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婚約破棄された夜、私は初めて“自分のための靴”を作った。翌朝、その赤い靴を見た公爵様に「次の舞踏会で、私と踊ってください」と頼まれた

作者: 余白書房
掲載日:2026/11/07

「侯爵夫人になる女性が、他人の足元に跪いて靴を作るなんてみっともない」


五年間の婚約は、その一言で終わった。


冬の舞踏会を一週間後に控えた夜。


婚約者だったエドガーは、王都でも名の知られたホテルの個室で、私にそう告げた。


隣にはクラリッサ伯爵令嬢が座っている。


「リゼット。君には何度も言ったはずだ。結婚したら工房は辞めてくれと」


「何度もお断りしました」


「だから、こうなった」


エドガーはため息をつく。


「私は侯爵家を継ぐ。妻が毎日、見知らぬ男の足を測って革を切っているなど、外聞が悪い」


「女性のお客様も多いですよ」


「そういう問題ではない」


分かっている。


分かっていて、少しだけ意地悪を言った。


私はリゼット・ファーレン。


子爵令嬢であり、王都の小さな靴工房で働く靴職人だ。


父が始めた工房で十五歳から革を触ってきた。


貴族の礼装靴。


商人の歩きやすい短靴。


騎手のブーツ。


子供が初めて履く靴。


靴は、人が立つ場所に必ずある。


私はその仕事が好きだった。


「クラリッサなら、侯爵夫人として申し分ない」


エドガーが言った。


クラリッサは気まずそうに視線を逸らした。


私は彼女を責める気にはならなかった。


「承知しました」


「……それだけか?」


「婚約を解消するのでしょう?」


「ああ」


「でしたら、もう話すことはありません」


立ち上がる。


エドガーが呼び止めた。


「来週の舞踏会用の靴は?」


私は振り返った。


「まだ受け取っていませんでしたよね」


「ああ。明日受け取りに行くつもりだった」


「完成しています。代金をお支払いいただければ、お渡しします」


エドガーが眉をひそめた。


「代金?」


「婚約者への贈り物として作りました。でも、もう婚約者ではありませんから」


一瞬の沈黙。


私は笑った。


「通常料金で結構です」



家へ戻ったのは夜遅くだった。


父はまだ工房にいた。


「終わったのか」


私の顔を見るなり聞いた。


「はい」


「泣いたか?」


「まだ」


「じゃあ先に茶でも飲め」


父はそれ以上聞かなかった。


ありがたかった。


自室へ戻る気になれず、私は工房の棚を眺めた。


革。


糸。


木型。


金具。


見慣れたものばかり。


その一番上に、小さな包みがある。


二年前に買った赤い革。


柔らかい山羊革で、光に当てると少しだけ深い色になる。


見つけた瞬間、好きだと思った。


自分の靴を作ろうと思って買った。


でも、エドガーの礼装靴の注文が入った。


次に父の冬靴。


その次は大口の仕事。


そうして二年間、棚の上に置いたままだった。


私は包みを下ろした。


「今作ろう」


誰もいない工房で、一人で言った。



木型はない。


自分の足を自分で測るのは意外に難しい。


紙の上に足を置く。


輪郭を取る。


幅を測る。


甲の高さ。


踵。


いつも誰かにしていることを、自分にする。


妙な気分だった。


赤い革に型紙を置く。


鋏を入れる。


最初の一刀だけ、少し緊張した。


高価な革だったからではない。


自分のために切ることに慣れていなかった。


誰に見せるわけでもない。


売るわけでもない。


エドガーに褒めてもらうわけでもない。


ただ、自分が履きたい。


それだけだ。


夜明け前に一足が完成した。


赤い舞踏靴。


踵は低め。


爪先は少し丸い。


足の内側に柔らかな革を一枚多く入れた。


長く立っても痛くなりにくい。


派手ではない。


でも、好きだった。


私は履いて、工房の中を一往復した。


痛くない。


どこも当たらない。


「いい靴」


自分で作ったのに、思わずそう言った。



翌朝。


工房を開けて十分もしないうちに、最初の客が来た。


黒い外套。


長身の男性。


アレクシス・ヴァレール公爵。


私は一度だけ彼の靴を修理したことがある。


右足首に古傷があり、左右で僅かに歩き方が違う。


普通の靴だと右だけ踵が早く減る。


「おはようございます」


「朝早くに申し訳ない」


彼は小さな箱を持っていた。


「以前直していただいた靴ですが」


「何か問題が?」


「逆です」


彼は箱から黒い短靴を出した。


「半年履いても、右の踵がほとんど減っていない」


