第2話 神は空腹、世界は無味
荒野の夜が、焼けた鉄板に残る熱の名残だけを抱えて明けていく。
夜のあいだ何度も火を弱め、クロウの呼吸に合わせて火力を微調整してくれた風は、夜明けの気配とともに薄く、甘い土の匂いを運んだ。
目を開けると、仮設の厨房の骨組みに、朝いちばんの光が線を描く。
そして同時に、空中に淡く浮かぶ文字。
>〈本日の供物推奨:風菓子/香草茶/揚げ粒〉
「……朝から食いしん坊だな、神様」
寝癖を撫でつけながら苦笑する。
テントも屋根もないのに、ここだけはなぜか“厨房の朝”だった。
鉄板は薄く温められ、簡易シンクの縁に露が溜まり、風よけ板の内側では、透明な炎が青く背伸びしている。
横を見ると、クロウが丸くなっていた。
傷は浅く締まり、毛並みに夜風の香りが染み込んでいる。
鼻先が俺の膝に触れ、しっぽが一度だけ床を叩いた。
「おはよう、クロウ。……今日も、うまいもん作ろうな」
>〈クロウの感情反応:微睡/安心〉
>〈連携スキル補正:火力安定+2%〉
数字は無機質だが、耳の角度と喉の鳴り方が、画面より雄弁だ。
俺は深呼吸して、胸の奥の緊張を吐きだす。
――よし、じゃあ“推奨供物”ってやつからいくか。
まずは「風菓子」。
名前の割に、手元に砂糖がないのが難題だ。
けれど、昨夜見つけた細長い蔓の先に、小さな白い花がついていた。噛むと、ごく微かに甘い。
さらに、花の付け根には甘香の液が凝っている。
これを鍋で弱火にかけ、ゆっくり煮詰めてシロップにする。
「焦がすなよ、俺」
>〈火加減提案:弱火(風袋補助)〉
>〈補助燃料:風石(微)を自動展開しますか? はい/いいえ〉
「はい」
風が鍋の底を均してくれる。
ぷく、ぷく、と小さく泡が立ち、野草の淡い緑が琥珀に変わる。
香りはハチミツと草の中間。
この世界の“風”は、火と友だ。
甘香が立ち上る瞬間、クロウが鼻先をくすぐられたみたいにピクッと動き、俺の袖を軽く咥えた。
「待ってろ、すぐ揚がるから」
次に、穀粉を水と油で軽くまとめ、掌で転がして団子にする。
辛味草を少量刻み、粉に混ぜ込む。
外はカリッと、中はもっちり――音と温度を指先で測る。
油の表面に揺れる光。
団子をそっと落とすと、ジュワッという音が朝の空に花火のように広がる。
――ここ、アニメなら寄りのカット。
泡の弾けるスローモーション。
油に映る巨大な月の残像。
香りの湯気が画面を白く洗い、音がふっと無音になる。
揚げ色が薄い麦の色から、きつね色へ。
網ですくい、余分な油を切る。
野草シロップを糸のように絡め、最後に荒く砕いた辛味草の粉をひとつまみ――。
皿に盛った瞬間、俺は空に向けてそれを掲げる。
供物は“そのまま”差し出すのが作法だと、どこかでわかっていた。
「いただいて、ください」
風がふっと強まる。
皿の上の団子は、風の幕に包まれて――消えた。
残されたのは甘香の尾。
同時に、数値が跳ねる。
>〈供物値:2.0〉
>〈フィラ=ラグナの“風袋”に蓄積〉
「よし……成功?」
そのとき、耳の奥で紙をめくるような擦音がした。
ついで、かすかに掠れた声が、風といっしょに滑り込んでくる。
『……味がする。久しぶりに』
「……誰?」
『フィラ=ラグナ。風の女神。あなたの火を、昨夜見ていた者』
女の声は、喉を通らず額に直接落ちてくるような感覚で、しかし不思議なぬくもりがあった。
言葉の節々に、空腹を我慢し続けて乾いた人の、遠い余韻が混ざっている。
「食べたのは、あなた?」
『うん。あなたの菓子は、風の道を通って、わたしの袋に落ちた。
この世界は今、神々が“断食”をしている。祈りは薄く、味は遠い。
けれど、味覚の記憶は神力に近い。わたしはかつて、人に“風味”を配っていた。
けれど――無味を是とする主らに押され、星界は味を忘れた』
「無味を是とする……?」
『ええ。味は人を暴に駆る、と彼らは説く。
愛も怒りも、香りから立ち昇る。ならば香りを摘み取れば秩序は静まる――と言って。
