第四十二話 赤壁炎上戦
一刀は馬車の中で仮眠を取っていた。昨晩、自ら志願して見張りをしていたので、無理もない事だ。
静かに寝息を立てる一刀…彼は夢を見ていた。
【一刀】
『…あれは…』
夢の中、彼の前には蒼馬が立っていた。鬼気迫る表情でこちらを睨みつけている蒼馬…いや、睨みつけている相手は、一刀の前にいた…。
二本の刀を手に、焦点の定まらない目で辺りを見回している…彼自身だ。
【一刀】
『そうか…これは、あの時の…』
そう、この夢は…一刀が初めて蒼馬と剣を交えた時の記憶だ。それを何故か、第三者の目線で見ているのである。
変な夢もあるものだと思い見つめていると、戦闘が始まった…暴走し、力任せに暴れまくる一刀に、蒼馬も必死に応戦している。が、一刀に詰め寄った蒼馬は、逆に彼の斬撃を防げずに負傷する…
【一刀】
『蒼馬さん!』
思わず声を上げたが、そもそもこれから本当に殺し合う相手の心配をしてしまうあたり、やはり彼はお人好しのようだ。
【一刀】
『…この時は…本当に悪い事をしたな……若かりし日の過ちってやつか…』
今も十分に若いと思うが?
と、その時…蒼馬は扇子を広げ、一刀めがけ思いきり扇いだ。すると、一刀の体は竜巻に飲み込まれて宙を舞った。
【一刀】
「っ!?」
それを見た一刀は、思わず飛び起きた。
【一刀】
「夢?いや、違う…あれは間違いなく、あの時の光景だった…や、ヤバいぞ!くっ!」
一刀は大慌てで、馬車の戸を開けて飛び出した。
【兵士A】
「わっ!ほ、北郷様!?」
【一刀】
「ごめん、大丈夫か?おい、皆!」
一刀の声に、蜀軍が止まる。
【一刀】
「急いでくれ!呉の皆が危ない!」
日の傾きを見て、一刀はさらに表情を険しくする…少しの仮眠のつもりが、だいぶ寝ていたらしく、日はとうに西に傾き、空は茜色に染まり始めている。
仮眠を取る前に、呉から伝令が届いていた。今夜か明日にでも、魏軍に総攻撃をかけると。策の内容は秘密保持の為に明言されていなかったが、聞かなくても一刀には分かっていた。今の今まで、彼もその作戦が成功すると信じていた。しかし…
【一刀】
「止めなきゃ…悪い!俺は先に行く!」
【翠】
「お、おい!ご主人様!どういう事だよ!?」
【一刀】
「説明してるヒマは無い!早くしないと、間に合わなくなる!」
一刀は星の太刀を抜き放ち、一振りで星降りの御魂に変化させて、一気に軍の中を駆け抜けた。
【翠】
「うおっ!?」
【桔梗】
「なんと!?」
一瞬にして姿の見えなくなった一刀に、翠たちも驚きを隠せない。雪蓮と戦った時よりさらに、そのスピードは上がっていた。
【一刀】
「頼む!間に合ってくれ!」
しかし、どんなに急いだって、時間が止まってくれるわけではない。刻一刻と沈み行く太陽…冷え始める空気…無情にも、風向きは変わろうとしていた。
とっぷりと日が沈み、暗闇に支配された長江の上…魏の船団の前線部に、祭と工作兵たちがいた。
【祭】
「……来たぞ。風向きが変わった。決行じゃ…火を放て!」
工作兵たちにより、魏の船に火の手が上がった。魏の船に火の手が上がった。夜の赤壁が、赤々と照らされてゆく。
【祭】
「曹操め、孫呉に牙を剥いた事、後悔するがいい。」
それを見ていた呉軍も、すぐさま行動を開始した。
【雪蓮】
「全軍、出陣!」
機動力に長けた呉の水軍が、見る間に魏の船団へ近づいてゆく。今や呉の方が風上だ、火の手が移る心配はない。昼間は使わなかった火矢も準備され、歴史通り呉の大勝は約束された…かに思われた。
ヒュオオオオ…
【祭】
「ん?何じゃ?」
それまで、魏の大船団の後方へと飛んでいた火の粉が…何故か祭たちのいる前方の船へ、呉軍側へと飛び始めた。さらに…
ガコンッ ドボーンッ
大きな水音と共に、魏の船団を繋いでいた鎖が川へと落ちた。一つや二つではない。殆どの船を繋いでいた鎖が外され、手足を繋がれていた魏の大船団は自由の身となったのである。
【祭】
「バカな!?これは一体!?」
それだけではない…火に包まれた船は、どうやら碇まで外されたようで、今や火の海と化したそれらの船だけが、風に乗り呉軍の船団へ突っ込み始めたのだ。
風向きが、何故かまた魏の追い風となっていたのだ。
【華琳】
「さすがね、真桜。指一本で鎖を外す仕掛け、見事だわ。」
【真桜】
「苦労したで~。隊長に言われて大急ぎで作ったわいいけど…ちゃんと出来てるか実験も出来ひんかったし、不安やったんやけど…上手くいったみたいやな。」
どうやら蒼馬は、真桜にワンタッチで外れる仕組みの鎖を作らせたようだ。
しかし、風向きまではからくりじゃ変えられない…何をしたのか?
