってください。はー。ふー。は~~――」

「見つけたぞ!」


 ビル群を拡声器代わりに使った女の声。びっくりして少女が息を詰まらせた。


「はぷっ、うっ、はぁはぁ。あ、あれは!」


 少女が目を向けた先に、俺も首を向ける。ビルの上。星空の中で輝く白月を背景に、黒髪を滝のように下ろした女が立っていた。


「第一皇女フラウ! 今日こそお前を縛りあげてや――こ、幸一くん?」

「バババじゃん・・・・・・なにしてんすか、そんな格好で」


 いつもはくたびれた赤ジャージ姿のバババが、まるで森の中でも突き進むかのようなアドベンチャー然とした服を着込んで、ビルの屋上に立って俺を見下ろしていた。ポシェットはともかく、腰からぶら下げられたロープは何に使うのだろう。


「今ババアって言わなかった! ねえ幸一くん!」

「こ、こういちさん? 彼女とお知り合いなのですか? あなたもテロリストだったですか!?」


 横に立つ少女が俺の服をファミレスのベルみたいに何度も押す。俺は店員じゃねえ。


「鬱陶しい。知り合いだけど、え、何テロリストって。バババさんテロリストなんですか?」

「ババアじゃないわよ! 後まだ三十分は二十七歳よ!」


 (とし)気にしてるからババアなんだよ。とは口が裂けても言わない。


「ちょっと待ってなさい」


 心の声が漏れたかと思ったが違うようだった。犬にステイと命じるように叫んだバババさんはロープの先のフックをビルに投げつけた。まるで映画の世界だ。


 ガラスの割れる音だけが現実味を帯びていた。だってそうだろう。横には俺の腕を引っ張って逃げようと訴える緑髪の少女がいて、目の前には森で育てられた人間よろしくビルを飛び降りるコンビニ店員がいて。


 バッドを見る。見慣れた真っ赤な姿だけが、俺が現実にいる安心感を与えてくれた。


「逃げましょう、逃げましょうこういち。ここに居ては危険です。あなたが死にます」

「は? なんで俺が死ぬんだよ」

「彼女はテロリストです。――あなたのような人を嫌っています」


 訳がわからない。俺のような人ってなんだ。聞きたくて俺が口を開く前に、バババの明瞭で芯の通った声が近くまでやってきていた。


「探しましたフラウ皇女。捕縛まではしばしそこの焚き火で暖を取っていてくださいませ」


 そう恭しく膝をついたバババは、視線の標的を俺に変えた。


「ねえ幸一くん。そのバッドは何? フラウ皇女とどういう関係? なんでここにいるの?」


 そして、ナイフを俺に突きつけた。


「ちょ、ちょっと待てよバババ」

「バババって何」

「え、絵尾さん。え、と。このバッドはストレス発散用で、この皇女――皇女?」


 皇女ってなんだっけ。王の娘のことだよな。この得体の知れないガキのことだよな。

 風が、吹き込んだ。海に波を立てるほど強い風が、浚うように黒髪を持ち上げた。


「・・・・・・そう。おかしいと思ってたんだ。幸一くん、あんな法律が成立した後に来たから。家族をこの国に探しに来た。そう、ずっと信じてた。残念だな」


 潤んだ瞳が、切っ先を俺に向けたナイフに反射した。


「あなたみたいな奴のせいで人がいなくなるの。だから、殺すね」


 俺は、他人事のように見ていることしかできなかった。

 バババの言葉の後に振りかぶられた腕の動きさえ、俺はまだ、何か演劇の途中のような気がしていた。


「あぶない!」


 一.五倍になった体重で尻餅をつく。

 

