離婚弁護士になって最初の依頼。被告は私の夫、原告はその「正妻」だった
プロローグ
彰人と小さな結婚式を挙げてから、七年目の記念日だった。
その日、私は同僚の森川奈緒から、急きょ一件の離婚相談を引き受けることになった。
「この奥さん、今年だけでもう十一回目。離婚したいって相談に来るたび、旦那さんまで追いかけてくるの。泣くわ、土下座するわ、プレゼントは持ってくるわで毎回大騒ぎ。結局いつも仲直りして帰っていくんだけど、こっちはそのたびに書類を作り直し」
奈緒はうんざりした顔でファイルを差し出した。
「毎回きちんと相談料は払ってくれるし、今日だけ代わってくれない? 真琴たち、もう少し広い家に引っ越したいって言ってたでしょ」
スマートフォンには、三十分ほど前に彰人から届いたメッセージが残っていた。
急な仕事が入り、今夜は戻れそうにない。
予約していた店も、すでにキャンセルしてある。
せっかくの記念日がなくなったのなら、一件くらい仕事を増やしても同じだと思った。
「分かった」
ファイルを受け取り、依頼人の欄を見る。
久我美月――旧姓、西園寺。
その下に、配偶者の名前があった。
久我彰人。
指が止まった。
一緒に暮らして七年になる男と、まったく同じ名前だった。
同姓同名なんて、珍しくてもあり得ない話じゃない。それに、私の知っている彰人は、人に頭を下げることさえ嫌うような男だった。
以前、冗談めかしてこう言ったこともある。
「俺の人生に、誰かに跪いて許しを乞うなんて選択肢はないから」
その彰人が、一年に十回以上も妻を追って法律事務所へ来るはずがない。
相談票にざっと目を通す。
婚姻期間は六年。
子どもが二人。長男の理玖は八歳、長女の莉央は六歳。
理玖については、婚姻前に彰人が認知済みと記載されていた。
住所は澄川市瑞穂丘。
そこまで読んでも、まだ自分とは無関係の「同姓同名の誰か」だと思っていた。
私はファイルを閉じ、相談室のドアを開けた。
そこで、足が止まった。
仕事で遠方にいるはずの彰人が、床に膝をついていた。
ジャケットは脇に放り出されている。普段ならネクタイが少し曲がっただけでも気にする男が、ソファに座った女の両手を握りしめていた。
「美月、本当に悪かった。もう一度だけ許してくれないか」
女が答えるより先に、彰人が私に気づいた。
取り入るような笑みが、そのまま固まった。
1
後ろにいた事務員は事情を知らない。入口で立ち尽くす私を見て、軽く肩を叩いた。
「朝倉先生、初めて見ると驚きますよね。でも、今日はまだ軽いほうですよ」
声を落とし、こっそり教えてくれる。
「一番ひどかったときなんて、久我さん、自分でお腹を何か所も傷つけたんです。美月さんが離婚をやめるまで。あのときは本当に救急車を呼ぶところでした」
指先から、すっと血の気が引いた。
二年前、彰人が海外出張から戻ってきたとき、腹部には深い傷がいくつもあった。
現地で強盗に襲われたのだと聞かされていた。
その頃の私は、毎朝早く起きて消化のいい食事を作り、傷の手当ても手伝った。通勤もできるかぎり送り迎えし、彰人から「病人扱いするな」と笑われて、ようやく少しずつやめた。
毎日心配しながら手当てしていた傷は、美月のためにつけたものだった。
どうにか相談室へ入ったものの、椅子に座る前に言わなければならないことがあった。
「申し訳ありません。この件は私には担当できません。森川を呼びます」
美月が眉を上げる。
「どうしてですか?」
「久我彰人さんとは、私生活上の関係があります」
彰人の顔が強張った。
美月は数秒だけ私を見つめたあと、薄く笑った。
「そうだったんですね」
その反応で分かった。
知らなかった人間の顔ではない。
私はすぐ奈緒へ連絡した。
奈緒が相談室へ戻ってくるまでの短い時間、美月は彰人を見下ろしたまま口を開いた。
「だから立とうとしないで。まだ許してないから」
彰人は私が見ている前で、一度腰を浮かせかけた身体をまた床へ戻した。
「美月。どうしたら機嫌を直してくれる?」
「私の下着をクリーニングに出すの、これで三回目でしょう? 私が一番大事だって言うくせに、こんなことも覚えてない」
声は柔らかい。
けれど、彰人に遠慮する気配は欠片もなかった。
ファイルで見た数字が、頭の中に浮かぶ。
結婚六年。
八歳の理玖は、婚姻前から彰人が認知していた。
つまり、美月と彰人の関係は、私と出会うより前から続いていたことになる。
私は彰人と暮らし始めて七年になる。
当時、久我家は私たちの関係に強く反対していた。
家の相続や会社の株が絡んでいて、すぐには婚姻届を出せない。
