第3話 パンと牙
朝の炊き出しが落ち着いたころ、風の匂いが変わった。
乾いた砂と錆の匂いに、獣脂と汗、薬草では隠しきれない血の鉄臭さが混ざる。
クロウが耳を伏せ、喉の奥で短く鳴った。警告の音だ。
「来るか」
村の外れ――焼けた柵の向こうに、黒い影がいくつも折り重なる。
三十はいる。革鎧に骨飾り、剥ぎ取った紋章入りの外套。
腰には刃、背には鉤縄。鼻には無味の粉を詰めた綿。
香辛料を密売し、見つかりそうになれば“無味令の取り締まりだ”と怒鳴って略奪する、辺境の蛆虫ども。
「厨房、戦場仕様に切り替える」
俺は呼吸を一つ整え、目の前の骨組みキッチンを“配置換え”した。
風よけ板を前へ――盾となる角度で並べ、隙間に鍋蓋を差す。
簡易シンクは背に。逃げ道を塞がないよう、半歩分の通路を残す。
鉄板は正面やや右、音が最も跳ねる位置へ。
釜は左、沸き立つ湯気を風袋で厚く纏わせ、白い壁にする。
>〈レイアウトプリセット:戦場厨房/起動〉
>〈フィールド効果:湯気壁(小)/音威嚇(微)/匂い誘導(小)〉
クロウが俺の足元に寄る。傷は塞がりつつあるが、深いところはまだ熱を持っている。
走れば開く。だが、走らせるしかない場面というのも、ある。
「クロウ、まずはこれ」
昨夜から仕込んでいた高脂質の肉団子を、揚げ油に落とす。
肉は干し獣肉と内臓少量、脂身多め。つなぎに穀粉。
香りを立てるための香草は、忌避されぬよう極少。
揚げれば油が飛ぶ。飛ぶ油は光り、光は目を刺し、音は耳を刺す。
クロウの鼻先に、熱々を半割りにして差し出す。
「噛まずに押し込め。燃料だ」
クロウは一瞬だけ目を細め、言われた通りに喉へ落とした。
肩の毛がざわりと立ち、爪が土を掻く。
視線が、戦いの色に切り替わる。
>〈共調調理:高脂食供給/瞬発力+〉
>〈クロウの出力短時間上昇(60秒)〉
盗賊の先頭が村に踏み込んだ。
「香りがするぞ」「違反だ」「取り締まりだ!」
口実は軽く、眼は飢え、足は迷いなく弱者へ向かう。
俺は子どもたちを見た。
少年――昨日、最初に器を受け取った彼に、目線で合図する。
「音が三つ鳴ったら、ここに伏せろ。湯気の中で目をつぶれ。匂いを吸わない」
「わかった」
小さく頷く彼の肩が震える。
俺は鉄板のつまみを上げ、空の鍋をひとつ、思い切り打った。
カン――カン――カン。
澄んだ金属音が、焦げた家々の壁反射で歪み、廃村全体に広がる。
>〈音威嚇:敵対者の注意−/味方の反応+〉
湯釜が沸騰し、風袋が蒸気を厚く撫であげる。
白い壁がふくらみ、視界を曇らせる。
同時に、鉄板ではパンの端を焦がし、匂いを“線”として引く。
油の弾け、香草のわずかな辛香、焦げの苦甘。
匂いの軌跡が、俺のステーションから廃屋の影へ、蛇のように伸びる。
――ここからアニメなら、匂いが彩色されたリボンになって画面を走る。
盗賊の鼻先にふわ、と引っかかり、彼らの視線を引っ張っていく。
クロウの動線と重ねれば、それはそのまま“誘導路”。
「おい、こっちだ!」
「匂いが流れてる……!」
馬鹿で助かった。匂いの濃い方向が獲物だと信じている。
クロウが蒸気の縁を滑り、匂いの薄い死角から低く突っ込む。
足首。ふくらはぎ。膝裏。
致命を狙わず、機動を奪う連撃。
裂けた耳が、風の糸を聴くように揺れる。
地面との距離は常に拳一つ分。
砂が煙、月が鈍く反射し、音が一瞬消えて――牙だけが白く閃く。
俺は背中で湯を回しながら、手を止めない。
鍋の一つでは、薄い粥をひたすら炊く。
もう一つでは、香草茶を濃く。
鉄板では、音を出すためだけの“空焼き”をリズム良く繰り返す。
何より大事なのは、火を絶やさないこと。
火が消えれば、匂いの壁も、湯気の壁も、音の威嚇も消える。
「こそこそしやがって!」
盗賊の中ほどから、太い腕が湯気を割って現れた。
筋肉の上に、油と血を塗ったような鈍い光。
