僕のいない春だけが、こんなに晴れている
三月十四日。金曜日。
春の浅い訪れを拒絶するように、低く垂れ込めた雨雲から冷たい春雨が降り続いていた。校舎の窓ガラスを打ち叩く不規則な水滴の音が、重苦しく校内全体へと響き渡っている。
千早ヶ丘高等学校、体育館。
卒業式のために整然と並べられたパイプ椅子の冷たさが、制服の薄い生地を通して腰から背中へと伝わっていた。
僕——榛名陸は、自分の膝の上で強く握りしめた両手を、ただじっと見つめていた。
指先が微かに震えている。どれだけ力を込めても、その震えを止めることができない。
周囲からは、参列した保護者の抑えきれないすすり泣く声や、式の進行を機械的に告げる教員の掠れた声が途切れ途切れに聞こえてくる。卒業生答辞の言葉も、校歌の威厳ある伴奏も、今の僕の耳にはほとんど届いていなかった。まるで深い深い水底に沈んだまま、遠くのノイズを聞かされているかのように、すべての音が頭の中で不快に重く反響していた。
卒業生一覧が並ぶ右側の列。
僕の斜め前、本来ならその場所に座っているはずだった生徒のパイプ椅子には、誰も腰掛けていない。
ただ、冷たいパイプ椅子の白い机の上に、一輪の白菊の花が、ぽつんと静かに添えられていた。
水瀬葵。
昨夜——三月十三日の未明、国道281号の常盤木バイパス交差点で大型トラックにはねられ、即死した少女。
澄み渡った瞳と透明感のある雰囲気を纏い、学年中でも誰もがその名を知る人気者だった彼女。
だが、クラスの隅で目立たない友人グループとヘラヘラ笑って過ごしていただけの冴えない僕にとっては、どこか遠い世界の「高嶺の花」のような存在だった。三年間の高校生活の中で、個人的に言葉を交わした回数など、両手で数え切れるほどしかない。
それなのに——。
今朝、登校して彼女の訃報を教員から聞かされた瞬間から、僕の胸の奥には、息もできないほどの凄絶な「後悔」と、狂おしいまでの「既視感」が渦巻いていた。
まるで、僕は以前にも彼女を失ったことがあるかのように。
まるで、僕が彼女を死なせてしまったかのように。
「……なんでだよ、水瀬……っ。なんで、卒業式の前日に……っ」
式が終わり、生徒たちがゾロゾロと退場した後の、静まり返った三年二組の教室。
親友の蓮が一人、教卓の脇で肩を激しく震わせ、拳を握りしめて泣いていた。普段はクラスのムードメーカーとして冗談ばかり言っている彼が、見たこともないような酷い顔をして涙を流している。
黒板の右端には、昨日誰かが色チョークで書いた「卒業おめでとう」の華やかな文字と桜のイラストが虚しく残されている。だが、窓際の一番後ろにある彼女の席だけが、ポッカリと空洞のように冷たく静まり返っていた。
僕は蓮にどんな言葉をかけていいのかすら分からず、ただ濡れた窓ガラスの外、灰色に煙るグラウンドと散り急ぐ雨を眺めることしかできなかった。
下校を促す校内放送が虚しく響き渡ると、僕は荷物を抱え、逃げるように一人で校門を飛び出した。
雨具を開く気力すら起きず、冷たい春雨に全身を打たれながら、吸い寄せられるように足が向かったのは——昨夜、彼女の命が奪われた現場、常盤木バイパスの交差点だった。
普段なら大型トラックや乗用車が猛スピードで飛び交う、殺伐とした片側三車線の四差路。
横断歩道の脇には、巨大な衝撃で無残に折り曲げられた金属製のガードレールがそのまま残されていた。その根元には、誰が供えたのか、ビニールに包まれた数本の白い花束が冷たい雨に打たれている。
そして——横断歩道から数メートル離れたアスファルトの表面には、雨水に混ざって黒ずみ、薄く大きく滲んだ血痕が広がっていた。
「あ……っ……」
その血痕を目にした瞬間、頭の中に割れるような激痛が走った。
視界が赤く染まり、心臓が肋骨を突き破らんばかりの勢いで暴れ出す。激しい眩暈と吐き気に襲われ、僕は折り曲がったガードレールに必死で手をつき、泥水が浮くアスファルトの上へ膝をついた。
息がうまく吸えない。喉の奥が焼きつくように痛む。
なぜだ。どうして僕は、こんなにも胸が引きちぎられるほど苦しいんだ。
彼女とは、まともな思い出だって片手で数えるほどしかないはずなのに。
その時、冷たい横風が吹き抜け、横断歩道の脇にある生け垣の陰から、ひらりと小さな紙片が舞い上がった。
雨と風に煽られ、濡れたアスファルトの上を転がる紙切れ。
僕は突き動かされるように手を伸ばし、それが水たまりに沈む直前で、震える指先で拾い上げた。
それは、文庫本かノートのページを破ったような、小さな四角い紙片だった。
激しい雨と、そして乾ききっていない赤黒い血によって大半の文字が潰れ、完全に滲んで解読不能になっている。
だが、紙の最下部、わずかに水滴から免れた余白部分——そこには、見覚えのある細く繊細な筆跡で、こう書かれていた。
『……陸くんへ……』
……僕の名前だ。
水瀬葵の血に染まった紙切れに刻まれた、僕の名。
なぜ、事故現場にこんなものが落ちているのか。なぜ、めったに話したこともない彼女の手紙に、僕の名が書かれているのか。
問いの答えを出してくれる者は誰もいない。ただ、冷たい雨の音だけが、虚しく僕の身体を打ち続けていた。
全身びしょ濡れのまま家に戻った僕は、自室の床にへたり込んでいた。
制服から滴り落ちる雨水が、フローリングの上に小さな水たまりを作っていく。だが、濡れた服を着替える気力すら湧いてこなかった。
暗闇の中、デスクライトの小さな橙色の灯りだけを点け、僕は掌の中にある「濡れた紙片」を穴が開くほど凝視していた。
『陸くんへ』。
見間違いじゃない。これは絶対に、水瀬葵が書いた文字だ。
一昨年の秋、文化祭の実行委員会で、彼女が掲示物のスローガンを書いていた時の丁寧で少し丸みのある筆跡。それを僕は、なぜかずっと忘れることができずに覚えていた。
「水瀬……君は、事故の夜、これを持ってあの交差点にいたのか……? なんで僕の名前が……」
考えれば考えるほど、思考は答えのない暗い迷宮へと迷い込んでいく。
学年一の人気者で、誰に対しても分け隔てなく優しく、輝いていた水瀬葵。
方や、クラスの隅っこで目立たない日々を送り、自分の将来すらまともに描けていなかった僕。
接点なんて、本当にほとんどなかったはずだ。
高一の春、合格発表の日に、校門の前で彼女が鞄から落とした小さなキーホルダーを拾って渡してあげたこと。
高二の文化祭で、たまたま同じ装飾係になって二言三言、短い言葉を交わしたこと。
思い出せるのは、それくらいだった。
それなのに、なぜ彼女は僕宛ての手紙を持っていたのか。
なぜ、卒業式を目前に控えたあの惨劇の夜に、あんな遠くのバイパス交差点にいたのか。
「僕が……僕がもし、もっと彼女のことを見ていたら……」
激しい後悔の波が、爪を立てるように心臓を抉ってくる。
僕が彼女の異変に気づいていたら。僕が昨夜、あの交差点を通っていたら。彼女を庇うことができたのだろうか。彼女の命を救うことができたのだろうか。
絶望と後悔が部屋を満たし、僕は雨音の響く暗闇の中で、両手で顔を覆って声を殺して泣いた。
夜の八時を回った頃、部屋を満たす暗闇はさらに深く重いものとなっていた。
窓の外では、冷たい雨が激しくガラスを叩きつけ、遠くで風が咆哮を上げている。世界全体が僕の絶望を嘲笑っているかのような夜だった。
僕は床の上に放置した濡れた制服から這い出すように立ち上がると、お湯を張り終えたばかりの浴室へと向かった。
冷え切った身体の震えが止まらない。皮膚の表面は鳥肌が立ち、指先は氷のように冷たくなっていた。だがそれ以上に、頭の中を支配する激しい混乱と罪悪感から、一秒でも早く逃げ出したかった。
血と雨に濡れたあの紙片——『陸くんへ』と書かれた水瀬葵の細く繊細な筆跡が、瞼の裏に強く焼きついて離れない。
なぜ、彼女はあの惨劇の夜に僕宛ての手紙を持っていたのか。
なぜ、交わした言葉すら数えるほどしかない彼女のために、僕はこれほどまでに心を破裂させそうになっているのか。
白く濁る湯気が狭い浴室内に立ち込め、視界を塞いでいく。
僕は着ていた衣服を脱ぎ捨てると、吸い込まれるように脱衣所から浴室へと足を踏み入れ、湯船の中へと身体を沈めた。
「熱っ……」
肌を刺すような高熱が全身を包み込み、皮膚が赤く染まっていく。
だが、冷え切った心臓の奥の凍りつきは、どれだけ熱いお湯に浸かっても溶ける気配すらなかった。胸の奥の空洞が、ヒリヒリと痛み続ける。
僕は湯船の中で膝を抱え込み、顎を水面に乗せた。
水面に揺れる自分の情けない顔を見つめる。涙と汗が混ざり合い、視界が歪んでいく。
(やり直せるなら……)
不意に、突拍子もない愚かな妄想が頭をよぎった。
(もしも時間を巻き戻せるなら。昨日に……いや、もっと前の時間に戻れるなら。僕は絶対に水瀬をあの交差点へなんて行かせない。僕の命に代えてでも、彼女をあのトラックから遠ざけて救い出すのに——)
叶うはずもない、惨めで虚しい現実逃避。
激しい後悔と己の無力感に耐えきれなくなった僕は、肺の中の空気をすべて吐き出すと同時に、そのままお湯の中へと頭まで深く沈み込んだ。
ぽちゃん、と耳元で重くくぐもった水音が響いた。
熱い湯が耳孔を満たし、外界を叩く雨音と風の音が完全に遮断される。
視界は白く揺らめく湯気と水滴の膜に覆われ、呼吸が完全に途絶えた。
肺が酸素を求め、胸の奥が焼きつくような苦しさでギチギチと締め付けられていく。
だが、僕は水面へ顔を上げる気力すら湧かず、身体の力を抜いたまま、お湯の底へと意識を委ね続けた。
苦しい。息ができない。
だが、このまま意識が溶けて消えてしまえばいいとすら思っていた。彼女のいない世界で生き続けるくらいなら、この水底で永遠に眠ってしまいたかった。
その時だった。
ゴボリ、と浴槽の底から巨大な気泡が弾けるような異音が響いた。
身体を包んでいた熱いお湯の感触が、突如として氷のように冷たく、そして果てしなく深い「水底」の圧倒的な水圧へと変化していく。
「……ッ!?」
驚き、息を吸おうとして口を開けかけた瞬間、猛烈な浮遊感が僕の全身を襲った。
重力が上下左右の感覚とともに消失し、僕の身体は漆黒の底なしの「水」の中を激しく落下していく。
チクタク、チクタク、チクタク——。
耳の奥で、恐ろしいほどの速度で逆回転して刻まれる時計の秒針の音が、脳震盪を起こすほどの爆音となって鳴り響いた。
頭の中で数千枚、数万枚の文庫本のページが一斉に破かれ、風に舞うような猛烈な風切り音が脳髄を直接揺さぶる。
視界の暗闇の中に、無数の光の破片が走馬灯のように駆け巡った。
千早ヶ丘高校の教室の窓、夕暮れの廊下、雨のバイパス交差点、そして——どこか遠くで、寂しそうに微笑む水瀬葵の姿。
『——見つけてくれたんだね、陸くん』
深い、深い水底の闇の向こうから、彼女の透き通るような切ない声が聞こえた気がした。
叫ぼうとした僕の口から大量の気泡が噴き出し、視界が真っ白に塗りつぶされ、僕の意識は完全に闇の底へと脱落していった。
「……おい、陸! 起きろって、いつまで昼休みに爆睡してんだよ!」
強い力で肩を激しく揺すぶられ、僕は跳ね起きるように目を開けた。
「ハっ……!? ゲホッ、ハァ、ハァ……っ!?」
猛烈な息苦しさに襲われ、僕は胸を強く押さえながら荒い呼吸を何度も繰り返した。
お湯の熱さも、水底の冷たさも、自分の部屋の匂いもそこにはなかった。
代わりに僕の鼻腔を突いたのは——ワックスの清々しい匂い、日光で温められた教室の埃の匂い、そして窓の外のグラウンドから聞こえる野球部の元気な掛け声だった。
「おいおい、大丈夫かよ? すごい汗だぞ。悪夢でも見たのか?」
目の前にいたのは、缶コーヒーを片手に持ち、呆れ返ったような顔で僕を見下ろす親友の蓮だった。
「蓮……? お前……なんで……ここに……?」
「なんでってお前、同じクラスの隣の席だからだろ。ほら、もうすぐ午後の五時限目が始まるぞ。数学の五十嵐先生が入ってくるから早く教科書出せって」
僕は信じられない思いでガタリと席を立ち、周囲を狂ったように見回した。
見慣れた三年二組の教室。
大きな窓から差し込む、春の柔らかで温かな陽光。
楽しそうに雑談を交わし、笑い合うクラスメイトたちの声。
そして、黒板の右端に置かれた出席簿の横、白チョークで大きくはっきりと書かれた日付。
——三月十日(火)。
卒業式の、四日前。
絶句する僕の目の前で、教室の前側の引き戸がガラガラと静かな音を立てて開いた。
「みんなー、午後のプリント配るから席についてねー」
鈴が転がるような、柔らかく澄んだ声。
黒髪を静かに揺らしながら、教卓へ向かって歩いていく少女。
水瀬葵が、そこに生きて立っていた。
昨夜のバイパス交差点で死んだはずの彼女が。
冷たいパイプ椅子の机の上に一輪の白菊の花を添えられていたはずの彼女が。
窓からの光を全身に浴びて、彼女はいつものように静かに、控えめに微笑みながらクラスメイトたちにプリントを一枚ずつ配っている。
ふと、彼女が僕の方を振り返った。
僕と視線が正面から交差すると、彼女はいつものように、どこか恥ずかしそうに頬を緩め、小さな会釈を返してくれた。
怯える様子もなければ、警戒する様子もない。僕が知っている「気品があって静かな、高嶺の花」そのものの姿だ。
(水瀬が……生きて、歩いて、笑ってる……!)
全身の血が激しく逆流するような、圧倒的な歓喜と身体の震えが突き上げてくる。
夢なんかじゃない。これは間違いなく現実だ。
僕は、あの浴室で意識を失うほど水に深く沈んだことで、時間を巻き戻したのだ。
卒業式の四日前——彼女がトラックにはねられる三月十三日の未明より前の、平穏な世界へと。
三月十三日の惨劇まで、あと四日。
なぜ時間が戻ったのか、その原理も理由も分からない。
けれど、もしも神様が僕の後悔を聞き届け、もう一度やり直すチャンスをくれたのだとしたら。
(今度こそ……今度こそ絶対に、僕の命に代えてでも君を救ってみせる!)
自分の両手を血が滲むほど強く握りしめ、僕はそこに生きている水瀬葵の姿を、溢れ出る涙で歪む瞳で見つめ続けていた。
こうして、僕の長く、狂おしい一度目のタイムリープが始まった。
「——おい陸! いつまで潜ってんだよ、息苦しくねえのか!?」
バシャリ、と頭上で激しく叩きつけられたような水音が響き、耳奥の鼓膜を強力に揺さぶった。
閉ざしていた瞼の裏側に、突如として眩いばかりの強烈な真夏の光が飛び込んでくる。視界全体が純白の閃光で塗りつぶされ、強い刺激に思わず両目を細めた。
鼻腔を突き抜けたのは、三月十四日のあの冷たく悲痛な春雨の匂いでもなければ、卒業式の体育館を包み込んでいた静まり返ったワックスの匂いでもない。夏のプール特有のツンと鼻を刺す塩素の匂いと、強い太陽の熱に温められたコンクリートから立ち上る、熱気を帯んだ特有の匂いだった。
「ゲホッ……! カハッ、ハァ、ハァ……っ!?」
僕はプール底から水面へと必死で身体を押し上げ、激しい水しぶきを周囲に撒き散らしながら、荒い呼吸を何度も何度も繰り返した。
水面に複雑な波紋を描きながら強く反射する真夏の太陽の光が、刺さるように痛く、そして狂おしいほどに眩しかった。
呼吸を整えながら周囲を見回すと、そこは青々とした水面が眩しく波打つ、千早ヶ丘高等学校の屋外プールだった。
耳をつんざくような蝉の時雨の大合唱。プールサイドのコンクリートに打ち寄せる規則的な水音。日焼けした肌をじりじりと焼き付けるような、真夏の圧倒的な熱気。
プールサイドでゴーグルを頭の上にずり上げ、呆れ果てたような表情でこちらを見下ろしているのは、水着姿の親友・蓮だった。
「お前、さっきから二分以上ずっとプール底で固まって沈んでただろ? いくら暑いからって、潜水記録でも狙ってんのかよ。マジで意識失って溺れ死んだかと思って本気で焦ったわ」
「は……? 夏……プール……!?」
僕は自分の濡れた両手を持ち上げ、穴が開くほど見つめた。
そこには、さっきまで握りしめていたはずの三月十日の教室で配られたプリントも、三月十四日のあの惨惨たる事故現場で拾い上げた、血と雨に濡れた小さな紙片もない。
僕はおののくようにプールサイドへ這い上がり、水詰まりした耳を何度も叩きながら校舎を見上げた。
校舎の3階のベランダには「夏期講習・部活動実施中」と書かれた大きな横断幕。そしてプール脇の案内掲示板に貼られたカレンダーの数字が、くっきりと視界に飛び込んできた。
——八月十二日(木)。
高校三年生の、夏休み。
「嘘……だろ……? 三月十日じゃなくて……夏に戻った……!?」
頭の中で激しい混乱と激痛が同時に弾けた。
僕は三月十日の自室で熱いお湯に潜り、さらに過去へと時間を遡行したのだろうか。
三月十四日の夜に自室のお湯に深く潜ったことで三月十日へ。そして、三月十日の自室でも深く意識を沈めたことで、今度はさらに前である「高3の夏」まで時間が完全に巻き戻ったというのか。
(待て……まさか、僕が『無意識に、あるいは意識を失うほど水へ深く沈む』ことで、時間が過去へと跳躍しているのか……!?)
