婚約破棄された夜、私は初めて“自分のための靴”を作った。翌朝、その赤い靴を見た公爵様に「次の舞踏会で、私と踊ってください」と頼まれた
「侯爵夫人になる女性が、他人の足元に跪いて靴を作るなんてみっともない」
五年間の婚約は、その一言で終わった。
冬の舞踏会を一週間後に控えた夜。
婚約者だったエドガーは、王都でも名の知られたホテルの個室で、私にそう告げた。
隣にはクラリッサ伯爵令嬢が座っている。
「リゼット。君には何度も言ったはずだ。結婚したら工房は辞めてくれと」
「何度もお断りしました」
「だから、こうなった」
エドガーはため息をつく。
「私は侯爵家を継ぐ。妻が毎日、見知らぬ男の足を測って革を切っているなど、外聞が悪い」
「女性のお客様も多いですよ」
「そういう問題ではない」
分かっている。
分かっていて、少しだけ意地悪を言った。
私はリゼット・ファーレン。
子爵令嬢であり、王都の小さな靴工房で働く靴職人だ。
父が始めた工房で十五歳から革を触ってきた。
貴族の礼装靴。
商人の歩きやすい短靴。
騎手のブーツ。
子供が初めて履く靴。
靴は、人が立つ場所に必ずある。
私はその仕事が好きだった。
「クラリッサなら、侯爵夫人として申し分ない」
エドガーが言った。
クラリッサは気まずそうに視線を逸らした。
私は彼女を責める気にはならなかった。
「承知しました」
「……それだけか?」
「婚約を解消するのでしょう?」
「ああ」
「でしたら、もう話すことはありません」
立ち上がる。
エドガーが呼び止めた。
「来週の舞踏会用の靴は?」
私は振り返った。
「まだ受け取っていませんでしたよね」
「ああ。明日受け取りに行くつもりだった」
「完成しています。代金をお支払いいただければ、お渡しします」
エドガーが眉をひそめた。
「代金?」
「婚約者への贈り物として作りました。でも、もう婚約者ではありませんから」
一瞬の沈黙。
私は笑った。
「通常料金で結構です」
家へ戻ったのは夜遅くだった。
父はまだ工房にいた。
「終わったのか」
私の顔を見るなり聞いた。
「はい」
「泣いたか?」
「まだ」
「じゃあ先に茶でも飲め」
父はそれ以上聞かなかった。
ありがたかった。
自室へ戻る気になれず、私は工房の棚を眺めた。
革。
糸。
木型。
金具。
見慣れたものばかり。
その一番上に、小さな包みがある。
二年前に買った赤い革。
柔らかい山羊革で、光に当てると少しだけ深い色になる。
見つけた瞬間、好きだと思った。
自分の靴を作ろうと思って買った。
でも、エドガーの礼装靴の注文が入った。
次に父の冬靴。
その次は大口の仕事。
そうして二年間、棚の上に置いたままだった。
私は包みを下ろした。
「今作ろう」
誰もいない工房で、一人で言った。
木型はない。
自分の足を自分で測るのは意外に難しい。
紙の上に足を置く。
輪郭を取る。
幅を測る。
甲の高さ。
踵。
いつも誰かにしていることを、自分にする。
妙な気分だった。
赤い革に型紙を置く。
鋏を入れる。
最初の一刀だけ、少し緊張した。
高価な革だったからではない。
自分のために切ることに慣れていなかった。
誰に見せるわけでもない。
売るわけでもない。
エドガーに褒めてもらうわけでもない。
ただ、自分が履きたい。
それだけだ。
夜明け前に一足が完成した。
赤い舞踏靴。
踵は低め。
爪先は少し丸い。
足の内側に柔らかな革を一枚多く入れた。
長く立っても痛くなりにくい。
派手ではない。
でも、好きだった。
私は履いて、工房の中を一往復した。
痛くない。
どこも当たらない。
「いい靴」
自分で作ったのに、思わずそう言った。
翌朝。
工房を開けて十分もしないうちに、最初の客が来た。
黒い外套。
長身の男性。
アレクシス・ヴァレール公爵。
私は一度だけ彼の靴を修理したことがある。
右足首に古傷があり、左右で僅かに歩き方が違う。
普通の靴だと右だけ踵が早く減る。
「おはようございます」
「朝早くに申し訳ない」
彼は小さな箱を持っていた。
「以前直していただいた靴ですが」
「何か問題が?」
「逆です」
彼は箱から黒い短靴を出した。
