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雨の日に傘を差さない理由

作者: 仁紀


「雨が降っているのに持ってる傘を差さないのって、どんな時だと思う?」


 ざわめきが絶えない場所に束の間訪れる、静寂。そこにいる全員が奇跡のように口を噤んだ僅かな隙間に、その言葉は妙にくっきりと響いた。若い女性の声だった。まるでスポットライトを浴びた女優が固唾を呑む観客の前で発した一声のように、私には聞こえた。


 雨が降っているのに持ってる傘を差さないのって、どんな時だと思う?


 さっきの静寂が嘘のように喧騒は再び辺りを覆い、彼女がどう続けたのか、あるいはそれにどう言葉が返されたのかは聞き取ることができなかった。週末の居酒屋は、酒に浮かれた人々の陽気な声がそこら中いっぱいに詰め込まれ、渾然一体となっている。


 私はグラスに口をつけながら、ぼんやりと考えた。

 彼女はここに来るまでの間に、そんな人を見たのだろうか。

 昼過ぎから降り始めた雨は、しとしととそれなりの雨量で降り続けている。朝から空は重く曇天が覆い、誰もが邪魔そうに傘を持っていた。ついに降り出した時には、持って出た傘が無駄にならなかったという喜びと、雨が降る憂鬱さを同時に感じたものだ。


「傘を差さない理由、ね」


 律子の言葉に、私は顔を上げた。

 あの言葉に興味を引かれたのは、私だけではなかったようだ。席を囲むメンバーは少しばかりお互いを伺い合うような目をした後、何となく共犯者めいた笑みを交わした。気になったよね? と、飛鳥が声をひそめて言い、全員が頷いた。


 午後六時に入店して、一時間あまりが経った今、机の上には空になった皿と少しずつ残った料理の皿が混在し、綺麗なままなのは来ることがない杏里のものだけだ。一年に一度の飲み会。近況を知らせ合うやり取りは一段落し、私たちはどこか交わすべき会話から目を逸らすように、話題を探していた。


「普通に考えたら、壊れていたとかかなあ」美青が唐揚げに齧りつきながら言った。

「でも、疑問に思ったってことは、パッと見そうは見えなかったってことだよね」


「ここに来る道中に見掛けたのかしら」

「じゃあ、駅から来たんじゃないんだろうね」

「ああ、そうね。それなら地下街とアーケードがあるから……少しくらい傘を差すのを惜しんだって不思議じゃないもの」


「持ってきた傘が女物だった、とかかな。奥さんとか娘さんの傘を間違えて持ってきちゃって、差すのが恥ずかしかった。どう?」

「傘のデザインって閉じていても大体分かるじゃない?」律子が首を傾げた。

「間違えるわけがない、ってことじゃなくて、それなら見た人もそう予想できる程度には分かると思うのよね」

「ここで持ち出すくらい不思議な光景だった、ってことだよね」

 私は律子の言葉を受けて言った。


 何となく脳裏には、壮年の立派なサラリーマンの姿が浮かんだ。仕立ての良さそうなスーツにコートを羽織った男性。彼は手に似合いの傘を持ちながら、雨に打たれている。男性かどうかは別にして、身なりの悪くない人だったんじゃないだろうか、という気がした。

 若い、カジュアルな格好の人であれば、雨に濡れていてもそれほど人目を引くような気がしない。きっとそんなことをしそうにない、見るからにおかしいと思わせるような人だったのだ。


「こりゃ『九マイルは遠すぎる』案件だね」

 ミステリ好きの美青は妙に嬉しそうだ。気持ちは分からなくもない。

「九マイルは遠すぎる。ましてや雨の中ならなおさらだ、だっけか」


「傘を差せない理由はちょっと思いついた」

 店員を呼び止めてビールを注文してから、飛鳥が言った。

「この前、うちの若手が肩の鍵板損傷ってのをやったんだけどね。知ってる? 鍵板損傷」

「プロ野球のピッチャーがたまになるやつでしょ」

「そうそう。あれ、運動してなくても、同じ姿勢をとり続けたりするとなるらしくて、その子はパソコンに向かってただけで急になったらしいんだけど。全然肩が上がらなくなるのよ。つまりその人は、日中肩をやった。で、傘が差せなかった」