 ナイフによる痛みはなかった。膝の上には少女が乗っかっている。


「怪我、ないですか?」

「ああ・・・・・・お前は?」


 すんなりと俺の口から出てきた心配の言葉を揶揄することもなく、少女は笑顔を浮かべた。


「ないようです。さ、逃げましょうか」

「私は、逃がしてあげるなんて一言も言っていないはずだけれど」


 見上げた先、踏み込めば間合いなんてなくなってしまう距離にいる彼女は、無表情だった。恐怖も愉悦も、その顔には見られない。淡々と仕事をこなすロボットのようだ。

 どこかで見たことがある。


「絵尾さん・・・・・・どうしてテロリストなんて」

「その理由を聞かせた幸一くんは、人を生き返らせるような奇跡が起こせるのかな?」


 バババが服の内側から針のようなものを取り出す。裁縫で使うようなちゃちなもんじゃない。人を易々と貫通できる大きさの銀色の杭だった。


 手で掴んだ砂を、バババの目を目掛けて投げつける。


「くそっ、これでも喰らっとけ! 逃げるぞこら」

「きゃあっ。ま、待ちやがれ!」

「あ、痛いですこういちさん」


 少女を抱えて、俺は近くの建物に飛び込んだ。


  ――――


 裏口を蹴破って立ち並ぶビルの路地を駆け抜ける。野良猫は人の居ない場所に住み着いたようで、その住処を申し訳なくも荒らしていく。ゴミ箱を蹴飛ばしたり遠くのガラスを割って、俺たちの居場所を特定されないようにビル街の中を走り回る。


「何故この場所から逃げないのですか?」

「一軒家の多い住宅街だと、マンションの上から一望されてすぐにバレちまうだろ。それよりかは、高層ビルばかりのここの方が見通しが悪いからだよ」


 もっとも、バババの猿みたいな身のこなしを考えれば立石に水だろう。早いところ、定時には酒屋にいる警察官のもとに駆け込んだほうがいいかもしれない。


「警察は、無理です。こういちはともかく、私を匿ってはくれないでしょう」


 なんでこいつ俺のこと呼び捨てなんだ。子どもだから許すけれど、ただの年下ならこの場でぶん殴ってる。

 こいつは出生と環境が特別だったのだと自分に言い聞かせる。


「さっきの、皇女って話か」


 抱きかかえた少女の体が硬くなる。身を縮こめたせいで危うく腕からすり抜けそうだった。


「寒いのか?」

「寒くはありません。ですが、少し疲れてしまいました」

「休むか」

「・・・・・・優しいのですね」


 抜けようとしていたビルの中で立ち止まる。振り返ってみたが、バババの姿は見えなかった。月明かりだけが頼りなので心もとないが、贅沢はいえない。

 階段を上って、適当な一室のドアを開ける。どこにも抜け出すことのできなかった埃が、まるで凱旋公演のアーティストを迎えるみたいに騒ぎ出した。


「げほっ、げほっ」

「けほぇ、こ、ここは、使われなくなって久しいのですね。窓は開けられませんがここにしましょう」


 嫌だった。温室育ちでハウスダストにアレルギー持ちって訳じゃないが、こんな靴裏が白くなるような埃まみれの場所に居たくはなかった。それが顔に出ていたのだろう、少女が手を口に添えて笑った。


「長居するわけではありません。ほんの数分ですから、我慢してください」


 少女がどっかりと座る。その空気の流動で小柄な少女は局所的な霧に包まれたが動じずに座り続けた。堰するぐらいなら別の部屋を探せばいいのに。でもどこも同じようなもんだろう。

 諦めて、俺もマシそうな場所を探して腰を下ろした。

 

 何もせずに数分が経った。数度の呼吸に一度堰をするもんだから、体力の回復も覚束ない。

 そろそろ出たくなって、俺が身じろぎそわそわさせて少女にアピールしていたら、念は通じなかったようで、少女は落語家の如く居住まいを正した。


「私について、お知りになりたいですか?」

「大丈夫だ。プリンの蓋裏にこびりついたカスほどの興味もない」

「それでは話しません。話したくないことなのです」

「そうか」


 誰にだって話したくないことはあるだろう。俺にだってある。今は思い浮かばないが、他人に話そうと思うと躊躇するような話題のひとつやふたつあるだろう。ていうかもう帰りたい。なんで俺が命狙われてるんだよ。この子が追っかけられているんだろ。バババもテロリストらしいけど・・・・・・バババの姿、おっかなかったな。


「・・・・・・知りたくないのですか?」

「拍子抜けか? 身の上話がしたくてしょうがないとかなら聞くけど」

「だ、だってあなたもオルカの人間なら」

「愛着なんてないから」

 