あまりにも突拍子のない、だが逃れようのない現実。
悪夢であってくれと祈る反面、胸の奥では恐ろしいほどの強烈な鼓動と希望が打ち鳴らされていた。
高3の夏。
まだ、三月十三日のあの凄絶な交通事故まで、半年以上の時間が残されている。
「おい陸、ボーッとしてないでちゃんと水分補給しとけよ。朝倉先生に見つかったら怒られるぞ」
蓮がスポーツドリンクのペットボトルを無造作に投げ渡してきた。僕はそれを受け取り、キンキンに冷えたボトルを濡れた額に押し当てながら、必死で乱れた呼吸と動悸を整えた。
夏期の体育補講と部活動の合間。プールには数人の生徒たちが泳ぎ疲れた様子でプールサイドに腰掛け、休んでいた。
その時だった。
「朝倉先生、写真部の暗室の鍵、お返ししますね」
風に乗って風鈴のように届いた、涼やかで鈴を転がすような透明感のある声。
僕は弾かれたように振り返った。
プール脇の日陰になった渡り廊下。そこに、一眼レフカメラを首から下げた一人の少女が立っていた。
水瀬葵。
白いノースリーブのブラウスに、紺色のプリーツスカート。
夏の日差しを受けて、透き通るような黒髪が風にふわりと揺れている。
彼女は写真部の撮影作業の途中で、鍵を返しにプールサイドを訪れていたようだった。
生きている。
三月十日よりもさらに若い、夏の強い光を全身に浴びた水瀬葵が、確かにそこに存在していた。
「あ……」
声が出なかった。
胸の奥からこみ上げる猛烈な愛おしさと、彼女をまた失ってしまうことへの激しい恐怖。
あの日、冷たい雨の中で血に染まったガードレールの横で見つめたあの悲惨な光景が脳裏をよぎり、僕は目頭が熱くなるのを抑えられなかった。
「おいおい陸、また水瀬のこと穴が開くほど見つめてんのか?」
隣で蓮がニヤニヤしながら僕の肘を小突いてきた。
「まあ、しょうがねえよな。水瀬葵だもんな。学年一の美少女で、高嶺の花。写真部で真面目にカメラ構えてる姿なんて、絵になりすぎて眩しいわ。お前みたいな地味グループの奴が告白したって、一秒で砕け散るのがオチだけどな」
「……蓮、うるさい」
「冗談だって。ほら、水瀬がこっち見たぞ」
蓮の言葉通り、写真部顧問の朝倉先生と話し終えた水瀬が、ふとプールの方へと視線を向けた。
そして、プールサイドで濡れた髪のまま呆然と立ち尽くす僕と、バッチリ視線が正面から交差した。
水瀬は一瞬だけパチクリと目を見開くと、どこか恥ずかしそうに頬をかすかに桃色に染め、僕に向かってペコリと小さく頭を下げた。
三月の卒業式の日には、交わすことすら叶わなかった視線。
高嶺の花だった彼女が、僕という存在をしっかりと認識してくれているという、それだけの事実で胸が破裂しそうだった。
「……あ、あの! 水瀬!」
気がついた時には、僕は足を動かしていた。
水気を切る間もなく、プールサイドを滑りそうになりながら、一心不乱に彼女のもとへ駆け寄っていた。
「うわ、陸!? お前なに突然突撃してんだよ!?」
背後で蓮が驚愕の声を上げていたが、今の僕には関係なかった。
半年後に死んでしまう彼女。この夏休みの段階で、少しでも彼女との接点を作り、彼女をあの悲惨な危険から遠ざける手掛かりを掴まなければならないのだ。
「っ……榛名くん……?」
突然水着姿のまま息を切らして駆け寄ってきた僕に、水瀬は少し驚いたように首を傾げた。
近くで見つめる彼女の肌は眩しいほどに白く、その瞳は吸い込まれそうなほどどこまでも澄んでいた。
「ご、ごめん! 急に声かけたりして! その……写真部、暑い中お疲れ様!」
自分でも呆れるほど、しどろもどろで支離滅裂な挨拶。
だが、水瀬は一瞬きょとんとした後、ふっと花が咲くような柔らかく温かな笑顔を見せた。
「ふふ、ありがとう、榛名くん。プール、すごく気持ち良さそうだね。今日は本当に暑いから、羨ましいな」
彼女が僕の名前——「榛名くん」と呼んでくれた。
その声の優しさと温もりに、目頭が熱くなる。
「あ、もしよかったら……これ、飲むか? まだ未開封のスポーツドリンクなんだけど……」
僕は手にしたキンキンに冷えたペットボトルを差し出した。
水瀬は少し遠慮するように手を振ったが、僕の真銭すぎるまっすぐな眼差しに押されたのか、くすりと笑って受け取ってくれた。
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて……冷たくて美味しい」
キャップを開け、ペットボトルに小さく口をつける彼女の美しい首筋。
そこに揺れる漆黒の髪と、ゴクリと鳴る小さな甘い水音。
真夏の陽射しの中で見つめ合う二人の間に、甘酸っぱく、どこかすこし切ない時間がゆっくりと流れていた。
(守るんだ。この笑顔を、この命を……絶対に)
僕は固く心に誓っていた。
この高3の夏からなら、彼女との関係を深め、卒業式前日のあの交差点での惨劇を回避する完璧な手立てを打てるはずだと。
プールでの補講が終わり、濡れた髪をタオルで拭いながら校舎へと戻った。
部活中の生徒たちの威勢の良い掛け声が遠くグラウンドから響き、西日が校舎の長い廊下を橙色に鮮やかに染め上げていく。
蓮は「じゃあな、俺は補習の再テストあるから」とげっそりした顔で補習教室へ向かっていった。一人になった僕は、胸の奥で早警報のように鳴り響く鼓動を抑えきれず、渡り廊下を通って特別校舎の特別教室棟へと向かった。
写真部の部室がある、旧館の最奥。
木製の重いドアの隙間から、ほんのりと現像液の甘く酸っぱい化学薬品の匂いが漂っていた。
「水瀬……まだいるのかな」
息をひそめてドアに近づくと、ガチャリと控えめな金属音が聞こえ、暗室のドアがすっと開いた。
出てきたのは、首から一眼レフを下げた水瀬葵だった。
「あっ……榛名くん?」
彼女は驚いたように目を見開いた。夕暮れのオレンジ色の光が大きな窓から差し込み、彼女の白い肌と紺色のスカートを鮮やかに彩っている。
「ごめん、驚かせるつもりじゃなくて……。写真部の作業、まだ続いてたのかなって」
「うん。今日撮影したモノクロフィルムの現像が終わったところなんだ。プールで榛名くんからもらったスポーツドリンクのおかげで、最後まで集中して作業できたよ。本当にありがとう」
水瀬はそう言って、嬉しそうに目元を緩めた。
その飾らない素顔を見るだけで、三月十四日のあの冷たい雨と血の匂いが嘘のように遠のいていく気がした。
「あのさ、水瀬……もしよかったらなんだけど。少しだけ、話さないか? 校庭のベンチとかで」
自分でも驚くほど自然に、言葉が口をついて出た。
本来の僕なら、学年一の人気者である彼女にそんな提案などできるはずもなかった。だが今の僕には、「三月十三日の事故」という絶望的な未来を変えなければならないという強い意志があった。
水瀬は一瞬だけ戸惑うようにカメラのストラップに細い指を絡めたが、すぐに柔らかく頷いた。
「うん、いいよ。ちょうど私も、少し涼みたくて休憩しようと思ってたところなんだ」
渡り廊下の階段を下りた先、体育館脇の木陰にあるベンチ。
昼間の熱気がまだ残るコンクリートの上で、僕と水瀬は少しだけ間隔を空けて並んで腰掛けた。
風が渡るたびに、頭上のくぬぎの葉がさわさわと音を立てる。
遠くで鳴くヒグラシの声が、夏の夕暮れの寂しさを引き立てていた。
「榛名くんって、プールでずっと深く潜ってたでしょ?」
水瀬が膝の上で両手を重ねながら、ふふっと楽しそうに笑った。
「見てたんだ……恥ずかしいな」
「ううん、すごく静かで綺麗だったよ。まるで時間が止まってるみたいで……私、思わずカメラを向けたくなっちゃった」
「写真、撮ってくれてもよかったのに」
「本当? じゃあ今度、撮らせてもらおうかな。私ね、人が何かに夢中になってたり、ボーッとして素の自分に戻ってる瞬間の写真が好きなの」
彼女は首から下げた愛用のカメラに愛おしそうに触れた。
だが、その指先が微かに震えていることに、僕は気がついた。
夕暮れのオレンジ色の光の中で見つめる彼女の側顔には、クラスで見せる明るく気品ある表情とは裏腹に、どこか消えてしまいそうな透明感と、底知れぬ寂しさが漂っていた。
(水瀬は……何かを抱えているのか……?)
未来の三月十三日、彼女はなぜ夜中にあの遠いバイパス交差点にいたのか。
なぜ、血に濡れた紙切れに『陸くんへ』というメッセージを残していたのか。
その答えの端緒が、この高3の夏の段階で、すでに彼女の心の中に存在しているのかもしれない。
「水瀬……何か、悩みごとでもあるのか? 浮かない顔に見えたから」
僕が尋ねると、水瀬はハッとしたように目を丸くし、それから苦笑いを浮かべて首を振った。
「ううん、何でもないの。ただ……夏が終わっちゃうのが、なんだかもったいないなって思って。高校生活最後の夏休みでしょ? この時間がずっと続けばいいのに、って……時々、怖くなっちゃうんだ」
「夏が終わるのが怖い」——彼女の言葉が、僕の胸を深く刺した。
彼女にとっての「未来」は、半年後の三月に途絶えてしまう。
彼女自身はそれを知る由もないはずなのに、まるで自分の運命を予感しているかのような哀切な言葉だった。
「終わらせないよ」
僕は思わず、強い口調で言っていた。
「え……?」
「僕が……僕たちが、最高に楽しい夏休みにすればいい。夏が終わったって、秋も冬も、来年の春だって……ずっと楽しい思い出を作っていけばいいんだから」
必死すぎる僕の熱量に、水瀬は面食らったように瞬きを繰り返した。
指先を合わせ、少しだけ照れたように微笑む。
「……榛名くんって、すごく不思議な人だね。クラスではあんまり話したことなかったけど……すごく温かい」
「そんなことないよ。ただ……君に笑っていてほしいんだ」
夕闇がゆっくりと二人を包み込んでいく。
水瀬はカメラのレンズキャップをカチリと嵌めると、意を決したように僕の顔を真っ直ぐに見つめた。
「ねえ、榛名くん。夏休みが終わる前に……一緒に向日葵を見に行かない?」
「向日葵……?」
「うん。隣町の常盤木公園に、すごく大きな向日葵畑があるんだって。写真部の先輩に教えてもらったの。もしよかったら……二人で行きたいな」
高嶺の花だった彼女からの、思いがけない誘い。
胸が締め付けられるほどの喜びと、絶対に彼女を守り抜くという覚悟が、僕の身体中を駆け巡った。
「行く! 絶対に行こう、水瀬!」
「ふふ、約束ね。楽しみに決まってる」
小指を立てるような無邪気な仕草で、水瀬は嬉しそうに微笑んだ。
未来は変えられる。
この高3の夏からなら、彼女との絆を深め、彼女の孤独に寄り添い、あの三月の惨劇を回避する道筋を必ず見つけ出せるはずだ。
プールサイドから始まった、この青く眩しい二度目の夏。
僕は彼女の手を握りしめるように心の中で誓い、夕焼けの空を見上げた。
八月二十一日。土曜日。
雲ひとつないどこまでも澄み渡った青空から、突き刺すような強烈な真夏の陽光が降り注ぎ、街じゅうの木々から蝉たちのけたたましい声が重なり合って響いていた。
朝九時前、僕は常盤木駅の改札前で、何度も自分の服のシワを伸ばしたり、髪型を気にしたりしながらソワソワと立ち尽くしていた。
普段の僕なら絶対に着ないような、アイロンの利いた少し仕立ての整った白シャツに、素朴なデニムパンツ。昨日の夜、自室の姿見の前で何度も服を着替えては首を捻り、悩みに悩んだ末に選んだ勝負服だった。
掌にはじんわりと嫌な汗が滲み、指先が微かに震えている。
クラスの片隅で目立たないように息を潜めていた僕のような存在が、学年一の人気者であり高嶺の花である水瀬葵と、休日に二人きりでお出かけをする。
本来の「タイムリープする前の世界」では、絶対にあり得なかった奇跡のような時間が、今まさに僕の目の前で始まろうとしていた。
「——榛名くん!」
人混みの雑踏を押し分けて、聞き覚えのあるあの鈴を転がすような透明感あふれる声が届いた。
ハッとして振り返ると、そこには薄い麦わら帽子をちょこんと被り、涼しげな淡いブルーのワンピースに身を包んだ水瀬が立っていた。
首にはいつもの使い込まれたオールドフィルムカメラ。真夏の日差しを受けて風に揺れる艶やかな黒髪と、胸元でキラリと揺れる白いペンダントが鮮やかで、息を呑むほど美しかった。
「ごめんね榛名くん、お待たせしちゃったかな? バスをひとつ見送っちゃって……」
「う、ううん! 全然待ってないよ、僕も今着いたところだから。……あの、すごく素敵な服だね。似合ってる」
胸の動悸を抑えきれず、素直な気持ちが口をついて出ると、水瀬は一瞬パチクリと丸い瞳を見開いた。それからどこか照れくさそうに頬を桃色に染め、麦わら帽子の庇をキュッと深く下げた。
「ふふ、ありがとう。榛名くんも、いつもの制服姿と違ってすごく格好いいよ。……じゃあ、行こっか!」
眩しい笑顔を浮かべる彼女の隣に並んで歩き出す。
この命を守る。この笑顔を、あの三月十三日の冷たい雨の中で絶対に消させはしない。改めて力強く胸に誓った。
常盤木駅からローカルバスに揺られること二十分ほど。
エンジン音を響かせて到着したのは、静かな町外れにある『常盤木公園』の広大な敷地だった。
バスを降り、緩やかな丘の斜面を登り切った瞬間、僕たちの視界一面に圧倒的で壮大な光景が広がった。
見渡す限りの視界の果てまで、ぎっしりと埋め尽くす数千本もの大輪の向日葵。
真夏の太陽に向かって誇らしく大輪を咲かせる深みのある黄金色の花弁たちが、吹き抜ける夏の風に揺れてざわめいていた。
「うわあ……! すごい……! 榛名くん、見て、一面の向日葵畑だよ!」
水瀬は歓声を上げると、まるで小さな少女のように目を輝かせ、向日葵畑の中に作られた小道へと駆け出していった。
麦わら帽子が風に飛ばされないよう手でそっと押さえながら、振り返って僕に手招きする彼女の姿は、まるで映画の一シーンのように美しい一枚の絵画だった。
彼女は首から下げた一眼レフカメラを構えると、ファインダーを覗き込みながら夢中でシャッターを切り始めた。カシャリ、カシャリと心地よい金属音が夏空に清々しく響き渡る。
「このカメラ、すごく大切そうに使ってるよね。古そうだけど、すごく味が合って良いカメラだ」
追いついた僕が尋ねると、水瀬はカメラの使い込まれた金属ボディを愛おしそうにそっと指先で撫でた。
「うん。これね、私が小学生の時に亡くなったおじいちゃんから譲り受けたカメラなの。おじいちゃん、写真を撮るのが本当に大好きな人でね……『大切な景色や大好きな人は、写真に残しておけばずっと消えないんだよ』って、私に教えてくれたの」
そう語る彼女の瞳に、ほんのわずかだけ切なく影のある陰りが差したのを、僕は見逃さなかった。
「大切なものを、残す……」
「そう。写真の中に閉じ込めておけば、たとえその時間が過ぎ去っても、その人が目の前からいなくなっちゃっても、ずっとそこにあり続けてくれるでしょう? だから私、写真を撮るのが大好きなの」
水瀬は寂しげな表情を吹き飛ばすようにふふっと笑うと、突如としてカメラのレンズをまっすぐ僕へと向けた。
「あ、ちょっと水瀬……!? 急にカメラ向けないでよ!」
「はい、動かないでね榛名くん。そのまま、そのまま……はい、チーズ!」
カシャリ。
レンズの向こうで、彼女が今日一番の温かな笑顔を弾けさせていた。
僕たちの距離が、確かに少しずつ、だが確実に縮まっているのを肌で感じていた。
散策を楽しみ、正午を過ぎて日差しが最高潮に達した頃。
僕たちは向日葵畑を一望できる丘の上にある、大きなくぬぎの木の日陰で、木製のベンチに並んで腰掛けた。
途中の売店で買ってきた冷たいラムネのガラス瓶をふたつ。
カラン、と瓶の中で涼しげなビー玉の音が鳴り響く。
「ぷはぁ、冷たくて美味しい! 榛名くん、今日は誘いに応じてくれて本当にありがとうね」
「お礼を言うのは僕の方だよ。こんなに綺麗な場所に水瀬と一緒に来られて、本当に夢みたいに嬉しい」
ラムネを一口飲み、喉を潤した水瀬は、膝の上で細い指先をギュッと強く握りしめた。
そして、遠くで黄金色に揺れる向日葵畑を見つめたまま、ぽつりぽつりと静かな声で語り始めた。
「……ねえ、榛名くん。私ね、実は『明日』が来るのが、時々すごく怖くなるの」
「え……?」
あまりにも唐突な言葉に、僕は手に持っていたラムネの瓶を思わず強く握り直した。
「小学生の時、お父さんが急に脳の病気で倒れてね……朝『行ってきます』って笑顔で出かけたきり、二度と家に帰ってこなかったの。病室で冷たくなったお父さんを見た時……大切な人ってね、ある日突然、何の前触れもなくいなくなっちゃうんだなって……私、痛いほど思い知らされたんだ」
そう語る彼女の肩と指先が、かすかに、けれどはっきりと震えていた。
「だから……高校三年生の夏になって、みんなが未来のことや卒業後の進路の話をし始めると、胸が苦しくてたまらなくなるの。私の大好きなこの時間も、大切な人たちとの幸せな日々も、いつかまた突然奪われて消えちゃうんじゃないかって……だから未来を見るのが、怖くなっちゃうんだ」
だから彼女は、第2話のプールサイドで「夏が終わるのが怖い」と零していたのだ。
大切な者を前触れもなく失う恐怖。その底知れぬ孤独と不安を胸に抱えながら、彼女はクラスで誰よりも明るく気品高く振る舞い続けていたのだ。
そして、運命の皮肉というべきか——彼女自身が、半年後の三月十三日に前触れもなく命を奪われる運命にある。
「水瀬……」
僕は膝の上の両拳を、爪が皮膚に食い込むほど固く握りしめた。
胸の奥が張り裂けそうなほど痛かった。
父親の突然死という悲痛な記憶。
大切な存在がある日突然いなくなってしまうことへの恐怖が、水瀬葵という少女の笑顔の裏に隠された孤独の正体だった。
彼女の目から、ひとしずくの涙が零れ落ち、麦わら帽子の庇をかする。
僕は息を呑み、膝の上で強く握りしめていた右手をゆっくりと伸ばした。
「水瀬……大丈夫だよ」
伸ばした僕の手が、彼女の華奢で冷たい指先にそっと触れる。
水瀬はビクッと肩を跳ねさせたが、手を引きはしなかった。
「僕が……僕がずっと、君の側にいるから」
「榛名くん……?」
「前触れもなく消えたりしない。明日も、明後日も、夏が終わった後の秋も冬も……来年の春だって。僕はずっと君の隣で笑ってる。だから……いなくなることなんて、絶対に怖がらなくていいんだ」
それは、単なる慰めや青臭い恋の告白ではなかった。
半年後の三月十三日、彼女の命を奪うあの悲惨な事故を絶対に阻止してみせるという、命を懸けた誓いの言葉だった。
水瀬は濡れた瞳を大きく見開き、僕の真剣な表情をじっと見つめた。
やがて、彼女の頬を伝う涙が溢れ出し、彼女は溢れる感情を抑えきれないように小さな声を漏らした。
「……うん。うん……っ! ありがとう、榛名くん……! すごく、心が温かくなったよ……」
広大な向日葵畑の上を、茜色の夕暮れの光がゆっくりと包み込んでいく。
黄金色に輝く花々に囲まれながら、僕たちはどちらからともなく重ねた手の上に力を込め、互いの体温を噛み締め合っていた。
陽が傾き、空が綺麗なグラデーションを描く頃、僕たちは常盤木公園を後にして帰路に就いた。
バスと電車を乗り継ぎ、すっかり夜の帳が下りた千早ヶ丘の街へと戻ってきた。
駅から水瀬の自宅へと続く帰り道。
街灯の明かりが灯る静かな歩道を、僕たちは少し余韻に浸りながら並んで歩いていた。
「今日は本当に楽しかったな。写真、綺麗に撮れてるといいね」
「うん! 現像するのがすごく楽しみ。榛名くんのピン写真、一番最初にプリントするね」
そう言って悪戯っぽく笑う彼女の表情には、昼間見せていた影や寂寥感は綺麗に消え去っていた。
僕の言葉が、ほんの少しでも彼女の心を救えたのだとしたら、これ以上の幸せはなかった。
だが——その平和な時間は、ある交差点に差し掛かった時に一変した。
国道十六号バイパスへと抜ける、交通量の多い大きな交差点。
三月十三日の夜、水瀬葵がトラックにはねられて命を落とした、まさにあの「運命の交差点」だった。
「ん……? あの信号、なんだかおかしくない……?」
水瀬が足を止め、交差点の上を見上げた。
彼女の指差す先、歩行者用信号機の青信号が、チカチカと不規則で異様な点滅を繰り返していた。
それだけではない。車両用の信号機も、黄信号から赤信号への切り替わりが一瞬固まるような不自然な挙動を見せている。
「点滅が……不規則だな。接触不良か……?」
「最近、このあたりの信号機、工事してるってニュースで言ってた気がする。夜間になるとたまにおかしくなるんだって……怖いね」
水瀬が何気なく呟いたその言葉に、僕の全身の血が凍りついた。
(信号機の不具合……!?)