「却下」

「えーなんで?」

 律子の冷たい言葉に、飛鳥は不満そうに新しく来たビールを煽った。


「どっちか片方の肩が上がらなくなっても逆の手で傘は差せるし。百歩譲って両方痛めたとしても、傘って肩に置けば腕が上がらなくても差せるじゃない」

「そりゃそうだ」

「結構いい案だと思ったんだけどなあ」


「広げなきゃ分からないところに、大きな穴でも空いてたんじゃないの」

「それだとつまらないじゃない」


「あ、これ美味しい」

 飛鳥がつまみ上げたのは、先ほど来たばかりのレンコンチップスだった。学生時代から変わらない、チープで、ジャンクな思い出の味。もうあれから随分長い時が経つのだと、感慨深い思いが胸を過ぎる。

 あの頃は、大人になればこんな安いばかりのチェーン居酒屋に足を運ぶことなどないと思っていた。その時だって、周りにはそれなりの歳の客がたくさんいたにも関わらず。


「濡れたかった、とか」

 私はポツリ、と言った。言ってから、言うつもりがなかったことに気づいて、焦りを覚えた。口にするつもりのない言葉というものはどうして、大人しく胸の内に留まっていてくれないのだろう。


「濡れたい、ねえ」

「濡れたい理由って何があるだろうね」

「クリーニング屋の店員さんに一目惚れして、常にクリーニングに服を出す機会を狙ってる、とか」

「何なのその、八百屋お七は」

「スーツ濡れたくらいでクリーニング出す?」

「よほどじゃないと、出さないなあ」


「明日がきっと、マラソン大会だったんだよ」

 美青がくすりと笑って言った。随分と顔が赤くなっている。昔から色の白い彼女は、飲むとすぐに赤くなった。酔っているわけではない。彼女はざるというよりもむしろ、わくだった。

「風邪を引きたくて引きたくて、仕方がなかったのよ」


「そういえば、そういう季節ね」

「大人になって何が嬉しかったって、もうマラソンをしなくてもいいってことだわ」

「杏里は、好きだったよね。マラソン、というか持久走」


 不意に、ポニーテールを風になびかせて走る杏里の姿が浮かんだ。長い手足が冷たい空気を切り裂き、飛ぶように走っていくその姿。私はいつも、痛み始めた脇腹を抱えて、彼女の後ろ姿を眺めたものだった。走っている時の杏里にはいつも、引き絞られた矢のような、しなやかな強さがあった。


 私たちは束の間の沈黙を噛み締めるように、お互いを見た。私にはその誰かが傘を差さなかった理由が何となく分かるような気がしたし、多分他の三人も同じことを考えているのだと、その眼差しに気づかされた。


 今日はそういう日なのだ。

 亡くした誰かを惜しむ日。


 真っ赤な頬にはち切れんばかりの若さを詰め込んでいた私たちはいい大人になり、でも少しも自分が大人になったような気にはなれず、ただ一人、あの時のまま時を止めた杏里に囚われ続けている。


 私たちは箍が外れたように、ぽつぽつと思い出を言葉少なに語り始めた。留めようとしても零れ落ちていく砂のように、私たちの中の杏里は少しずつ姿を失っている。それを少しでも取り戻すように、私たちは言葉を交わした。

 そのために、私たちはいつもここでテーブルを囲むのだ。何度も何度も、毎年同じ会話を繰り返すのだ。

 もはや杏里は私たちの記憶が作り上げた彼女でしかない。本当の彼女は、あの日に永遠に失われた。なのに私たちは、そこから前へ進むことができないでいる。


 やがて店を出ると、雨は綺麗に上がっていた。

 週末らしい喧騒ときらめきが、かつての悲劇を少しも気取らせない街を包んでいる。

 私は星の一つも見えない夜空を眺めた。他の三人も同じように見上げているだろうという確信があった。



 雨は涙を隠すために降る。

 だとすれば、いつか私たちも涙をたたえて雨に打たれることがあるのだろうか。

 彼女の死を受け止め、涙にかえることができるのだろうか。





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