私は底を見る。


確かに綺麗だった。


「歩き方に合わせて、右だけ内部の高さを少し変えました」


「聞いていませんでした」


「言うほどのことではありませんので」


公爵はしばらく靴を見ていた。


そして、私の足元へ視線を落とした。


「その靴は?」


赤い靴。


「昨夜作りました」


「新商品ですか」


「いいえ」


少し迷った。


「初めて、自分のために作った靴です」


公爵の表情がわずかに変わった。


「失礼ですが」


「はい」


「少し歩いていただけますか」


「靴職人に言う台詞としては珍しいですね」


「靴を見たいので」


工房の中を歩く。


公爵は真剣に私の足元を見た。


「踵が低い」


「舞踏靴ですから」


「普通は逆では?」


「高い方が脚は綺麗に見えます」


「なぜ低く?」


「私は踊るより立っている時間の方が長いので」


言ってから、少し可笑しくなる。


夜会でも私は壁際にいることが多かった。


エドガーが社交している間、知り合いと話すか、誰かの靴を見ていた。


公爵が言う。


「その構造で、男性用も作れますか」


「できます」


「舞踏靴で?」


「もちろん」


彼は少し考えた。


「お願いしたい」


「舞踏会に出られるのですか?」


アレクシス公爵が踊らないことは有名だった。


怪我をしてから、ほとんど舞踏会に参加していない。


「来週だけは断れません」


「王家主催ですものね」


「妹が婚約を発表します」


なるほど。


「踊らなければなりませんか?」


「妹に、一曲くらい踊れと言われました」


私は笑った。


「怖い妹君ですね」


「非常に」


彼も少し笑った。


「間に合いますか」


「三日ください」


「採寸を?」


「今できます」


私は椅子を出した。


公爵が座る。


私は彼の前に膝をついた。


足を触る。


古傷のある右。


左より少し腫れやすい。


足首の可動域も狭い。


「痛みますか」


「長く立つと」


「踊ったら?」


「たぶん」


「たぶんでは困ります」


思わず職人の口調になる。


公爵が笑った。


「怒られましたね」


「靴を作るので」


私は右足と左足を別々に測った。



三日間。


彼の靴を作った。


黒い革。


装飾は最小限。


外から見れば普通の礼装靴。


でも右の内側だけ構造が違う。


足首の動きを邪魔しない。


体重が踵だけに集まらない。


一足目は失敗。


歩くと爪先が僅かに浮いた。


二足目。


公爵に試してもらう。


工房を歩く。


「どうです?」


「痛くない」


「階段も」


外へ出る。


上る。


下りる。


問題なし。


「少し踊ってみますか」


公爵が固まった。


「ここで?」


「本番で初めて試す方が怖いです」


「相手がいません」


私は工房を見回した。


父は露骨に顔を逸らした。


職人たちも作業に集中しているふりをしている。


「仕方ありませんね」


私は手を差し出した。


「一分だけです」


公爵が私を見る。


「あなたが?」


「靴の試験です」


彼は立った。


手を取る。


音楽はない。


狭い工房。


革と糊の匂い。


私たちは三歩進み、回る。


右足。


問題ない。


もう一度。


公爵は意外に上手だった。


「踊れるではありませんか」


「昔は」


「痛みは?」


「ありません」


「では成功ですね」


手を離そうとした。


でも、公爵はすぐには離さなかった。


「リゼット嬢」


「はい」


「来週」


妙に真剣な顔だった。


「この靴で、私と一曲踊っていただけますか」


「試験ですか?」


「いいえ」


彼は私の赤い靴を見る。


「あなたと踊りたい」



舞踏会の日。


私は赤い靴を履いた。


ドレスは古いもの。


新調する時間はなかった。


でも足元を見ると、不思議と気にならない。


自分が好きなものを一つ身につけているだけで、背筋が伸びた。


会場へ入る。


エドガーがいた。


クラリッサもいる。


彼女は私を見ると軽く頭を下げた。


私も返した。


エドガーの視線が私の靴で止まる。


「それは?」


「私の靴です」


「君が?」


「はい」


それだけ答える。


「リゼット」


彼が少し迷ったあと言った。


「この前の靴だが」


「何かございましたか?」


「いや、履きやすかった」


「ありがとうございます」


「……今まで全部、君が作っていたんだな」


「はい」


五年も作った。


彼が気づいたのは、婚約が終わってからだった。