祈りは薄くなる。神は痩せる。人は従順になる。……そんな理屈』
声はそこで一度切れ、柔らかなため息が砂に吸い込まれた。
――つまり、供物は「味」を星界に戻すための“通貨”みたいなものか。
「なら、俺がやることはひとつだな。作る。うまいものを、連日大量に」
『頼もしい。けれど、注意して。供物の匂いは、星界でも目立つ。
あなたの厨房はまだ小さい。隠れる風を、いくつか贈る』
>〈新機能:保存/乾燥(限定解放)〉
>〈フィラの加護“風袋”:匂い遮蔽(小)/水分凝集(小)を付与〉
「助かる」
俺は掌を握って開いて、指の腹に残るシロップの粘りを拭った。
と、その指先に温かい舌がふれた。
クロウだ。
皿が消えたことに不満――ではなく、俺が食べ損ねたぶんを心配しているみたいな顔。
「はは。……こっちは“試作品B”な」
揚げ油の温度を少し下げて、今度は辛味を抑えた子ども向けの団子を揚げる。
野草シロップの濃度も薄く。外はカリ、中もち。
クロウは一個を前歯で器用に割り、舌で熱を転がしてから飲み込んだ。
耳がぴん、と立つ。
>〈クロウの感情反応:満足/信頼+〉
「よし。じゃあ“香草茶”と“揚げ粒”もやるか」
香草茶は、昨夜見つけた葉を陰干しし、さらに“乾燥”機能を併用して水分を抜く。
ほんの数分で、葉はパリパリに砕け、香りだけが濃縮された。
湯沸に投げ入れると、風袋の水分凝集が鍋肌を撫でて、湯気の粒が大きく立ちのぼる。
透明感のある緑。香りはレモングラスと山椒の間くらい。
カップに注ぐと、クロウがまた鼻先を寄せて、くしゅんと小さくくしゃみをした。
「……クロウは辛いの弱い説」
>〈クロウの感情反応:照れ(?)〉
最後に“揚げ粒”。
穀粒を乾燥機能でさらに水抜きし、油へ。
パチパチとはじける音が、昨夜の戦闘の余韻を洗うように軽やかで、俺の肩の力が抜けていく。
揚がった粒は、塩の代わりに香草の粉で旨味を起こし、袋に詰め――。
「供物、第二陣行きます」
空に掲げれば、やはり風がさらっていく。
甘い香りが薄く、しかし確かに戻ってくる。
フィラの声は、先ほどより息に力があった。
『……うん、これは“楽”の味。揚げ物の音は、心を軽くするね』
「分かる」
『あなた、名前は?』
「久瀬トウマ。料理はプロ……と言えるのかは怪しいけど、社員食堂で戦ってた」
『よく来てくれた、辺境厨房の起動者。トウマ。
あなたの火は、きっと誰かを立たせる』
そこで声はまた、砂の間に沈んでいく。
俺は鍋を拭い、手持ちの薬草を刻み、粥を炊いた。
クロウの傷口の周りに、乾燥で粉末にした清涼草を薄く振り、粥に少しだけ混ぜる。
とろみは胃に優しく、香りは鼻に抜ける。
クロウは口を近づけ、俺の目を一度だけ見上げ――静かに食べた。
喉が鳴るたび、画面の隅で小さな数字が増える。
>〈感情反応:信頼+0.1/安心+0.2〉
数字はただの記録。でも、背を撫でる手の下で、確かに体温が上がっていくのがわかる。
俺は肩の力をもう一度抜き、荒野に視線を向けた。
――行こう。
保存と乾燥が開いたなら、携帯食を作りながら移動できる。
水があれば、もっと幅が出る。
そのとき、地平線の向こうに、黒く焦げた屋根がいくつも立っているのが見えた。
*
そこは廃村だった。
家屋は焼け、倉は空。
風が吹き抜けるたび、灰が細雪のように舞い上がる。
井戸が一つ、村の中央に口を開けている。
覗くと、底は黒い。水は――ない。
「……枯れてる」
喉の奥がきゅっと締まる。
この匂いは知っている。災害の翌日、避難所の体育館に漂っていた匂い。
汗と布と、煮詰まった空気。
「フィラ、“風袋”の水を集めるって、井戸にできるか」
『できる。けれど、時間がいる。
空気の水分を梳いて、少しずつ底に落とす。
風の糸を張るから、あなたは鍋の準備を』
「了解」
>〈風袋“水分凝集(小)”発動:対象/井戸〉
>〈完了予測:30分〉
井戸の口に、見えない糸のような風が張られた。