頭の中で、バラバラだったピースが一気に繋がっていく。
三月十三日の深夜。雨が降り頻る視界の悪いバイパス交差点。
なぜ彼女は、大型トラックが猛スピードで進入してくる交差点に足を踏み入れてしまったのか。
単なる不注意や自殺などではない。信号機のセンサー異常、あるいは表示の不調によって、歩行者側と車両側の双方が「青信号」だと誤認して交差点に進入したのではないか。
そして、彼女の鞄から飛び出していた『陸くんへ』と書かれたメッセージ。
あれは事故の直前に書かれた遗書などではなく、日頃の感謝や伝えきれなかった想いを綴った手紙だったとしたら——。
(事故の原因は……この交差点の欠陥信号と、視界不良だ……!)
「榛名くん……? 顔色、すごく悪いよ? どうしたの……?」
突然固まり、青ざめた僕の顔を心配そうに覗き込んでくる水瀬。
「っ……ううん、なんでもない! 急にちょっと目眩がしただけだから!」
僕は必死で首を振り、作られた笑顔を浮かべた。
だが、冷や汗が背中を伝うのを止められなかった。
危険の正体が見えた。
事故を引き起こす因果の引き金は、この交差点の不完全な設備と、三月十三日という「日付」にある。
半年後、三月十三日。
彼女が絶対にこの交差点に来ないようにすること。そして、この信号機の危険性を事前に警察や行政に訴えかけること。
タイムリープによって得た知識と手がかりが、着実に未来を変えるための武器になりつつあった。
「水瀬……約束してくれ」
「え……?」
「三月……ううん、これから先、夜遅くに一人でこの交差点を通る時は、絶対信号だけに頼らないで、周りをよく確かめて渡るって。ううん、できれば夜遅くにはここを通らないでほしい」
僕の切実すぎる願いに、水瀬は一瞬きょとんとしたが、僕の真剣な瞳に押されるように優しく頷いてくれた。
「うん、分かったよ。榛名くんがそんなに心配してくれるなら、約束するね」
水瀬の自宅の前。
門灯の柔らかい光の下で、彼女は振り返り、最高に眩しい笑顔で手を振った。
「今日は本当にありがとう、榛名くん。バイバイ、また始業式でね!」
「うん、またね、水瀬!」
遠ざかっていく彼女の背中を見送りながら、僕は夜空に浮かぶ夏の大三角を見上げた。
未来は変えられる。
絶対に、僕が彼女の止まった時間を動かしてみせる。
常盤木公園の向日葵畑で、あの奇跡のような夏の約束を交わしてから、ふたつの月日が瞬く間に通り過ぎていった。
連日のように肌を灼いていた真夏の猛烈な熱気はすっかり影を潜め、千早ヶ丘高校の広い校庭の隅に佇む大きなイチョウの木々が、鮮やかな黄金色へと日ごとに色づき始めていた。
校舎を吹き抜ける風にはどこか寂しげで涼しい秋の匂いが混じり、午後五時を過ぎれば空はあっという間に切なく深い茜色へと染まっていく。
十月下旬。学校じゅうがどこか浮き足立った独特の熱気と賑わいに包まれる時期——千早ヶ丘高校の伝統行事である文化祭『秋華祭』の準備期間が始まっていた。
「おい陸! ボーッと外見てないで、クラスの出し物の看板ペンキ塗り手伝ってくれよ! お前、夏休み明けてからなんか妙に落ち着いてるっていうか、手際良くなったよな?」
夕暮れの西日が差し込む三年二組の教室。窓際でローラーとペンキ缶を手にした親友の蓮が、大声を張り上げながら僕の肩を軽く小突いてきた。
教室の中では、模擬店の装飾を作る女子生徒たちの楽しげな話し声や、ダンボールを切るカッターナイフの規則的な音が心地よく響き渡っている。
「ごめんごめん、今手伝うよ。……あ、蓮、ちょっと待ってて」
僕は手に持っていた刷毛をバケツの上に置くと、吸い寄せられるように教室の廊下側へと歩み寄った。
廊下の向こうから、大きな木製の額縁を幾つも抱え、少し首を傾げながら歩いてくる一人の少女の姿が見えたからだ。
水瀬葵。
紺色の落ち着いた制服の上に、薄手のベージュのカーディガンを羽織った彼女。
夏休みのあの常盤木公園での出来事以来、僕と葵の距離はクラスの誰もが驚くほど急速に縮まっていた。
昼休みになれば中庭の木陰にあるベンチで並んでお弁当を食べ、放課後になればこうしてごく自然に言葉を交わす。かつての周回——卒業式まで一言も喋れずに終わったあの哀しい過去では考えられないほど、温かく優しい日常が確かにそこにあった。
「水瀬! 荷物、すごく重そうだな。僕が持つよ」
僕は廊下へ飛び出すと、葵が抱えていた重たい木枠の額縁をそっと手際よく受け取った。
「あっ……榛名くん! ふふ、ありがとう、すごく助かっちゃった。写真部の展示室まで運ぶ途中だったんだけど、思ったより木枠が重くて困ってたの」
葵はホッとしたように胸を撫でおろし、カーディガンの袖口から覗く華奢な指先で、額に浮かんだ小さな汗を拭った。
茜色の夕暮れ光が廊下の窓から差し込み、彼女の透き通るような肌と、風に揺れる黒髪を美しく彩っている。
「写真部の今年の展示テーマ、もう決まったの?」
「うん! 今年の写真部全体のテーマは『記憶と光』になったんだ。……ねえ榛名くん、実はね……私がメイン展示として出品するポートレート写真、あの夏の常盤木公園で撮った榛名くんの写真なんだよ?」
「えっ……!? 僕の写真……!?」
思わず裏返った大声を上げてしまった僕を見て、葵は両手を胸の前で合わせ、楽しそうにクスクスと上品に笑った。
渡り廊下の木製スノコを踏み鳴らし、渡り廊下の先にある旧校舎の特別教室棟へ。
放課後の特別校舎は静まり返っており、写真部室の重い引き戸を開けると、香ばしい木造校舎の匂いと現像液特有の甘く酸っぱい化学薬品の匂いが優しく鼻腔をくすぐった。
「朝倉先生、榛名くんが展示用の重い額縁を運ぶのを手伝ってくれました」
「おお、榛名か。いつも葵ちゃんのサポートをしてくれて助かるよ、ありがとうな。葵ちゃんの展示作品、写真部の中でも群を抜いて素晴らしい仕上がりになってるぞ」
黒板に向かって文化祭のレイアウト図を描いていた写真部顧問の朝倉賢介先生が、温和な眼鏡の奥の目を細めて出迎えてくれた。
部屋の壁一面には、部員たちが丹精込めて引き伸ばした様々な風景や人物の写真たちが並べられている。
その中央、最も来場者の視線を集める特設展示スペースに、一枚の大きなモノクロ写真が大切そうに額装されて飾られていた。
そこに写っていたのは——一面に咲き誇る向日葵畑の風の中で、少し照れくさそうに頭を掻きながらも、まっすぐで力強い瞳でファインダーを見つめて微笑んでいる僕の姿だった。
白と黒の光彩のコントラストが息をのむほど美しく、まるで僕という人間の存在の根底や、心の奥底に秘めた情熱まで見透かして切り取ったかのような、圧倒的な熱量と温もりに満ちた一枚だった。
「これ……本当に僕なのかな。なんだか、すごく綺麗に撮ってもらえて恐縮しちゃうよ」
「ううん、綺麗なんじゃなくて、榛名くんの本当の優しさが写ってるの」
葵は写真の前に静かに立ち、愛おしそうにその作品を見つめた。
「私ね、お父さんを亡くしてから、写真を撮る理由は『大切な人を忘れないように閉じ込めるため』だと思ってた。でも……向日葵畑で榛名くんを撮ってから、考えが変わったの。写真って、過去を残すためだけじゃなくて、これから二人で歩んでいく未来を写すためにあるんだなって……榛名くんがそう教えてくれたんだよ」
まっすぐな瞳で僕を見つめ、紡がれる彼女の温かな言葉。
胸が痛いほど強く締め付けられる。
(守ってみせる……絶対に。この手で、この写真に込められた未来を……絶対に手離さない!)
僕は拳を固く握りしめ、葵に向かって深く、力強く頷いた。
写真部室を後にした僕は、夕闇が迫る生徒会室の前へと向かった。
人影のまばらになった廊下で、僕は胸ポケットから一折りにした一枚のプリントを取り出した。
全校生徒に配布されていた『通学路および地域交通の危険箇所アンケート』。
僕はそこに、あの「国道十六号バイパス交差点」の正確な位置を明記し、夜間における歩行者用・車両用信号機の不規則な点滅や制御プログラムの不具合について、極めて具体的かつ詳細に危険性を書き記していた。
学校側から警察や行政へ正式に危険交差点として改善要求を出してもらい、事故が起きる前にあの危険な信号機を修繕・交換してもらうためだ。
(よし……これで一つ、未来を変えるための確実で決定的な手を打てたはずだ……)
木製の「意見箱」の投入口へ用紙を落とす。パサリと底に落ちた紙の音を聞きながら、僕は胸の奥で安堵の息を漏らした。
だが——運命の歯車は、僕たちの預かり知らぬところで、静かに、そしてあまりにも冷酷に狂い始めていた。
半開きになった生徒会室のドアの奥から、教員同士の低く重い会話が漏れ聞こえてきたのだ。
「……例の国道十六号バイパスの再開発および道路拡張工事の件ですがね。市の予算見直しの影響で、交差点の信号機更新工事が来年度の春以降に延期することが決定したそうですよ」
「春以降……? 参ったな、あそこは夜間の信号誤作動の報告がいくつか上がっている危険箇所なんだが……」
「まあ、現時点では幸いにも重大な死亡事故などは起きていませんからね。警察や県の優先順位としては、どうしても後回しになってしまうんでしょう」
開いたドアの隙間から届いたその冷たい言葉に、僕の全身の血が一瞬で氷漬けにされたかのように凍りついた。
(工事が……延期……!? 信号機が修修されない……!?)
行政や警察の対応は、僕の甘い甘観をあっさりと打ち砕くほど遥かに遅く、そして無慈悲だった。
信号機の不具合という「事故を引き起こす物理的な因果」は、僕がどれほど警察や学校に訴えかけようとも、来年の三月十三日の段階でそのまま放置されることが確定してしまったのだ。
背筋を恐ろしい冷や汗が吹き抜け、激しい吐き気と息苦しさが僕を襲う。
タイムリープして歴史を変えようと足掻けば足掻くほど、世界の運命は強烈で巨大な復元力によって、「水瀬葵の死」という惨劇へとしがみつこうとしているようだった。
外部の力には頼れない。僕の手だけで、僕の身体だけで、彼女を事故の瞬間から直接引き剥がし、守り切るしかない——。
底知れぬ恐怖と強烈な焦燥感が、秋の夜の冷気とともに、僕の心を静かに侵食し始めていた。
十月二十九日。秋華祭の当日。
透き通るような秋晴れの下、校門には華やかなアーチが飾られ、校内は朝から保護者や近隣の住民、他校の生徒たちでごった返していた。
校庭からは吹奏楽部の演奏する軽快なメロディが響き、校舎の至る所からソースの香ばしい匂いや歓声が聞こえてくる。
「陸、ちょっと葵ちゃん借りてくぞー!」
写真部の呼び込みや展示の案内で大忙しの葵だったが、午後になると二人の時間は思いがけない形で訪れた。
クラスの模擬店の手伝いを終えた僕は、葵に誘われて人混みを離れ、普段は施錠されている特別校舎の屋上へと足を運んでいた。朝倉先生が写真撮影の名目で特別に鍵を貸してくれたのだ。
重い鉄の扉を開けると、そこには爽やかな秋風と、どこまでも広がる抜けるような青空が広がっていた。
「ふう……! すごい人だったね、榛名くん。でも、写真部の展示、たくさんの人が見に来てくれてすごく嬉しかったな」
フェンスに背中を預け、葵がふんわりと息を吐き出す。
彼女の胸元には、あの大切なオールドカメラ。
「水瀬の写真、本当に大評判だったよ。みんな『光の捉え方がすごく綺麗だ』って感動してた」
「ふふ、ありがとう。でもね、一番長く写真を見てくれてたのは……榛名くんのお友達の蓮くんだよ。『陸の奴、こんな良い顔するんだな』って笑ってた」
そう言って葵はくすくすと嬉しそうに笑った。
秋の柔らかい日差しが彼女の横顔を優しく照らし、風になびく黒髪がキラキラと光を弾いている。
この穏やかで愛おしい時間。
だが、僕の胸の奥には、生徒会室で耳にした「信号機工事の延期」という冷酷な事実が、冷たい泥のように重く沈殿していた。
「ねえ、榛名くん」
葵がふと、手提げバッグから文房具屋の紙袋を取り出した。
「これね、この前街で見つけて、思わず買っちゃったの」
彼女が袋から取り出したのは、上品なミッドナイトブルーの紙に、銀色の星が散りばめられた美しいレターセットだった。
「わあ、すごく綺麗だね。誰かにお手紙でも書くの?」
僕が尋ねると、葵は一瞬だけハッとしたように目を見開いた後、照れたようにレターセットを胸元に抱え込んだ。
「えっ……あ、うん。大切な人にね、日頃の感謝とか……直接言うのは恥ずかしい言葉を、少しずつ書き溜めていこうかなって思って」
「大切な人……?」
その言葉に、僕の胸がどきりと跳ねた。
三月十四日の事故現場。雨と血に濡れたあの小さな紙片。
そこに書かれていた『陸くんへ』というメッセージ。
彼女は、あの手紙を……まさに今、この秋の季節から書き始めようとしているのだ。
それは遺書などではない。僕への溢れんばかりの想いと感謝を伝えるための、かけがえのない手紙。
「内緒だよ? まだ書き始めたばかりだし……完成したら、一番いい時に渡すつもりだから」
葵は悪戯っぽく微笑みながら、小指を口元に当てた。
「うん……楽しみにしてるよ、水瀬」
僕は無理に笑顔を作って答えたが、視線は彼女の手に握られた青いレターセットに釘付けになっていた。
彼女が僕へ手紙を書けば書くほど、彼女が僕を大切に想えば想うほど——あの三月十三日という「運命の日」への因果の糸が、より強固に結びついていくような錯覚に囚われる。
運命は、着実にあの惨劇の夜へと向かってカウントダウンを刻んでいるのだ。
文化祭が終わり、茜色の夕闇が校庭を包み込んでいく。
片付けに追われる生徒たちの声が遠くから聞こえる中、僕と葵は誰もいなくなった屋上のベンチに腰掛けていた。
「ねえ、榛名くん。秋が終わったら、次は冬だね」
葵が自分の肩を小さくすくめながら、遠くの街並みを見つめた。
「うん……冬が来るね」
「私ね……以前は冬が来るのがすごく嫌だったの。寒くて、日が暮れるのが早くて、なんだか世界から置いていかれちゃうみたいで。……でも、今年はなんだか少しだけ楽しみなんだ」
「楽しみ……?」
「うん。だって、冬が過ぎたら……春が来るでしょう? 卒業して、みんなで新しい未来へ進んでいく春が。榛名くんと一緒に迎える春なら、きっとすごく綺麗なんだろうなって……そう思えるようになったの」
素直な瞳で未来を語る葵。
彼女の言葉が、僕の胸をナイフのように鋭く刺し貫いた。
彼女が楽しみにしている「春」。
だが、彼女の時間は、春が訪れる直前の「三月十三日」で途絶えてしまうのだ。
信号機の修理は期待できない。行政の手も借りられない。
だとしたら、僕がやるべきことはただ一つ。
三月十三日の夜、僕が彼女の側に死ぬ気で張り付き、絶対にあの交差点へ近づけさせないこと。
あるいは、僕自身の身体を投げ打ってでも、彼女をあのトラックの脅威から庇い切ること。
「水瀬」
「なぁに、榛名くん?」
「絶対……絶対綺麗だよ。僕たちが一緒に迎える春は、間違いなく人生で一番晴れ渡った、最高の春になる」
僕は彼女の手をギュッと力強く握りしめた。
葵は驚いたように目を見開いたが、すぐに愛おしそうに僕の手を握り返してくれた。
「うん! 約束ね、榛名くん!」
ひんやりとした秋の夜風が、二人の頬を撫でていく。
忍び寄る冬の足音を感じながら、僕は固く心に誓っていた。
どんな歴史の復元力が働こうとも、どんな悲劇が待ち受けていようとも——
僕のいない春なんて、絶対に作らせはしない。
文化祭『秋華祭』が終わりを告げると、千早ヶ丘の街には瞬く間に木枯らしが吹き荒れるようになった。
あんなに鮮やかだった校庭の大きなイチョウの葉はすっかり散り果て、黒々とした枝組みが寒空に向かって寒そうに伸びている。
十二月下旬。二学期の終業式を終えた放課後、空からは季節外れの早すぎる初雪がしんしんと舞い降りていた。
校庭のすみっこや、誰もいない中庭の木製ベンチ、渡り廊下の屋根が、あっという間にうっすらとした真っ白な雪化粧で覆われていく。
吐く息が白く立ち上る厳しい寒さの中、僕と水瀬葵は、放課後の誰もいない図書室のテラス席で並んで腰掛けていた。
「榛名くん、見て! 雪……すごく綺麗だね。今年最初の雪だよ」
もこもこの赤いマフラーに小さな顔を埋めた葵が、吐息を白く染めながら嬉しそうに小さな瞳を輝かせて空を見上げた。
彼女の膝の上には、秋華祭の日に購入したあのミッドナイトブルーのレターセットが入った手提げ袋が、大切そうに置かれている。
「うん、綺麗だね。でも、すごく冷え込んできたから風邪ひかないようにね」
「ふふ、大丈夫。榛名くんがこうして隣にいてくれるから、ちっとも寒くないよ」
そう言って葵は、毛糸の手袋をはめた指先で僕の白シャツの袖口をキュッと愛おしそうにつまんだ。
彼女の卒業後の進路は、都内にある有名な芸術大学の写真学科に決まっていた。
夏の向日葵畑で撮影した僕のポートレート作品が高く評価され、AO入試で見事に早期合格を果たしたのだ。
僕もまた、地元の総合大学文学部への進学が決まり、二人とも無事にそれぞれの未来へと足踏み出す準備が整いつつあった。
「高校を卒業して進学しても……こうやってずっと、一緒にいられるかな?」
葵が少しだけ不安そうな、けれど愛おしさに満ちた瞳で僕の顔を覗き込んできた。
「当たり前だよ。東京と地元なんて目と鼻の先だし、絶対に会いに行くよ。春休みになったら、また二人でいろんな場所へ写真を撮りに行こう。約束する」
「……うん! 嬉しいな。榛名くんとの約束が増えるたび、私、明日が来るのが楽しみになるんだよ」
安心したように胸を撫でおろし、柔らかく目元を緩める葵。
だが、彼女のその弾けるような笑顔を見るたび、僕の胸の奥には鋭い刃物が突き立てられたかのような激痛が走っていた。
運命の「三月十三日」まで、あとわずか二ヶ月余り。
僕たちがいくら温かな未来や春の希望を語り合おうとも、惨劇の夜は刻一刻と、無慈悲に近づいてきていた。
一月に入り、三学期が始まると、校舎は受験を控えた生徒たちの重苦しい張りつめた空気と、どこか寂しげな卒業への予感に包まれていた。
僕は連日、自室のデスクでカレンダーとにらめっこをしながら、一冊のノートに緻密なメモを作り上げていた。
三月十三日のタイムスケジュール、過去の天候データ、そしてあの国道十六号バイパス交差点周辺の地理と街灯の位置。
あの日、葵がなぜ深夜にバイパス交差点へ向かってしまったのか。
その理由はまだ完全には解明できていなかったが、僕が打てる唯一にして最大の手策は決まっていた。
「三月十三日の夕方から翌朝まで、葵を僕の目の届く場所に完全に拘束し、一歩も外へ出させないこと」
だが、日に日に殺気立ち、眉間にシワを寄せて焦燥感を募らせる僕の異常な雰囲気に、いち早く気づいた人物がいた。
「おい、陸。ちょっと面貸せよ」
放課後の部室棟の陰。冷たい冬風が吹き抜ける日陰で、親友の蓮が厳しい眼差しで僕の胸倉を掴むように引き寄せてきた。
「蓮……? 急にどうしたんだよ」
「どうしたじゃねえよ! お前、夏休み明けてからずっとおかしいぞ。毎日毎日カレンダー見つめて冷や汗書いてさ。葵ちゃんと一緒にいる時だって、まるで明日にも世界が終わるみたいに悲壮感漂う顔してんじゃねえか。……何か隠してんのか?」
蓮のまっすぐで温かい問いかけに、言葉が喉に詰まる。
「隠してなんか……ないよ。ただちょっと、卒業前の不安というか……」
「嘘つけ! 俺を誰だと思ってんだ。一目見りゃ分かるんだよ。お前、一人で何をそんなに抱え込んでるんだ? 俺たち親友だろ? 頼れよ、力になるからさ!」
蓮の真摯な言葉が、硬く強張っていた僕の心を強く揺さぶる。
すべてを話してしまいたい衝動に駆られた。
「僕は過去からタイムリープしてきた。三月十三日に葵が事故で死ぬんだ。それを防ごうとしてるんだ」と。
だが——言えるはずがなかった。そんな荒唐無稽な話を信じてもらえるはずもないし、万が一にも親友をこの危険な運命の渦巻きに巻き込むわけにはいかない。
「……ごめん、蓮。本当に大丈夫なんだ。……ただ、葵のことが本当に大切で、絶対に幸せにしたいだけなんだ」
僕が深く頭を下げると、蓮は呆れたように深いため息をつき、ぽんぽんと僕の肩を力強く叩いた。
「ハァ……分かったよ。お前がそこまで言うならこれ以上野暮なことは聞かねえ。でもな、あまり自分を追い詰めるなよ。葵ちゃんもお前のそんな辛そうな顔、見たくないはずだろ」
「……うん。ありがとう、蓮」
二月中旬。
写真部から、学校じゅうを揺るがすような思いがけない快報がもたらされた。
県内の全高校生を対象とした歴史ある『県高校生写真コンクール』において、葵が出品したあのポートレート写真『記憶と光』が、最高賞である「優秀賞」に選出されたのだ。
「榛名くん! 見て、優秀賞だよ……! 私の撮った榛名くんの写真が、選ばれたの!」
渡り廊下で駆け寄ってきた葵は、賞状の入った筒を大切そうに抱きしめ、小さな身体で跳びはねるように喜んでいた。
「おめでとう、水瀬! 自分のことみたいに嬉しいよ! 本当にすごいじゃないか!」
「うん! でね、表表彰式と特別展示なんだけど……三月十四日の午前中に、県立美術館で行われることになったんだって。だからね、前日の十三日の夜から、写真部の他校の部員さんたちと一緒に特別展示の準備でお手伝いに行くことになってるの」
——ドクン。
その瞬間、僕の心臓が不気味で刺すような音を立てて跳ね上がった。
すべての謎が、一瞬で、鮮烈に解けてしまった。
三月十三日の夜。
なぜ彼女は、あんな雨の降り頻る深夜にバイパス交差点にいたのか。
それは、十四日の表表彰式と特別展示の搬入・設営作業のため、夜遅くまで準備作業を行い、その帰り道にバイパス交差点を通ったからだったのだ。
僕がタイムリープして葵と仲良くなり、常盤木公園の向日葵畑で彼女にポートレート写真を撮影させた。
その写真がコンクールで優秀賞を受賞し、結果として彼女を「三月十三日の夜のバイパス交差点」へと誘導することになってしまった。
僕が彼女を救おうと必死に足掻けば足掻くほど、運命の因果は巡り巡って、彼女を惨劇の夜へと正確に導いていたのだ。
(僕が……僕が葵を殺す運命の引き金を引いていたのか……!?)
