エピローグ ― そして貴方は ―
あなたは、その朝、
いつもと同じように眠っていると思ったの。
私が声をかけても、返事がなかった。
手を伸ばしたら、その手はもう、静かに冷たかった。
あぁ、ついにこの日が来たのね、と。
涙は出なかった。
悲しいはずなのに、不思議と穏やかな気持ちだったの。
だって、あなたは最後まで苦しそうな顔をしていなかったから。
お葬式の日。
息子夫婦は泣きながら、
「お父さん、本当にありがとう」と何度も繰り返していた。
孫は、よく分からないながらも、
小さな手であなたの遺影を見つめていた。
教師時代の教え子たちも、戦争を共にくぐり抜けた仲間たちも、
みんな、立派な顔で来てくれたわ。
「先生に出会えたから今がある」
「一緒に生き延びられたことを誇りに思います」
そう言ってくれる人がたくさんいた。
あなたは本当に、たくさんの人の心に生きていたのね。
葬儀が終わって、
静まり返った家で、息子夫婦と一緒に遺品整理をしていたときのこと。
あなたの机の引き出しの奥に、
一通の封筒が挟まっているのを見つけたの。
少し黄ばんだ封筒。
宛名には、震える文字で――「君子へ」と書かれていた。
封を開けると、そこには不器用な字で、こう綴られていた。
「ありがとう。これまでいっしょにいてくれて。
だから、ここまでいきてこれた。
きみがいたから、いきてこれた。
ありがとう。」
たったそれだけの言葉だった。
でも、その一行一行に、あなたの人生すべてが詰まっている気がした。
あなたが記憶を失っても、名前を忘れても、
心の奥底では、私のことをちゃんと覚えてくれていたのね。
あの日々が無駄ではなかったと、やっと分かった気がしたの。
私は手紙を胸に抱きしめながら、
ゆっくりと窓の外を見た。
外では、春の風が優しく木々を揺らしていた。
あなたが好きだった桜が、少しだけ咲いていたわ。
――あなた、見える?
今年も、きれいに咲いているわよ。
私は手紙を小さな箱にしまって、
微笑みながらつぶやいた。
「こちらこそ、ありがとう。
あなたと過ごした日々が、私の人生そのものだったわ。」
そして今日も、あの日と同じように、
朝の光が、静かに部屋を照らしていた。