彰人はそう説明していた。
小さな式だけは挙げた。
指輪も交換した。
「手続きが少し遅れるだけだよ。家のことが片づいたら、真っ先に役所へ行こう」
何度もそう言われた。
法律上、私たちが夫婦ではないことくらい分かっていた。
ただ、それは一時的なものだと信じていた。
私が待ち始めるより前から、彰人には別の家庭があった。
子どものことも同じだった。
彰人は、生殖機能に問題があると言っていた。海外で定期的に検査や治療を受けているとも聞いていた。
子どもができなくても構わない。
二人で暮らせれば十分だと、本気で伝えたこともある。
八歳の息子がいる男に。
奈緒が相談室へ入ってきた。
私の顔を見て、一瞬だけ動きを止める。
「真琴?」
「ごめん。この件、お願い」
詳しいことを説明する余裕はなかった。
美月が口を挟む。
「朝倉先生には、もう少しここにいていただいても構いませんよ。私がいいと言ってるんですから」
奈緒が明らかに困った顔をした。
私は首を振った。
「外にいる」
これ以上、弁護士としてこの場に残るべきではない。
相談室を出た。
けれど、その日の出来事から逃げることはできなかった。
少しして、彰人が子どもたちを迎えに外へ出たらしい。
理玖と莉央を連れ、事務所の待合スペースへ戻ってきた。
私は廊下の向こうから、その姿を見た。
八歳の理玖が美月の腰にしがみつき、六歳の莉央も反対側から抱きつく。
「ママ、パパと離婚しないで」
「パパも僕たちも、ママが大好きだよ」
美月は二人を両腕で抱き寄せた。
その横で子どもたちを見る彰人の顔が、驚くほど優しい。
七年間一緒にいて、見たことのない表情だった。
理玖が「パパ、馬やって」とせがんだ。
彰人は慣れた様子で床に四つん這いになる。
潔癖症で、靴底が濡れるだけでも嫌そうな顔をする男が、高価なスーツのまま床を這っていた。
理玖と莉央を背に乗せ、笑わせながら待合スペースを回る。
周囲の職員まで思わず目を向けていた。
その様子を見ていた美月が、楽しそうに言った。
「子どもたちだけ? 私も乗りたい」
彰人は彼女を見た。
それでも断らず、美月の前まで這っていき、背を向けた。
美月を背負ったまま、今度は事務所の共用スペースまで進んでいく。
膝が擦れて血が滲み、手のひらにも傷ができていた。
美月がようやく降りると、彰人は自分の傷を気にするより先に彼女の顔を覗き込んだ。
「もう怒ってない?」
あまりに現実離れした光景で、怒りすら追いつかなかった。
その日の相談も、結局は「離婚しない」で終わった。
あとで奈緒から聞かされたところでは、彰人はさらに現金や投資利益、株式の一部を美月側で管理できるようにすると約束したらしい。
正式な契約には弁護士や税理士の確認が必要だと説明しても、条件を細かく気にする様子はなかったという。
美月が離婚を撤回するなら、それでよかったのだ。
四人で帰る間際、彰人は奈緒にまで言った。
「今日の代わりの先生、家事事件には向いてないと思います。今回の相談料は、いつもどおりには払えません」
奈緒は何も返せず、ただ困った顔で頭を下げた。
たった三時間だった。
なのに、私は知らない男の六年間を丸ごと見せつけられたような気がした。
夜、花野台の部屋へ戻った。
広くはない。
それでも、ここには彰人と暮らした七年分のものが詰まっている。
この部屋を買うため、私は半年間、彰人に内緒で仕事を増やした。ベランダから見える山を、彼が気に入ったからだった。
頭金を用意したと知った彰人は、怒りながら泣いた。
「そこまでしなくていいのに」
そう言って、長いこと抱きしめてくれた。
リビングの小さなソファも、二人で少しずつ貯金して買った。
冬はそこに並んで映画を見た。
帰りが遅くなった日は、おでんを買ってきて、ローテーブルの前で一緒に食べた。
彰人からもらったものは、高価ではなかった。初めてのデートの映画の半券も、何気なく買ってくれたキーホルダーも、「早く帰ってこい」と書かれた短いメモも、ずっと大切にしまっていた。
今日、美月の耳には特注のジュエリーが光っていた。
相談記録に添えられた資料で見た金額を思い出す。
今のこの部屋が、まるごと買えるほどだった。
棚を開け、長年しまっていたものを一つずつ取り出した。
指輪の箱や写真、映画の半券、彰人が残したメモまで、テーブルの上に並べていく。
値段はなくても、七年分の暮らしがそこに入っていると思っていた。
けれど今は、見ているだけで胸が冷えた。
玄関の鍵が回る音がした。
彰人が帰ってきた。
2
部屋に入った彰人は、腫れた私の目を見ると、少し黙ってから背後に回り、抱きしめてきた。