圧倒的な絶望と強烈な眩暈が僕を襲い、膝の力が一気に抜けそうになった。
三月十二日。惨劇の夜まで、あと二十四時間。
卒業式を無事に終え、春休みに入った校舎は静まり返っていた。
明日の夜、彼女が事故に遭う。僕の行動が彼女をあの場所へ誘い出してしまったという絶望的な事実が判明してから、僕は一刻も眠れぬ夜を過ごしていた。
夕方、僕は葵に呼び出され、誰もいない校庭のベンチへと向かった。
空はどんよりとした重い灰色の雲に覆われ、今にも冷たい雨が降り出しそうな寒空だった。
「榛名くん! 寒かったでしょ、呼んじゃってごめんね」
マフラーに顔を埋めた葵が、息を白く弾ませながら駆け寄ってきた。
彼女の手には、あのミッドナイトブルーのレターセットが入った封筒が大切そうに握られていた。
「ううん、全然大丈夫だよ。どうしたの、水瀬?」
「あのね……明日から県立美術館の準備で忙しくなっちゃうから、その前に榛名くんに話しておきたくて」
葵は少し恥ずかしそうに下を向き、手中の封筒を愛おしそうに撫でた。
「この手紙ね……夏からずっと、榛名くんとの思い出が増えるたびに、少しずつ書き溜めてきたの。榛名くんがどれだけ私の世界を明るくしてくれたか、どれだけ感謝してるか……」
「水瀬……」
「明日の展示準備が終わって、明後日の表彰式が無事に終わったら……一番最初に榛名くに渡すね。だから……楽しみに待っててほしいな」
彼女の透明感あふれる笑顔。
僕への溢れるほどの想いが詰まったその手紙が、かつての周回で血に濡れてバイパス交差点に転がっていた『陸くんへ』というメッセージの正体だったのだ。
遺書などではない。僕への最高のラブレター。
それを彼女の手から受け取るためなら、僕は悪魔にだって魂を売る。
「……うん。絶対に楽しみに待ってる。……だから水瀬、約束してくれ」
僕は彼女の両肩を強く掴み、直視した。
「明日の夜、展示準備が終わったら……絶対に一人で帰ろうとしないでくれ。僕が美術館まで迎えに行く。僕が到着するまで、絶対に一人でバイパス交差点に近づいちゃダメだ」
あまりの僕の鬼気迫る表情に、葵は一瞬目を見開いたが、僕の手に自分の手を重ねて優しく頷いた。
「うん……分かったよ、榛名くん。明日の夜、美術館で待ってるね」
三月十三日。ついに「その日」が訪れた。
昼過ぎから予報通りの冷たい雨が降り始め、夕方には視界を奪うほどの激しい豪雨へと変わっていた。
自室で時計の針を凝視していた僕は、午後七時、レインコートを羽織って飛び出した。
葵が搬入作業を行っている県立美術館までは、自転車で二十分ほど。
彼女と約束した通り、僕が直接付き添って無事に送り届ければ、運命の惨劇は回避できるはずだった。
雨粒が顔を打ちつけ、激しい冷気が体温を奪っていく。
ペダルを全力で漕ぎながら、僕はバイパス交差点へと向かって疾走した。
だが——世界は、あまりにも冷酷だった。
ズザーーッ!
「うわあああっ!?」
バイパス手前の急な坂道。濡れた濡れ落ち葉にタイヤをとられ、僕は激しく転倒した。
激しい衝撃とともに右足に激痛が走り、自転車のチェーンが完全に外れて車輪に巻き付いてしまったのだ。
「ぐっ……あ……っ!?」
立ち上がろうとするが、右足の激痛で上手く力が入らない。
手元のスマートフォンの画面を見る。時刻は午後七時四十五分。
その時、画面に葵からのメッセージが届いた。
『ごめんね榛名くん! 作業が思ったより早く終わっちゃって、他校の先生の車で近くまで送ってもらっちゃった。今、バイパスの歩道橋の近くにいるよ』
血の気が引いた。
僕が事故で遅れたこと、そして搬入作業が予定より早く終わったこと——すべての偶然が重なり合い、彼女は「午後八時前」という惨劇の時刻に、あのバイパス交差点へとたどり着いてしまったのだ。
「ダメだ……! 水瀬! 行くなあああっ!!」
僕は壊れた自転車を捨て、右足を庇いながら、降り頻る大雨の中を必死に走り出した。
激しい雨と雷鳴が響き渡る、国道十六号バイパス交差点。
足を引きずりながら交差点へと飛び込んだ僕の目に飛び込んできたのは、傘を差し、歩道橋の袂で信号を待つ葵の姿だった。
「水瀬ーーーっ!!」
僕の声は、雨音と激しいトラックのエンジン音にかき消された。
頭上の歩行者用信号機が、不気味にチカチカと不規則に点滅を始める。
青信号の点滅。葵はそれを「渡れる」と誤認し、静かに交差点へと足を踏み出した。
同時刻、バイパスの交差点へと猛スピードで進入してくる巨大な大型トラック。
車両側の信号機も不具合を起こし、赤信号への切り替えが一瞬遅れていた。
闇を切り裂く、眩しいヘッドライトの光。
甲高いブレーキ音が雨の夜空に響き渡る。
「水瀬ーーーーッ!!!」
僕は自身の恐怖も痛みもすべて投げ打ち、交差点の中央へ向かって飛び込んだ。
葵がハッとして振り向く。
トラックの巨躯が、僕たちのすぐ目と鼻の先まで迫っていた。
ドガァァァンッ!!!
暗闇と、殺人的な衝撃。
激しい金属音とともに、僕の視界は真っ赤な血の海へと染まっていった。
道路の上に吹き飛ばされ、激痛の中で僕の指先が触れたのは、濡れたコンクリートの上に転がるミッドナイトブルーの封筒——血に塗れた『陸くんへ』の手紙だった。
「は……るな……くん……?」
倒れた僕の目と鼻の先で、横たわる葵が力なく手を伸ばしてくる。
彼女を守り切ることができなかった。僕が飛び込んでも、運命の激突を完全に逸らすことはできなかったのだ。
遠のいていく意識。冷たい雨が顔を打ちつける。
葵の瞳から光が消えていくのを目の当たりにしながら、僕は溢れ出る血の中で、絶望の叫びを上げた。
(嫌だ……! こんなの嫌だ……! 僕が……僕が絶対に、君を救うんだ……!!)
視界が完全に深い闇へと落ちていく直前、僕は最後の力を振り絞り、路上の冷たい雨水(水溜まり)に顔を押し付けた。
「水の中に深く沈む」——タイムリープのトリガー。
意識が途絶え、世界のすべてが反転していく感覚の中で、僕は二度目の過去へと落ちていった。
ゴボゴボと、耳の奥で冷たい水の泡が激しく弾ける音が響いていた。
呼吸が完全に止まり、肋骨を内側から締め付けられるような激しい胸の痛みに耐えかねて、大きく息を吸い込んだ瞬間——肺いっぱいに飛び込んできたのは、あの雨の夜の鉄臭い血の匂いでも、冷たい泥水でもなかった。
それは、どこか懐かしい春の柔らかい風と、校庭の隅に咲く桜の花びらの甘く切ない香りだった。
「……ハッ……! ゲホッ……! ぐっ……あ……っ!」
僕は跳ね起きるように上半身を起こした。
荒い息を激しく吐き出しながら、冷や汗に濡れた自分の両手をすばやく見つめる。
指先に付着していたはずの赤い血は綺麗に消え去り、あの雨のバイパス交差点で大型トラックの激突によって粉々に砕けたはずの右足も、折れた肋骨も、激痛ひとつなく正常に動いていた。
静かに周囲を見渡す。
そこは、見慣れた自分の自室だった。
窓の隙間からは柔らかな春の木漏れ日が差し込み、使い古した勉強机の上のカレンダーは「四月八日」のページを開いている。
(戻った……! また……あの奇跡の春へ……!)
血に濡れた冷たい路面で水溜まりに必死で顔を押し付け、死の恐怖と絶望の中で強烈に願ったことで、僕は二度目のタイムリープを果たしたのだ。
壁に掛けられた時計の針は、午前七時三十分を指していた。
高校三年生の始業式の日。葵と再び出会う、あの原点の朝だ。
全身から噴き出す冷や汗を制服の袖でぬぐいながら、僕は洗面所へ駆け込み、蛇口をひねって冷水で勢いよく顔を洗った。
鏡に映る自分の顔は青ざめていたが、その瞳の奥には、1周目の時にはなかった強固で重々しい決意が静かに宿っていた。
1周目の周回で学んだ事実は、あまりにも残酷で、哀しいものだった。
僕が葵と仲良くなり、常盤木公園の向日葵畑で彼女に自分の写真を撮らせ、コンクールで優秀賞を獲得させたこと自体が、彼女を「三月十三日夜のバイパス交差点」へ誘導する惨劇の因果になっていたのだ。
(歴史をただなぞるだけじゃダメだ。葵を本当の意味で救うためには、あの事故を引き起こすあらゆるきっかけを、最初から僕の手で徹底的に叩き潰さなきゃいけない……!)
通学路には、散り初めた桜の花びらが薄桃色の絨毯のように美しく敷き詰められていた。
千早ヶ丘高校の校門をくぐり、昇降口の掲示板に張り出された新しいクラス替えの表を確認する。
三年二組。そこには僕の名前『榛名陸』と、そのすぐ数行下に『水瀬葵』の名前が、1周目とまったく同じように並んで刻まれていた。
教室へ向かう渡り廊下。木造の校舎を吹き抜ける風に乗って、桜の花びらが舞い散る中、僕は向かい側から歩いてくる一人の少女の姿を見つけた。
水瀬葵。
春の暖かな光を全身に浴びながら、首から大きなオールドカメラを下げ、静かに、少しうつむき加減で歩いてくる。
その華奢な姿を見た瞬間、僕の胸は破裂しそうなほどの愛おしさと、絞り出されるような切なさで押しつぶされそうになった。
あの日、大雨の交差点で失われたはずの彼女の命が、今、僕の目の前で確かに呼吸をしている。
「あ……」
思わず声が漏れ、僕は彼女の進路を遮るようにその場で立ち止まってしまった。
葵はハッとしたように顔を上げ、一瞬不思議そうな瞳で僕を見つめると、丁寧におじぎをした。
「……おはようございます、榛名くん。同じクラスになったんだね。一年間、よろしくね」
その透明感のある声には、1周目で共に過ごした温かな時間も、あの秋華祭で交わした愛おしい約束の余韻も、何一つ存在しなかった。
彼女にとって、今の僕は「同じクラスになった、言葉を交わしたこともほとんどない大人しい男子生徒」でしかなかったのだ。
胸を刺すような激痛と切なさが込み上げたが、僕は必死でそれを奥歯で噛み殺し、精一杯の穏やかな笑顔を作って深く頷いた。
「うん、おはよう……水瀬。こちらこそ、一年間よろしくね」
葵は小さく上品に微笑むと、そのまま僕の横を静かに通り過ぎて行った。
(これでいい……。僕の記憶を共有していなくてもいい。君がこの世界で生きて、息をしていてくれるなら……どんな孤独だって耐えてみせる)
始業式と短時間で終わったホームルームが終わり、教室が新しいクラスの賑やかなざわめきに包まれる中、親友の蓮が僕の席の横へ歩み寄ってきた。
「おい陸! やったな、今年度も同じクラスだぞ! また一年よろしく頼むぜ」
「ああ、蓮。今年もよろしくな」
1周目では、僕の異様な焦燥感にいち早く気づき、最後まで親友として心配してくれた存在。
彼の変わらない笑顔と声に触れた瞬間、強張っていた僕の心が少しだけ解きほぐされていくのを感じた。
だが、ぼんやりと感慨に浸っている時間など、今の僕には一秒たりとも残されてはいなかった。
僕はノートを開き、自分にしか解読できない記号と暗号を用いて、2周目の戦略を整理し始めた。
【1周目で判明した事故の因果構造】
一、国道十六号バイパス交差点の信号機不具合(行政の工事延期により物理的修繕は不可能)。
二、葵のコンクール優秀賞受賞(僕を被写体にしたポートレート『記憶と光』)。
三、受賞に伴う「三月十三日夜」の県立美術館での搬入・設営作業。
四、当日の豪雨と、僕自身の自転車転倒による到着遅れ。
(最大の引き金は『写真コンクールへの出品』だ……。僕が被写体にならなければ、あのポートレート作品は生まれない。そうすれば、三月十三日の夜に彼女が美術館へ向かう理由そのものを消滅させられる……!)
だが、考えを深めれば深めるほど、胸の奥で恐ろしい疑問が持ち上がってきた。
もし、僕が被写体になるのを拒み、コンクールへの出品を回避したとしても——世界には「歴史の復元力」が存在するのではないか?
僕が写真を阻止したとしても、葵が別の理由で三月十三日の夜にあのバイパス交差点へ向かってしまうとしたら……?
運命は、僕たちが想像する以上に狡猾で、冷酷だ。
一つのルートを塞いでも、水が低い方へ流れるように、世界は別の出来事を捏造してでも「水瀬葵の死」という結末へ収束しようとするかもしれない。
(回避するだけじゃダメだ……。彼女の行動を完璧に把握しつつ、三月十三日の当日は、僕が命に代えても彼女をあの場所から引き離さなければならない)
僕は固くシャープペンシルを握りしめ、ノートの余白に強い線を描いた。
(二度目のやり直し……今度こそ、絶対に変えてみせる!)
放課後、僕は一人で校舎裏の古びた中庭へと向かった。
1周目で、葵がよくオールドカメラを抱えて一人で写真を撮っていた、あの静かな木陰の場所だ。
ベンチの近くへ歩み寄ると、予感通り、そこには木漏れ日の中でカメラのレンズを磨いている葵の姿があった。
彼女は僕の足音に気づくと、驚いたように顔を上げた。
「あ……榛名くん。こんなところに来るなんて、珍しいね」
「あ、ごめん……邪魔しちゃったかな? ここ、静かで落ち着くなと思って」
「ううん、全然邪魔じゃないよ。私ね、ここから見えるイチョウの木と空のグラデーションが好きで、よく来てるの」
彼女は嬉しそうに目を細め、カメラを大切そうに胸に抱きかかえた。
1周目では、僕たちがこうして自然に会話を交わすようになるまで、夏休み前までの長い時間が必要だった。
だが、2周目の僕は、彼女がどんな言葉に心を開き、どんな風景に魅せられるかをすでに知っている。
「そのカメラ、すごく味があるね。機械式のオールドカメラ?」
僕が問いかけると、葵はパッと表情を明るくした。
「わあ……分かるの? お父さんから譲り受けた古いカメラなんだけど……クラスのみんなには『古くさいね』って言われちゃうことが多くて。榛名くん、写真に興味があるの?」
「うん、すごく興味があるよ。光の切り取り方とか……大切ものをずっと残しておけるところとか、素敵だと思う」
葵は驚いたように目を見開いた後、心から嬉しそうに微笑んだ。
「榛名くんって……なんだか不思議。初めて話した気がしないくらい、私の気持ちを分かってくれるんだね」
その言葉に、胸がぎゅっと痛んだ。
君のことを誰よりも知っているのは、僕が君の失われた未来を一度見届けてきたからだ——そう叫び出したい衝動を、僕は冷たい風とともに飲み込んだ。
二人で並んで見上げた春の空は、どこまでも高く、澄み渡っていた。
この穏やかな時間が、決して惨劇の雨に奪われることのないように。
僕は静かに、けれど強く、二度目の戦いを始めていた。
二周目の季節は、一期目とは比べものにならないスピードで巡っていった。
一度目の人生で葵が何を好み、どんな言葉に救われ、どのような光をカメラで捉えようとしていたのかを、僕はすべて知っている。
だからこそ、僕たちの距離は一期目よりも遥かに早く縮まった。初夏を迎える頃には、放課後に二人で図書室や中庭で過ごすことがごく自然な日常となっていた。
そして七月。一期目で運命の分岐点となった『県高校生写真コンクール』の募集要項が、写真部の部室前に張り出された。
「榛名くん……私ね、今年のコンクール、出ないことにしたの」
夏の強い日差しが差し込む渡り廊下で、葵がポツリと呟いた。
「え……出ないの? 水瀬の写真、すごく素敵なのに」
僕は驚いたフリをしながら葵の表情を見つめた。
一期目では、僕が向日葵畑で被写体になり、彼女の背中を押したことであのポートレート『記憶と光』が生まれた。しかし二周目の僕は、彼女に自分の写真を撮らせることを徹底的に避けていたのだ。被写体としての僕が存在しなければ、あの作品は生まれない。
「うん。なんかね……まだ自分の本当に撮りたいものが、ハッキリ見えていない気がして。榛名くんの写真を撮らせてもらおうかなって一瞬思ったんだけど……榛名くん、カメラを向けると少しだけ悲しそうな顔をするでしょう?」
葵の言葉に、心臓が跳ね上がった。
彼女は気づいていたのだ。僕がカメラのレンズを向けられるたび、未来の惨劇とあの血濡れた手紙を思い出して微かに表情を曇らせていたことに。
「だからね、今年はもっとたくさん写真を勉強して、本当の意味で自分が心から撮りたいと思える一枚が撮れるようになってから、来年挑戦しようと思うの」
「そっか……。水瀬がそう決めたなら、それが一番だよ」
僕は胸の撫で下ろし、密かに安堵の息を吐いた。
これで、一期目の惨劇へ至る最大のルート——「コンクール優秀賞の受賞」と「三月十三日夜の県立美術館での搬入・設営作業」という未来は完全に消滅した。
葵が三月十三日の夜に街へ出歩く理由はなくなったのだ。
(勝った……! 因果の鎖を断ち切ったんだ……!)