頭目らしい男が前へ出る。
肩幅はドアのようで、額には黒い印。
鼻孔には薬。舌の色が不自然に赤い。
薬で感覚を鈍らせ、痛みを遅らせ、出力だけを上げる“場末の強化”。
「料理屋風情が」
男は笑い、巨大な棍棒を片手で握る。
湯気の膜が、その棍棒の一振りで裂けた。
空気が唸り、俺の頬に土が跳ねる。
クロウが横から噛みつく――が、硬い。
棍棒の腹で薙がれ、地面を転がる。
傷が開いた。血が土に落ち、湯気で薄くにじむ。
「クロウ!」
俺は反射で、鍋のふちを掴んだ。
骨から煮出したスープ――旨味の塊。
そこへ穀粉を落とし、片手で泡立器を回す。
ダマになる前に、油を一滴、香草をひとかけ、塩の代わりに焙った灰を“文字通りのひとつまみ”。
火を上げ、粘りが出た瞬間に、鍋ごとクロウの口元へ。
「飲め!」
クロウはためらわず、舌で鍋肌をこそぎ、熱を喉で受け止める。
油とコラーゲンの“栄養爆弾”が血に混じる。
毛並みの下で筋肉が膨らみ、尾の付け根に火が灯るように見えた。
>〈即席強化食:骨濃湯+穀粉/吸収率上昇〉
>〈クロウの再起動:痛覚抑制(短)/反応速度+〉
同時に、俺は空になった鍋を、頭目の顔面に投げつけた。
鍋は湯気を抱き、光を抱き、相手の視界の真ん中でガン! と鳴った。
男の目が一瞬だけ閉じる。
その刹那――。
「ガウッ!」
クロウの牙が、男の膝の“鍵”を噛み砕いた。
棍棒が落ちる。
地面が、巨体の重みで鈍く揺れた。
男が膝をつく。
クロウは牙を離さず、体を捻ってさらにねじ切る。
膝は、巨体の走りを可能にする蝶番だ。そこを殺した。
「調子に――乗るなよ!」
男が怒号とともに拳を振り上げる。
クロウの背へ落ちる直前、俺は鉄板の上の油を“霧”にして、拳の軌道に吹きかけた。
油霧が光を散らし、目測を狂わせる。
拳は半分逸れ、地面にめり込む。
その隙に、クロウの牙が喉に食い込みそうになる――が、俺は叫んだ。
「殺すな!」
クロウの動きが、刹那だけ鈍る。
牙の向きが変わり、喉ではなく鎖骨へ。
男は叫び、力を失って倒れた。
血は出るが、致命じゃない。
俺の目は、自然と子どもたちを見ていた。
彼らの眼に“人が人を殺す場面”を焼き付けたくなかった。
盗賊たちの背骨に、恐れが走る。
「頭が――!」
「この狼、化け物か!」
後列が崩れ、先頭が下がり、全体が砂の上で足を取られて転ぶ。
俺は鉄板を強火にし、空の鍋を再び打った。
カン――カカン――カン。
退きの合図。
湯気の壁が厚みを増す。
匂いの線は、村の外へ外へ――誘導を反転。
馬鹿は逃げ道を“匂いの濃い方”だと信じて、勝手に離れていく。
やがて、足音も罵声も、風に溶けた。
*
沈黙。
その真ん中に、鉄板の上で鳴るパンの“しゅう”という音だけが残った。
俺は膝から力を抜いて座り込み、クロウの首筋に手を沿えた。
熱い。だが、さっきの熱とは違う。
生きるために上がった体温だ。
「よくやった」
クロウは短く鼻を鳴らし、俺の掌に額を押し付けた。
牙は、さっきより柔らかく見える。
俺は笑って、鍋を洗い、火をほんの少し落とした。
「……祭りだ」
口から勝手に出た言葉に、子どもたちが目を丸くする。
老人の眉が、驚きと困惑のあいだで揺れた。
「危ないのに」
「だからこそだよ。怖いのは、今、ここで“うまい”で上書きする」
俺はパン生地を広げ、指で穴をあけ、鉄板に並べる。
香草茶を薄め、空いた鍋で湯を足す。
肉団子は小さめにして数を増やす。
焦げを怖がらず、香りを怖がらず、火を怖がらず。
広場に、即席の屋台が並ぶ。
風よけ板が屋台の壁、鍋蓋が皿、空き樽が椅子。
「一番に食べるのは――」
俺は振り返り、少年に笑いかけた。
「昨日、最初に“うまい”って言ってくれたお前からだ」
少年は、喉の奥で音を鳴らし、唇を噛んで、それから大きく息を吸った。
パンをちぎり、湯気のスープにつけ、歯を立てる。