「真琴、そんな大ごとみたいに考えるなよ。美月は、親が決めた相手なんだ」
腕の中で身体が固まった。
「西園寺家と結婚しなければ、会社も家の資産も正式には任せないって言われた。俺だって好きでこうしたわけじゃない」
申し訳なさより、面倒な事情を説明しているという口調だった。
腕を一本ずつ外す。
「だから美月とは婚姻届を出して、私には待ってろって言ったの?」
彰人は答えなかった。
「七年待った。彰人、私を何だと思ってたの」
やがて、彼の声にも苛立ちが混じり始める。
「俺たち、この七年ちゃんと暮らしてきただろ。紙一枚のことで、今まで全部なかったことにするのか?」
「婚姻届の話をしてるんじゃない。七年間、騙してたことを言ってるの」
彰人は眉を寄せた。
「美月は責任だよ。俺が一緒にいたいのは真琴だ」
数時間前、彼が美月の前で跪き、背中にまで乗せていた姿を見ている。
もう、その言葉だけを信じるのは無理だった。
これ以上言い争っても意味がない。
残りの服をスーツケースへ詰め始めると、彰人は数日もすれば私の機嫌が直るとでも思ったらしい。
「花野台の部屋、売ろう。前から狭いって言ってただろ。もっと広いところを買えばいい」
私の反応を見ながら、少し間を置く。
「車も用意する。もう自転車で事務所まで行かなくていい。お母さんにも、家事代行の仕事はやめてもらおう」
手が止まった。
雨の日でも交通費を節約するため、自転車で仕事に通っていた。
母は安い日当で他人の家を掃除し、少しずつ私たちに金を渡していた。
彰人はそれをずっと見ていた。
その頃は、いつも同じことを言った。
「もう少し待って。会社が落ち着いたら何とかするから」
私に美月を受け入れさせる必要が出た途端、何もかも簡単に用意できるようになったらしい。
スマートフォンが鳴った。
画面を見た彰人は、すぐに電話を取った。
「どうした?」
美月が泣きながら、子どもたちがパパを探している、一人では手に負えないと言っている。
「今行く」
彰人は室内履きのまま玄関へ向かい、途中で気づいて慌てて履き替えた。
ドアが閉まる。
責任だの義務だのと、もう彰人の言葉の意味を考える気にもなれなかった。
その日のうちに、本町の事務所から近い短期賃貸へ移った。
荷物を少し片づけたところで、美月からビデオ通話が入る。
画面に映ったものを見て、息が止まった。
母だった。
家事代行の制服を着て、瑞穂丘の家で床を拭いている。
数日前、母は嬉しそうに、新しく条件のいい仕事が見つかったと言っていた。
「あと何年か頑張れば、真琴の家の足しになるでしょう」
笑っていた母の雇い主が、美月だった。
カメラがリビングの大きな結婚写真へ向けられる。
「朝倉さん、この人、見覚えありますよね?」
母は写真を見つめたまま固まっていた。
美月は額を外し、母の目の前へ投げ落とす。
「娘さん、ずっとこの人を『夫』だって言ってませんでした?」
母の顔から血の気が引いた。
理玖と莉央もそこにいた。
理玖が母を指差す。
「ママが言ってた。あなたの娘、よそのパパを取った悪い人なんでしょ」
莉央も兄の真似をする。
「悪い人」
母が床の写真を拾おうと身を屈めた、そのときだった。
理玖が背中を強く押した。
足を踏み外した母は、長い階段を転げ落ちた。
身体が段差にぶつかる鈍い音が、スマートフォン越しにも聞こえた。
「お母さん!」
画面に向かって叫んだ。
階段の下で、母は起き上がれない。
けれど、子どもたちは事態の深刻さが分かっていなかった。
理玖がどこかから小さなカッターナイフを持ち出し、母の腕に刃を当てる。莉央まで兄の真似をし、服や腕を傷つけようとした。
母は意識を失いかけながらも、拾った写真だけは胸に抱えていた。
「私の娘は……違う……」
声がかすれていく。
そこで美月が階段を下りてきた。
子どもたちを止めるのかと思った。
違った。
キッチンから、刃渡りの長い包丁を持ってきた。
「真琴。弁護士なんでしょう?」
母のそばにしゃがみ、カメラを見る。
「今度は、自分のことでも弁護してみたら?」
美月が包丁を持ち上げた瞬間、母の手がスマートフォンに当たった。
画面が大きく揺れ、床しか映らなくなる。
次に聞こえたのは、鈍い物音と母の短い悲鳴だった。
「お母さん!」
返事はない。
映像の端に、赤いものがゆっくり広がっていく。
そこで通話は切れた。
すぐに掛け直した。
何度鳴らしても出ない。
五回目でようやくつながったと思ったら、聞こえてきたのは彰人の声だった。
「真琴、何度言えば分かるんだ。美月に付きまとうな」
「彰人、お母さんが美月の家にいるの。今、美月が――」