「半年履いても、右の踵がほとんど減っていない」
私は底を見る。
確かに綺麗だった。
「歩き方に合わせて、右だけ内部の高さを少し変えました」
「聞いていませんでした」
「言うほどのことではありませんので」
公爵はしばらく靴を見ていた。
そして、私の足元へ視線を落とした。
「その靴は?」
赤い靴。
「昨夜作りました」
「新商品ですか」
「いいえ」
少し迷った。
「初めて、自分のために作った靴です」
公爵の表情がわずかに変わった。
「失礼ですが」
「はい」
「少し歩いていただけますか」
「靴職人に言う台詞としては珍しいですね」
「靴を見たいので」
工房の中を歩く。
公爵は真剣に私の足元を見た。
「踵が低い」
「舞踏靴ですから」
「普通は逆では?」
「高い方が脚は綺麗に見えます」
「なぜ低く?」
「私は踊るより立っている時間の方が長いので」
言ってから、少し可笑しくなる。
夜会でも私は壁際にいることが多かった。
エドガーが社交している間、知り合いと話すか、誰かの靴を見ていた。
公爵が言う。
「その構造で、男性用も作れますか」
「できます」
「舞踏靴で?」
「もちろん」
彼は少し考えた。
「お願いしたい」
「舞踏会に出られるのですか?」
アレクシス公爵が踊らないことは有名だった。
怪我をしてから、ほとんど舞踏会に参加していない。
「来週だけは断れません」
「王家主催ですものね」
「妹が婚約を発表します」
なるほど。
「踊らなければなりませんか?」
「妹に、一曲くらい踊れと言われました」
私は笑った。
「怖い妹君ですね」
「非常に」
彼も少し笑った。
「間に合いますか」
「三日ください」
「採寸を?」
「今できます」
私は椅子を出した。
公爵が座る。
私は彼の前に膝をついた。
足を触る。
古傷のある右。
左より少し腫れやすい。
足首の可動域も狭い。
「痛みますか」
「長く立つと」
「踊ったら?」
「たぶん」
「たぶんでは困ります」
思わず職人の口調になる。
公爵が笑った。
「怒られましたね」
「靴を作るので」
私は右足と左足を別々に測った。
三日間。
彼の靴を作った。
黒い革。
装飾は最小限。
外から見れば普通の礼装靴。
でも右の内側だけ構造が違う。
足首の動きを邪魔しない。
体重が踵だけに集まらない。
一足目は失敗。
歩くと爪先が僅かに浮いた。
二足目。
公爵に試してもらう。
工房を歩く。
「どうです?」
「痛くない」
「階段も」
外へ出る。
上る。
下りる。
問題なし。
「少し踊ってみますか」
公爵が固まった。
「ここで?」
「本番で初めて試す方が怖いです」
「相手がいません」
私は工房を見回した。
父は露骨に顔を逸らした。
職人たちも作業に集中しているふりをしている。
「仕方ありませんね」
私は手を差し出した。
「一分だけです」
公爵が私を見る。
「あなたが?」
「靴の試験です」
彼は立った。
手を取る。
音楽はない。
狭い工房。
革と糊の匂い。
私たちは三歩進み、回る。
右足。
問題ない。
もう一度。
公爵は意外に上手だった。
「踊れるではありませんか」
「昔は」
「痛みは?」
「ありません」
「では成功ですね」
手を離そうとした。
でも、公爵はすぐには離さなかった。
「リゼット嬢」
「はい」
「来週」
妙に真剣な顔だった。
「この靴で、私と一曲踊っていただけますか」
「試験ですか?」
「いいえ」
彼は私の赤い靴を見る。
「あなたと踊りたい」
舞踏会の日。
私は赤い靴を履いた。
ドレスは古いもの。
新調する時間はなかった。
でも足元を見ると、不思議と気にならない。
自分が好きなものを一つ身につけているだけで、背筋が伸びた。
会場へ入る。
エドガーがいた。
クラリッサもいる。
彼女は私を見ると軽く頭を下げた。
私も返した。
エドガーの視線が私の靴で止まる。
「それは?」
「私の靴です」
「君が?」
「はい」
それだけ答える。
「リゼット」
彼が少し迷ったあと言った。
「この前の靴だが」
「何かございましたか?」
「いや、履きやすかった」
「ありがとうございます」
「……今まで全部、君が作っていたんだな」
「はい」
五年も作った。
