第8話 星降る発酵祭
発酵壺が、棚からはみ出した。
最初は一つだった呼吸が二つになり、三つになり、いまや大小さまざまな壺が十指で足りないほど並んでいる。口の広い壺、腹の深い壺、内壁に風の孔が密に刻まれた“歌う壺”。布はそれぞれ違う拍で膨らみ、重なり合う息は合唱になって、台所の梁をやさしく震わせた。
「よし、親の顔はそろった。あとは子どもに街を見せるだけだ」
俺は指を洗い、三つの母――穀酸・乳酸・酒精――の容れ物を前に置いた。
穀酸は、粉と水と空気で育てた酸の母。香りは若く、舌先で跳ねる。
乳酸は、塩と穏やかな温度で育てた白い穏やかさ。体の底に灯る。
酒精は、甘さを覚えた酵母の子。笑いに似た高揚がある。
この三つを並行運用する。パン、チーズ風、甘酒風――三段構え。
アカ=イオラの地下街を、今夜、俺たちの発酵で満たす。
「名前は?」
リルナが工具箱の上に腰を下ろし、顎で壺を指した。
「発酵祭。――星降る発酵祭」
「派手ね」
「派手に行く。派手でなきゃ届かない。届かせたら、静かに落ち着かせる」
クロウ=ウィルが尻尾で床を一度叩き、低く鳴いた。準備完了の合図。
地下街の中央広場にはすでに仮設の厨房群が組まれ、風よけ板が舞台の袖のように折り重なる。梁には風袋の糸が幾筋も張り巡らされ、灯りは最小限――今は匂いを走らせる道をつくるのが先だ。
「合図はお前だ、フィラ」
呼びかけると、頬をくすぐる風が微かに笑った。
“準備はできている”。そんな囁き。
俺は最初の壺――穀酸の母を抱き、棚から降ろした。
*
地下街の天井は低い。
だから匂いは跳ねる。
だからこそ、波を計算する。
俺は風袋の糸を撫で、匂いの流路マップを目の裏に描いた。
第一波は穀酸。焼きたてのパンの予告編。酸の尖りが人の足を速め、階段を降りる速度を上げる。
第二波は乳酸。酸の角を丸め、体の底に“ここは安全だ”という印を押す。
第三波は酒精。笑いの気泡を、最後に薄く。
「三、二、一……火」
鉄板が唸り、釜が息を吸う。
穀酸の母に粉と水、ひとつまみの塩。
木べらで回し、掌で折り、台に叩きつける。
生地が指に絡み、弾き返す張りが“今日はいける”と言う。
一次発酵は短く、二次を長く。
時間の配分は群衆の歩幅で決める。地上の足音が階段にかかり、降りてくる速度に合わせて布をめくる。
「乳酸、熱源弱め。酒精、溜めてから放つ」
リルナが風車の接続を切り替え、地下の補助線へ電力を流す。
飾り灯りは点けない。代わりに、発酵壺の布の膨らみに連動した微光が、壺の縁に“菌糸の光”を描き始めた。
アニメならここは抽象表現。麹の菌糸が星座みたいに発光し、壺から壺へと緩やかに線を繋ぐ。
クロウはその下を素早く走り、避難導線を一つひとつ確かめる。
通路に白い粉線を引き、壁に“伏せろ”と“進め”の印。
俺はパンの成形に入った。
棒状から巻き、端を軽く水で押さえる。
生地の表面に油膜を引き、塩をほんのひとつまみ、星座みたいにまぶす。
「焼きます」
釜が口を開け、熱が頬を撫で、パンが一斉に息を吐いた。
焦げの音。
音は匂いより先に人を呼ぶ。
階段の上がざわめき、足音が速くなる。
第一波、成功。
「次、乳酸」
乳酸の母には豆乳――豆を砕いて湯でのばした“白い汁”を合わせ、塩を一つまみ、温度は慎重に。
ゆるく熱を当てると、たんぱくの糸が緩み、酸で静かに絡まって“チーズ風”が生まれる。
匂いはあくまで穏やかな乳臭。香りの波は低く、暖の層を作る。
鍋の上で淡い蒸気がベールになり、幕のように通りを隔てる。
第二波、展開。
「酒精、準備」
最後に、米と麹を溶かした甘酒風。
酒精は匂いが強い。だから波の位相をずらし、乳酸の幕の後ろを流す。
甘さの分布が階段の踊り場で折り返し、地上から降りる人の心拍に“笑いの気配”だけを置いてくる。
笑いは危険――観測者はそう言うだろう。だから、笑う直前で止める。
“笑いそうになる温度”だけを、喉の奥に。
