2 馬鹿なひと
大きな桃色の飴玉を口の中で転がしながら、僕は真っ暗な道を歩いていた。
モモの味が口の中で動き回って、くすぐったい気分になる。道端でこけた少年を助けたらくれた飴玉だった。
あの男の子がはじめに差し出してきた赤色の飴玉を、僕は受け取ることができなかった。毒々しいまでの赤、きっとイチゴ味のそれが、母親の唇の色と酷似していたからだ。そして次に差し出してきた桃色の飴玉を、僕は精一杯のお礼の言葉とともに受け取った。
ミカさんの家にいこう。僕は方向をかえて歩き出した。
僕がミカさんに出会ったのはある日の偶然だった。
その日も、僕は行くあてがなかった。
その日、ミカさんは愛している人に裏切られた気持ちでぐちゃぐちゃだった。
僕らはお互いの心をうめるために、手を取り合った。いや、この言い方だと聞くひとに弊害があるかもしれない。僕は、心というより、ただ、気持ちよく眠れる場所を求めていただけだった。父親が死んでから、母親が時々家に男を連れ込むようになったせいで、家に帰れない日々が続くことが多かったのだ。
転がり込んだ莫大な財産と、まだ若々しく、美しさを兼ね備えた母親は、男には僕はいないものとみなして接しているようだったから。
それから僕は、家に帰れない時間をミカさんの家で過ごすようになった。僕とミカさんは、同じ家に二人きりでいるときもあまり喋らなかった。それでも、ミカさんは恋をしている相手の話題になったときだけは、お酒を飲んだ時よりも饒舌になった。
相手は十歳年上の、会社の上司だといった。
妻子持ちのひとで、不倫愛なの。ミカさんは何度もそう語った。
ミカさんは不倫という言葉を口にするとき、まるでこの世の終わりのような顔をした。
いつか別れてくれると思ってた、彼も別れると言ってくれたもの。でもね、心のどこかではそれが嘘だろうってこと知ってた。知ってたけど、それを口にしたら私は捨てられてしまうかもしれないと思ったら、どうしても言えなかった。けれどこの前彼が、私に、妻と別れる気はないって、はっきりそういったの。私、ずっと我慢してたのに、あっさりそういわれちゃって、自分が、馬鹿みたいで。
一息でそういったミカさんは目を伏せた。それで僕を誘ったの、僕は聞いた。聞いたというより断定に近かったけれど。ごめんね、こんな理由で、ミカさんは謝った。全く悪いとは思っていない声だった。
馬鹿なひと、僕は心の中でつぶやいた。ミカさんに、不倫という言葉は無縁のように見えた。僕とひとまわりほど違うのに、僕よりもずっとこどもだった。不倫という言葉をつむぐピンク色の唇は、言葉にひどく不釣合いだった。けれど彼女の、彼を思うときの熱を帯びた目だけは、おとなを感じさせた。
そうして、この不思議な関係は一年ほど続いていた。
二人の夜ご飯は外食が主で、ときどき家で食べた。ミカさんは壊滅的に料理が下手で、作るとしたら僕が作っていたのだけれど、ミカさんはそれが嫌なようで手伝おうと何度も台所に来て、失敗をしては僕に笑われながら叱られていた。
僕はミカさんに聞いた、どうしてそんなにも手伝おうとするの、適材適所って知ってるの、半分冗談だった。
ミカさんは答えた、女と大人のプライドがあるの。
フライパンの中身をぶちまけて片付けるためにしゃがんでいたミカさんは、潤んだ目で僕をみた。悔しさの沢山詰まった涙が、大きな瞳から今にも零れ落ちそうだった。
やっぱり、馬鹿なひと。僕はまた思った。
あるときミカさんは、また失敗をした。包丁で、自分の指を切ってしまったのだ。あ、とミカさんは小さく声を上げた。
僕の嫌いな色に限りなく近い赤の鮮血が、彼女の指先をつたって、床に数滴落ちる。
大丈夫。ミカさんは僕が何か聞く前にそういった。大丈夫、料理を作っていて、自分で手当てできるから、早口にそうまくしたてると、足早にキッチンから出て行こうとした。
なんて馬鹿なひとなの。僕は思わず声に出した。
ミカさんは不思議そうに、不安そうに、振り返って立ち止まった。それも女と大人のプライドなの、僕は尋ねた。ミカさんは驚いたように僕を見ていた。
そういえば僕がミカさんを非難するようなことを言ったのは初めてだった。そうだよ、プライド、なにが悪いの。ミカさんは僕の物言いに少し怒ったようだった。別に悪いとは言っていないでしょう、僕は呆れたように言い返した。
