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それから毎週の休みに、3人は書庫を訪れるようになった。
2回目に訪れたときには、貴族の学校で使われているとかいう教科書が3人分用意されていて、その日からそれを使って勉強することになった。教科書の文字はきれいで、悪筆ってこういうことか、と思ってしまったことは口には出していない。
通い詰めるうちに、ユーリたちも段々慣れてきて、弟君と普通に会話ができるようになった。
3人はよく故郷の話をした。
弟君は本当にいろんなことに博識だったけれど、実は全て本で知った知識らしい。本を読めるってすごいことなんだ、と思うと同時に、ちょっと違和感を持った。
「城の外に出てみようとは思わないんですか?」
これは聞いてはいけないことだったのかもしれない。ユーリは、そう問いかけてしまったときの彼の表情を見て、胸を突き刺されたような気分になった。
弟君はそれ以上その話には触れず、こう言った。本にはいろいろなことが書いてあるけれど、実は肝心なことが抜けている。当たり前のことが書かれていない。だから、ユーリたちがどんな場所で、どういう暮らしをしていたのか知りたいのだと。
ユーリの家は家族が多くて、貧乏だったし、そんな話を王様の弟君にするのはものすごく恥ずかしかった。しかし、ジール先生は、どんな話をしてもバカにすることはなかった。いつも、何の話をしても興味津々で、ユーリが畑で転んで肥料を頭から被ってしまった話をしても、こらえきれずに笑ってしまったことを謝りながら聞いてくれた。
ジール先生のためなら何でも語ろうと思ったのだけれど、ユーリたちもそう遠出をした経験はなかったから、必然的に故郷の話ばかり続いた。それでも先生は、飽きたそぶりを見せることなく耳を傾けてくれた。
その日はエマとフィーが遅れていたので、ユーリは一足先に書庫に向かった。
別に抜け駆けするつもりはなかったのだけれど、ジール先生に早く会いたかったから。
いつものように先輩の目を盗んで宿舎を抜け出し、書庫に滑り込む。
書庫を訪れるといつも、ジール先生は奥の棚にもたれかかるようにして、なにやら難しそうな本に読みふけっていた。中に入って声を掛けると、ちょっと顔を上げ目配せをくれる。それから立ち上がって、ランプに掛けていたカバーを取る。明るいところで読んだ方が見やすいのではと聞いたことがあったが、明るすぎるのはあまり好きじゃないという答えが返ってきた。
しかしその日は、ジール先生は椅子に座り、机にもたれかかるようにして虚空を見ていた。ユーリが声を掛けると、びくりと体を震わせる。どこか様子がおかしかった。
「ジール先生?」
ユーリが近寄ろうとすると、先生はさっと左手を隠した。室内はまだ薄暗くて、しかも一瞬の出来事だったけれど、ユーリにはそれが見えていた。
慌てて駆け寄る。
「ジール先生!その手、どうなさったんですか!」
何でもないと隠そうとするのを、半ば強引に引き戻す。
「痛っ。」
その声で我に返り、ユーリはさっと手を離した。
ユーリが取った先生の左手には、ぞんざいに包帯が巻かれ、そこにさらに血がにじんでいた。
「何でもない。」
先生はぼそりと言う。
視線をそらして、まるでやましい隠し事をしているときの弟妹たちみたいだ。
これでも7人姉弟の長女だ。ユーリの中でお姉さんスイッチに火がついた。
「何でもないことないわ!何があったの!」
先生は驚いたように目を見開いた。
ユーリ自身も、あまりに横柄な物言いをしてしまったことに自分で驚いた。
一瞬居心地の悪い間が空く。
しかし先生はユーリを咎めることなく、やっぱり叱られたときの弟妹たちと同じように、どこか不服そうにぼそりと付け加えた。
「兄貴と、ちょっと喧嘩しただけだ。」
えっ。兄貴って、王様と?!
ユーリは言葉を失った。
王様も兄弟げんかするの?!ジール先生と?!しかも、流血沙汰?!
「いつものことだから。」
いつものこと?!
何かパニックになってしまって口をぱくぱくさせていると、先生はまた左手を隠してしまった。
「今日は、エマとフィーは?」
あ。
慌てて取り繕う。
「えっと、すぐに来ると思います。」
「そう。」
先生は立ち上がって書架の方へ歩いて行く。
隠した左手が痛々しくて、せめて包帯を巻き直して差し上げたかったのに。ユーリは何も言葉を継げなかった。
戻ってきたジール先生は、本を一冊持っていた。
これを、と差し出される。
ユーリは首をかしげながら受け取った。
「ちょっと難しいけど、もうそれくらい読めるかと思って。
創世記の話だから、中身は知ってると思う。」
「創世記って、最初の4人の天使様のお話ですか?」
ジール先生は頷く。
最初の4人の天使とは、神がこの世界をお造りになったときに、最初に世界に降り立った4人の天使様のことだ。銀白のレフロ、漆黒のアルダロッダ、彩虹のサラー、透徹のシエルド。このうちレフロとアルダロッダの2人が、今の白の国と黒の国をお造りになったのであり、白の天使と黒の天使の祖であり、最初の白の王と黒の王だ。
この話は、寝物語に、何度もおばあちゃんから聞かされて、弟妹たちにも何度も話して、もうほとんど諳んじられるようになっていた。
本を開いてみると、確かに今使っている教科書より文字も多く、文も長かった。でも、ぎっしり詰まった文字列を見ても気後れはしない。ジール先生にお借りした本をいつも眺めている成果だろう。(もっとも、そっちは未だにほとんど読めていないけれど。)それに、この本には挿絵がいっぱいあって、それはどれも覚えのある場面ばかりだった。これなら、何とかすれば読めそうだ。
「ドラゴンとかも出てくるし、そういう話が好きなのかと思って。」
それってもしかして、ジール先生は最初に本を借りた日の会話を気に掛けてくださっていたのだろうか。あのときはただ、あこがれの弟君に渡されたから読んでみたいと思っただけだった。中身なんてどうでもよかったのだけれど。
「でも、前の本もお返しできてないのに。」
ユーリが言うと、先生はちょっと目を逸らして、気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「・・・やる。」
「え?」
「その絵本は、この書庫のじゃないから。返さなくていい。」
それって。
「それって、この本を私に下さるということですか?」
恐る恐る尋ねる。ジール先生はこくりと頷き、期待は現実になった。
ユーリは絵本を胸に抱きしめた。
「ありがとうございます、ジール先生!!
実は、今日はもう一つお礼を言いに来たんです!!
人づてに知らせが来て、私の故郷にも学校ができたって聞いたんです!うちの弟妹たちもそこに通えるようになったって。
もう、何もかもジール先生のおかげです。本当にありがとうございます!」
ジールは驚いたように目を瞬いていたが、そっちは俺の功績じゃないから、とまたはにかんだ笑みを見せた。
それでも、全部ジール先生のおかげな気がするんです。
ユーリはまた絵本を抱きしめる。
と、ノック音がした。
きっとエマとフィーだ。
「私が出ます!」
ユーリはジール先生の返事も待たずに駆け出した。一気に階段を上り、戸を開ける。
そこには、ひどく暗い表情をした2人が立っていた。