【蒼馬】
「さぁ、死の風を吹かそうかね~。」
蒼馬はそう言うと、蒼天竜の鱗で作ったあの扇子を一扇ぎした。すると、一段と強い風が吹き、燃えていた船の速度が上がる…そして、火の手も強くなり、火の粉が呉軍の船に舞い散り始める。
【雪蓮】
「どうなってるの!?何で風向きが…」
蒼天竜とは、天候を操る力を持っている。その鱗で作った蒼天竜扇なら、風向きを変えるぐらい、造作もない事だった。
【冥琳】
「撤退!撤退しろ!」
【雪蓮】
「祭ぃっ!」
撤退を開始する呉軍の船…しかし、
【蒼馬】
「逃がさないよぉ。」
扇子を畳み、蒼馬は軽く手を振り上げた。
同時に、呉軍に最も接近していた船の炎が、大きく渦を巻いて立ち上り、まるで意志を持つかのように呉軍の船に突っ込んできた。
【呉軍兵士A】
「うわああっ!」
一瞬にして、呉の船は火の手に包まれ、火に巻かれた兵士たちは絶叫しながら川に飛び込んだ。
【亞莎】
「な、何が起きたんですか!?」
【雪蓮】
「くっ!死神…」
【一刀】
「くっそ!すっかり夜かよ!」
ようやっと、一刀は赤壁へと到着した。しかし、もうすっかり日も沈み、辺りは真っ暗になっていた。
【一刀】
「ん?明かりが…まさか!」
川が、茜色に染まっている…もう日は沈んでいるというのにだ。それが意味するところは、他でもない。
【一刀】
「くそっ!間に合わなかったか!」
川岸に立った一刀…その前方では、彼が予想した最悪の事態が、現実になっていた。
【一刀】
「…嘘だろ…何だよ、あれ?」
否、想像より、遥かに悪い結果だった。
【呉軍兵士B】
「ぎゃあああっ!」
【呉軍兵士C】
「た、助けてくれぇっ!」
呉の水軍は、全て火に包まれ…無事な船は何処にも見当たらなかった。
火に巻かれる兵士たちの叫び声は、夜の闇をつんざくように響き渡り、一刀の耳にも聞こえた。
何より…
【呉軍兵士D】
「な、何なんだ!?この火h…ぎゃあああっ!」
渦を巻く炎が、まるで意志を持つかのように兵士たちを襲っている…逃げ惑う兵士たちを、逃がすまいと取り囲み、逃げ場を失った兵士を舐め上げるようにして火に包み、飲み込んでいく…まるで、悪魔のように。
【一刀】
「あ、あぁ…くっ!くっそぉぉーーーっ!」
一刀は跳んだ。今さらどうする事も出来ないが、そんな思考が働くより前に彼は飛び出していた。
無論、一足で船まで飛べるわけもなく、空中で失速を始める一刀の体…そこで一刀は、無我夢中で足に力を込め、空を蹴った。すると再び、体が加速し浮き上がるのを感じた。
【一刀】
「うおおおおっ!」
船まで到達した一刀は、今まさに炎に飲まれそうになっている兵士を見つけ、彼を取り囲んでいる炎を一刀両断した。
【呉軍兵士E】
「ひっ!あ、アンタは…」
【一刀】
「遅くなった…雪蓮は?」
【呉軍兵士E】
「孫策様たちは、向こうの船だ…」
兵士が指差した方の船を見ると、雪蓮が剣を手に炎と格闘しているのが見えた。
【一刀】
「大丈夫そうだな。」
一刀は先の一太刀で、この炎が気か何かで操られたものだと悟ったようだ。おそらく、雪蓮も気づいている。気をもって斬れば、斬る事が出来ると。
【一刀】
「この船の他の兵士は?」
【呉軍兵士E】
「わからねぇ…皆、焼かれたか、運よく川に逃げ込んだか……」
【一刀】
「そうか…っ!」
背後から、また操られた炎が一刀に襲い掛かった。それをギリギリ斬り払い、難を逃れた一刀。
【一刀】
「あんたも逃げろ!俺は他の船を回る。」
そう言って、一刀は次の船に飛び移った。