僕は夕空を見上げながら、自分に言い聞かせるように拳を強く握りしめた。
十月下旬。秋華祭が開催された。
一期目と同じように晴れ渡った秋空の下、校内は賑やかな熱気に包まれていた。
コンクールへの出品を見送った葵だったが、写真部の校内展示には精力的に参加し、彼女が日常の景色を切り取った風景写真の数々は、多くの生徒や保護者の足を止めていた。
「陸、今年のお前、なんかすごく落ち着いてるな」
模擬店の休憩中、蓮がジュースを片手に僕の隣に腰掛けた。
「そうか? 普通だと思うけど」
「いやいや、一期……じゃなくて、去年の今頃のお前とは大違いだぞ。なんだか憑き物が落っこちたみたいに穏やかな顔してる。葵ちゃんともすごく仲良さそうだしさ。お前ら、付き合ってないのが不思議なくらいだぜ」
「そんなんじゃないよ。僕はただ……葵が笑って過ごしてくれれば、それでいいんだ」
蓮は呆れたように肩をすくめたが、どこか満足そうに笑って僕の背中を叩いた。
夕方、後片付けが終わった放課後。
僕は葵に誘われ、一期目と同じように特別校舎の屋上へと上った。
茜色に染まる秋の空と、涼やかな秋風が僕たちの頬を撫でていく。
「榛名くん、今日一日お疲れ様! 写真部の展示、みんな褒めてくれてすごく嬉しかったな」
「お疲れ様、水瀬。本当に綺麗な写真ばかりだったよ。みんな感動してた」
フェンスに寄りかかり、遠くの街並みを眺める葵。
その手元には、一期目とまったく同じ紙袋が握られていた。
ミッドナイトブルーに、銀色の星が散りばめられた美しいレターセット。
「あ……これね、今日のお昼休みに学校の近くの文房具屋さんで見つけて、思わず買っちゃったの」
葵は照れたように笑いながら、レターセットを胸元に抱え込んだ。
「すごく綺麗なお手紙だね」
「うん。私ね……大切な人ができたの。その人に、日頃の感謝とか……直接言うのは恥ずかしい想いを、少しずつ書き溜めていこうと思って」
一期目と同じ言葉。けれど、その瞳に宿る光は、一期目よりもずっと強く、温かかった。
「完成したら……一番いい時に渡すね。内緒だよ?」
「……うん。楽しみにしてる」
手紙の存在は変わっていない。彼女が僕へ寄せてくれる想いも変わっていない。
けれど、三月十三日の夜に彼女が外へ出る理由はもう存在しないのだ。
僕は彼女の笑顔を見つめながら、「今度こそ救えたのだ」と自分を納得させていた。
しかし——世界は、僕が思うほど単純でも甘くもなかった。
年が明け、二月。卒業を目前に控えた寒さの厳しいある日の放課後。
職員室に呼び出された葵が、困惑したような表情で教室に戻ってきた。
「どうしたの、水瀬? 朝倉先生に何か言われた?」
僕が尋ねると、葵は首をかしげながら小さな封筒を取り出した。
「うん……なんだか不思議なことがあってね。私がコンクールに出品しなかったはずなのに……県立美術館の館長さんから、特別招待の案内が届いたみたいなの」
「……え?」
背中に、冷たい氷を押し付けられたような感覚が走った。
「写真部の朝倉先生がね、私の普段の活動や校内展示の写真を美術館の関係者さんに見せてくださっていたらしくて……『若い才能の特別枠』として、三月十四日の展示会にゲスト展示されることになっちゃったの」
「な……なんだって……!?」
僕の叫び声に、教室に残っていた数人の生徒が驚いて振り返った。
「榛名くん……? どうしたの、そんなに青い顔をして……」
「そ、それで……搬入や設営はどうなるんだ!? 前日の十三日の夜に行くことになってるのか!?」
葵の肩を掴み、詰め寄る僕。葵は怯えたように目を丸くしながらも、頷いた。
「え、うん……。他校の部員さんたちと一緒に、十三日の夜から美術館で搬入のお手伝いをすることに……」
頭の中が真っ白になった。
僕がコンクール出品を阻止し、因果のルートを絶ったはずだった。
だが、歴史の復元力は、朝倉先生の好意という「別の形」を使って、葵を完璧に「三月十三日夜の設営作業」へと引き戻したのだ。
世界は、何が何でも水瀬葵をあの惨劇の夜へ誘い出そうとしている。
(くそっ……! くそ悪魔め……!! どれだけルートを変えても、歴史は葵を殺そうとするのか……!?)
絶望的な眩暈が視界を揺らす。
三月十三日。降りしきる雨の夜。
逃れられない運命の惨劇まで、あとわずか——。
どれほど運命の糸を解き解そうと抗っても、世界は恐ろしい精度で同じ「結末」へと収束しようとしていた。
二月中旬。放課後の校舎は、間近に迫った卒業式と受験の重苦しい静寂に包まれていた。
僕は一人、誰もいない理科準備室の窓辺に立ち、冷たいガラスに額を押し当てながら深く吐息をついていた。
コンクールへの出品を辞退させれば、あの惨劇の夜へ至る足跡を完全に消せるはずだった。
だが、写真部顧問・朝倉先生の好意による「県立美術館・特別展示枠」の推薦——。
その温かいはずの配慮が、世界の手によって葵を殺すための完璧な罠へと塗り替えられてしまったのだ。
「くそっ……! なんでなんだよ……!」
拳を窓枠に叩きつける。鈍い痛みが手に走るが、胸の奥を激しく掻き乱す焦燥感に比べれば痛みのうちに入らなかった。
歴史の復元力。
僕がどれほど別の未来を選び取ろうとも、世界は「三月十三日夜、雨のバイパス交差点に水瀬葵を立ち合わせる」という一点に向けて、周囲の人間関係や偶然を巧みに操作して補正をかけてくる。
ならば、どうする?
美術館への搬入作業そのものを拒否させるか?
いや、朝倉先生や他校の部員たちからの期待を背負った葵が、明確な理由もなく前日の作業をすっぽかすはずがない。そんなことをすれば彼女の尊厳を傷つけることになる。
(理由を作って阻止するんじゃない……。当日、僕が彼女の隣に完璧に付き添い、物理的に交差点へ近づかせない。それ以外に道はないんだ)
1周目の敗因は明確だった。
雨による視界不良、急な坂道での自転車のチェーン脱落と転倒による足止め。
そして、予定より早く終わってしまった搬入作業と、他校の先生の車による途中下車。
すべての偶然が重なり合って、彼女は午後八時前という悪魔の時間帯にバイパス交差点へたどり着いてしまったのだ。
僕はノートを取り出し、2周目における「三月十三日完全防衛計画」を書き込み始めた。
三月上旬。卒業式を目前に控えた放課後。
僕は放課後の部室棟の陰、木枯らしが吹き抜ける日陰に蓮を呼び出した。
1周目では、一人で抱え込みすぎて自滅した。親友に余計な心配をかけたくないという傲慢さが、結果として足止めの際のバックアップを失わせる要因になっていたのだ。
「陸? 急にこんなところに呼び出して、どうしたんだよ。顔色、めちゃくちゃ悪いぞ」
蓮は心配そうに眉をひそめ、僕の顔を覗き込んできた。
「蓮……唐突で、わけのわからない話をする。信じてもらえないかもしれない。でも、お願いだから最後まで聞いてほしい」
僕は意を決して、彼の目を見つめた。
「俺は……タイムリープをしてきた。一度目の世界で、葵は三月十三日の夜、国道十六号バイパス交差点で事故に遭って死んだんだ」
静寂が落ちた。
風の音だけが、二人の間を吹き抜けていく。
蓮は一瞬ポカンとした顔をしたが、僕の鬼気迫る表情、嘘偽りのない震える声を感じ取り、ゆっくりと表情を真剣なものへと変化させた。
「……タイムリープ、ね。普通なら『お前頭大丈夫か?』って笑い飛ばすところだ」
蓮は一度天を仰ぎ、深く息を吐くと、僕の肩をガシッと力強く掴んだ。
「でもな……お前がこの一年間、どれだけ追い詰められた顔をしてカレンダーを見てたか、俺は知ってる。葵ちゃんを見るお前の目が、時々死ぬほど切なさそうだったのも知ってる。お前が嘘をついてないことくらい、親友の俺には分かるよ」
「蓮……」
「で、どうするんだ? その三月十三日の惨劇ってやつを潰すんだろ? 俺に何をさせたい?」
一切の疑いもなく僕の手を取ってくれた親友の温かさに、目頭が熱くなった。
「ありがとう……蓮。三月十三日の夜、県立美術館からの帰り道だ。僕が直接葵を迎えに行って付き添う。でも、万が一僕にトラブルがあったとき……お前に予備として動いてほしいんだ」
「任せろ。車はまだ運転できないが、自転車でも電車でも何でも使って、葵ちゃんを絶対に一人にさせない。二人で葵ちゃんを守るぞ」
強力な味方を得た。
一人では突破できなかった歴史の不確定要素を、二人なら埋めることができる。
絶望の暗雲の中に、一筋の強い光が差し込んだ瞬間だった。
三月十二日。決戦前夜。
無事に卒業式を終え、春休みに突入した静かな校庭。
夕方、一期目と同じように、僕は葵に呼び出されて校庭の木製ベンチへと向かった。
どんよりとした重い灰色の雲が垂れ込め、今にも冷たい雨が降り出しそうな空気。
ベンチに座っていた葵は、僕の姿を見つけるとパッと表情を華やがせ、駆け寄ってきた。
「榛名くん! 寒かったでショ、ごめんね呼び出しちゃって」
マフラーに顔を埋めた彼女の手には、あのミッドナイトブルーのレターセットが入った封筒が大切そうに握られていた。
「ううん、全然平気だよ。卒業おめでとう、水瀬」
「ふふ、おめでとう榛名くん。……あのね、この手紙ね」
葵は少し照れくさそうに下を向き、愛おしそうに封筒を撫でた。
「高校生活の最後に、榛名くんに一番伝えたい気持ちを書いたの。明日からの展示準備と明後日の表彰式が終わったら……一番最初に榛名くに渡すね」
一期目とまったく同じ、僕への真っ直ぐな想いが詰まった手紙。
これを今度こそ、無事に彼女の手から直接受け取るのだ。血に濡れた路面ではなく、温かな日差しの中で。
「うん、絶対に待ってる。……だから水瀬、一つだけ約束してほしい」
僕は彼女の両肩を優しく、けれど絶対に解けない強さで掴んだ。
「明日の夜、展示作業が終わったら、僕か蓮が迎えに行くまで、絶対に一人で移動しないでくれ。バイパス交差点には絶対に近づかないでほしい」
葵は少し驚いたように目を見開いたが、僕の真摯な眼差しを感じ取り、優しく微笑んで深く頷いてくれた。
「うん……分かったよ、榛名くん。私、美術館で榛名くんが来るのを待ってるね」
完璧な約束。親友との共闘体制。
準備はすべて整った。明日、僕は運命という名の悪魔を完全に打ち破る。
三月十三日。ついに、あの忌まわしき運命の当日が訪れた。
お昼過ぎから空は急速に黒く重い雨雲に覆われ、午後三時を回る頃には、季節外れの激しい豪雨が千早ヶ丘の街を激しく打ちたたき始めていた。
アスファルトを打ち付ける雨音は、まるで世界の終わりを告げる警鐘のように低く、重く鳴り響いている。
僕は自室で雨合羽に身を包み、万全の態勢を整えていた。
自転車は前日までに念入りに整備し、ブレーキパッドの摩耗やチェーンのオイル、タイヤの空気圧まで完璧にチェックを済ませてある。
さらに、坂道での転倒事故を回避するため、遠回りにはなるが平坦で安全な「県道旧道ルート」を通って県立美術館へと向かう経路を確定させていた。
手元のスマートフォンが振動する。画面には親友・蓮からのメッセージが表示されていた。
『陸、俺は今、国道十六号バイパス交差点の歩道橋下で待機してる。こっちの信号機は相変わらず不規則な点滅を繰り返してて危険な状態だ。だが、まだ葵ちゃんの姿はない。何かあったらすぐに連絡しろ』
「助かるよ、蓮……!」
画面に向かって呟き、僕はスマートフォンを胸のポケットに固く収めた。
一期目の失敗は、僕の単独行動による事故と、葵が予定より早く一人で行動してしまったことだった。
だが二周目の今は違う。僕が美術館へ直行して彼女を保護し、もし何らかのトラブルで僕が途中で足止めされたとしても、バイパス交差点では蓮が目を光らせて葵を食い止める。
二重の防衛網。
これ以上の完璧な陣形は存在しない。
午後七時。僕は家を飛び出し、土砂降りの雨の中へと自転車を走らせた。
ヘッドライトの光が、白く煙る雨のスクリーンを鋭く切り開いていく。
バシャバシャと激しい水しぶきを上げながら、僕は順調に平坦な旧道を駆け抜けていた。
時刻は午後七時二十分。事故の定刻とされる午後八時までは、まだ四十文字以上の余裕がある。
このペースなら、七時四十分には県立美術館のロビーに到着し、葵を安全な館内で確保できるはずだった。
勝利を確信しかけた、その時だった。
ピピーッ! ピピーッ!!
鋭い警笛の音とともに、暗闇の中から赤い誘導灯が激しく振られた。
「止まってください! ここから先は全面通行止めです!」
雨具を着込んだ警察官が二人、路上の真ん中に立ちふさがっていた。
「な……通行止め!? 何があったんですか!?」
僕は慌てて自転車を止め、叫ぶように警察官に問いかけた。
「二十分ほど前に、この先のエネオスSS前の交差点で大型トレーラーの横転事故が発生してね。薬品漏れを起こしていて、現在周辺一帯が全面立入禁止になっているんだ。迂回してください!」
脳裏に、強烈な電撃が走った。
(大型トレーラーの横転事故……!? 一期目には、そんな事故なんて起きなかったはずだ……!)
血の気が引いていくのが分かった。
歴史の復元力だ。
僕が自転車の整備を行い、坂道での転倒トラブルを回避して安全な旧道ルートを選んだことで、世界は「旧道を物理的に通行不能にする」という全く別の突発事故を捏造して、僕の進行を阻んできたのだ。
「そんな……! 迂回路はどこですか!?」
「ここからなら、一度国道十六号へ出て、バイパス側から回り込むしかないね」
悪夢だ。
世界はどこまでも残酷に、僕をあの「惨劇のバイパス交差点」へと引き戻そうとしていた。
「くそっ……! くそおぉぉぉっ!!」
僕はハンドルを強く切り返し、雨の国道十六号バイパスへ向けてペダルを狂ったように漕ぎ出した。
激しい雨と激しい雷鳴が轟く、午後七時五十分。
バイパスへと向かう濡れた路面を必死で疾走しながら、僕は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、震える指で蓮に電話をかけた。
プルルル……プルルル……。
応答がない。
何度かけ直しても、着信音虚しく機械的な留守番電話のガイダンスへ切り替わるだけだった。
「蓮……!? どうして出ないんだよ……っ! 電波が悪いのか!?」
焦燥感で心臓が破裂しそうになる中、ついに目の前にあの巨大な国道十六号バイパス交差点の街灯が見えてきた。
雨の中に不気味に浮かび上がる、歩行者用信号機の狂った点滅。
そして、視界の隅で交差点を渡ろうとしている、傘を差した小柄な少女のシルエット——葵だ。
「水瀬ーーーっ!! 渡るなああああっ!!」
僕は自転車を投げ捨て、足の痛みも構わずに交差点へ飛び出した。
一期目と同じ構図。だが、今回は僕だけじゃない。歩道橋の下には、葵を止めるために親友の蓮が待機しているはずだった。
なのに……なぜ蓮は葵を止められていない!?
交差点の歩道橋の下へ視線を向けた瞬間、僕は息を呑んだ。
そこには、頭から血を流し、濡れたコンクリートの上に倒れ込んでいる蓮の姿があった。
横倒しになった彼の自転車と、ぐにゃりと曲がった街路灯の標識。
暴走した一般車を避けようとして転倒したのか、あるいは足滑らせて階段から滑落したのか——蓮は意識を失い、動けなくなっていたのだ。
(そんな……蓮まで……!?)
世界は、僕が用意した「予備の防衛網」さえも、容赦なく物理的な事故によって力尽くで排除していた。
チカチカと不規則に明滅する歩行者信号。
葵が青信号の点滅と誤認し、静かに交差点の横断歩道へと足を踏み出す。
同時に、バイパスの暗闇の奥から猛スピードで進入してくる巨大な大型トラック。
甲高いスキール音が雨の夜空に響き渡り、ヘッドライトの凶悪な光が葵の華奢な身体を白く照らし出した。
「嫌だ……! 嫌だあああぁぁぁっ!!」
僕は死力で足を動かし、トラックと葵の間へ割り込むように身体を投げ出した。
ドガァァァンッ!!!
鈍い金属音と、世界を砕くような強烈な衝撃。
激しい浮遊感の後、僕は叩きつけられるように濡れたアスファルトの上へと転がった。
視界が真っ赤な血の海に染まっていく。
全身の骨が砕けるような激痛の中で、僕の伸ばした指先が触れたのは——コンクリートの上に転がる、ミッドナイトブルーの血塗られた封筒だった。
「は……るな……くん……?」
すぐ横で、血を流して倒れる葵が、力なく僕の方へ手を伸ばしてくる。
守れなかった。
親友の力まで借りて、万全の準備を整えたはずなのに、僕はまたしても彼女を救うことができなかった。
頭上から降り注ぐ冷たい雨。遠のいていく意識。
消えていく彼女の瞳の光を見つめながら、僕は溢れ出る自らの血の中で、魂を削るような絶望の叫びを上げた。
(許さない……! こんな運命……世界が相手だって、僕は絶対に認めない……!!)