最後まで言えなかった。
美月の泣き声が向こうから聞こえてきた。
「彰人、ごめんなさい。朝倉先生とあなたがそんな関係だなんて、本当に知らなかったの」
彰人が何か声をかける。
少しして、美月がまた泣きながら続けた。
「私がいるせいで真琴さんがこんなに苦しむなら、子どもたちを連れて出ていく」
「美月は出ていかなくていい。君は悪くない」
彰人は彼女を宥めたあと、私に向ける声だけを冷たくした。
「真琴。もう美月に関わるな」
「だから、お母さんが――」
「もういい」
短い沈黙のあと、彼は低い声で言った。
「澪ちゃん、今は一人暮らしだったよな」
スマートフォンを握ったまま動けなくなった。
「これ以上、美月に近づくな。俺が何を言ってるかくらい、分かるだろ」
通話が切れた。
3
すぐに警察へ通報した。
瑞穂丘の家へ踏み込んだ警察が見つけたのは、彰人と母だけだった。
美月と子どもたちの姿はない。
母は血の中に倒れ、あの包丁を彰人が手にしていた。
警察に何を聞かれても、彰人は同じことしか言わなかった。
「俺がやりました。他の人は関係ありません」
供述を変える気はないようだった。
連行される後ろ姿を見て、胸の奥が冷えていった。
美月が何をしたのか、彰人は分かっている。
それでも彼女を庇うほうを選んだ。
仕事も、世間体も、会社での立場も何より大事にしてきた男が、それらを失いかねない供述までして。
母は澄川総合医療センターへ運ばれた。
階段から落ちたことで複数箇所を骨折し、内臓にも損傷がある。さらに腹部の刺し傷が重要な臓器に達していた。
手術は何時間も続いた。
入院後の説明を受けながら、真っ先に思い浮かんだのは、彰人と七年間貯めてきた金だった。
私の給料や追加で引き受けた仕事の報酬。
母が少しずつ渡してくれた金も入っている。
つい一週間前にも、母は自分の貯金の残りを振り込んだばかりだった。
そのとき彰人は、母の荒れた手を握っていた。
「お母さん、心配しないでください。真琴のことは、これからも俺が大事にします」
銀行アプリを開いた。
残高は、ほとんど残っていなかった。
一番大きな支払い先は、希少犬と富裕層向けのペットサービスを扱う会社だった。
あとで知ったところでは、美月が珍しい血統の犬を欲しがったらしい。
購入費、専属トレーナー、医療サービス、長期預かり。
すべて、私と彰人の共同貯金から出ていた。
ほどなく、美月からメッセージが届いた。
「プレゼント、気に入った?」
続けて、もう一通。
「七年間、人の夫を自分のものみたいにしてた分の利息だと思って」
警察はすぐに、彰人の供述と現場の状況が合わないことに気づいた。
血痕の位置も、母の傷も、彰人が家へ到着した時刻も噛み合わない。
周辺の防犯カメラからも、最初の暴行が始まった時点で彰人がまだ現場にいなかったことが分かった。
加えて、私が保存していた通話映像には、美月が包丁を手にするところまでは映っている。ただし、実際に母を刺した瞬間だけはカメラが床へ向いていた。
数日後、彰人は釈放された。
捜査は続いていた。
母はHCUから一般病棟の個室へ移ったものの、状態はまだ不安定だった。
その日の午後、廊下の先に彰人と美月が現れた。
彰人は、母が倒れる以前から緊急連絡先の一人として病院に登録されていた。
それを利用したのか、それとも事情を十分に知らない職員に家族だと説明したのか。
どうやって美月まで連れて入ったのかは分からない。
二人を見た瞬間、私は病室の前に立った。
「帰って」
美月は聞こえなかったような顔で、スマートフォンを取り出した。
すでに、私に関する同じ「告発」が、事務所の問い合わせ先だけでなく、花野台のマンション周辺や親族のLINEグループ、澪の学校にまでばらまかれていた。
仕事で付き合いのある顧客にも、匿名のメールが届いている。
内容はどれも同じだった。
妻子のいる男だと知りながら七年間付きまとった女弁護士。
事務所の近くでは、私の写真入りの紙を配っている人までいた。
もっと酷かったのは、彰人にだけ送ったはずの私的な写真だった。
付き合い始めた頃、彼に頼まれて撮ったもの。
顔や身体が完全には隠れていない状態で、ネット上に拡散されていた。
どこから出たのか、考える必要もなかった。
さらに、久我ホールディングスの広報名義でコメントまで出されていた。
久我彰人の法律上の配偶者は久我美月であり、朝倉真琴との間に婚姻関係は存在しない。
書かれている内容自体は事実だった。
だからこそ、余計に逃げ場がなかった。
画面を見せられた母の身体が震え始める。
モニターの数値も急速に変わっていった。
