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第一章 年老いていくこと 中編
「先に帰ってていいわよ、文さん」
君子の声が、冬の空気にやわらかく溶けた。
僕はうなずいて、手を振った。
たったそれだけのはずだった。
いつもの道を、いつものように歩いていた――
はずなのに。
気がつくと、見たことのない通りに立っていた。
道標も、家の並びも、まるで知らない。
風が吹くたび、胸の奥がざわざわと波立つ。
「……ここは、どこだ?」
声に出しても、誰も振り向かない。
人々は携帯を見つめたまま、僕のそばを通り過ぎていく。
僕の戸惑いも、不安も、誰にも届かない。
いや――もしかしたら、届かせたくないのかもしれない。
そんな気がした。
足が震え、手が冷たくなる。
心臓の鼓動だけがやけに大きく響く。
するとそのとき。
「大丈夫?」
小さな声がした。
振り向くと、小学生くらいの少年が立っていた。
母親らしい人が、その腕を掴んでいる。
「やめなさい」
母親は言った。
でも少年はその手を、そっと振り払った。
「おじいちゃん、だいじょうぶ?」
その一言に、胸が熱くなった。
思わず笑ってしまった。
涙が出た。
どうしてだろうな、君子。
こんなに心細かったのに、あの子の声で少しだけ、帰り道が見えた気がした。