視界が深い暗黒へ落ちていく寸前、僕は最後の力を振り絞り、路上の冷たい水溜まりへと顔を伏せた。
「水の中に深く沈む」——三度目の時間跳躍。
意識が途絶え、世界が激しく反転していく感覚の中で、僕は途方もない絶望と怒りを胸に、三度目の過去へと落ちていった。
ゴボゴボ、と泡立つ水の音が、不気味な底冷えとともに耳底を刺した。
肺に溜まった泥水を吐き出すかのように激しく咳き込みながら、僕はガバリと体を起こした。
視界を埋め尽くしていた血の赤は消え去り、代わりに視界へ飛び込んできたのは、見慣れた自分の部屋の天井だった。
「カハッ……! ゲホッ、ゲホッ……! はぁ……はぁ……!」
荒い息を吐き出し、乱れた制服の胸元を力任せに掴む。
右足も、トラックの衝撃で砕けた肋骨も、激痛はない。
だが、肉体の損傷よりも遥かに重く冷たい絶望が、僕の精神を根底から叩き潰していた。
机の上のカレンダーに目をやる。
——四月八日。
三度目の、あの春の始業式の日だった。
「なんで……なんでなんだよ……!」
頭を抱え、床に拳を叩きつける。
一度目の失敗を受け止め、二度目では完璧な準備を整えたはずだった。
コンクールへの出品を回避させ、親友の蓮を味方に引き入れ、バイパス交差点の危険性を共有し、予備の防衛網まで敷いた。
それでも——世界は「旧道の通行止め事故」と「蓮の突発的な負傷」という悪魔のような不確定要素を捏造し、水瀬葵をあの雨のバイパス交差点へと引きずり下ろしたのだ。
世界は、どれほど僕たちが足掻こうとも「水瀬葵の死」という結末を力づくで再現しようとする。
この因果の力……「歴史の復元力」が存在する限り、ただ事故を回避しようとするだけでは絶対に彼女を救うことはできない。
鏡に映る自分を見る。
何度も死線をくぐり抜け、二度のタイムリープを経た僕の顔は、高校生とは思えないほど蒼白で、その瞳には怨念にも似た暗い執念が渦巻いていた。
(もう、甘い考えは捨てる……。なぜ世界がこれほどまでに葵を殺そうとするのか、その『真の理由』を解き明かさなければ、この無限ループから抜け出すことはできない)
三度目の通学路。散り初めた桜の花びらを踏みしめながら、僕は千早ヶ丘高校の門をくぐった。
掲示板の「三年二組」の名簿に、僕と葵の名前が並んでいるのを確認する。
渡り廊下で向かい側から歩いてくる葵の姿。首から下げた一眼レフカメラ。透明感のある瞳。
「あ……おはようございます、榛名くん」
三度目の初対面の挨拶。
彼女の記憶から、僕と過ごした温かな時間も、あのミッドナイトブルーの手紙に込めた想いも綺麗に消え去っている。
「……おはよう、水瀬。今年もよろしくね」
僕は絞り出すような声で応えた。
二度目の世界で一気に距離を縮めた経験があるからこそ、今の僕は彼女の心を開くキーフレーズをすべて把握している。
だが、む闇に距離を縮めるのは危険だという警戒心もあった。僕と彼女が深く関われば関わるほど、世界はより強固な死の因果を補正として発生させるかもしれないからだ。
教室に入ると、親友の蓮が明るい声をかけてくる。
「おう陸! 今年も同じクラスだな!」
「ああ……蓮、よろしくな」
蓮の無邪気な笑顔を見た瞬間、胸が締め付けられた。
二度目の世界の三月十三日、僕の依頼によってバイパス交差点に待機していた彼は、謎の事故に巻き込まれて頭から血を流して倒れていた。
僕の巻き込みが、親友の命まで危険に晒してしまったのだ。
(蓮をこれ以上危険に巻き込むわけにはいかない……。今回は、僕一人で解決の糸口を探さなきゃダメだ)
僕は固い決意とともに、ノートの新しいページを開いた。
歴史の復元力が働く「真の根拠」を探るため、僕は放課後、写真部の部室へと向かった。
1周目ではコンクール優秀賞、2周目では朝倉先生の個人的な推薦という形で、葵はどのようなルートを通っても「県立美術館の三月十四日展示会」へ誘導されていた。
なぜ、あの「県立美術館」と「三月十四日の展示」がそれほどまでに固く結びついているのか?
部室の扉を叩くと、顧問の朝倉先生が一人でネガフィルムの整理をしていた。
「ん? 榛名か。写真部に入部希望か?」
「いえ……違います。朝倉先生、少しお伺いしたいことがあって……水瀬葵さんのことです」
朝倉先生は眼鏡の奥の目を瞬かせ、不思議そうに僕を見た。
「水瀬? 三年二組の……ああ、彼女がどうした?」
「先生は、水瀬の亡くなったお父さんのことをご存知なんですか?」
その問いに、朝倉先生の手がピタリと止まった。
一瞬の沈黙の後、先生は深い溜め息をついて、机の上の古い写真集を閉じられた。
「……なぜお前がそのことを知っている? 水瀬本人が話したのか?」
「……はい。水瀬から、幼い頃に父親を事故で亡くしたと聞きました。でも、その事故の詳細については詳しく知らなくて……」
朝倉先生は重々しく首を振り、悲しげな目を窓の外に向けた。
「そうか……。水瀬の父親、水瀬 晃さんはね、かつて新進気鋭のプロ写真家だったんだ。そして……今から十年前の三月十三日、県立美術館での個展の準備に向かう途中で、バイパス交差点の事故で亡くなったんだよ」
雷に打たれたような衝撃が、僕の全神経を駆け抜けた。
(十年前の三月十三日……バイパス交差点……!?)
息が止まる。
葵の父親が亡くなった日時と場所……それは、葵が命を落とす日時と全く同じ場所だったのだ。
「晃さんが残した最後の作品展が、県立美術館で開催されるはずだった……だが事故で叶わなかった。だから私はね、葵ちゃんが父親の遺志を継いで写真家を目指しているのを知って、なんとかあの県立美術館で彼女の写真を飾ってやりたいと、ずっと願っていたんだ……」
すべてのパズルが、血の出るような音を立てて噛み合っていくのが分かった。
事故の引き金は、単なる偶然でも、コンクールの受賞でもなかった。
「十年前の三月十三日にバイパス交差点で亡くなった父親の命日」と「その父親が届かなかった県立美術館」という、水瀬葵という人間の根源に刻まれた『呪いのような因果』——。
世界は、この運命の重力を使って、葵をあの場所へと引き寄せ続けていたのだ。
放課後。茜色に染まる特別校舎の渡り廊下で、僕は意を決して葵に話しかけた。
「水瀬……少し、話せるかな?」
葵は手に抱えていたオールドカメラを愛おしそうに撫でながら、不思議そうに首を傾げた。
「榛名くん? うん、大丈夫だけど……どうしたの?」
「そのカメラ……お父さんの形見なんだよね?」
葵の瞳が小さく揺れた。
一期目や二期目では、僕たちが深く打ち解けた夏以降にしか明かされなかった父親の存在。それを三期目の始業式から間もない時期に僕から口にしたことで、彼女の内に潜む警戒と驚きが交錯したのが分かった。
「……うん。どうして知ってるの?」
「朝倉先生から聞いたんだ。お父さん……水瀬晃さんのこと。十年前の三月十三日、県立美術館に向かう途中で事故に遭われたって」
葵は静かに視線を落とし、握りしめたカメラにそっと指先を沿わせた。
「そう……朝倉先生が。……うん、そうだよ。お父さんは私が八歳の時、自分の夢だった県立美術館での個展に向かう途中で亡くなったの。あの雨の夜……国道十六号バイパス交差点で」
彼女の口から語られた「場所」と「日付」。
やはり間違いなかった。葵が命を落とす運命の夜は、彼女の父親が命を落とした絶望の夜と、完全に一致していたのだ。
「私ね……お父さんが届かなかったあの場所へ、お父さんのカメラを持って行きたかったの。お父さんが見られなかった景色を、私が代わりに写真に収めて、個展を開いてあげたかった……。それが私の、写真家を目指す本当の理由なの」
ぽつりぽつりと吐露される彼女の秘めた想い。
その瞬間、僕の脳裏で全ての謎がひとつに繋がった。
一期目と二期目で彼女が買い求め、事故の瞬間に抱きしめていた「ミッドナイトブルーに銀の星が散りばめられた手紙」。
それは単なる僕への恋文や感謝の手紙ではなく——「十年前のあの日、伝えることができないまま去ってしまった父親への手紙」であり、同時に「父親の命日に合わせ、天国の父へ捧げるための祈りの手紙」だったのだ。
だからこそ、世界は「三月十三日」という日を絶対に動かさなかった。
僕がどれほどコンクール出品を阻み、他人の手を借りて防衛網を敷こうとも、葵自身の魂が「父親の命日である三月十三日夜」にあの場所へ向かうことを欲していたからこそ、歴史の復元力は彼女の想いを利用して惨劇を再構築していたのだ。
渡り廊下を吹き抜ける春の風が、彼女の髪を静かに揺らす。
父親への強い想いと、残された悲しい因縁。
それが葵を死へと誘う「運命の重力」の正体だった。
(ただ事故を防ぐんじゃない……。葵の胸の中にある『十年前の呪縛』そのものを解き放たなければ、世界は何度だって彼女をあのアスファルトの上へ引きずり下ろす……!)
僕は葵の真っ直ぐな瞳を逃げずに見つめ返した。
「水瀬。お父さんの夢を叶えたいっていう気持ち、すごく尊いと思う。……でもね、お父さんが本当に望んでいたのは、自分が届かなかった場所に君が命を懸けて辿り着くことじゃないはずだ」
「え……?」
「お父さんが君に残したのは……過去の未練じゃなくて、未来を写すためのそのカメラだろう? 君が悲しい命日に縛られて、無理をしてまで過去をなぞる必要なんてないんだよ」
葵は息を呑み、大きな瞳にうっすらと涙を浮かべた。
これまでのどの周回でも、誰一人として彼女に言わなかった言葉。
誰もが「お父さんの遺志を継ぐ健気な娘」として彼女を称賛し、県立美術館への道をお膳立てしてしまった。それが結果として、彼女を殺す引き金になっていたのだ。
「榛名くん……君は、どうしてそんなに私のお父さんのことを……私の心の奥のことまで分かってくれるの……?」
「分かってあげられるよ。だって僕は……君に生きていてほしいから。悲しい過去の命日じゃなくて、明るい春の光の中にいてほしいからだ」
僕の切実な言葉に、葵は零れ落ちた涙を拭い、小さく深く頷いた。
「……ありがとう、榛名くん。私……なんだか胸の奥が、すっと軽くなった気がする」
それからの日々、僕の行動は明確になった。
一つ、葵が「三月十三日」という日付そのものに執着するのを防ぐため、父親の追悼や写真展への想いを、別の形・別の日に昇華させること。
二つ、朝倉先生や学校関係者が「三月十三日夜の県立美術館搬入」というスケジュールを勝手に組まないよう、僕自身が写真部の活動に深く介入し、事前の調整を行うこと。
三つ、何よりも葵自身に「父親の影」ではなく「自分自身の未来」のために写真を撮る喜びを知ってもらうこと。
五月。新緑の眩しい季節。
僕は一期目・二期目とは異なり、正式に写真部へ入部した。
「陸! お前写真部に入ったのか!? 軽音部に入るんじゃなかったのかよ!」
放課後、部室前で蓮が目を丸くして叫んだ。
「ああ。やりたいことができたんだ。……蓮、心配かけてごめんな。でも、僕は自分の意思でこれを選んだんだ」
三期目では蓮を危険な事故に巻き込まないため、タイムリープの秘密は打ち明けていない。
彼を陰で危険から遠ざけつつ、僕自身が葵の最も近くで因果を書き換える防衛壁となる道を選んだのだ。
部室の窓辺で、一眼レフカメラのファインダーを覗く葵。
その横顔は、一期目や二期目で見せたどこか寂しげな陰りが消え、穏やかな光に包まれていた。
「榛名くん、見て! 今日の空、すごく綺麗だよ」
「うん、本当だね。水瀬、すごく良い笑顔だ」
パシャリ、と静かなシャッター音が部室に響く。
レンズの先にあるのは、十年前の事故の影ではない。今、この瞬間に生きている僕たちの青春の光だ。
因果の正体(父親の事故と命日)を解き明かした。
この「解」をもってすれば、三度目の三月十三日は絶対に超えられる。
しかし、僕はこの時まだ知らなかった。
「父親の命日」という強大な重力を排除しようとする僕の行動に対し、世界という悪魔が、さらに惨烈で予想だにしない『新たな運命の補正』を用意し始めていることを——。
父親の事故と命日という強大な因果の正体を突き止めた僕は、葵を過去の呪縛から解き放つため、自らも千早ヶ丘高校の写真部へと入部した。
初夏の風が吹き抜ける六月。
部室の棚に並ぶ埃をかぶった撮影機材を整理しながら、僕は葵とともに放課後の撮影実習に勤しんでいた。
「榛名くん、こっち! 見て、アジサイの葉っぱに小さな雨粒が残ってて……すごく綺麗だよ」
木漏れ日が降り注ぐ校舎裏の中庭で、葵が楽しそうに一眼レフカメラを構えている。
一期目や二期目の初夏には見られなかった、澄み渡るような笑顔だった。
「本当だね。光が乱反射して綺麗だ。水瀬、すごく良い切り取り方をするね」
「ふふ、ありがとう! 榛名くんに褒められると、なんだかすごく自信がつくな」
葵のレンズが向いているのは、もう十年前の冷たい雨の夜ではない。
今、この場所で生きている鮮やかな世界そのものだった。
僕は写真部顧問の朝倉先生ともこまめに連絡を取り、部活動の年間スケジュールを慎重に確認していた。
葵が父親の未完の個展に囚われて「三月十三日」の県立美術館へ向かわないよう、秋の作品展や校内展示のスケジュールを前倒しで調整するためだ。
「朝倉先生、今年の冬の展示会ですが、十二月中に校内展示として完結させる形にしてはいかがでしょうか?」
「ん? 榛名、なぜそんなに十二月にこだわるんだ? 年明けの三月には県立美術館での高校生合同展もあるというのに」
部室でネガを確認していた朝倉先生が、眼鏡を押し上げながら不思議そうに問いかけてきた。
僕はあらかじめ用意していた理由を静かに口にした。
「三年生は三月になると受験や卒業後の準備で多忙になります。それに……水瀬には、お父さんの事故の命日である三月十三日には、静かに家族と過ごさせてあげたいんです。外のイベントで無理をさせるのは、彼女の心にとっても負担だと思うんです」
朝倉先生は一瞬目を見開いた後、深く納得したように深く頷いてくれた。
「……そうか。お前は本当に水瀬のことをよく見ていてくれているんだな。分かった、今年の写真部メイン展示は十二月の校内展とし、三月の県立美術館への推薦は見送ることにしよう」
胸の奥で、大きな安堵の息が漏れた。
これで「朝倉先生からの推薦による三月十三日夜の美術館搬入」という二期目で起きた事故ルートも完全に封鎖した。
葵の心理的救済と、周囲の人間関係によるスケジュール補正の事前遮断。
僕の計算は完璧に進んでいるはずだった。
季節は巡り、激しい暑さが和らぎ始めた九月。
受験勉強と並行しながら、僕たちは十月下旬に開催される「秋華祭」に向けた準備を進めていた。
だが、順調に思えた僕の計画の足元で、不気味な歯車が少しずつ狂い始めていた。
「陸、最近ちょっと体調悪いのか? 顔色がずっと冴えないぞ」
昼休みの屋上。お弁当を食べ終えた親友の蓮が、心配そうに僕の顔を覗き込んできた。
「え……そうか? 普通だと思うけど」
「いや、絶対おかしいって。ここ最近、急にボケーッとしたり、自分の名前呼ばれても気づかない時があるぞ。受験の疲れか?」
蓮の言葉に、僕は自分の指先を見つめた。
言われてみれば、ここ数週間、原因不明の激しい眩暈と耳鳴りに襲われることが増えていた。
特に、タイムリープした瞬間の「水の中に潜っているような感覚」が、日常の不意な瞬間にフラッシュバックのように襲ってくるのだ。
(まさか……三度も過去をやり直したことによる、身体的な拒絶反応……?)
不安が胸を掠めたが、僕はそれを必死で押さえ込んだ。
自分の体調などどうでもいい。三月十三日さえ無事に乗り越えられれば、それでいいのだから。
しかし、狂い始めたのは僕の体調だけではなかった。
放課後、写真部の部室へ向かうと、葵が一人で困惑したようにデスクの上の書類を見つめていた。
「どうしたの、水瀬?」
「あ……榛名くん。ううん、なんだか変な封筒が届いていて……」
葵が差し出したのは、差出人不明の黒い封筒だった。
中には、一枚の古いモノクロ写真と、印字された短冊状の紙が入っていた。
写真は、十年前の「千早ヶ丘市立図書館」の旧館前で撮影されたもの。
そして紙に書かれていた文字は——
『十年前の約束を、覚えていますか。水瀬晃先生の未発表作品を、三月十三日に千早ヶ丘市立美術館にて公開します』
血の気が、一気に引き引いていくのを感じた。
「千早ヶ丘市立美術館……? 県立美術館じゃない……?」
僕は震える手でその紙を握りしめた。
朝倉先生を通じて県立美術館へのルートを遮断した途端、今度は「差出人不明の通知」という形で、全く別の場所(市立美術館)での「三月十三日」のイベントが捏造されたのだ。
「私……お父さんに未発表の作品があったなんて、聞いたことないのに……」
葵は不安そうに眉をひそめ、僕の服の袖をキュッと掴んだ。
「これ……誰が送ってきたんだろう。お父さんの昔の写真家仲間かな……?」
(違う……! これは人間が送ったものじゃない……いや、人間を介していたとしても、背後にあるのは『世界の復元力』だ……!)