そのとき、私のスマートフォンに別の動画が届いた。
塾を出た澪が、数人の男に道を塞がれている。
「姉ちゃん、よその旦那に手を出すの得意なんだって? 妹も似たようなもん?」
一人がわざとカメラに聞こえる声で言い、別の男が澪の鞄へ手を伸ばす。
悲鳴が上がったところで、動画は終わった。
美月は満足そうにスマートフォンを下ろした。
「妹さんを無事に帰してほしい?」
彼女は、ライブ配信で私にすべての責任を引き受けさせるつもりだった。
彰人が既婚者だと最初から知りながら何年も付きまとい、母まで瑞穂丘へ押しかけさせて久我家から金を取ろうとした――そう説明しろという。
母の怪我についても、彰人との揉み合いで起きた事故だったことにしろと迫られた。
彰人を見る。
彼は美月を止めるどころか、私を説得し始めた。
「真琴、今は美月の言うとおりにしてくれ。口でそう言うだけだろ」
少し声を落とす。
「美月だって、俺をこの件から外したいだけなんだ」
七年も愛した人を前にしているのに、過去の自分が何を見ていたのか分からなくなった。
澪のために、配信を始めた。
床に正座し、カメラを見る。
「今日、インターネット上で広がっている件について説明します」
ひとこと口にするたび、自分で七年間を切り捨てているようだった。
「久我彰人さんと私の間に、法律上の婚姻関係はありません。長年、私のほうから一方的に久我さんへ執着していました。現在出回っている私的な画像についても、私自身が彼へ送ったものです」
ベッドの上で、母が必死に首を振る。
「母が久我美月さんの自宅へ行ったのも、私のせいです。存在しない夫婦関係を認めさせ、金銭を要求しようとしていました。久我さん、美月さんとご家族にご迷惑をおかけしたことを、お詫びします」
最後まで言い終えた瞬間、モニターから鋭い警告音が鳴った。
医師と看護師が一斉に病室へ入る。
母を呼ぶ間もなく、私は廊下へ押し出された。
ドアが閉まった直後、彰人の秘書が駆けてきた。
「久我さん、大変です。理玖くんと莉央ちゃんがいません」
4
「子どもは家にいたんじゃないのか?」
彰人が美月へ詰め寄った。
「分からない。私が出たときは二人とも家にいたの」
美月も動揺したように見えた。
そのとき、彰人のスマートフォンが震えた。
知らない番号からのメッセージだった。
「子どもは俺が預かってる。今は騒ぐな。怜司」
彰人の弟、久我怜司だった。
「誘拐じゃないよね? お金ならいくらでも払う。二人が無事なら、私、何もいらないから」
美月は彰人の袖を掴んだ。
けれど彰人は、なぜか私を見た。
「真琴。何かしたのか?」
こんな状況でも、真っ先に疑う相手は私らしい。
「子どもには触ってない。怜司から私にも連絡が来てる」
スマートフォンを差し出した。
怜司は以前から、美月について内々に調べていた。
きっかけは、会社の資金の流れに不自然な点が見つかったことだった。
調べるうちに、美月が資産を海外へ移し、自分も出国する準備を進めているらしいと分かった。
子どもたちまで連れて行かれることを警戒し、先に理玖と莉央を久我家が管理する別邸へ移したという。
送られてきた資料を、彰人が自分でめくっていく。
最初に出てきたのは、美月がこの三年間、複数の男とホテルやマンションへ出入りしている写真だった。
その中に、何度も同じ男が写っている。
瀬川亮介。
次に出てきたのは、いくつかの契約書。
美月の署名と、許可なく使われた形跡のある久我ホールディングスの社印があった。
さらに、ヴェルネ公国のプライベートバンクへ流れた資金の記録が続く。
複数の会社を経由していたが、最終的には美月につながる口座へ入っていた。
「何だよ、これ……」
彰人の指が震えていた。
「怜司が、元の資料は弁護士と会社の監査にも渡したって」
ある口座番号を見たところで、彰人の動きが止まる。
「これ、俺が作った口座だ」
美月の顔から笑みが消えた。
「三年前、美月が子どものための基金を作りたいって言うから用意した。下四桁も覚えてる」
「怜司が私を嫌ってるの、知ってるでしょう? こんなの、いくらでも――」
「怜司が嫌ってるからって、口座番号まで偽物にはならないだろ」
彰人はそう言って、続きをめくった。
二年ほど前の写真が出てきた。
美月の腹は明らかに大きくなっている。
瀬川亮介の腕に寄り添い、二人でマンションから出てくるところだった。
彰人が写真を凝視する。
「この時期……妊娠してたのか?」
美月は答えない。
さらに、エルディナ共和国での滞在記録と送金先。
そこには、二歳ほどの子どもの生活費や養育費とみられる支払いも残っていた。