「来た」
地上の空が揺れ、人が降りてきた。
白いマントの無味徒ではない。普通の市民だ。
鼻には綿を詰めている者もいる。
だが足は他のどこでもない“ここ”を選び、階段を降りる。
匂いが彼らの鎧を剥がすのではない。匂いの“影”が、降りてきた足にだけそっと触れて、「ここは安全」と囁く。
「みなさん、ようこそ」
俺は声を張らず、しかし十分に届く声で言った。
「これは祭りです。けれど、ここは“合法の緊急避難所”でもあります。
地上の混乱から、少しだけ体を休めに来てください。
出入りは自由。座る場所は多い。食べるのは任意。匂いだけでも、かまわない」
リルナが袖で俺の脇腹をつつき、耳打ちする。「書類、通した」
彼女が昼の間に走り回って集めた署名と“避難所設置に関する古規”の写しが、いまこの地下街を一夜限りの避難所にしている。
風車から盗んだ電力は、緊急灯と誘導灯、そして“菌糸ライト”にだけ使う。
舞台のスポットはない。
あるのは、壺の呼吸と、パンの焦げる音と、スープの温度。
第一陣のパンが焼き上がる。
俺は籠に取って、切らずに“ちぎる”。
ちぎった断面から立つ湯気が、星のかけらみたいに光る。
配る。
乳酸の鍋からは白い柔らかさをすくい、塩を一つまみだけ落とす。
甘酒風は小さな盃で。
三段構えが、通路を満たす。
「落ち着いて」「平穏は徳」
静粛塔の標語が、地下にまで薄く滲む。
その上から、壺の合唱が重なる。
ぷつ、ぷつ、ぷつ。
ぷつ、ぷつ、ぷつ。
呼吸の拍が人の心拍に寄り添い、緊張の棒を少しずつ溶かしていく。
向こうの通路で、白衣の裾が揺れた。
観測者だ。
彼は胸の筒を撫で、群衆の色を測る。
青から緑へ、緑の中に薄い黄。
興奮ではない。
眠気でもない。
“食後の静けさ”。
観測者の眉がわずかにひそむ。
彼の耳に、どこかから命令が落ちたのだろう。白衣の男はためらいなく通信端末を口元へ寄せた。
「機動隊、投入」
広場の上の鉄梯子から、黒い装備の男たちが降りてくる。
盾、警棒、無味の杖。
人の波がざわめき、足が止まる。
クロウがすっと前に出た。
狼は走らない。ただ、狭い通路の要所に座り、目で合図し、尾で床を叩く。
“こっちへ”“伏せて”“待って”。
群衆の流れは彼の周囲で自然に分かれ、避難動線が生まれる。
「湯気、カーテン」
俺は乳酸の鍋の上に薄い布を張り、風袋の糸で蒸気を撫でて“カーテン”を作る。
視界は奪わない。
ただ、こちらの輪郭を柔らかくするだけ。
機動隊の足元には、リルナが床に埋めた誘導灯が光り、彼らの動きをゆっくりにする。
無味の杖が上がる――音が鳴る前に、俺は鍋を鳴らした。
金属は鳴き、菌糸の光がそれに応える。
抽象表現の時間。
光る菌糸が空中に線を描き、蒸気のカーテンがそれを柔らかく拡散し、熱気のフレアが画面の縁を揺らす。
“暴力”の輪郭だけが、滑らかにぼける。
「ここは緊急避難所だ!」
リルナが掲示を掲げ、古規の引用を読み上げる。
「食を配る場所での武器行使は制限される。暴動の兆候なき場合は退避を優先せよ」
観測者が遅い拍手のように指を一度鳴らし、機動隊の班長に視線だけで命を下げた。
――退け、まだだ。
盾がほんの十センチ、下がる。
群衆の肩が一斉に抜ける。
「配れ」
俺はパンを追加し、乳酸の柔らかさをさらにすくい、甘酒風を薄く重ねて渡していく。
匂いの波が地下から地上へ“逆走”し、階段を通じて街の層を貫く。
地上の人々が窓を開け、鼻をひくつき、足を止め、やがて階段へ向かう。
地下に降りた瞬間、湯気のカーテンが肩にかかり、体が“ここは安全”と理解する。
椅子は足りている。床も座面だ。
泣き声は小さく、笑いはまだ堪えられている。
拍は壺に合わせて静かだ。
「トウマ、行ける?」
リルナが俺の肩に手を置いた。
俺は頷く。
いま、この街全体を“味の風”で撫でる手がある。
風袋は溢れそうだ。
供物トンネルは整っている。
あとは、どのくらい流すか、だけ。
