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運び込まれたのは、どれも立派なお城の調度品だった。
弟君が城内へ消えた後、ユーリたちはしばらく動けなくて、その場に固まっていた。でも、中に入っていろと言われたら、中に入らなくてはいけない。フィーとエマに小突かれて、ユーリが先頭になって書庫の戸を開けた。
書庫は紙と埃のにおいで満ちていた。
薄暗く、棚一杯に詰まった本が今にも崩れ落ちてきそうで気味が悪い。
弟君がこの一ヶ月ほど毎日この塔の中に籠もっていらっしゃることは知っていた。ユーリは塔の周辺の掃除を任されていたから、いつも弟君が中に入るところを見ていた。
しかし、この間は勢いで中に入ってしまったが、今考えるとなんとも恐ろしい。弟君に声を掛けられたときは、心臓が飛び出るかと思った。それが、こんなことになるなんて。
実際には10分も掛かっていなかったのだろうけれど。感覚的には数十分か数時間かして扉が開き、数人の男たちがテーブルと椅子を運び込んできた。男たちは書庫内に立ち尽くした場違いな少女たちに一瞥をくれ、怪訝そうな顔をする。ユーリたちは思わず顔を隠した。お願いだから声を掛けないで。目をつけられたらどうしよう。
びくびくしていると、弟君が戻ってきた。用を終えた男たちは出て行く。書庫の真ん中に、テーブルと椅子が設置された。
弟君は、手にいろいろなものを持っていた。
白紙の束と、ペンと、インク壺と、ランプ。
ランプの中には小さな白い光の玉が入っていた。弟君がテーブルの上に置くと、室内が途端に昼のように明るくなった。
テーブルは10人くらい座れそうな大きなものなのに、用意された椅子は4脚だけだった。ペンとインク壺も4つずつ。弟君はそれぞれの椅子の前に、ペンとインク壺と紙を数枚置いていった。
「好きなところに座って。」
言われて初めて、ユーリはそれら全てが自分たちのために用意された物だと知った。
ユーリたち3人はずっと手を取り合って経緯を見守っていたが、そのまま体が固まってしまって、動けなくなっていた。だって、目の前にあるのは、お城を掃除しながら、いつか使ってみたいと夢見ていた物ばかりなのだ。テーブルも、椅子も、もちろんペンもインクも。紙までもがどことなく上品で、眩しく光って見える。
もちろんユーリの担当区域は城の端の端で、そこに置かれている調度品は、中枢部のもの比べたら格段に質素なものなのだろう。目の前にある物だって、きっと王様がご使用になっている物の足元にも及ばない品に違いない。
それでも、毎日掃除しながら、こんなところに腰掛けてみたら、私でもお姫様に見えるかしら、なんて妄想していたのに。まさか、現実になるなんて。
書架を物色していた弟君が、数冊の本を手に戻ってくる。
弟君は、まだ立ったままの少女たちを見て、少し呆れたようだった。
ああ、ダメ、ちゃんと動かなきゃ。そう思うのに、ユーリの足は震えるしか能のない棒になってしまって動かない。
どうしよう、私たちがダメだから呆れてるんだ。
辞して逃げ出そうとも思ったが、それも失礼かと思ったら声も出ない。
焦って視界が真っ白になろうとしたとき、目の前に手が差し伸べられた。
顔を上げると、それが弟君のものだと分かる。
え?これを、どうしろと?
まだユーリが動けないでいると、弟君の手が伸びてきて、ちょっと強引にユーリの手首を取った。
「緊張することは何もないだろ。」
ぼそりと弟君は言う。
その声が怒っているように聞こえて、ユーリは首をすくめた。が、怖いことは何も起こらなかった。
弟君は優しく手を引いて、ユーリを椅子の前まで連れて行くと、椅子を引き、ユーリをそこに座らせた。フィーとエマも、同じようにされてテーブルにつく。
ユーリはもう、何が何だか分からなくなった。顔が熱い。手の震えが止まらない。
弟君はテーブルに本を置く。
それからため息。
少し苛立ったように髪をかき上げる。
怒られる!
しかし、降ってきた声に怒気はなかった。
「頼むから、普通に接してくれ。」
え?
「でも・・・。」
あれ?