やがて、底でコツ、コツ、と小さな音が生まれる。
透明な滴が石に当たり、跳ね、さらに集まって雫になる。
クロウが身を乗り出し、瞳で滴を追う。
俺はそのあいだに、鉄板を拭き、パンの仕込みを始める。
乾燥機能で水分を調整し、薄く伸ばし、表面を指で点々と穴あけする。
香草茶も仕込みなおし、鍋に野草の根と葉とを入れて、出汁の基礎を作る。
「油は……あと少し。節約しよう。鉄板焼き方向で」
>〈節約モード提案:火力−10%/風循環+〉
「ナイス」
指示に従って火を落とすと、風が鉄板の裏を撫で、熱が均等に回る。
パンは焦げず、膨らみ、表面に薄い気泡が散る。
――ここもアニメなら、ふくらむ断面のマクロショット。
音は“しゅう”と低く続き、画面の縁で風が白く流れる。
と、その匂いに引かれたのか、視界の端に影が揺れた。
痩せた少年と、背の曲がった老人。
そして、家の影からさらに小さな影が二つ、三つ。
「……匂いが」
少年の目は、獣のそれに近かった。
けれど、俺の手元の動きを見ると、ほんの少しだけ眉間の皺がほどけた。
俺は包丁を置き、手のひらを見せ、ゆっくり頷く。
「大丈夫。火、分けるだけの人。座って。熱いから気をつけて」
クロウが視線で俺に問う。
俺は短く頷いた。
クロウは風よけ板の外へ一歩出て、村の四方に鼻先を向け、唸らず、しかし通せんぼのように座った。
――“ここは安全。けど無茶はさせない”という、狼なりの合図。
少年の腹が鳴った。
俺はパンをちぎり、薄いスープに浸して器に入れ、両手でそっと差し出す。
老人には柔らかく煮た根菜を多めに。
香草茶は薄く、湯冷ましで温度を落とす。
「食べて」
最初の一口まで、長かった。
けれど、一度口に入れてしまえば、あとは早かった。
頬が動き、喉が動き、瞳の色がわずかに戻る。
老人の手が震え、器の縁をかすかに鳴らした。
「……うまい」
小さな声だった。
俺は胸のどこかがほどける音を聞いた。
うまい。
それは、厨房で働く人間にとって魔法の言葉だ。
この世界でも、地球でも、同じ。
食後、老人が口を拭い、顔を上げる。
その目に、火が戻っていた。
「どこから来た」
「遠くの荒野から。……というか、気づいたらここに。俺は久瀬トウマ。こっちはクロウ」
クロウが短く鳴く。
老人はその瞳を見て、一度目を細めた。
「……不思議な縁だ。
ここは元は行商の村だった。香辛料と布で食う、貧しいが人の出入りのあった村だ。
浮遊都市アカ=イオラが香辛料を独占するまではな」
俺は火を弱め、椀に湯を注ぎながら耳を傾けた。
老人の語りは、乾いた土の年輪をひとつずつ撫でるようだった。
「空の都市が香辛料を押さえ、値をつり上げた。
それだけなら、まだ商売だった。
だが“無味令”が敷かれた。味は人を暴に駆る、争いを生む、と。
香辛料は禁制、調味は没収、違反は村ごと罰せられる」
少年が拳を握る。
彼の背後で、もっと小さな子たちが怯えて顔を伏せた。
「味覚を奪えば、人は従順になる。……彼らの理屈だ」
老人の声は、苦笑とも咳ともつかない震えを含んだ。
俺は無意識に、コンロのつまみを握っていた。
――味を奪う。
それは、俺の仕事そのものを奪うことだ。
社員食堂の薄すぎる味付けでさえ、愚痴をこぼしながら笑って食べていた彼らの顔が、遠い残像で揺れる。
「反抗したのか」
「誰も反抗しなかった。反抗できなかった。
“無味”は罪ではなく、善だと説かれた。
香りに胸を躍らせることが、恥だと教えられた。
やがて、火を見ることすら怖がる者が増えた」
老人は空を仰ぐ。
そこには、巨大な月と、遠く漂う影――雲ではない。
金属の縁が朝日に鈍く光る。
浮遊都市。
アカ=イオラ。
「けれど、匂いは隠せない。
……きのう、わしらは最後の麦を煮た。塩も香草もない湯麦だ。
それさえ、風は連れていった。
“監視の風”というやつだ。鼻のいい犬のようにな。
お前さんの匂いが、あの空にも届けば――」