【一刀】
「誰かいるか!いたら返事しろ!」
【蓮華】
「北郷?」
その船には、蓮華と思春が乗っていた。他にも、数人の兵士が生存しているようだ。
しかし、思春は腕に火傷を負い、これ以上は戦えそうにない。
【一刀】
「孫権!甘寧!うわっ!?」
駆け寄ろうとした所、行く手を遮るように火が走り、そのまま帆柱に直撃した。折れた帆柱が、蓮華の方へ傾いていく。
【一刀】
「危ないっ!」
【思春】
「蓮華様!くっ!」
ケガをしている思春は、動きが半瞬遅れてしまった。このままでは…
【蓮華】
「きゃあああっ!」
間に合わない。そう思った刹那、一刀が蓮華の体を抱きしめそのままその場から離れた。
【蓮華】
「え?ほ、北郷?」
【一刀】
「大丈夫か、孫権?」
【蓮華】
「え、えぇ…」
とりあえずケガは無かったが、心の方は重傷…いや重症だった。
【一刀】
「皆、急いで逃げろ…避難用の船とか無いのか?」
【思春】
「ダメだ…真っ先に燃やされてしまって、一つも残っていない。」
【一刀】
「…皆泳いで逃げろってか?無茶苦茶だな…待てよ?」
一刀は、気で操られている炎を見て、ふとある考えが浮かんだ。それは…
【蓮華】
「え、北郷!?」
一刀は勢いよく川に飛び込んだ。
【一刀】
「ぷはっ!気であんな事が出来るんなら…同じように、」
一刀は気を刀に集め始める…
【一刀】
「水だって操れる…ハズ!」
その気で、長江の水を絡め取るようなイメージをする…そして、一気に刀を空めがけ振り上げる。
【一刀】
「いっけぇっ!」
すると、一刀の気で巻き上げられた水が巨大な水柱となって天へ昇った。
【蒼馬】
「…あれは…おやおや、とんでもない天才がここにもいたねぇ~。」
それを見ていた蒼馬は、扇子を振っていた手を止める。
同時に、天に昇った大量の水が弾けて、呉の船団全体に土砂降りの雨となって降り注ぐ。蒼馬のコントロールを失ったただの火の手が、あっという間に鎮火した。
【呉軍兵士E】
「おおっ!」
【呉軍兵士F】
「助かった…助かったんだ!」
【一刀】
「喜んでる暇があったら撤退しろ!俺が時間を稼ぐ!雪蓮!」
【雪蓮】
「今、寄せるわ!」
雪蓮が、船を一刀の元に向かわせる。しかし…
【一刀】
「俺の事はいい!岸に着いたら、そのまま蜀へ迎え!ウチの隊と合流できるはずだ!」
【雪蓮】
「だけど…」
【冥琳】
「雪蓮。北郷の言う通りにしよう。現状では、それが最善の手だ。」
【雪蓮】
「……分かったわ…死ぬんじゃないわよ、一刀!」
【一刀】
「あぁ。」
呉の船が、再び撤退を始める。
【華琳】
「ふふ、そう簡単に逃げられるとでも?」
追撃しようとする魏軍…だがそこへ、再び立ち上った水柱が今度は向きを変えて落ちてきた。
【華琳】
「なっ!?」
【蒼馬】
「危ないねぇ~。」
あわや直撃、という所で、蒼馬が扇子を扇いで突風を巻き起こし水柱を相殺した。
【蒼馬】
「やってくれるね~。天の御遣い。」
【一刀】
「……」
水面から顔だけ出して、蒼馬の方を睨む一刀…魏の追撃を、本当に一人で止めるつもりらしい。つもりというか、今の彼ならそれが出来るだろう。蒼馬の技を、見様見真似で体得した彼なら。
【蒼馬】
「……華琳、おじさんは疲れたよぉ~。」
【華琳】
「蒼馬…分かったわ、休んで頂戴。」
華琳は追撃を諦め、一先ず自分たちも一度撤退する事にした。それを見届け、ようやっと一刀は岸へ向かって泳ぎ始めた。
【一刀】
「あれ?意外と遠い…」