ユーリはちょっと不思議な錯覚を見た気がした。
髪を弄りながら、ちょっと困ったように眉を寄せている弟君は、普通の男の子のようだった。ユーリたちと歳の変わらない男の子。故郷の友達とも、城内で働く子たちとも、そう変わらない気がした。
「俺は別に偉くない。」
あれ?弟君なのに、「俺」なんて言うんだ。
弟君は、もう一度ため息をついた。
「自分の名前の綴りは分かる?」
3人は顔を見合わせる。ユーリが代表して首を振った。
弟君はまた困ったように頭を掻いたが、白紙の束から3枚を取り出し、インクでさらさらと何かを書いた。
「『ユーリ』、『フィー』、『エマ』。」
一枚ずつ渡されて、それが自分の名前だと分かる。
「ペンの持ち方は分かる?」
また首を振ると、弟君はユーリの傍らに回り、ペンを手に持たせてくれた。
まず、弟君のお手本をなぞってみる。それから、自分でも書く。やっているうちに段々集中できてきて、それと同時に緊張もほぐれてきた。何度目かに最後の「点」まできれいに書けて、ユーリはその紙を握りしめた。
「ジール様、これでどうでしょう!」
ユーリが差し出した紙を見て、弟君の表情が歪んだ。
そんなに下手だったか。
ユーリは一瞬落ち込んだが、問題はそこではなかったらしい。
「その、『様』っていうのやめてくれ。
偉いのは兄貴で、俺は『あれ』のただの弟だから。」
ジールはばつが悪そうに、視線をそらし気味に言った。
王様を「あれ」なんて言っていいんですか!
ユーリはびっくりして、エマとフィーを見た。2人とも同じように不思議そうな表情をしている。
王族とか、貴族とか、そんなものは誰しも偉そうにしていて当然だと思っていたのに。
でも、目の前の男の子は違うらしい。
「では・・・、ジール、先生?」
弟君はちょっと悩んで、仕方ないか、というように頷いた。ちょっとはにかんで。
わ、笑ったぁ!
頬が熱くなる。
それから弟君はユーリの字を見て、うん、と一つ頷いた。
「きれいだ。」
きれいだって言われちゃったぁ!!
いや、自分の容姿について言われたのではないのだけれど、うれしすぎてもう何が何だか分からない。
名前の練習の次は、文字の練習だ。
この国で使われている文字の数は、全部で36文字あるらしい。3人が名前の練習をしている間に弟君が3人分の手本を作ってくれていて、またなぞる練習から始める。
弟君は、3人が必死になぞっているのを見ながら、「俺のは悪筆だから、あんまり真似されると困るんだが。」とまた少し眉根にしわを寄せていた。どうやらその表情が癖らしい。そう気が付けるようになったということは、ユーリがだいぶ落ち着いてきた証拠といえた。
しかし、夢の時間は終わりが来るのも早かった。
弟君は天窓の日が翳ってきたのを見て、今日はもう帰るように言った。
こんなことなら、もたもたしないで早く来ておけばよかった。
使用人用の宿舎で同室のエマとフィーに、事情を話せたのは夕べのこと。そのときは、すぐに2人とも一緒に行くと言ってくれた。なのに朝になって3人揃って腰が引けて、午前中に仕事があったエマを待ちながら、フィーとユーリはそわそわと室内を歩き回っていた。エマが戻ってからも、服やらなにやらに気を揉んで、やっと書庫を訪ねたときには、弟君はティータイムでお留守で。
でも、こんなものよ。
自分に言い聞かせる。
弟君から直々に字を習うなんて、城で働くことが決まったときにすら妄想しなかった奇跡なのだから。奇跡は何度も続かない。何度も続いたら奇跡じゃない。
ただ、帰る前にもまた奇蹟は起きて、弟君は、ペンとインクと紙の束を持って行っていいと仰った。
うれしいけれど、とてもうれしいけれど、これで終わりなんだ。
ユーリは落胆する気持ちを抑え、最後に勇気を振り絞って弟君に話しかけた。
「ジール先生、今日は何もかもありがとうございました。
本当に夢みたいでした。
それで、その、これ、お返しします。」
ユーリは本を差し出した。
弟君に、初めて声を掛け、声を返されたときにお借りした本。これのおかげで、今日の奇跡が起こった。もう、十分だ。
しかし。
弟君の声は返ってこない。
何か粗相をしただろうか。さすがにちょっと不安に思い始めた頃、今日で一番不機嫌そうな声が返ってきた。
「もう読むのは諦めたのか?」
え。
「諦めてません!!」
反射的に答えてしまった。
何をやってるのよ私。理性が突っ込みを入れる。
「じゃあ、持ってていいよ。」
弟君はそう言った。
「それが読めるまでの約束だから。」
「えっ。でも、ええ?それって・・・。」
思わず心の声が漏れてしまう。
また時間が空いたときに来るといい。弟君はそう言った。