頬が、ふっと緩む。
その瞬間、広場の空気がほどけた。
「わたしも」「おれも」
手が伸び、湯気が重なり、笑い声が湧く。
パンをちぎる手。
湯気の白。
油の光。
子どもが一口ごとに目を閉じ、大人が肩で泣き、老人が笑いながら咳き込む。
フィラの囁きが、風の粒になって重なる。
『祈りに似ている。けれど、もっと温かい。
あなたの火は、食卓を祭壇にする』
>〈供物値:+0.2/+0.3/+0.1……緩やかに蓄積〉
>〈風袋容量:安定〉
俺は、心の底から息を吐いた。
これが祭りだ。
神棚に背を向けて、鍋の前で手を合わせる祭り。
“うまい”の輪が、無味の呪いを一時でも忘れさせる。
クロウが静かに近づいてきた。
人々の輪が自然に空き、狼と俺の間に風が通る。
クロウは俺の正面に座り、目を細め、額を少しだけ傾けて差し出した。
――分かった。
従魔契約は、形式ではない。
ここでのそれは“食卓の共有”だ。
俺はパンを一片ちぎり、掌で温度を確かめ、クロウの額にそっと置く。
温いパンが毛を撫で、香りが鼻先をくすぐる。
クロウは動かない。
風が、優しく吹く。
やがてパンは、風に溶けるように消えた。
>〈従魔:クロウ=ウィル 契約完了〉
>〈連携スキル:共調調理Lv2/匂い流路強化/温度同調〉
「クロウ=ウィル、ね」
『風がつけた“姓”。ウィル――意志。
あなたの火に、彼の牙が応えた。二つで一つの厨房』
クロウは尻尾を一度だけ打ち、そっと俺の掌を舐めた。
遠巻きに見ていた子どもたちの中から、ぱちぱちと拍手が起き、それがいつの間にか輪の外に伝播する。
老人が笑って、昔の歌を口ずさみ、誰かが壊れた太鼓を叩く。
廃村の広場に、はじめて“音楽”が戻った。
「この村の名前、教えてくれないか」
「……ラカ。水場が近くにあって、昔は“落ちる音が美しい”って意味で、そう呼ばれてた」
「ラカ。いい名だ」
俺は鉄板を拭きながら、耳の奥の風を聴く。
フィラの息は穏やかだ。
だが、風の高さ――空の層が、さっきより重たく感じられる。
浮遊都市の影が長くなったわけじゃない。
空そのものに、誰かの手が触れている。
『……トウマ』
フィラの声が、微かに震えた。
祭りの賑わいの裏で、風だけが真実を知っている。
『“無味の主”が動いた。
観測者を、こちらの層に派遣する。
匂いの壁は強くした。でも、彼らは“匂いの無い眼”を持つ』
「観測者?」
『味も匂いも、音も、温度も、彼らの尺度ではただの数。
“生活”を、図面として切り取る眼。
ここへ来る。あなたの祭りを、消しに』
広場の笑い声が、少しだけ遠くなった気がした。
俺は周りを見た。
パンをちぎる手。
湯気。
笑い。
クロウの瞳。
火。
――ここを消させない。
「フィラ、準備は?」
『風の糸をもう一本、太くする。匂いの井戸を深くする。
あなたは――“明かり”を増やして。彼らは暗さに強い』
「任せろ」
俺は焚き火の位置を増やし、油の皿を鏡のように置いて光を拾わせる。
子どもたちの近くには湯を絶やさない小鍋。
匂いの井戸の中心に、香草の根を吊るし、風袋に細い穴を開けて“香りの滴”を落とす。
クロウは村の四隅へゆるやかに歩き、爪で土を掻いて印をつける。
風がそこを巡り、細い渦が四つ立った。
>〈フィールド更新:匂いの壁(中)/匂いの井戸(小→中)/灯数+〉
>〈視覚撹乱:油鏡(微)〉
祭りは続く。
笑いは冷えを忘れさせる。
だが空は、笑わない。
雲の上――もっと上、星界の手前。
黒い手が、雲を撫でた。
画面の隅に、薄い文字が滲む。
>〈無味の主:観測者を派遣〉
風が、一瞬だけ冷たくなった。
俺はそれを、鉄板から立つ熱と、人の体温と、狼の息で、押し返した。
火はある。
うまいは、ここにある。
――なら、勝てる。
俺は杓子を握り直し、空を睨み、笑って言った。
「次の皿、いこうか」