老人の視線が、俺の火へ落ちる。
手の中で、つまみが汗で滑った。
けれど、怖いより先に、腹の底がぐっと熱くなる。
「届いても、届かなくても、俺は火を絶やさない」
口から出て、はじめて自覚する。
――俺は、もう“厨房”から逃げたくない。
仕事としての厨房ではなく、誰かの体温に届く厨房から。
クロウが静かに立ち上がる。
風よけ板の外へ、もう一歩。
風が、彼の背でリボンのようにたなびく。
俺は頷き、炊き出しの手順を変えた。
保存食用の薄焼きパンを増やし、香草茶を多めに。
老人と子どもらに配り、さらに、携帯できる“乾パンもどき”を仕込む。
乾燥機能で水分を飛ばし、固く、小さく。
歯の弱い者には、湯でふやかせば良い。
「これは旅に持っていける。三日くらいはもつ」
少年がそれを抱きしめるように受け取る。
目のふちが赤い。
俺は視線をずらし、井戸の底をもう一度見た。
水は――わずかだが、底に溜まり始めている。
桶で掬い、煮沸し、壺に詰める。
世界の端っこで、台所のルーティンが命綱になる。
「トウマ」
耳の奥の声が、わずかに震えた。
フィラの声だ。
俺は返事をする代わりに、空に向けて香草茶の一杯を掲げた。
風がそれを撫で、茶は消え、甘い香りだけが残る。
>〈供物値:+0.6〉
>〈風袋の容量がわずかに拡張されました〉
『ありがとう。けれど――悪い知らせがある』
火の粉が一粒、パンの表面で弾けた。
クロウの耳が、ぴくりと動く。
風が、暖かさから一瞬、冷たさに転じた。
『“無味の主”が、供物の動きを検知した。
風袋の道が一部、観測された。わたしたちは見つかった、かもしれない』
村の外で、砂が低く唸った。
空のはるか上――浮遊都市の影から、銀色の粉のようなものが、ふわりと降りてくる。
鼻腔を刺す、鉄と薬品のにおい。
匂いを食うために生まれた、無味の胞子。
俺は、手の中の杓子を握り直した。
火は、まだ生きている。
クロウの背に風が集まり、喉の奥で低い音が鳴る。
老人が子どもらを抱き寄せ、少年が一歩、俺の隣に出る。
「……やることは、決まってる」
供物は、ただの供え物じゃない。
世界に“味”を戻すための、合図だ。
だったら――もっと強く、もっと遠くへ届く味を作る。
匂いを遮る風も、逆に“こちら側”の結界にできる。
厨房は、戦場の後方じゃない。
ここが最前線だ。
「クロウ、火を頼む」
「――ガウ」
>〈連携スキル“共調調理Lv1”派生:匂い流路形成〉
>〈フィールド効果:匂いの壁(小)/匂いの井戸(微)〉
風よけ板の内側で、空気の流れが組み替わる。
香りは内へ、外からの無味の胞子は、風の渦でそらされる。
俺は鉄板に新しい生地を張り、香草茶の濃度を上げ、揚げ粒の鍋をもう一度洗う。
匂いを、味を、音を、視線を――全部総動員する。
空から降る“無味”があるなら、地上から立つ“風味”で打ち返す。
火花が、朝日の中で小さく跳ねた。
冷たい風が、一瞬だけ顔を撫で、すぐに温かさへ戻る。
遠く、金属の羽音。
空の影は、こちらを覗き込んでいる。
「神様。聞こえるなら、――もう一皿、いこう」
俺は空に向かって、皿を掲げた。
風は答えるように膨らみ、フィラの声が、針の穴を通る風みたいに細く、それでもはっきり届いた。
『聞こえる。……わたしも、風を張る。
トウマ、あなたは作って。世界に“味”を思い出させて』
「任せろ」
その言葉と同時に、銀の粉が、匂いの壁に当たって弾けた。
朝の光のなか、弾けた粒が虹のように散る。
クロウが吠え、鍋が歌い、俺は杓子を振る。
――神は空腹だ。世界は、無味だ。
なら、俺の仕事はただ一つ。
火を絶やさず、味で世界を塗り替える。
荒野に、朝の匂いと油の音が響き渡った。
そして、空の上で誰かがつぶやく。
『観測――起動者、特定。……無味の主へ報告』
夜風の名残が、一瞬だけ冷たくなった。
俺はその冷たさを、鉄板から立つ熱で押し返す。
火は、まだ、ここにある。
――――つづく――――