恐怖で全身の毛穴が開くような感覚がした。
僕が葵の心を救い、学校側のルートを塞いでも、世界は「父親の未発表作品」という甘い毒針を使って、葵の好奇心と亡き父への情愛を再び刺激し、「三月十三日」という日へ誘い出そうとしているのだ。
「水瀬……この手紙のことは忘れてほしい。怪しすぎるし、絶対に罠だ」
「え……でも、もし本当にお父さんの写真があったら……」
「ダメだ!」
僕の思わぬ強い拒絶に、葵はビクッと身体を強張らせ、驚いたように目を見開いた。
「あ……ごめん、大声を出して……。でもね、水瀬。僕たちは『今』を生きるって約束しただろう? 過去の謎や怪しい招待に振り回されちゃダメだ」
葵は悲しそうに瞳を伏せたが、やがて静かに深く頷いた。
「……うん。榛名くんがそう言うなら……私、行かない。その手紙も捨てるね」
葵を納得させることはできた。
だが、僕の胸の中に渦巻く悪寒は消えなかった。
一つのルートを塞げば、世界はさらに狡猾で回避困難な「別のルート」を捏造して襲いかかってくる。
三度目のやり直しを以てしても、運命の悪魔は僕たちのすぐ後ろまで追いついてきていたのだ。
十月下旬。千早ヶ丘高校は、年に一度の祭典『秋華祭』の熱気に包まれていた。
澄み渡る秋晴れの空の下、校庭には各種クラス出し物の模擬店が建ち並び、賑やかな歓声と芳ばしい香りが校舎全体を包み込んでいる。
三期目の今年、僕と葵は写真部として共同で特別展示室を任され、この半年間で二人で切り取ってきた校内の日常や四季の風景写真を展示していた。
「榛名くん、見て! 来場者アンケート、すごく良い感想ばかりだよ!」
展示室の入口で、葵が嬉しそうに集計用紙を掲げて微笑んだ。
その胸元には、僕と一緒に選んだ新しいカメラストラップが誇らしげに揺れている。
「うん、水瀬の写真がたくさんの人の心に届いたんだよ。本当に良かった」
「私一人じゃないよ。榛名くんが隣でアドバイスしてくれたから、こんなに暖かい写真が撮れたんだよ」
一期目や二期目の秋華祭で見せた、どこか儚げで陰のある彼女の面影はどこにもなかった。
僕が彼女の父親の呪縛を解き、真っ直ぐな言葉で心に寄り添ったことで、彼女は確かに明るい光の中で息づいていた。
だが、夕方になり、後片付けが始まった頃——僕の頭腔を、ハンマーで叩かれたような強烈な割れるような激痛が襲った。
「ぐっ……! あ……っ!」
「陸!? お前、大丈夫か!?」
展示品のパネルを片付けていた蓮が、急いで僕の肩を支えてくれた。
視界がぐにゃりと歪み、耳の奥で激しい水の泡立つ音が渦を巻く。三度目のタイムリープによる精神と肉体の剥離——「世界の拒絶反応」が、確実に僕の蝕み始めていた。
「平気……ちょっと眩暈がしただけだ……」
「平気な顔じゃないぞ! お前、ここ数ヶ月ずっと限界を超えて張り詰めてるだろ! 少し休めって!」
親友の必死の制止を振り払い、僕は呼吸を整えて葵の元へと向かった。
後片付けが終わり、茜色の夕焼けが差し込む渡り廊下。
そこには、夕日を浴びながら手元の紙袋をそっと見つめる葵の姿があった。
ミッドナイトブルーに、銀色の星が散りばめられた美しいレターセット。
一期目、二期目と全く同じ、あの運命の手紙だった。
「水瀬……それ……」
僕が声をかけると、葵はハッとしたように振り返り、少し照れくさそうに手紙を胸元に隠した。
「あ……榛名くん。ふふ、見られちゃった。これね、さっきの休憩時間に学校の前の文具店で見つけて買ってきたの」
「……誰かに、渡す手紙?」
声が震えないよう、僕は必死で奥歯を噛み締めながら問いかけた。
一期目と二期目では、この手紙は「天国の父親への祈り」であり「僕への秘めた感謝」だった。
だが、父親の未練から解放された三期目の今、彼女はこの手紙に何を記そうとしているのか。
葵は夕暮れの街並みを遠く見つめながら、静かに、けれど慈しむような優しい声で口を開いた。
「うん。私ね……ずっと過去の暗い場所に一人で立ち止まってた気がするの。でもね、榛名くんが私の手を引っ張って、この暖かい春と秋の光の中に連れ出してくれた」
葵は振り向き、僕の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「だからね、この手紙には……私を救ってくれた大切な人への、本当の気持ちを書こうと思ってるの。いつか……一番特別な日に、その人に受け取ってもらうために」
手紙の持つ意味が、変わっていた。
過去の父親へ捧げる追悼の念から、今をともに生きる「僕」への真っ直ぐな愛おしさと未来への希望へ——。
僕は彼女の手を優しく包み込み、深く首を振った。
「ありがとう、水瀬。……僕も、絶対にその手紙を受け取るよ。三月十三日なんて暗い日じゃない、もっと晴れやかで温かい春の日に」
二人の間に流れる、穏やかで温かな時間。
運命の歯車は確実に書き換えられ、葵の魂は死の引き金から引き離されたはずだった。
しかし——その夜、僕が自室で机に向かっていた時、スマートフォンに一通の無記名メールが届いた。
不気味な着信音とともに画面に表示された通知。
差出人のアドレスは数字の羅列で、本文にはたった一行のテキストと、添付ファイルがひとつ付いているだけだった。
『補正完了:三月十三日・千早ヶ丘市立美術館・午後八時』
息が凍りついた。
添付されていた画像ファイルを開くと、そこには驚愕の光景が写し出されていた。
それは——千早ヶ丘市立美術館の防犯カメラの映像と思われる静止画。
展示室のスケジュール表の「三月十三日」の枠に、赤いマーカーで大書された『水瀬葵様・父子追悼特別写真展』の文字。
そしてその横には、葵の母親と思われる署名が、完璧な筆跡で添えられていたのだ。
「そんな……お母さんの署名……!? なんで……!?」
頭を抱え、絶叫しそうになるのを必死で抑え込んだ。
僕が朝倉先生を抑え、葵本人に過去を断ち切らせても……世界は、葵の母親という「家族の無知と善意」を操り、親の立場から市立美術館の枠を申請させていたのだ。
「娘のために、亡き夫の追悼展をサプライズで開いてあげたい」という、母親としての純粋な愛。
世界は、その最も残酷で疑いようのない愛情すらも毒に変えて、葵を三月十三日の夜へ引きずり出そうとしている。
悪魔だ。
世界はどこまでも執念深く、血も涙もなく、僕たちの幸福を打ち砕こうとしてくる。
「くそっ……! くそおおおぁぁぁっ!!」
激しい眩暈とともに、視界が真っ赤に染まる。
鼻から一筋の血が垂れ落ち、カレンダーの「三月十三日」のマス目を赤く汚した。
残された時間は、あと四ヶ月。
父親の呪縛を解き、個人的な意思を折り曲げさせてもなお、逃れられない死の重力。
僕は血を拭いながら、暗闇の中で濁った瞳を光らせた。
(母親のルートも、美術館のルートも……全部だ。全部僕が叩き潰してやる。僕の命が尽きるのが先か、お前(世界)の因果を断ち切るのが先か……勝負だ!!)
三度目の三月十三日に向け、世界と僕の狂気じみた死闘が、静かに幕を開けようとしていた。
千早ヶ丘の街に、今年初めての冷たい初雪が舞い散る十二月上旬。
自室の机の上で、僕は吐き出された血で汚れたティッシュを丸め、ゴミ箱へと投げ捨てた。
鏡に映る自分の顔は凄惨だった。目の下には酷い隈が落ち、頬はこけ、皮膚の下の血管がうっすらと青黒く浮き出ている。
三度にわたる時間跳躍の代償——肉体と精神の乖離による「世界の拒絶反応」は、僕の生命そのものを確実に削り取っていた。
だが、倒れている暇などない。
僕はコートを羽織り、吐く息を白く染めながら、葵の自宅がある静かな住宅街へと向かった。
目的はただ一つ。世界の手先として操られ、「千早ヶ丘市立美術館」での三月十三日夜の追悼展を申請してしまった葵の母親——水瀬 恵子さんを説得し、企画そのものを完全に撤回させることだ。
凛とした静寂が包む水瀬家の門をくぐり、インターホンを押す。
やがてドアが開き、葵によく似た面影を持つ穏やかな女性、恵子さんが顔を出した。
「あら……榛名くん? 葵なら、今は図書館へ出かけているけれど……」
「いえ、恵子さん。今日は……恵子さんにお願いがあって伺いました。大切な話なんです」
応接間に通され、暖かい紅茶を出された僕は、意を決して恵子さんの目を見つめた。
「恵子さん……単刀直入に申し上げます。三月十三日に千早ヶ丘市立美術館で予定されている、晃さんの追悼写真展の件ですが……どうか、キャンセルしていただけないでしょうか」
恵子さんは一瞬ポカンと目を見開いたが、すぐに哀しげな、けれど頑なな笑みを浮かべた。
「……どうしてそれを知っているの? 葵にはサプライズにするつもりだったのに。……あの子は口では『もう過去にとらわれない』と言っているけれど、本当はお父さんの夢を叶えてあげたいはずなの。母親の私には分かるわ」
「違います!」
僕は思わず身を乗り出し、声を荒げた。
「葵は本当にもう、前を向いて歩き出しているんです! 過去の命日に縛られて写真を撮るんじゃなく、自分の未来のためにカメラを構えているんです! 恵子さんのそのお気持ちは分かりますが……三月十三日という日は、葵にとって酷すぎます!」
「榛名くん……君があの子を心配してくれるのは嬉しいわ」
恵子さんは静かに首を振り、譲らない目で僕を見つめ返した。
「でもね……これは家族の問題なの。亡くなった夫とあの子の絆を繋ぎ直すのは、母親である私の責任であり、愛なのよ。あの子も当日の展示を見れば、きっと喜んでくれるわ。だから……余計な口出しはしないで頂戴」
言葉が詰まった。
悪魔のような歴史の復元力は、恵子さんの「母親としての狂信的な愛と責任感」を完璧な盾として利用していた。
第三者である僕の言葉など、彼女の強固な親心の前では一粒の砂のように弾き飛ばされてしまうのだ。
水瀬家を辞し、凍てつく雪の通学路をトボトボと歩く。
八方ふさがりだ。
葵本人の意識を変え、学校ルートを塞ぎ、因果の正体を解き明かした。
それでも世界は、家族の愛という最も強固で不可侵の領域を操作して、葵をあの三月十三日夜のバイパス交差点へ引きずり出そうとしている。
(どうすればいい……? 母親の意志すら動かせないなら……どうやって彼女を守ればいいんだ……!?)
激しい焦燥感と絶望が胸を締め付けたその瞬間——
ガクン、と膝の力が抜け、僕の視界が完全に真裏へひっくり返った。
「ぐはっ……! げほっ……! かはっ……!」
濡れたアスファルトに倒れ込み、吐血する。
口から溢れ出た深紅の血液が、白く積もり始めた初雪を赤く染め上げていく。
視界が急速に暗転し、遠くで僕の名前を呼ぶ悲鳴のような声が聞こえた。
「陸ーーーっ!! 陸、しっかりしろ!!」
駆け寄ってきたのは、僕の異変を心配して後を追ってきていた親友の蓮だった。
蓮は僕の身体を抱き起こし、吐血で汚れ、青ざめた僕の顔を見て絶句した。
「なんなんだよこれ……! お前、血吐いてるぞ!? なんでこんなになるまで放っておいたんだよ! すぐ救急車を——」
「ダメだ……! 蓮……救急車は……ダメだ……!」
僕は震える手で蓮の腕を強く掴んだ。病院に担ぎ込まれ、入院などに拘束されれば、三月十三日の防衛行動が取れなくなってしまう。
「ふざけるな! お前、死にそうな顔してんだぞ!? 一体何と戦ってるんだよ!!」
雪の降りしきる路上で、蓮は涙を溢れさせながら叫んだ。
「隠すなよ……! 親友だろ!? お前がこの一年間、何を抱え込んで、何に怯えて、どうしてこんなボロボロになってるのか……全部話せよ!!」
雪の上に落ちる蓮の温かい涙。
三期目では彼を巻き込むまいと固く口を閉ざしていたが、もう限界だった。
僕の命の灯火が消えかけている今、彼にすべてを託す以外に道は残されていませんだった。
蓮の部屋へ運ばれ、温かい毛布に包まれた僕は、かろうじて保っている意識の中で、すべてを告白した。
僕がタイムリープを三度繰り返してきたこと。
一期目と二期目で葵が三月十三日夜にバイパス交差点で惨死したこと。
歴史の復元力が、あらゆる手を使って彼女を死へと追い詰めてくること。
そして、三度の時間跳躍の代償として、僕の身体がすでに限界を迎えていること——。
部屋の中に、静寂が満ちた。
ファンヒーターの唸り音だけが虚しく響く。
普通なら狂人の戯言として笑い飛ばされる内容だ。
だが、膝の上で固く拳を握りしめる蓮の身体は、激しく震えていた。
「……だから、だったんだな」
蓮は掠れた声で呟き、赤く腫らした目で僕を見つめた。
「お前が時々、未来を知ってるみたいな顔をしてたのも……葵ちゃんを見る目が血を吐くほど切なそうだったのも……全部、一人で葵ちゃんの死を背負って戦ってたからなんだな……!」
「ごめん……蓮。巻き込みたくなかった……二期目で、お前まで僕のせいで大怪我を追ったから……」
「バカ野郎!!」
蓮は僕の肩を激しく掴み、魂を絞り出すように叫んだ。
「巻き込めよ! 頼れよ! 一人で二回もそんな地獄を味わって……身体壊してまで戦って……親友の俺を頼らないでどうすんだよ!!」
蓮の目から、ボロボロと大きな涙がこぼれ落ちる。
「分かった……信じるよ。お前がタイムリープしてようが、世界が葵ちゃんを殺そうとしてようが関係ねえ。俺が……俺が絶対にお前と葵ちゃんを死なせねえ!」
三期目にして初めて、蓮が自らの意思で「世界の理」と戦うパートナーとして立ち上がってくれた。
僕の肉体はもう長く持たない。
三月十三日、僕の身体が動かなくなったとしても、この親友が僕の代わりの「心臓」となって葵を守ってくれる。
絶望のどん底で、途方もなく力強い光が、僕の胸の中に灯った。
二月中旬。積もった雪が少しずつ解け始め、街の随所に冷たい水たまりが残る季節。
僕の肉体崩壊は、日を追うごとに着々と進んでいた。
視界の端がしばしば暗転し、右耳の聴力は一時的に著しく低下している。歩くことすら覚束ない日もあったが、蓮が毎日僕の家へ通い、体調の管理と外部情報の収集を手伝ってくれた。
蓮の部屋の机の上には、千早ヶ丘市立美術館周辺の地図と、国道十六号バイパス交差点の構造図が広げられていた。
「陸、作戦の最終確認だ」
蓮は赤ペンで地図上の特定のポイントを丸で囲みながら、真剣な眼差しで言った。
「当日——三月十三日、恵子さんは葵ちゃんを『少し付き合ってほしい場所がある』と偽って、車で市立美術館へ連れ出す手はずになっている。お母さん本人はサプライズのつもりだから、葵ちゃんに拒否権を与えない形で現地へ直行させる気だ」
「ああ……。そして、展示を見た葵はショックと混乱の中で美術館を飛び出し、雨の中をあのバイパス交差点へ向かって走り出してしまう……。それが世界が仕組んだ完璧なシナリオだ」
僕はかすれた声で応じた。
「だが、今回は俺がいる」
蓮は強く拳を握りしめた。
「俺は当日、午後六時から市立美術館の駐車場で待機する。葵ちゃんが車から降りた瞬間に声をかけ、館内に入らせずに保護する。もし館内に入ってしまった場合でも、非常口と出口を固めて葵ちゃんが一人で交差点へ走り出すのを物理的にブロックする」
「ありがとう、蓮……。僕は、バイパス交差点側で待機する。もし万が一、世界の不規則な補正によって葵が美術館を抜け出してしまった時のため、僕が交差点の前で立ちふさがる」
「おい、陸……! お前、そんな身体で外に立てるのかよ!?」
「立てるさ。……立ち続けて見せるよ。これが、僕の三度目の……そして最後の戦いなんだから」
三月一日。卒業式を数日後に控えた放課後。
夕闇が迫る特別校舎の渡り廊下で、僕は葵と二人きりで会っていた。
これが、運命の日を迎える前の最後の二人きりの時間になるかもしれなかった。
「榛名くん、これ……」
葵は少し緊張した面持ちで、鞄の中から一通の封筒を取り出した。
深海のように深く、美しい輝きを放つミッドナイトブルーの封筒。その表面には、繊細な銀色の星々が描かれている。
「水瀬……それって……」
「うん。秋華祭の時に話した手紙……書けたんだ。あなたに渡したくて」
葵は両手で大切そうに封筒を抱え、僕に差し出してきた。
「三月十三日……私のお父さんの命日が過ぎたら、この手紙を開けて読んでほしいの。……本当は今すぐにでも渡したいんだけど、なんだか……この手紙を渡して読んでもらえたら、私の止まっていた時間が、本当に未来へ動き出す気がするから」
彼女の透明な瞳から、一筋の温かい涙が頬を伝って零れ落ちた。
「私ね、榛名くんに出会えて本当に良かった。暗い過去ばかり見ていた私に、こんなに綺麗な春と秋を見せてくれて……本当にありがとう」
僕は激しい胸の痛みに耐えながら、震える手でそのミッドナイトブルーの封筒を受け取った。
(葵……。この手紙の重みこそが、君が今を生きている証なんだね)
「受け取るよ、水瀬。三月十三日が過ぎて……晴れやかな十四日の朝になったら、君の前でこの手紙を開くよ。絶対に」
二人の指先が触れ合い、温かな温もりが伝わる。
過去の呪縛に縛られた犠牲者の姿は、もうそこにはなかった。彼女は今、僕とともに未来を望む一人の少女として、ここに立っていた。
三月十二日、夜。
自室のベッドの上で、僕は横になったまま、天井を見つめていた。
明日——ついに、三度目の決戦の日がやってくる。
一期目では単独行動の末に事故を防げず、自らも跳躍した。
二期目では完璧な防衛網を敷いたものの、歴史の復元力による旧道の事故と蓮の負傷によって打ち砕かれた。
そして三期目。僕は因果の正体を突き止め、葵の心を救い、親友の蓮という最高の相棒とともに最終防衛陣形を組み上げた。
机の上には、葵から受け取ったミッドナイトブルーの封筒と、蓮からの最新連絡が入ったスマートフォンが置かれている。
『陸、明日の天気予報は午後から激しい大雨だ。一期目、二期目と全く同じ悪天候になる。だが心配するな。俺が絶対に葵ちゃんを市立美術館から逃がさない。お前は自分の身体を第一に考えて動けよ』
「ああ……頼んだよ、蓮」
スマートフォンを胸に抱きしめ、僕は深く息を吐いた。
身体の感覚はもう麻痺しかけており、指先に力が入りにくい。
だが、魂の火はかつてないほど激しく燃え上がっていた。
世界がどれほどの不確定要素を捏造し、どれほど酷薄な運命の補正をかけてこようとも——僕と蓮の絆、そして葵自身が手に入れた未来への意志が、絶対にその惨劇を打ち破ってみせる。
窓の外で、激しい雨の前兆となる湿った冷たい風が吹き荒れ始めた。
僕のいない春など、絶対に訪れさせない。
彼女とともに歩む、晴れやかな春の光の中へ——三度目の三月十三日が、静かに幕を開ける。
三月十三日、午後六時。
天が割れたかのような激しい大雨が、千早ヶ丘の街を濡らしていた。
一期目、二期目と全く同じ、冷たく禍々しい雨の夜。
視界を遮るほどの雨足がアスファルトを叩きつけ、遠くの街灯の光をにじませている。
僕は濡れた黒のフード付きコートを深くかぶり、国道十六号バイパス交差点の歩道上に立っていた。
身体の感覚はすでに麻痺しかけ、吐く息は白く乱れている。右耳の聴力は途切れ途切れで、左耳だけで激しい雨音と車の走行音を聞き取っていた。
ポケッ トの中には、葵から託されたあのミッドナイトブルーの手紙。
冷え切った指先でその滑らかな質感に触れるたび、凍えかけた心臓に温かい血が巡るのを感じる。
(あと二時間……。午後八時になれば、運命の時刻が過ぎる。僕と蓮の陣形なら、絶対に防ぎ切れる……!)
その時、ポケットの中のスマートフォンが激しく振動した。
画面には「蓮」の文字。僕は震える手で応答ボタンをタップし、スピーカーを左耳に押し当てた。
「陸! 俺だ、今市立美術館の駐車場にいる!」
激しい雨音の隙間から、蓮の切迫した声が響く。
「様子はどうだ!? 葵ちゃんとお母さんは来たか!?」
「ああ、十分前に恵子さんの車が着いた! 葵ちゃんは何も知らされずに連れてこられたみたいで、美術館の看板を見てすごく戸惑ってた。……俺は車から降りてきた二人にすぐ接触したよ!」
「本当か!? どうなった!?」
「俺が『陸から預かった連絡だ。今夜は絶対にここに入っちゃダメだ』って強く引き止めた! 恵子さんは驚いて怒ってたけど、葵ちゃんは俺の必死な顔を見て、入館を拒否してくれた! 今、二人を駐車場から車で引き返させようと説得してるところだ!」
胸の奥で、歓喜の叫びがこみ上げた。
成功だ。
蓮が市立美術館の現場で葵を直接補導・制止し、館内への入館を阻止したのだ。
これで「展示を見てショックを受けた葵が一人で飛び出す」という過去の惨劇ルートは完全に潰された。
「よくやった……ありがとう、蓮……! 本当にありがとう……!」
「礼なら全部終わってから言え! 俺はこのまま二人を家まで車で送り届けるよう恵子さんを説得する! 陸、お前も濡れてないで早く避難しろよ!」
「ああ……分かった。気をつけてな!」
通話を切り、僕は天を仰いだ。
激しい雨滴が頬を打つ。
一期目と二期目で僕を絶望の淵に突き落とした「三月十三日」の呪縛を、僕たちはついに打ち破ったのだ。
しかし——神は、そして世界という名の悪魔は、僕たちに安らかな救いを許さなかった。
通話を終えてからわずか十分後。
午後七時二十分。
突然、バイパス交差点の信号機が一斉に消灯した。
「……え……?」
街灯も、周囲の店舗の明かりも、一瞬にしてすべてが暗転する。
千早ヶ丘地区一帯を襲った、突発的な大規模停電。
暗闇に包まれたバイパス交差点は、激しい大雨と走行するトラックのヘッドライトだけが錯乱するように行き交う、地獄のような危険地帯と化した。
不吉な予感が、背筋を氷のように凍りつかせる。
(停電……? どうしてこんなタイミングで……!?)