でも、不思議と腹は立たなかった。


「大事に履いてください」


そう言ったところで、誰かが隣に立った。


アレクシス公爵。


黒い礼装靴。


私が作ったもの。


「リゼット嬢」


「公爵様」


彼は手を差し出した。


「約束の一曲を」


周囲が少しざわつく。


公爵が踊ること自体が珍しい。


私は手を取った。



音楽が始まる。


一歩。


二歩。


回る。


「痛くありませんか」


「ありません」


「本当に?」


「あなたは踊っている最中まで仕事をするんですね」


「気になるので」


「では仕事の話は禁止です」


「難しいです」


「一曲だけ」


仕方なく黙った。


すると、今度は別のことが気になった。


彼の手。


音楽。


床に反射する灯り。


自分の赤い靴。


私はこんなに舞踏会を楽しいと思ったことがなかった。


エドガーと踊ったこともある。


でもいつも、


歩幅は合っているか。


ドレスの裾を踏まないか。


靴が痛くないか。


そんなことばかり考えていた。


今日は違う。


ただ踊った。



曲が終わる。


公爵が手を離さない。


「もう一曲は?」


「一曲だけと言いました」


「私が?」


「はい」


「撤回します」


笑ってしまった。



その夜から、工房への注文が増えた。


公爵が履いていた靴を見た貴族たちが、


「あの靴はどこのものだ」


と尋ねたらしい。


でも、何より多かったのは女性からの注文だった。


私の赤い靴。


「長く立っても痛くない舞踏靴を」


「踊れる靴を」


「私も赤で」


色違いも増えた。


青。


緑。


白。


銀。


私は初めて、女性用の舞踏靴を工房の中心商品にした。



エドガーとは、その後一度だけ会った。


彼の結婚式用の靴を作るためだった。


正式な注文。


正式な代金。


私は普通の客として採寸した。


「君は平気なのか」


突然聞かれた。


「何がです?」


「私の結婚式の靴を作るのが」


考えた。


「仕事ですから」


嘘ではなかった。


「それに」


私は革を選ぶ。


「クラリッサ様が履く靴も、うちでご注文いただきました」


「彼女も?」


「はい。かなり歩かれる方なので、少し丈夫にしました」


エドガーは笑った。


「私より彼女のことを分かっているな」


「足だけです」


それで十分だった。



半年後。


アレクシス公爵は、相変わらず工房へ来る。


靴が壊れたからではない。


最初は、


「近くに用事があった」


と言っていた。


三回目から誰も信じなくなった。


父など、彼が来ると勝手に茶を淹れる。


「仕事の邪魔では?」


ある日、公爵が聞いた。


「少し」


「帰ります」


「冗談です」


私は笑った。


彼は私の机の上を見る。


新しい赤い革。


「また自分の靴ですか」


「今度は春用です」


「いいですね」


「あなたのではありませんよ」


「分かっています」


公爵は少し黙ってから言った。


「でも、その靴で歩く先に、私もいていいですか」


手が止まった。


「どういう意味でしょう」


「結婚してください」


あまりにも普通に言う。


「ここで?」


「舞踏会の方がよかった?」


「工房で十分です」


私は革を置いた。


「条件があります」


「何でしょう」


「仕事は辞めません」


「辞めると思ったことがありません」


「夜会より工房を優先する日もあります」


「私も仕事を優先する日があります」


「靴については私の方が正しいです」


「それはもう知っています」


少し考える。


「では」


私は答えた。


「よろしくお願いします」



一年後。


工房の一番目立つ場所に、赤い靴が飾られている。


売り物ではない。


最初に自分のために作った一足。


もう少し革が柔らかくなり、踵には小さな傷もある。


でも捨てる気はない。


あの靴を作るまで。


私はずっと、誰かが歩くための靴を作っていた。


婚約者。


顧客。


家族。


そして初めて。


自分が歩くための靴を作った。


その一足で歩き出した先に、アレクシスがいた。


今日も私は革を切る。


隣の椅子では、彼が新しい靴の採寸を待っている。


「今度は何用です?」


「結婚一周年の舞踏会」


「また踊るんですか」


「あなたが作った靴なら」


私は笑った。


赤い革を手に取る。


次に作る靴も、自分のためだ。


そして今度は。


誰かと一緒に歩くための靴でもある。

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