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「はぁ」
風呂はやっぱり最高だ。この瞬間だけは自由になり解き放たれるような気分に浸れる。
ーー今日はなかったな。
いつもならあるはずのノックが今日はなかった。こんな事もあるのかと思いながら風呂でくつろいだ。
しかし何なんだあの女。今にして思えば見た目の良さだけに釣られた自分が馬鹿だった。
『ひろ君って呼んでいい?』
見た目は悪くない。というか相当な美人だった。そんな女が自分に言い寄ってきたら誰だって気分良くなるものだ。しかしこれがとんだ地獄の沼だった。
彼女は距離が縮まれば縮まるほど様子がおかしくなった。
『私の為なら死んでくれる?』
一度夜を共にしただけでそんな事を平気で言う女だった。男の欲望に負けその場では都合の良い言葉でご機嫌を取ったがこれこそが彼女のやり口だった。
『どうして私以外の女といるの?』
付き合っているわけでもないのに彼女は自分の生活をどんどん浸食していった。まさに沼だった。踏み込んだものを容赦なく引き摺り込む。
さすがにこんな身勝手な行動を続けられるとたまったものではない。彼女との距離を取り、無視をした。連絡先も合鍵も渡さないワンナイトの関係であった事がまだ幸いだったが、一歩外に出れば世界は彼女の監視下のように全てを見られていた。
自然と部屋に閉じこもるようになると連日の無言ノックときた。異常だ。普通ではない。彼女に怯える毎日。心が安らぐ一時の風呂の時間ぐらいだった。
かちゃ。
「ん?」
物音がした。気のせいかと思いながら身構える。
す。す。す。
気のせいじゃない。扉の向こう側で音がする。
がちゃ。
風呂場の扉が開き、そこに彼女が立っていた。
「お前、どうやって……」
知ったところでどうにもならない。俺の全てを見ている女だ。鍵を開けられるなんて事ぐらいいつ起きてもおかしくなかったのだ。
「私の事好きだから抱いてくれたんでしょ?」
手には包丁が握られている。恐怖で湯舟から動けない。
「好きなら、私の為に死ねるよね?」
ゆっくりと彼女がこちらに近付く。
「ねえ、死ねないの? じゃあ好きじゃないの?」
目が完全にいってしまっている。こんな無防備な所に踏み入れられるとは最悪だ。
「嘘つき」
彼女が包丁を振り上げ猛然とこちらに向かってきた。
「うわああああああああ!」
悲鳴を上げた直後、身体にずぶりと包丁が差し込まれた。
彼女がさらに包丁を振り上げる様を見ながら、激痛と共に明確な自分の死を感じた。