瀬川亮介とのつながりも出ている。
彰人は写真を見たまま、しばらく動かなかった。
「その子……誰の子だ」
美月は少し黙った。
やがて、薄く笑う。
「亮介との子」
彰人がよろめき、テーブルに手をついた。
「じゃあ、理玖と莉央は?」
「あなたの子よ」
何でもないことのように言った。
「久我家には跡継ぎが必要だったし、私にもあの家に残る理由が必要だったから」
彰人は首を振った。
「そんなことを聞いてるんじゃない」
声が掠れる。
「二人を、ちゃんと愛してるのか」
美月は数秒だけ彼を見た。
「あなたが思ってるほどじゃない」
それ以上、彰人から言葉は出なかった。
何度も頭を下げた。
財産も渡した。
母を傷つけた責任まで背負おうとした。
そんな彼を見下ろし、美月は静かに笑った。
「彰人、本気で私があなたを愛してると思ってたの?」
袖口を整える。
「束縛は強いし、気に入らないとすぐ怒るくせに、私の前では土下座とお金で何でも解決しようとする。あなたと結婚したのは、久我家に欲しいものがあったからよ」
彰人は椅子へ座り込み、顔を両手で覆った。
しばらくして、美月が私へ向き直った。
「満足?」
「私が作った証拠じゃない」
「そうね。でも、あなたが出てこなければ、怜司だってここまで早く動かなかったかもしれない」
美月はスマートフォンを取り出し、誰かへ電話をかけた。
「連れていって」
数分後、こちらのスマートフォンに動画が届いた。
澪が椅子に縛られ、口にはテープを貼られている。
顔は涙で濡れていた。
5
指定された場所は、澄川市郊外の月見台だった。
向かう車の中で、彰人から、久我家が所有する空き家で、いずれ会員制施設へ改装する予定だった建物だと聞いた。
私は移動中に、澪の動画と位置情報を奈緒と怜司へ送った。
同時に警察へも通報する。
到着まで待つように言われた。
けれど、動画の中で澪の顔に刃物が触れていた。
待つことはできなかった。
彰人と二人で中へ入る。
リビングには、すでに澪が連れてこられていた。
美月の手にはナイフがある。
「澪を放して!」
駆け寄ろうとすると、男たちに道を塞がれた。
美月がテーブルへ書類を放る。
「署名して」
書類には、子どもたちの失踪を私と怜司が仕組み、海外口座や写真、契約書までこちらが偽造したと認める内容が並んでいた。
母が瑞穂丘で負った傷さえ、私が仕組んだ芝居ということにされている。
「本気で言ってるの?」
「私はここから無事に出たいだけ」
美月は澪のそばへ行き、刃先を頬に触れさせた。
細い赤い線が浮かぶ。
「書く」
先に声を上げたのは、彰人だった。
美月が振り返る。
「誰かの責任にしたいなら、俺の名前を書けばいい」
「彰人?」
「真琴にはずっと嘘をついてた。美月と結婚してるのを知っていて、いつか真琴とも正式に結婚するみたいに言い続けた。共同口座の金を使ったのも俺だ」
一度息を止め、続ける。
「会社のことで俺に責任があるなら、それも調べればいい」
「何を企んでるの?」
「何も」
彰人はこちらを見た。
以前のように、「分かってくれ」という目ではなかった。
「俺はずっと、仕方なかったって思ってた。家から美月と結婚しろと言われたから。美月が怒れば、機嫌を取るしかないと思ってた」
そこで一度言葉を切る。
「真琴が傷ついても、あとで埋め合わせればいいって」
視線を落とす。
「でも、選んだのは全部俺だった」
私の前まで来る。
「真琴、ごめん。今さらそんなこと言っても、何も戻らないのは分かってる」
返事はしなかった。
彰人は美月へ向き直った。
「澪ちゃんを放せ。俺はもう、美月の代わりに何かを被るつもりはない」
「脅すつもり?」
「久我の弁護士も会社の監査も、警察も資料を持ってる。出ていくなら、あとは弁護士を通せばいい」
視線が、美月の手元の刃物へ落ちる。
「ただ、ここで澪ちゃんにもう一つ傷をつけたら、その分も自分で背負うことになる」
美月が笑った。
「財産は全部くれるって言ったじゃない」
「言ったよ」
彰人は否定しなかった。
「でも、会社の書類を偽造してることも、海外に金を移してることも知らなかった。真琴のお母さんを刺したことも、澪ちゃんまで使うことも」
一歩だけ前へ出る。
「放してくれ。残りは弁護士を通して正式にやる」
長い沈黙が続いた。
やがて美月が男たちへ目配せした。
拘束を解かれた澪が、足をもつれさせながら私のところへ走ってくる。
抱きしめると、全身が震えていた。
遠くからサイレンの音が聞こえた。
美月の表情が変わる。
「警察を呼んだの?」
私は答えなかった。
