表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

1 叫ぶひと





 小さいころ、斜め向かいに住むおばちゃんにうるさいと怒られるのが好きだった。僕はいつも怒られるために大声を張り上げた。

 世界の裏側にいるひとがどうかもっていた愛の花束を落としますようにと、月に生きるひとたちが地球からのメッセージだと勘違いしますようにと、幼心にちょっと気障なことを考えながら一生懸命に願って叫んだ。

 僕の声にみんな驚いたと思う。月までは届いていないだろうけれど、少なくとも僕の家の周りに住んでいる人は驚いて、そしておばちゃんが驚いたひとの代表としていつも僕に怒りに来た。僕はそれが嬉しかった。僕は毎日、喉が痛くなるまで声を出した。おばちゃんが怒りに来ることだけが僕の楽しみだった。


 今から考えるとおばちゃんはどうして僕が叫ぶのか知っていたのだと思う。だっておばちゃんは怒ったあとにいつも、僕にまん丸の飴玉をくれた。カラフルな色で、甘くておいしかった。そしておばちゃんは僕を立派なソファーに座らせて、おばちゃんは床の上にじかに座って、僕に本を読んでくれた。


 すると僕は叫ぶのを止めて、いつの間にかおばちゃんの横に座って、おばちゃんの腕をつかんで、おばちゃんの読んでくれる本の内容に聞き入った。おばちゃんが本を読み終わった時、いつの間にか飴玉は口から消えていて、僕は喉の渇きを覚えて、キッチンまで飲み物を取りに走った。僕はいつもおばちゃんに飲むかと聞いた。けれどおばちゃんは決まって飲まないよ、ありがとうと言った。おばちゃんのほうが沢山話して喉が渇いているはずなのに、おばちゃんが僕のうちで何かを口に入れることは最後までなかった。


 僕がコップ一杯の液体を飲み終わるのをおばちゃんは笑いながら眺めて、飲み終わると僕を洗面所まで連れて行った。そして僕は歯を磨かされた。歯を磨くのは決して好きとはいえない行為だったけれど、おばちゃんがいるときは好きになれた。

 おばちゃんは僕の歯を歌いながら磨いてくれた。そして歯を磨き終わるとおばちゃんは僕の頭をぐりぐりとなでて、ニカッと笑って、もううるさくするんじゃないよと言って自分のうちに帰っていった。

 僕はおばちゃんにもっといてほしいとおもっていたけれど、前に一度そう言ったときに見たおばちゃんの困ったような笑顔を見て、それっきり言わないことにしていた。





 ある日、おばちゃんはうちに来てくれなかった。いつもは叫び始めて五分くらいで、飴玉と本をつかんでサンダルで走ってきてくれるおばちゃんは、五分叫んでも十分叫んでも、僕のうちに来なかった。十五分たつかというときに、右隣の家に住むおじちゃんが僕に怒鳴りに来た。

 うるせえぞ、この糞餓鬼、そういわれて僕は泣いた。誰かに怒られて泣くなんて、初めてだった。

 とうとうその日、おばちゃんは来なかった。次の日も、おばちゃんの代わりにおじちゃんが来た。いい加減にしやがれ、なに考えてやがるんだ、おじちゃんはそういって、僕の頭を拳骨で殴った。ひとに殴られるのも、初めてだった。目の周りがチカチカした。その場に崩れ落ちて、しばらくは立ち上がれなかった。また涙が出た。



 僕はおばちゃんに会いたくなった。会って、どうしてうちに来てくれないのか聞こうと思った。僕のことを、怒るのが嫌になってしまったのかと不安になった。おばちゃんがまた来てくれるならもううるさくしないと約束しようと思った。斜め向かいのうちに、僕は走った。

 サンダルで走ったせいで、一度こけて膝小僧をすりむいた。けれどそんなことは関係無しに、僕は斜め向かいのうちの庭に飛び込んだ。


 飛び込んだ後、僕は一瞬家を間違えたかと思った。おばちゃんの家の敷地内は、真っ黒だった。黒い服を着たひとたちが沢山いた。そしてみんなが泣いていた。黒い服のひとしか入ってはいけないのかと思って、僕は自分の服を見た。僕はゆっくりとその集団に混ざった。


 僕はその泣いている人たちの中におばちゃんを探した。けれど見つけることができなかった。そのかわりに僕はおばちゃんの娘を見つけた。

 おばちゃんは、どこにいるの、僕は尋ねた。

 来てくれたの、ありがとう、おかあさんならそこにいるわ、何か言ってあげて、おばちゃんの娘はひとつの方向を指差した。

 そこで僕はさっきおばちゃんを見つけられなかった理由が分かった。おばちゃんだけは黒ではなくて、全身白だったのだ。おばちゃんは目を閉じていて、眠っているのだと思った。何か言ってあげてといわれても、僕はなにを言えばいいのか分からなかった。少しの間迷った末に、僕はおばちゃんに向かって言った。また、本を読みに来てね。

