きよらかな音
蝉がうるさい。小型扇風機とうちわでは暑さなどしのげるはずもなく、いまにも崩れそうなボロ学生寮の共同水道場で頭を洗っていた。全開にされた栓が水を勢いよく髪から顔へと巡らし、ほてりを連れ去っていく。
「朱里」
耳元を滝の音に似た心地よさがかけていく。頭部を冷やしただけで、体全体が涼しさを感じだす。
「朱里」
水の幻想にひたっていると、ぐぃっと肩をつかまれ、無理矢理うしろを振り向かされた。
「なんだ」
突然の出来事におもわずあらげた声に寒々しいほど抑揚のかけた言葉が返る。
「浩司が亡くなった」
日差しの強い真昼。額に汗ひとつ浮かべず、喪服をまとった和服美女がまぶたをふせた。まるで黙祷を捧げるようなしぐさに慌てて腕を払う。
「なにしてんだ、和也」
髪から滴がふりまかれたせいだ。
無気力な和也の頬を流れるものにきづいて、言い訳する。
「悪い。きこえなかった」
「浩司が亡くなった」
聞き間違いなどではない。はっきりと血のけがひいていくのを感じる。汗をおとしたばかりだというのに、新たに生温かい水滴が流れ出す。
コウジガナクナッタ。
黙っていても、鳴りやまない擦れ合う羽音の旋律が何回も繰り返される。
コウジが…なくなった。 浩司がなくなった。
浩司が亡くなった。
そら耳だ。
首をふり、止め忘れていた水流の中に頭をつっこんだ。
何もきこえない。きいていない。
残響をかき消そうと蛇口をひねるが、それ以上動かない。手に力をいれ、再度試すがびくともしない。激流が渦を巻いて、排水口へ消えていく。だが、刻まれた言葉は消せない。
ウソだ。
朱里がはっした音は流れ去るのに、どうして和也のはっする音はとどまるのだろう。
ぽたぽたとコンクリート床に染みが広がる。ゆっくりと半笑いを浮かばせながら、和也を見据える。 また水に飲み込まれてしまうとしても、訊かずにはいられなかった。
「嘘だろ」
「昨日のことだ」
朱里の顔も見ず、和也は蛇口を閉めた。
「自宅近くで倒れていたそうだ」
医者がふじの病を告知するときも、患者と目を合わすことができないのだろうか。それとも、重要なことだから目を合わせるのだろうか。
「誰も最期を知らない」
かすかにゆれた瞳から逃れることはできなかった。周波数が固定され、体は抑揚のない声しか受信できないラジオと化していた。
「警察から身元確認の要請を受け、行ってきた。父の話によれば、死因は転落。遺書はなかったが、事件性もみあたらない。事故説も考えにくいそうだ」
和也の父親は刑事だ。
浩司に家族はいない。遠縁の叔母がいるとか、いないとか、詳しいことは友人達にもわからないが、引き取り手がみあたらなかったことぐらいは見当がつく。
死を伝えるべき親族がいない。
警察は大変困ったことだろう。だが、警察内部に知り合いをみつけた。それが和也の父親。
浩司は何回も自宅に遊びにきた娘の友人だ。事情を知ったからには当然のごとく、浩司を引き取っただろう。
案外すんなりと事情をのみ込んでいる。 淡々と和也が報告することひとつ、ひとつが当たり前のように浸透していく。
朱里の中で流れは自然とつくられていた。
「浩司にあって、確かめるか」
和也が不意に流れを濁らした。
なにを。
口はひらいたものの届けることができなかった。喉のあたりで塞き止められた言葉が一つのかたまりとなり、声をふさぐ。それを飲み下そうとするが、受け入れられない。
「い、い…」
いい。
隙間からわずかにそれだけ押し出した。
イヤダ。
共にこぼれだそうとするものをとっさに押さえ込むため、きつくまぶたをとじた。
「そうか。無理を強いるつもりはない」
和也の声が徐々に遠のいていく、視界の中で鮮明だった姿が記憶の中でぼやけだす。ぶれた音声と映像。何らかのノイズが和也の存在と現実を揉み消そうと感覚を遮断していく。
この前会ったばかりだろ浩司。