美月は小さく舌打ちし、男たちと一緒に奥の通路へ走った。
彰人が追おうとしたが、私は澪を抱えたまま叫んだ。
「行かないで!」
今必要なのは、逃げる美月を彰人一人で追うことではない。
ほどなく警察が建物へ入ってきた。
裏手には車のタイヤ痕が残っていたが、美月たちの姿はすでになかった。
彰人はその日のうちに、警察と弁護士の前で、美月と離婚する意思を明確にした。
財産についても、以前のようにすべてを渡すとは言わなかった。
争いのあるものは弁護士を通し、必要なら家庭裁判所で正式な手続きを取る。
それだけだった。
その後、美月側の代理人を通じて離婚の話し合いが進んだ。
美月は国外へ出る前に、署名済みの離婚届と必要書類を代理人へ預けていたらしい。
財産分与とは別に、彰人個人の争いのない資産から、解決金として五千万円を支払うことで民事上の条件がまとまった。
会社資産や海外へ流れた金、刑事事件の捜査対象になっている財産は対象外となった。
その頃、私が彰人と顔を合わせたのは、事務所の廊下が最後だった。
「理玖と莉央は、怜司が見てくれてる」
その先も何か言いたそうだった。
先に口を開いた。
「久我さん」
呼び方一つで、彰人の表情が固まった。
「もう二人で話すことはありません。今後は連絡もしないでください」
澪と一緒に、その場を離れた。
彰人は追ってこなかった。
6
あとで奈緒から聞いた話では、美月が澄川を離れたあと、彰人は理玖と莉央を連れて久我家の本宅へ戻ったらしい。
私は事務所を辞め、澪と若葉町へ引っ越した。
あの監禁事件のあと、澪は長い間、一人で外を歩けなくなった。
新しい部屋は花野台より狭かったが、南向きの窓から朝になるとよく日が入った。
母は助からなかった。
配信をさせられたあの日、病室で再び心停止を起こした。
医師たちは長い時間処置を続けてくれた。
それでも、帰ってこなかった。
澪と二人で、木ノ瀬町に母を送った。
小さな葬儀だった。
それから月に一度は墓へ行った。
澪の近況を話したり、季節のことを話したりする。
もう彰人との家を買うために節約していないことも、いつか伝えた。
ネット上の騒ぎは、しばらく続いた。
捜査が進み、新しい証拠が出るにつれて、久我ホールディングスは当初のコメントを修正した。
写真や投稿も、弁護士を通じて削除を求めた。
ただ、一度見られたものは、ページが消えたからといって無かったことにはならない。
澪にも、私にも、その痕は残った。
少しずつ、個人で法律相談を受けるようになった。
収入はそれほど多くなかった。
それでも、自分で働いて得た金だけで生活するほうが、ずっと気持ちは楽だった。
三か月ほど経った、晩秋の夕方。
澪の診察を終えて病院を出たところで、彰人が立っていた。
かなり痩せていた。
いつも完璧に整えていた髪も乱れ、目の下には疲れが濃く残っている。
「真琴……少しだけ、話せないか」
足を止めた。
今の彰人が何を言いに来たのか、それだけは聞いておこうと思った。
病院の近くの静かなカフェへ入った。
彰人はブラックコーヒーを頼んだが、最後まで一口も飲まなかった。
「美月が、残ってた金も持っていった」
それから少しずつ話し始めた。
瀬川亮介と、二人の間にいた二歳の子どもは先に日本を出ていたこと。
会社では、美月が彰人名義で作った保証や借入に関する書類まで見つかったこと。
久我ホールディングスは大きな債務を抱え、父親は倒れた。
怜司が銀行や株主との対応に追われているらしい。
黙って聞いた。
もう、その話を聞いても心はほとんど動かなかった。
しばらくして、彰人はカップを見つめたまま言った。
「この数か月、昔のことばかり思い出すんだ」
声が少し掠れていた。
「一度、冬に胃を悪くしただろ。真琴、朝の四時に市場まで魚を買いに行って、スープ作ってくれたよな」
そこで一度言葉を切る。
「お母さんのことも思い出す。ずっと貯めてた金を俺たちに渡したとき、手がすごく荒れてた。それでも、自分のことじゃなくて『真琴をお願いします』って」
彰人はゆっくり息を吐いた。
「花野台の小さいソファも。二人でくっついて、おでん食べながら映画見てた頃は、俺もあれで幸せだと思ってたはずなんだ」
頬を涙が流れた。
「いつからか、それが全部あって当然になった。真琴が何千円か節約するために無理してても、お母さんが仕事を続けてても、俺は『今は仕方ない』って自分に言い聞かせてた」
苦く笑う。
「家に言われたから。美月を怒らせられないから。会社があるから。ずっと理由を並べてたけど……結局、自分にとって一番楽なほうを選んでただけだった」
少し沈黙してから、彰人は続けた。