「フィラ」
呼ぶと、広場の天井に張った糸が一斉に震えた。
風は息を溜め、街の上に黙って横たわる。
俺は酒精の母を抱え、風袋の口元へ持っていった。
「初の“大口供物”だ。酒精発酵の一部を、神界へ」
量はわずか。
だが、質は高い。
甘さの笑い、酵母のリズム、発泡の光。
それらを“風の糸”に乗せて、神界のテーブルへ滑らせる。
供物は高く積むのではなく、分け前。
俺たちの皿を満たした、その“ひと口”を風へ。
>〈供物:酒精発酵(部分供出)〉
>〈女神応答:受領〉
>〈風相:味の風/開〉
風が、吹いた。
地下の通路の紙片がわずかに震え、菌糸の光が強くなり、蒸気のカーテンが白から藍へ色を変える。
地上では、風車の羽根が一拍、静かに遅れ、次の回転で星屑を撒いた。
アカ=イオラ全体が、ふっと息を吸ったのが分かった。
フィラ=ラグナが、現れた。
彼女は前より濃い色を帯び、髪は薄藍から群青へ、瞳の奥に麦畑の粒が灯っている。
実体――と呼ぶにはまだ軽い。けれど、風の形に体温が宿っていた。
『ここは、温かい』
彼女は広場の空気を撫でた。
人々は、一斉に深く息をした。
深呼吸が波になり、波が壺の拍と合い、壺の拍が胸の中の拍と合う。
観測者は胸の筒を撫で、色の変化を追う。
赤はない。
黄はない。
青と緑の間――“落ち着いた活力”。
彼は唇の端を、ほんの少しだけ上げた。
「君たちは今日、味で都市を支配した」
白衣の男は淡々と言い、首だけで退路を示し、機動隊に視線を投げる。
撤収。
黒い装備が静かに後ずさり、盾は下がり、通路の影に溶ける。
観測者は最後にフィラを見た。
神と目が合い、彼はほんの一瞬だけ目を伏せた。
敬意。
それから、白衣は風の中へ消えた。
「続けよう」
俺は声を上げた。
パンはまだある。
乳酸の柔らかさは足りている。
甘酒風は少し薄めて、長く配る。
群衆は行儀よく列を作り、子どもは先に、老人は椅子へ。
笑いはまだ音にならない。
だが、目が笑っている。
肩が笑っている。
足が笑っている。
やがて、地上で鐘が鳴った。
都市の長が広場に現れ、深呼吸を一度――二度――してから、宣言した。
「今夜より、無味令を一時停止する。香辛料の一部を解禁する。
秩序は味で壊れない。われわれは、秩序を“うまい”で守る」
ざわめきが起こり、すぐに静まった。
拍手は小さい。
けれど、長く続いた。
それで十分だった。
OPが脳内で書き換わる瞬間、というものがあるなら、たぶん今だ。
映像は風車の影から麦畑へ、地下の壺から外の塩田へ、都会の梁から辺境の星空へ。
第二章“辺境開拓編”のタイトルが、まだ誰も知らない空に浮かぶ。
「片づけに入る」
リルナが肩を回し、工具をまとめ始めた。
クロウは最後の巡回に走り、避難路の粉線を払って回る。
フィラは風の粒をひとつひとつ撫で、壺の布を優しく押さえる。
「フィラ」
呼ぶと、彼女は振り向かずに微笑んだ。
『約束の通り、あなたは供物を、わたしは風味を。
次は野へ行こう。台所を、街の外へ』
「辺境を開ける」
『うん。あなたの火は遠くまで届く。
だけど、忘れないで。あなた自身の食卓も、だれかが待っている』
彼女の言葉に、社食の光景が短く差し込んだ。
白いキャップ、まな板の上のねぎ、笑って“ひとつまみ半”と言う後輩の声。
俺は、微笑んだ。
“世界一のまかない”を、もう一度、作りに行く。
世界が食べに来るかもしれない場所で。
地下街の灯りを落とし、最後の壺に布をかける。
菌糸の光は消えず、星の余韻のように薄く残っていた。
階段を上がる足音は軽く、地上の風は甘い。
香辛料の屋台が、そっと幕を開く音がした。
「次の皿、いこうか」
俺は肩の風袋を締め直し、クロウの首筋を一度だけ叩いた。
彼は小さく吠え、尾で床を一打。
リルナが笑って親指を立て、フィラは風の縁でくるりと踊る。
星の残り香が、たしかにそこにあった。
――辺境開拓編、開幕だ。