 この国の名前だって覚えていなかった。今、オルカと言っていたか。

 知り合いだってバババしかいない。その関係性もさっき変容してしまったけど、元から仲がいいわけでもなかった。寧ろ、明日から近くのコンビニを使えないことのほうが重要だ。


「・・・・・・あなたは、変ですね」

「変人でも変態でもねえよ。小さなガキに欲情するような人間に見えるのかよ」


 少しずつ、いらいらしてきていた。黒い雪が積もるように、ならしたはずの平穏な地面がでこぼこと不安定になって、俺は手元のストレス解消剤を見た。けど、どこかに忘れたようだ。俺はバッドを持っていなかった。自室に十分な備蓄があるからいいけど、むかつく。それも要因となる。黒い雪は、踏めばゴリゴリと音が鳴るほどに積もっていた。


「見えません。ええ、人になんて見えませんとも」


 少女は、大仰に頭を振った。


「だって、あなたは人ではありませんから」

「なんだよそれ、どういう意味だよ」


 人を逆撫でるような目つきをした少女は、どうでもいいと言わんばかりに鼻で笑った。ガキは窓に近寄って、空を見上げた。人が死んで居なくなったことで星が見えるようになった夜空。振り返った目は、焦点をここではない場所に定めたみたく虚ろになっていた。


「言葉通りですよサツジンキさん。さて、準備ができました。ここで、国の皇女を殺してください」


 部屋の中心に立った彼女。舞った埃が渦のように彼女を取り巻く。彼女が生きて呼吸をする限り、この部屋の埃が停滞することはない。


「ここでは殺せない」

「どうしてですか!」

「よく見ろよ」


 少女が部屋の中を見渡す。この場所は会議室だったのだろう。長机が数台置けるスペースがある。しかし、この場にはイスの一脚すらなかった。もぬけの殻だ。きっと、撤退するときに誰かが徴収していったのだろう。掃除用のロッカーすらない、目に見えるのは埃と絨毯だけだ。


「・・・・・・? 絨毯を汚すのが嫌いなのですか?」

「何言ってんだお前」

「あなたこそ、何を仰っているのか理解ができません」


 腰に腕を立てた少女様は、誤魔化されているとでも思っているのだろう。目の前にいるのは皇女だ。きっと現実の問題に対して疎いのだ。

 俺は答えを告げた。


「お前を殺すための道具がない」


 ぽん、と手を打つ音が快活に鳴った。


「なるほど。それは申し訳ありません。バットを持っておられないのを見落としていました。ないものを気付く、というのは中々に難しいですね」


 年頃なのだろう、間違えというものが恥ずかしいようで、顔はうっすらと赤身を帯びていた。

 殴打するためにはバッドが必要だ。

 家に帰るにしても、さてここからどうやって家に帰ろうか。バババが追ってくる気配はない。ビル街を捜し回ってくれているうちに、ここから抜け出したいな。

 

 俺が脱出のルートを思い浮かべながら、腰を上げようとしたとき、


「では、これをお使いになってください」


 少女が汚れたワンピースの内側から、無骨なチャカを取り出した。


「・・・・・・これは?」

「P250です」

「・・・・・・これは?」

「拳銃ですよ。見たことないんですか?」


 二度、問いかけた俺を、宇宙人の言語はわかりませんみたいな不思議な瞳を通して見る。

 こいつ、イカれてる。

 おかしいのはお前だろう。


 差し出された黒い鉄砲を押し返す。


「どうしてですか? 扱い方がわかりませんか? セーフティは外してあるので引き金を引くだけえ――」

「人が死ぬんだろう」

「・・・・・・知ってるじゃないですか」


 ゆっくりと、少女の口許が歪む。安楽を噛み締めるように。


「弾は入っています。私を殺してください」


 懇願された。

 何を、こいつは何か勘違いをしているんだ。

 立ち上がって、銃をそいつの胸に返し、現実を知らないお嬢様にはっきりと告げた。


「銃で人を殺したら、そいつは人殺しだろ」

「・・・・・・? サツジンキさんなんですよね」

「そもそも、サツジンキってなんだよ。俺はただの高校生だし、名前は幸一だ」

「いえいえ、さっき路上で、人をバッドで、殴ってらっしゃいましたよね」

「殴ってたよ」

「殴られたかたは、死にましたよね」

「死んだよ」

「じゃああなたは人殺しじゃないですか」

「…………………………………………………………………あれ?」


 埃が器官に入ってむせた。

 咳き込んで、黒い雪が舞い上がる。

 雪の下には、十二分に均された道がある。

 人骨で出来上がった白い道。

 この道を造り上げたのは誰だ?