ミカさんは一瞬言葉に詰まった。じゃあ、なんでそんなこと聞くの、なんで馬鹿なんていうの、ミカさんの瞳に少しずつ涙が浮かんできていた。
ごめん、もういいよ、気にしないで、僕はそう言って話を無理やり打ち切ろうとした。
これ以上話してはいけないと思った。都合が悪くなったら打ち切るの、ねえ、最後まで言ってよ。ミカさんの目からは涙が溢れ出してきた。
それが頬を伝い、床に落ちる。透明のそれが、先ほどの赤に混じって不思議なコントラストを作り出すのが目の端に映った。
泣くの止めてよ、僕は少しきつい言い方をした。女のひとの涙は嫌いだった、自分を守るため、飾るためのものとして使われることに不快感をもった。仕方ないでしょ、止まんないの、あのひとと、おんなじこと、いわないで、よ、ミカさんはしゃくりあげながら、服の袖で必死に顔を拭って涙を止めようとした。
ほら、それが馬鹿なんだよ、僕は言った。
どうしてそんなにも意固地なの、意地をはるの、まだ僕に恋人を重ねてしまうくらいそのひとが好きなんでしょ、ミカさんのそのちっぽけなプライドはいったいなにを守っているの、どれだけ馬鹿なの、一度で言い切った。
ミカさんはしばらくの間俯いたまま、顔を上げなかった。小さなしゃくり声だけが、部屋のなかに響く。
意味、わかんないよ、ミカさんはやっと言葉を発した。
ミカさんは馬鹿だから、わかんなくてもしょうがないよ、僕は笑いながらそう言って、そっとミカさんの手をひいて、まだ血の止まらない指の血を水で流させた。それからリビングに移動して、救急箱から絆創膏をだす。指、出して、僕はミカさんに言った。ミカさんは素直に従った。指を器用に動かして、綺麗に絆創膏を巻く。その間僕達は無言だった。
例えばね、僕はそっと話し始めた。例えば、ミカさんが、一番こうして絆創膏をまいてもらいたいひとは誰。一緒に料理をしたいのは誰。へただねって笑われても、そのプライドがでてこないで、素直に痛いっていえるのは誰。ミカさんは、黙ったまま、窓の外を見つめて聞いていた。
僕じゃないでしょ、あの大好きな彼なんでしょ、どうしてそんな簡単なことを、仕舞いこんでしまうの、どうして彼を好きになったの、セックスのためじゃないでしょ、お金のためじゃないでしょ、彼のこと、愛しているんでしょう。
こどもを叱りつけるように、僕はミカさんに話し続けた。
そうだけど、でも彼には、奥さんと、こどもが。
僕がこれだけ話し続けても、ミカさんはまだプライドに邪魔されていた。こういうのも、恋は盲目というのだろうかと、ふと思った。
不倫っていうただの言葉に負けるくらい、ミカさんの思いは小さくないでしょ、どうして、そんなにも大きな思いを小さなプライドに邪魔させるの、その彼が、奥さんと別れたくなるくらい、ミカさんに夢中にさせればいいでしょう、ひとのことなんてどうでもいいでしょう、自分の幸せのために、もっと頑張ろうと思えないの、ねえ、馬鹿じゃないの。
そこまで言って、僕も黙った。ミカさんの目からはとまったばかりの涙がまた、溢れ始めていた。泣きたいのはこっちなのにと、僕はその気持ちを心の中に留めた。
ごめんなさい、ミカさんは一言そう言った。
それから僕等は料理を再開して、ご飯を食べて、お風呂に入って、一言も話さずに眠りについた。
次の日、目をさますと家の中には誰もいなくなっていた。机の上に、小さな書置きがあった。
“いってきます”
ああ、僕の目から涙が出てきた。昨日あれだけ泣くことに嫌悪を示したというのに。どうして、自分の幸せよりも、ミカさんの幸せを願ってしまったというのだろう、馬鹿なのはミカさんではない、僕なのだ、ひとの気持ちをあれだけ理解しても、自分のことは、知るのさえ怖かった。
僕はもう一度、ミカさんの残した書置きを見た。
いってきます。帰ってきたときのおかえりなさいを期待しての言葉。最後まで綺麗なひとだった、優しいピンクの色をまとって、笑顔と同じくらいに、涙もが似合うひとだった。
最後くらい、僕のためにその綺麗な涙を流してもらってもいいだろうか。
その日、僕はいつのまにか増えていた僕の私物を全てまとめて、ミカさんに別れを言わずに、小さな書置きをそっと残して、部屋をでた。
“さよなら”(僕の初恋のひと)