…思っていたよりかなり距離があったようだ…。
結局、彼が岸にたどり着いたのは、夜が明けた頃だった。
【一刀】
「…はぁ…はぁ…はぁ……雪蓮たちは、指示どおり行ったみたいだな。」
疲労困憊の一刀は、濡れた服もそのままにその場に大の字になって倒れた。見上げた空は、東の方から徐々に青く澄んでいく…。
【一刀】
「…赤壁の戦いで、呉が敗走…俺が知る歴史とは随分変わっちまったな。」
一刀の指示した通り、呉軍はすでに発ったようだ。どの程度生き残っていたのか…あの惨状では、それほど多くはないだろう。一刀の胸を、悔しさと虚しさが締め付ける。
【一刀】
「くそ…畜生っ!何で…何で、もっと早く……」
力一杯、握り拳を地面に叩きつける一刀…溢れる涙を、痛みのせいにするかのように…
【一刀】
「チクショオオォォォッ!」
無力感に苛まれ、泣き叫ぶ一刀…力を手に入れ、守る決意と覚悟を決め、もう立ち止まる事はないと思っていたのに、それでも涙は溢れた。
そんな彼を、後ろから誰かが優しく抱きしめた。
【蓮華】
「北郷…」
【一刀】
「……孫、権?」
【蓮華】
「ありがとう…」
【一刀】
「礼なんて…俺は…間に合わなかった。もっと早く、蒼馬さんの…蒼馬の能力を、思い出してさえいれば……」
蓮華は、一刀を抱きしめたまま首を振った。
【蓮華】
「貴方が来てくれなかったら、私たちは全滅していたわ…私も、ここにいなかった。貴方は自分のせいで、兵たちが命を落としたと思っているのかもしれないけど…貴方がいたから、半数以上の兵士が助かったのよ。それは、礼を述べるに値しない事?」
撤退する呉軍の中、蓮華は一人で一刀が来るのを待っていたのだ。一刀が無事に、魏の追撃を躱し帰還すると信じて…同時に、こうして彼が兵の死に涙する事も分かっていた。だから、思春にも無理を言って自分だけが残ったのである。
【一刀】
「……っ。行こう…魏もそろそろ動くはずだ。」
涙を拭き、立ち上がった一刀は、蓮華に向き直ると頭を下げた。
【一刀】
「ありがとう。」
【蓮華】
「そんな、お礼なんて…助けてもらったのはこっちなのに…」
【一刀】
「立ち止まりそうになっていた、俺の心を救ってくれた…それは、礼を述べるに値しない事か?」
一刀はそう言うと、先に歩いて行ってしまった。
【蓮華】
『…値しないわよ…あわよくば、貴方に取り入ろうとか…妾の一人にでもなれたらとか……そんな狡い事、考えてたんだから…』
【一刀】
「どうした、孫権?」
【蓮華】
「……蓮華よ。」
【一刀】
「?」
【蓮華】
「私の真名…貴方に預けるわ。」
【一刀】
「あ、あぁ。ありがとう。なら、俺も一刀でいい。」
【蓮華】
「ん…か、一刀…」
名を呼ぶだけで、顔から火が出そうになる蓮華…真名を預けた事を、少し後悔した。
【一刀】
「魏の船が動き出したな。急ぐぞ、蓮華。」
【蓮華】
「っ!」
ボフッ
【一刀】
「うわっ!?」
真名を呼ばれた蓮華は、一瞬で頭が沸騰し、気を失ってしまった…。後悔する暇も無かった。
【一刀】
「お、おい!しっかりしろ!蓮華!蓮華!」
【蒼馬】
『やれやれ、若いっていいねぇ~。』
船上から一刀の様子を探っていた蒼馬には、蓮華とのやりとりが筒抜けだった。こそばゆい二人の様子に、一人で顔をニヤニヤさせる様は…気持ち悪かった。
【華琳】
「どうしたの、蒼馬?気持ち悪い顔して。」
【蒼馬】
「酷い!」
天下統一が近づくにつれ、華琳の蒼馬に対する物言いも的確さを増しているようだった。