 知らない。

 知らない。知らない。違う!

 俺は人殺しなんかじゃない!

 少女の言葉は最後通牒。俺の中に血にように染み込んで来た。


「一時の欲を払拭するためにあなたがしたことを私は知っています。あなたは間違うことなき人殺しです」


 この国で俺は何をしてきた。


 朝遅くまで惰眠を貪っては、夕暮れまでモニターの前で時間を浪費して、夜は街のどこかで人を殴っていた。

 殺すまで。

 原型を失うまで。魂が零れ落ちるまで。シナリオの終幕まで。

 永遠と殴って殴って殴って殴って殴った。

 血が出て腕がもげて足が分離して皮膚が剥離するまで、俺の気分が空くまで。

 気持ちが空くから。


「ち、違う。こんな、俺がやってたのは、そう、バッティングセンターに通う、延長線上で。うそ、だ。だって、人殺しじゃ、そうだよ、だってこの国は法律で!」

「あなたの犯した行為を殺人と呼ばない。それはこの国でのみです。あなたは地球上のどこにいても責任を負わなければなりません。それと私は、人殺しを行うくぐつを人だとは思いません。人の器からあなたの魂は零れています。柵と茨が取り払われた獣です。だからこそ、私を殺すに相応しいのです。あなたはもう、ひとでなしです」


心臓にシールを貼られた、最低の気分だ。


「ひとでなし」


 少女が、呆れるように息を吐き出す。その力だけで、俺は倒れてしまいそうだった。

 けれど、倒れることを許してはくれない。少女は、俺に力を与える。

 無理矢理に、拳銃を握らされる。


「禅問答はもういいですか。それでは、私を撃ち殺してください。そしてその後、骨身が炭になるまで燃やしてください」


 両手を広げる。瞳はグレーで蓋をされている。

 彼女の心がどうあるのか。自分の心の在り処さえわからない俺にどうしてそんなことがわかるのか。


「・・・・・・お前、いらつくよ」

「ええ、そうでしょう」

「ころしたい」

「ええ、そうでしょう」

「もう、喋んじゃねえ! その汚い口から焼いてやる」

「あなたならできますよ」

「・・・・・・」

「・・・・・・」


 拳銃を、落とした。


「俺は、お前を殺せない」


 埃が、再び舞い上がった。


「あなたに殺してもらわないと。私は誰に殺されれば」

「バババに頼めよ」

「あの人は私を人質にするだけです」

 腰が、落ちた。

「自分で、死ねよ」

「・・・・・・怖いから頼んでいるんです」

「何が怖いんだよ」


 見上げた。少女は肩を抱いて、震えていた。


「死ぬことです」

「・・・・・・」

「私は、死んだらどうなるのでしょうか」

「そ、んなの」

「教えてください。あなたに殺された人は幽霊となってこの世にいましたか? 魂となって世界に溶け込むのでしょうか? 世界のどこかの葉っぱの一枚となって木陰になるだけの来世を送るのでしょうか? 手がないって、思考が反映されないって、どういう気持ちなのでしょう」

「俺が知るかよ!」


 そんな事。俺が知るわけないだろ。そんな事。俺に考えさせないでくれよ。

 こいつは何が言いたいんだよ。胸に手を当てて少女は、回答した。


「あなたが殺した人は今、どうしてるんでしょうね」

「うっせえ!」


 落ちたピストルの先を少女の心臓に突きつける。ピストルが震える。少女の体が震えているのだ。


「そんな、震えた手で私に銃を突きつけないでください。もし外したら、きっと痛いです」

「黙れ! 俺は震えてなんか」

「心臓より、もっといい場所があります」


 少女の手ががたがたと音を立てながら、ピストルの先を持って上に登っていく。首筋、紫の唇、大きくなった鼻、張力を失った瞳、脳のある額。


「もう思考するのはやめましょう。あなたも、私も」


 俺は、いつまでも引き金を引けなかった。


「・・・・・・俺は、人がいい」




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