 僕の後ろの啜るような鳴き声が、大きくなったのを感じた。



 僕はなんだか怖くなって、おばちゃんから離れて、家に帰ろうと歩き出した。そのとき、誰かに腕をつかまれた。振り返ると、おばちゃんの二人目の娘だった。そのひとは僕が止まっても僕の腕を放そうとしなかった。それどころかギリギリと締め付けるかのように僕の腕を握り締めた。痛いよ、そういおうとしたけれど凍てつくようなそのひとの視線に喉がかすれて、うまく声が出なかった。


 あんたがいなければ、そのひとはそういった。いなければ、もう一度言った。


 そこに、僕におばちゃんの居場所を教えてくれたお姉さんがやってきてなにやっているの、やめなさいと慌ててそのひとに言って、僕の腕から手を離させた。つかまれたところが青くなっていた。

 ごめんね、痛かったでしょう、お姉さんは僕に謝った。大丈夫だよ、僕はなんとか擦れた声をだして、そう言った。もっときちんと声をだしたかったのだけれど、お姉さんのうしろから僕を睨み続けるそのひとの視線が怖くて、出せなかった。

 帰ります、そういって僕はお姉さんたちに背中を向けて走り出した。背中を向けているのに、そのひとがまだこちらを見ているのが分かって、僕は怖かった。



 あとで聞いた話なのだけれど、おばちゃんは車にはねられて死んだということだった。近所のスーパーに、飴玉を買いに行った帰りのことだった。おばちゃん以外の家族は、そのころみんなで旅行に行っていて、帰ってきたときにはもう息を引き取っていたらしい。

 なんとなく気づいていた。おばちゃんが僕のために旅行にいかず家に残ったのだということを。僕に怒るために、という言い方はなんだかおかしいけれど、とにかく僕のために家に残って、そして飲酒運転をした車にはねられて死んだ。だからおばちゃんの二番目の娘は怒り狂った顔で僕を見たのだ。



 その次の日から、おばちゃんがくることはなかった。僕も叫ぶことをやめた。僕が叫ぶことをやめて三日後、隣に住むおじちゃんがぼくのうちに尋ねてきた。

 どうしたの、僕はおじちゃんに聞いた。頭を殴られたときのジンジンとした痛みが僕のなかによみがえってきて、うるさくしてないよ、と僕は言った。

 するとおじちゃんは照れたように笑って頭を掻いた。いや、お前が騒がねえから、見に来たんだ、おじちゃんは言った。僕はおじちゃんの言いたいことがよく分からなかった。だから、そのまま黙っていた。


 しばらくの沈黙のあと、おじちゃんは僕の頭に手を置いた。殴られたときのたんこぶに手が当たって、少し痛かった。そしておじちゃんは言った。殴って悪かったな、おじちゃんも悲しかったんだ、痛かったよな。

 あんまりにも沈んだ目でおじちゃんが僕を見るものだから、僕はおじちゃんに殴られた痛みはどうでも良くなってしまった。大丈夫だよ、僕は答えた。おじちゃんは小さくそうか、とつぶやいた。またしばらくの間、二人とも何も喋らなかった。

 おじちゃんは相変わらず僕の頭に手を置いたままで、僕の頭も相変わらずズキズキとした。なあ、坊主、元気か?唐突におじちゃんは聞いた。僕は足に擦り傷とあたまにたんこぶがあるくらいで、病気もなにもしていなかった。だから、元気です、と答えた。そうか、それはよかったとおじちゃんはいった。

 三回目の沈黙が僕らを襲った。おじちゃんは無言の時間をしばらく過ごした後、僕の頭をぽんぽんと二回軽く叩いてから、自分の家に帰って行った。



 そのまた三日後に、僕におばちゃんの居場所を教えてくれた一番目のお姉さんが、僕の家に訪ねてきた。お姉さんは、僕に飴玉の入った新品の袋を手渡した。お母さんが最後に買ったものだよ、君のためのものだから、君にあげるよ、お姉さんはそういって僕に手渡すと、最後にそれじゃあね、と小さく笑ってそそくさと帰っていった。

 僕がお礼を言う暇もないほど早く帰って行ったけれど、僕にはお姉ちゃんの笑った顔がしっかりと見えた。僕の腕をキリキリと締め付けたひとと、似ている目をしていた。



 その日の夜僕のお母さんは僕の手にもっている飴玉を見てそれどうしたのと聞いた。僕が斜め向かいの家のお姉さんにもらったと答えると、お母さんはふうんといってパソコンの前に座った。僕の答えをきちんと聞いていなかったような気がした。悪いんだけど今から仕事をするから話しかけないでね、お母さんがそういったのを聞いて僕はわかった、もう寝るね、おやすみなさい、と言った。お母さんからの返事はなかった。






僕はまた一人になった。僕は寂しい。








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