その直後、再びスマートフォンが狂ったように鳴り響いた。
液晶画面に表示された蓮からの着信。画面を開いた瞬間、受話器から聞こえてきたのは——悲鳴と、金属が激しく軋む破壊音だった。
『きゃあああああっ!!』
『陸ーっ!! 助けてくれっ!! 事故だ!!』
蓮の絶叫が、雨音を切り裂いて耳に飛び込んできた。
「蓮!? どうしたんだ!? 何があった!?」
『停電で……信号が消えて……! 駐車場の出口で大型トラックが路面スリップを起こして……恵子さんの車に激突した!!』
血の気が、一瞬で引き引いていく。
『恵子さんは意識不明だ! 車は大破して……葵ちゃんがパニックになって車から這い出し、ショックで意識を失いかけたまま……雨の中を走り出しちまったんだ!!』
「そんな……! 蓮、葵はどこへ向かったんだ!?」
『分からない……! 暗闇と大雨で視界がゼロだ! でも……葵ちゃん、うわ言みたいに『お父さんのカメラ……交差点……』って言いながら……そっちのバイパスの方へ走り去った……!!』
受話器を握る手が、激しく震えた。
世界は……歴史の復元力は、どこまで酷薄で、どこまで執念深いのか。
葵が自ら美術館に入らないならば、「事故と停電」という不可抗力の天災を発生させ、母親を負傷させて葵の精神を狂わせ、強制的にあの惨劇の交差点へ走らせるルートを再構築したのだ。
「くそっ……! くそおおおあぁぁぁっ!!」
僕はスマートフォンをポケットに押し込み、激痛の走る足を引きずりながら、交差点の横断歩道へと駆け出した。
雨はますます激しさを増し、横殴りの水滴が視界を奪う。
信号が消えたバイパス交差点では、大型トレーラーやトラックがハザードランプを点滅させながら、乱雑に行き交っていた。
濡れたアスファルトに反射するヘッドライトの光が、悪夢のようにギラギラと渦巻いている。
「水瀬ーーーっ!! 水瀬葵ーーーっ!!」
雨音に掻き消されそうな声で、僕は叫び続けた。
視界の端が明滅し、強烈な眩暈が頭腔を揺さぶる。
口の中に鉄の味が広がり、吐き出した血が雨水とともに足元へ流れていく。
肉体はもう、完全に限界を迎えていた。
その時——
交差点の反対側の歩道、街灯の薄暗い影の中に、ぼんやりと浮かび上がる一人の少女の影が見えた。
濡れそぼった制服。
胸に強く抱きしめられた、父親のオールドカメラ。
力なく定まらない瞳で、危険な大型トラックが行き交う交差点を見つめる少女——葵だった。
「水瀬……!!」
葵は僕の声に気づいていない。
彼女はパニックとショックで意識が混濁したまま、引き寄せられるように、赤信号も青信号も消えたバイパスの車道へと踏み出そうとしていた。
そして、暗闇の奥から——。
濡れた路面を滑らせながら、一台の大型水槽トラックが、猛烈な速度で葵に向かって突進してくるのが見えた。
一期目と全く同じ。
二期目と全く同じ。
死の巨大な鉄塊が、葵の華奢な身体を押し潰そうと迫っていた。
「行かせない……!!」
僕は倒れそうになる身体を無理やり引き起こし、葵の元へ向かってアスファルトを蹴った。
世界が葵を殺そうとするなら、僕は命の最後のひとしずくまで絞り出して、その運命を叩き潰してやる——!!
豪雨がアスファルトを打ち叩き、激しい飛沫が視界を白く染める。
信号がすべて失われた国道十六号バイパス交差点。
ヘッドライトの鋭い光束が暗闇を切り裂くなか、大型水槽トラックのブレーキ音が悲鳴のように鳴り響いた。濡れた路面で数トンの鉄塊がスリップし、横滑りしながら葵に向かって突進してくる。
「あ……」
視界を埋め尽くす光と影の群れの中で、葵は立ち尽くしていた。
意識が乱れ、手元に抱えた父親のカメラだけを強く握りしめながら、死の影に怯える間もなく足をすくわれている。
「葵ーーーっ!!」
声帯が引き裂けるほどの叫びが、僕の喉から奔流となって溢れ出した。
視界は血の色に染まり、右耳の鼓膜は完全に静寂と化した。全身の細胞が悲鳴を上げ、血管が破裂しそうなほどの激痛が頭腔を駆け巡る。
三度にわたる時間跳躍の代償。僕の肉体は、今この瞬間にも崩壊しようとしていた。
だが、脚だけは動いた。
(倒れるな……動け! 僕の命なんてどうなったっていい……! 葵のいる未来へ、この手を届かせるんだ!!)
感覚を失った両脚で力任せに濡れた路面を蹴りつけ、僕は車道へと飛び出した。
迫り来る大型トラックのフロントグリル。
死の冷気が、肌を刺す。
距離にして、わずか数メートル。一期目と二期目の悪夢が、寸分違わず目の前で再現されようとしていた。
しかし、今回は違う。
僕の胸には、葵の心から解き放たれた父親の呪縛の重みがあり、ポケットには僕たち二人で紡ぎ出したミッドナイトブルーの手紙がある。
そして、僕の背中には、親友である蓮との絶対の誓いがあった。
僕はこの「三度目の惨劇」を打ち破るために、命の残滓をすべて燃やし尽くす覚悟でここへ立ったのだ。
飛び込んだ視界の先、葵の瞳に僕の姿が映り込んだ。
「は……るな……くん……?」
混乱と恐怖の中で、彼女の瞳に正気の光が戻る。
その瞬間、僕は葵の細い肩を力いっぱい抱き寄せ、路面へ向かって全力で押し倒した。
ガシャアンッ!!
耳を突く凄まじい衝撃音と、濡れた鉄とゴムが焼け付く臭い。
間一髪のところでトラックのバンパーをすり抜け、僕たちは濡れた歩道の上を激しく転がった。
葵の身体を庇うように抱きかかえ、衝撃を背中で受け止める。
無我夢中で立ち上がり、葵の無事を確認した。
「葵……! 大丈夫か!? 怪我はないか!?」
「榛名くん……! 私……私……!」
葵の瞳から涙が溢れ出し、僕の濡れたコートを強く握りしめた。
助かった。葵は生きている。あの忌まわしい「三月十三日」の命日を、彼女は怪我一つなく乗り越えたのだ。
——しかし。
世界という悪魔の「復元力」は、どこまでも冷酷で、どこまでも計算し尽くされていた。
僕が葵を押し飛ばし、死の軌道から救い出したまさにその瞬間——。
後方からスリップして滑り込んできたもう一台の乗用車が、暗闇の中から迫っていた。
信号が消え、パニックに陥った交通網の中で発生した二次衝突。
僕が葵の無事を確かめ、安堵の息を吐いたコンマ数秒の後。
その車は、僕の逃げ場のない背後へ向かって容赦なく衝突した。
ドガッ……!!
「ぐ……あ……っ!?」
鈍い衝撃が背骨を打ち抜き、視界が強烈な白光に包まれる。
身体が宙を舞い、重力を失ったように雨の夜空へ放り投げられた。
ポツリ、と雨粒が顔に当たる感触。
遠ざかる街の明かり。
遠くで響く、葵の割れるような悲鳴。
『榛名くーーーっ!! 榛名くんーーーーっ!!』
冷たいアスファルトの上に叩きつけられた僕の身体は、もう指一本動かすことすらできなかった。
視界の端から深い暗闇が滲み出し、すべての感覚が急速に失われていく。
雨音が、まるで遠い異国の波音のように静かに遠ざかっていく。
膝をつき、血だらけになりながら僕の元へ這い寄ってくる葵の姿が見えた。
「嫌……! 嫌よ榛名くん! 目を開けて……! お願いだから目を開けてよ!!」
葵の手が僕の頬に触れる。その手は温かく、必死に僕の命を繋ぎ止めようと震えていた。
(ああ……良かった……。葵……君は……生きているんだね……)
僕の身体から溢れ出た血液が、濡れた路上を赤く染めていく。
胸のポケットから落ちかけたミッドナイトブルーの封筒が、僕の血で静かに濡れていた。
世界は「水瀬葵の死」という歴史の結果を、僕という「異物」の命を回収することで相殺したのだ。
葵の代わりに、僕がこの場所で命を落とす。それが、この理不尽な世界が弾き出した最終的な「因果の収支決算」だった。
だが——後悔なんて、微塵もなかった。
僕が命を落とすことで、葵の未来が繋がるなら。
彼女が悲しい過去を乗り越え、明るい春の光の中で生きていけるなら。
僕の三度にわたる不様な戦いは、すべて報われたのだから。
「水瀬……」
声にならない声で、僕は動かない唇をほんの僅かに動かした。
「……手紙……読んで……くれた……?」
「今読む……! 今読むから!! だから行かないで……! 私を置いていかないで……!!」
葵は震える手で血に濡れたミッドナイトブルーの封筒を引き裂き、中の便箋を広げた。
そこに書かれていたのは、一期目や二期目のような過去への追悼ではない。
『榛名くんへ。私に生きる理由をくれてありがとう。あなたの隣で迎える春が、私の本当の始まりです』
葵の涙が便箋に落ち、僕の血と混ざり合って滲んでいく。
遠くから、救急車のサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。
駆けつけてきた蓮の、泣き叫ぶ声も聞こえる。
だが、僕の視界は穏やかな暖色系の光に包まれ始めていた。
降り続いていた激しい大雨が、嘘のように止んでいく。
厚い雲の隙間から、澄み渡る月光と、暖かな春の風が吹き抜けていくのを感じた。
僕のいない春だけが、こんなに晴れている。
けれど……その晴れやかな空の下で、彼女が生きている。
ただそれだけで、僕の人生は、世界で一番幸せだった。
僕は静かに瞼を閉じ、永遠の安らぎの中へと沈んでいった——。
三月十四日。
昨夜の激しい大雨と嵐が嘘のように去り、千早ヶ丘の街には、遮るもののない澄み切った青空が広がっていた。
雲ひとつない春の空から降り注ぐ陽光は、冷たく濡れたアスファルトを優しく照らし出し、街角の早咲きの桜の蕾を淡いピンク色に染め上げている。
けれど——その眩しいほどの光の中に、彼の姿だけがなかった。
千早ヶ丘総合病院の集中治療室前。
白い壁と無機質な消毒液の匂いが満ちる廊下で、葵は膝を折り、冷たい床の上に小さく丸まっていた。
その手には、血と雨水に濡れてしわくちゃになった、あのミッドナイトブルーの便箋が固く握りしめられている。
「葵ちゃん……」
廊下の奥から、歩行器に頼りながら足をひきずって歩いてきたのは、母親の恵子だった。
昨夜の駐車場での事故で軽傷を負った恵子は、頭に包帯を巻いた痛々しい姿のまま、葵の隣にそっと腰を下ろした。
「お母さん……私ね……」
葵の声はかすれ、瞳からは光が失われていた。
「榛名くんが……私を助けてくれたの。あの暗い交差点で……トラックの前に飛び出して、私を押し飛ばして……。私の身代わりになって……」
涙はもう出尽くしていた。
昨夜、病院の搬送先で告げられた「蘇生不能」という宣告。
陸の途絶えた脈拍と、二度と動くことのない冷たくなった指先の感触が、葵の記憶に焼きついて離れなかった。
「榛名くんは……知ってたんだと思う。私が昨夜、あの交差点で死ぬ運命だったことを……。だから自分の命と引き換えに、私にこの春をくれたんだよ……」
恵子は絶句し、我が子を強く抱きしめた。
「ごめんなさい……葵、ごめんなさい……! お母さんが余計な個展なんて企画しなければ……あんな夜にあなたを連れ出さなければ……!」
母親のむせび泣く声が廊下に響く。
だが、葵の心はどこまでも深く、暗い透明な海の中へと沈み込んでいた。
陸が命を懸けて救ってくれたこの命。
陸が僕に見せたかったと言っていた、温かく晴れやかな春の光。
けれど、その陸がいない世界で、どうやって生きていけばいいのか——葵には、何も分からなくなっていた。
四月上旬。満開の桜が舞い散る千早ヶ丘高校。
始業式と入学式が終わり、新学期を迎えた校舎は新しい季節の歓声に包まれていた。
三年生になった葵は、一人で静かに特別校舎の階段を上がり、写真部の部室のドアを開けた。
誰もいない部室。
窓から差し込む暖かな春の光の中に、埃の粒子がキラキラと舞っている。
部屋の隅にある棚には、陸が綺麗に整理してくれたカメラ機材や、二人で撮影したネガフィルムの箱が整然と並んでいた。
葵は静かに陸がよく座っていた窓辺の椅子に腰を下ろし、机の上にポツンと置かれていた一冊の黒いレザーアルバムに手を伸ばした。
それは、陸が生きている間に少しずつ作り溜めていた、写真部の『活動記録アルバム』だった。
ページをめくると、そこには鮮やかな四季の写真と、陸の丁寧な筆跡で残されたキャプションが並んでいた。
『六月。アジサイの葉に宿る雨粒。水瀬の切り取る光は、いつも優しくて温かい』
『十月。秋華祭の特別展示。二人で作った空間が、たくさんの人に届いた日』
『十二月。初雪の校庭。水瀬が過去の影から解放され、真っ直ぐ未来を見つめている』
一枚一枚の写真に込められた、陸の惜しみない情愛と、葵を守り抜こうとした強い意思。
陸は最初から知っていたのだ。自分が葵の代わりに消えてしまうかもしれないことを。
だからこそ、自分が去った後の世界で葵が一人で立っていられるように、この場所にたくさんの「光」を残していってくれたのだ。
アルバムの最後のページを開いた瞬間、葵は息を呑んだ。
そこに貼られていたのは——葵自身も見たことがない、一枚の写真だった。
それは、昨年の秋華祭の夕暮れ時。
渡り廊下で夕日を浴びながら、ミッドナイトブルーの手紙を胸に抱えて柔らかく微笑む、葵自身の横顔だった。
陸が葵に気づかれないよう、静かにシャッターを切った一瞬。
その写真の下には、陸の最後のメッセージが記されていた。
『水瀬へ。
君がこのアルバムを開いている時、僕はこの場所にはいないかもしれない。
けれど、悲しまないでほしい。
僕が君に贈ったのは、僕のいない悲しい春ではなく、君が君自身の足で歩んでいくための晴れやかな未来なんだから。
君の写真には、人を救う光がある。
僕が愛したその光を、どうか消さないで。
お父さんのためでも、僕のためでもなく——君自身のために、これからも世界を写し続けてほしい。
僕の春を、君にあげる。
だから……どうか晴れやかな空の下で、幸せになってください』
ポロポロと、大粒の涙がアルバムの写真の上に落ち、陸の文字を濡らした。
「榛名くん……! 榛名くん……っ!」
葵はアルバムを胸に抱きしめ、声を上げて泣き伏した。
陸が自分に残してくれたものの大きさに、葵は初めて気づいた。
陸は自分の命を犠牲にしたのではない。
葵の止まっていた時間を動かし、彼女に「生きて未来へ進むための光」を託してくれたのだ。
部室のドアがそっと開き、足を引きずりながら蓮が入ってきた。
「葵ちゃん……」
蓮の目も赤く腫れていた。親友を失った激しい痛みを抱えながらも、蓮は陸から託された言葉を葵に伝えるため、ここへやってきたのだった。
「陸が言ってたよ。……もし自分がダメになったら、葵ちゃんを支えてくれって。陸は最後まで、自分のことなんて一言も心配してなかった。葵ちゃんが笑って春を迎えられることだけを祈ってたんだ」
蓮はポケットから、陸が愛用していたデジタルカメラを取り出し、机の上にそっと置いた。
「これ……陸のカメラだ。お前に渡してくれって、事故の数日前に俺に預けてたんだ」
葵は涙を拭い、震える手で陸のカメラを包み込んだ。
カメラの金属の冷たさの中に、確かに陸の指先の温もりが残っている気がした。
陸が去ったあの日から、三年の月日が流れた。
三月十三日。
千早ヶ丘の街は、雲ひとつない柔らかな春の陽光に包まれていた。
千早ヶ丘市立美術館——かつて歴史の復元力が葵を誘い出そうとし、悲しい運命の交差点となったあの場所の企画展示室で、一つの特別な写真展が開催されていた。
『水瀬葵 写真展:僕のいない春だけが、こんなに晴れている』
会場の白い壁面には、二十歳になった葵がこれまでに撮影してきた無数の写真が並べられている。
かつての葵が固執していた「雨の夜の冷たい街」や「父の遺した不吉なモノクロ」は、どこにもなかった。
そこに展示されているのは、陽光に煌めく新緑の葉、夕暮れの渡り廊下で弾ける生徒たちの笑顔、初雪の中に灯る温かな街灯、そして澄み渡る春の青空——。
生き生きとした生命の躍動と、世界への愛おしさに満ちた写真ばかりだった。
「葵ちゃん、大盛況だな。開場と同時にたくさんの人が来てくれてるぞ」
会場の入口で、スーツ姿の蓮が頼もしい笑顔で声をかけてきた。
高校を卒業後、地元の市役所に勤めながら葵の写真活動を陰で支え続けてきた蓮の胸元には、陸が使っていたカメラのストラップが大切に飾られている。
「うん、蓮くん。ありがとう……朝倉先生や、お母さんも手伝ってくれて……本当に感謝してる」
会場の隅では、写真部顧問だった朝倉先生と母親の恵子が、来場者に嬉しそうに作品の解説をしていた。
過去の事故の過ちを乗り越え、母娘の絆も、今では穏やかで強いものへと生まれ変わっていた。
葵は胸元に提げた、陸の愛用デジタルカメラを愛おしそうに撫でた。
陸が遺してくれたこのレンズを通して、葵は今日まで世界を見つめ、光を切り取り続けてきたのだ。
葵は展示室の最奥——最も静かで光の差し込む特設スペースへと足を運んだ。
その壁面には、一枚の大きな写真が掲げられている。
千早ヶ丘高校の渡り廊下。夕映えの光の中で、ミッドナイトブルーの封筒を胸に抱えて佇む少女の姿。
陸が最後に葵を撮影し、あのアルバムの最後に残してくれた、あの奇跡のような一枚だった。
写真の横の解説パネルには、葵自身の筆で、こう書き添えられている。
『この写真展を、私に未来の光をくれた一人の男の子に捧げます。
彼は自分の命を賭けて、私の止まっていた時間を動かしてくれました。
彼がいない春は、あまりにも眩しくて、時々胸が張り裂けそうになります。
けれど、彼が守ってくれたこの晴れやかな空の下で、私はこれからも生きていきます』
「陸……見てるか?」
いつの間にか葵の隣に立っていた蓮が、空を見上げるように呟いた。
「葵ちゃんはな、お前が言った通り、世界で一番強い写真家になったぞ。お前が命がけで繋いだ未来は……こんなに綺麗な花を咲かせたんだ」
蓮の目から、溢れ出た涙が静かに頬を伝った。
葵もまた、蓮の手に自分の手を重ね、深く首を振った。
「そうだよ、陸……。私ね、もう立ち止まらない。あなたが命をかけて私に見せてくれたこの春の光を……ずっと、ずっと撮り続けていくからね」
個展の初日が無事に終了し、夕暮れ時。
葵は一人、国道十六号バイパス交差点の歩道に立っていた。
三年前に激しい大雨と事故が吹き荒れたあの場所は、今では穏やかな夕日に照らされ、人々が行き交う平和な街角へと姿を変えていた。
信号機の青い光が、アスファルトの上に静かな陰影を描いている。
葵は陸のカメラを構え、ファインダーを覗き込んだ。
ファインダーの向こう側に広がるのは、オレンジ色からミッドナイトブルーへと移ろいゆく、美しい千早ヶ丘の夕空。
その空の向こうに、あの穏やかな笑顔を浮かべた陸が立っているような気がした。
『僕の春を、君にあげる』
耳奥で、陸の懐かしい声が優しく響いた気がした。
「うん……もらったよ、榛名くん」
葵はファインダーを覗いたまま、溢れる涙を笑顔で拭った。
「あなたの春を……あなたの愛してくれたこの世界を……私はずっと愛していくよ。……だから、見守っていてね」
カシャリ。
静かなシャッター音が、夕暮れの交差点に響き渡る。
切られたシャッターが切り取ったのは、悲しい過去でも、惨劇の記憶でもない。
どこまでも高く、どこまでも澄み渡る——どこまでも晴れやかな、新しい春の空だった。
僕のいない春だけが、こんなに晴れている。
けれど、その晴れ渡る空の下で——彼女は今、眩しいほどの光を浴びながら、未来に向かって強く歩み続けている。