「美月が騒ぐほど、何かして気持ちを証明しなきゃって思った。頭を下げろと言われれば下げて、金が欲しいと言われれば渡した。ああいうのを、愛してる証拠みたいに勘違いしてたんだと思う」
こちらを見る。
「すぐそばで、ずっと俺のために動いてた人たちには、傷つけることばかりした」
言い終えると、彰人が椅子から立った。
膝をつこうとしたので、腕を止める。
「やめて」
彰人が動きを止めた。
「もう、そういうことに意味はないから」
しばらくして、彼は静かに座り直した。
「……お母さんの墓に、一度だけ行かせてもらえないか」
「だめ」
すぐに答えた。
「あなたに来てほしくない」
彰人の顔から、わずかに残っていた期待が消える。
「美月がお母さんに何をしたか知って、それでも庇った。澪を使って私を脅した。あの時点で、私たちは終わってる」
目を逸らさずに言った。
「今どれだけ後悔しても、お母さんは戻ってこない。澪が経験したことだって消えない」
「……分かってる」
彰人は、瑞穂丘で虚偽の供述をした件について、改めて警察にすべて話したという。
美月の資金移動や偽造書類、母への傷害、澪の監禁に関する資料も提出した。
海外当局とも連携し、美月と瀬川の行方を追っているらしい。
「俺が負うべき責任は、全部負う」
軽く頷いた。
それは、私が感謝することでも、許す理由でもない。
「今日は、許してほしくて来たんじゃない」
彰人は目元を拭った。
「そんな資格がないのは分かってる。ただ、自分の口で謝りたかった。真琴にも、お母さんにも、澪ちゃんにも」
少し間を置く。
「それと……ありがとう」
「何が?」
「あのとき、俺のことをあれだけ憎んでたのに、理玖と莉央には何もしなかった。怜司にも、まず二人の安全を確保してくれって言ってくれたんだろ」
彰人はバッグから封筒を出した。
中には、新しく作った預金通帳とキャッシュカードが入っていた。
「会社の問題に巻き込まれてない、俺個人の金が少しだけ残ってる。大した額じゃないけど、真琴と澪ちゃんがしばらく暮らすくらいにはなる。暗証番号は……まだ、真琴の誕生日だ」
封筒を押し戻した。
「持って帰って」
「真琴」
「私たちの生活に、もう彰人のお金はいらない。自分で稼ぐから」
彰人の手が止まった。
しばらくして、封筒をバッグへ戻した。
席を立つと、彰人は深く頭を下げた。
長い間、そのままだった。
私は次の言葉を待たずに店を出た。
久我彰人と二人きりで話したのは、それが最後になった。
その後のことは、ニュースや弁護士を通して知った。
久我美月は、最終的にエルディナ共和国のラシェル市で身柄を確保され、日本へ戻された。
久我家からの資金流出だけではなく、巨額の詐欺、商業・金融書類の偽造、会社資産の不正移転、傷害、脅迫、監禁、私的な画像の無断拡散など、複数の事件が捜査対象になった。
裁判には長い時間がかかり、美月には重い実刑判決が言い渡された。
瀬川亮介も、資産移転や書類偽造の一部に関与したとして責任を問われた。
彰人も、美月を庇うために捜査を混乱させたことや、会社内部で起きた問題について責任を免れなかった。
美月ほどではなかったものの、以前の地位に戻ることはなかった。
久我ホールディングスも大きな打撃を受け、最終的には再編と買収を経て、久我家はそれまでのような支配権を失った。
理玖と莉央については、生活環境と監護体制が改めて整えられたと聞いた。
二人は、まだ子どもだ。
大人がしたことまで、一生背負わせる理由はない。
一年後。
澪は第一志望だった大学に合格した。
私は澄川市本町に小さな事務所を借りた。
入口には、新しいプレートが掛かっている。
――朝倉法律事務所。
主に、離婚や家族問題、経済的なトラブルで弱い立場に置かれた人の相談を受けるようになった。
デスクの脇には、古い水筒を置いている。
母が家事代行の仕事へ行くとき、いつも持っていたものだ。
忙しい日にふと目へ入ると、花野台の小さな部屋や彰人のこと、もっと頑張ればいつか婚姻届を出せる日が来ると信じていた頃の自分を思い出す。
その日の午後は、細い雨が降っていた。
事務所のドアがノックされる。
一人の女性が、何度も握りしめたらしい書類を抱えて入ってきた。
椅子に座ってからも、なかなか口を開けない。
しばらくして、ようやく小さな声が聞こえた。
「朝倉先生……離婚のことで、相談したいんです」
手元のファイルを閉じ、ティッシュの箱を彼女のほうへ少し寄せた。
「はい。ゆっくりで大丈夫です」
窓の外で、雨粒が静かにガラスを打っている。
「お話、聞かせてください」