彼が気づいたのは、婚約が終わってからだった。
でも、不思議と腹は立たなかった。
「大事に履いてください」
そう言ったところで、誰かが隣に立った。
アレクシス公爵。
黒い礼装靴。
私が作ったもの。
「リゼット嬢」
「公爵様」
彼は手を差し出した。
「約束の一曲を」
周囲が少しざわつく。
公爵が踊ること自体が珍しい。
私は手を取った。
音楽が始まる。
一歩。
二歩。
回る。
「痛くありませんか」
「ありません」
「本当に?」
「あなたは踊っている最中まで仕事をするんですね」
「気になるので」
「では仕事の話は禁止です」
「難しいです」
「一曲だけ」
仕方なく黙った。
すると、今度は別のことが気になった。
彼の手。
音楽。
床に反射する灯り。
自分の赤い靴。
私はこんなに舞踏会を楽しいと思ったことがなかった。
エドガーと踊ったこともある。
でもいつも、
歩幅は合っているか。
ドレスの裾を踏まないか。
靴が痛くないか。
そんなことばかり考えていた。
今日は違う。
ただ踊った。
曲が終わる。
公爵が手を離さない。
「もう一曲は?」
「一曲だけと言いました」
「私が?」
「はい」
「撤回します」
笑ってしまった。
その夜から、工房への注文が増えた。
公爵が履いていた靴を見た貴族たちが、
「あの靴はどこのものだ」
と尋ねたらしい。
でも、何より多かったのは女性からの注文だった。
私の赤い靴。
「長く立っても痛くない舞踏靴を」
「踊れる靴を」
「私も赤で」
色違いも増えた。
青。
緑。
白。
銀。
私は初めて、女性用の舞踏靴を工房の中心商品にした。
エドガーとは、その後一度だけ会った。
彼の結婚式用の靴を作るためだった。
正式な注文。
正式な代金。
私は普通の客として採寸した。
「君は平気なのか」
突然聞かれた。
「何がです?」
「私の結婚式の靴を作るのが」
考えた。
「仕事ですから」
嘘ではなかった。
「それに」
私は革を選ぶ。
「クラリッサ様が履く靴も、うちでご注文いただきました」
「彼女も?」
「はい。かなり歩かれる方なので、少し丈夫にしました」
エドガーは笑った。
「私より彼女のことを分かっているな」
「足だけです」
それで十分だった。
半年後。
アレクシス公爵は、相変わらず工房へ来る。
靴が壊れたからではない。
最初は、
「近くに用事があった」
と言っていた。
三回目から誰も信じなくなった。
父など、彼が来ると勝手に茶を淹れる。
「仕事の邪魔では?」
ある日、公爵が聞いた。
「少し」
「帰ります」
「冗談です」
私は笑った。
彼は私の机の上を見る。
新しい赤い革。
「また自分の靴ですか」
「今度は春用です」
「いいですね」
「あなたのではありませんよ」
「分かっています」
公爵は少し黙ってから言った。
「でも、その靴で歩く先に、私もいていいですか」
手が止まった。
「どういう意味でしょう」
「結婚してください」
あまりにも普通に言う。
「ここで?」
「舞踏会の方がよかった?」
「工房で十分です」
私は革を置いた。
「条件があります」
「何でしょう」
「仕事は辞めません」
「辞めると思ったことがありません」
「夜会より工房を優先する日もあります」
「私も仕事を優先する日があります」
「靴については私の方が正しいです」
「それはもう知っています」
少し考える。
「では」
私は答えた。
「よろしくお願いします」
一年後。
工房の一番目立つ場所に、赤い靴が飾られている。
売り物ではない。
最初に自分のために作った一足。
もう少し革が柔らかくなり、踵には小さな傷もある。
でも捨てる気はない。
あの靴を作るまで。
私はずっと、誰かが歩くための靴を作っていた。
婚約者。
顧客。
家族。
そして初めて。
自分が歩くための靴を作った。
その一足で歩き出した先に、アレクシスがいた。
今日も私は革を切る。
隣の椅子では、彼が新しい靴の採寸を待っている。
「今度は何用です?」
「結婚一周年の舞踏会」
「また踊るんですか」
「あなたが作った靴なら」
私は笑った。
赤い革を手に取る。
次に作る靴も、自分のためだ。
そして今度は。
誰かと一緒に歩くための靴でもある。




