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4


 あのあと、自室に戻った私は、しばらく窓際に立ち尽くしていた。凍てつく皇都の空は、すでに灰色がかっている。薄いカーテン越しに見える街路の灯が、どこか遠くに感じられた。



(……お母様。)



 思い浮かべる顔も、声も、記憶にはなかった。ただ、写真で見たことのある人――それ以上でも以下でもないはずだったのに。


 帳簿を見た時、お母様の名前やバレンシュタイン家に関するメモ書きが挟まっていた。



(あの帳簿には一体、どんな秘密があるというの…?)



 お母様の死は、私が生まれた日だったと聞いている。だから、覚えていないのは当たり前だ。けれど、それでも。


 私が知らないだけで、ローゼンベルク家の中には、お母様のことを知る人がいたはずだ。お父様も、テオドールも。もしかしたら、マティアス司教様さえも——。


 けれど、誰も多くを語ろうとしなかった。私もまた、お母様のことを知ろうともしていなかった。


 机の片隅に置かれた、古びた銀の写真立てに目が止まった。お父様が若い頃のものだ。その隣に立つ、柔らかな面差しの女性――母、エリーザ。



(……本当に、似ているのかしら。)



 見た目が似ているだけで、私の中にお母様の面影はあるのだろうか。答えは出なかった。ただ、胸の奥に残るざらついた違和感が、次第に形を持ちはじめていた。



(この家の中にある、何か。見ないふりをしてはいけない気がする。)



 私は写真立てをそっと伏せ、もう一度、部屋の外の灯に目を向けた。

 

 しばらくして、ノックの音に、私は思考の底から引き戻された。



「――お嬢様、失礼します。お茶をお持ちしました。」


「……ミーナ?」


「冷え込んできましたから。温かいお紅茶と、レモンの焼き菓子を少し。」



 気を遣うような声音と、それ以上を詮索しない穏やかな態度に、私は小さく息をついた。



「ありがとう、ミーナ。」



 小さな丸テーブルに並べられた茶器から、湯気が静かに立ち上る。私は椅子に腰を下ろし、ミーナが静かにカップを注ぐのを見つめていた。



「……ねえ、ミーナ。」


「はい?」


「あなたは、お母様のことを知ってる?」



 一瞬、彼女の手が止まった。けれど、その動揺はすぐに隠される。カップを差し出しながら、ミーナは少しだけ首をかしげて言った。



「――よくは、知りません。ただ……小さな頃に、遠くから見かけたことはあります。」


「……そう。」



 私は紅茶に口をつけた。温かさが舌に触れると同時に、胸の奥に沈んでいた冷たいものが、ほんのわずかに溶けたような気がした。



「優しそうな方でした。けれど、どこか……寂しそうで。」


「寂しそう?」


「はい。お邸の人たちは皆、お綺麗な方だって噂していましたけど、いつも少し――遠くを見ているような目をしていらして。私には、そんなふうに見えました。」



 ミーナは、けっして決めつけるような言い方はしなかった。ただ、昔の天気を思い出すような声だった。



「……ありがとう、ミーナ。それだけでも、嬉しいわ。」


「お嬢様……。」



 小さな気遣いに、私は微笑を返す。


 きっと、誰もが口を閉ざすほどの事情が、お母様にはあったのだろう。けれど、それでも――誰かの中に、お母様の姿が残っていることが、嬉しかった。


 カップの中の揺れる紅茶に、ふと、窓の外の灯が映った。


 それは、遠い記憶のようにかすかに揺れて、やがてゆっくりと、静かに消えた。









 窓の外はすっかり暗くなっていた。皇都の冬は日が落ちるのが早い。屋敷の外壁を照らす灯りのゆらめきが、室内の影を揺らしている。


 広すぎる食堂の長卓に、並べられた食器と燭台の光がささやかな彩りを添えていた。対面に座るお父様――ジークベルト侯爵と、こうして食事をとるのは、いったい何年ぶりだろう。


 しん、とした空気の中で、銀器の音だけが控えめに響く。私は緊張でスープを啜る手がぎこちなくなってしまわないよう、意識的にゆっくりと動かした。


 お父様は、いつも通りの沈黙を崩さない。眉間に皺を寄せ、どこか遠い思考に沈んでいるように見える。怒っているわけでも、冷たくしているわけでもない。ただ、話し方を――忘れてしまったかのように。


 スープを飲み終えた頃、父が不意に声を発した。



「……食事は、口に合ったか?」



 私は思わず顔を上げた。予想よりもずっと柔らかな声だった。



「……はい。とても、おいしかったです。」


「それなら……よかった。」



 お父様はチラリと入り口に立つ、ハンスを見て、何も言わずに食卓に視線を戻した。思わず私もハンスのほうを見ると、一瞬驚いた顔をして、満足そうに大きく頷いているところだった。

 

 再び沈黙。けれど、先ほどよりも静けさが苦ではない。


 お父様は、変わらないように見えて、少しずつ変わっているのかもしれない。それとも、変わったのは、私のほうなのか。



(……この人の、もっと近くまで行けるだろうか。)



 ふと、視線の先にあった小さな紙束に気づく。脇に置かれた帳簿と、開きかけの封筒だ。公務の合間に確認していたのだろう。


 何気なく目を向けたそれに、どこか見覚えのある紋章があった。



 (……あれは……ヴァレンシュタイン家の……?)



 瞬間、心臓が跳ねた。


 子どもの頃、何度かその名を耳にした。けれど、誰も多くを語ろうとしなかった。お母様の親戚という人たちが訪ねてきた記憶もない。祝いの手紙も、香りのする便箋も、見たことがない。私は、ヴァレンシュタイン家とは縁が薄いのだと、いつしか知った。


 でも、それが“どうして”なのかは、誰も教えてくれなかった。



 (……お母様の、家族。わたしの、もう半分の血筋……。)



 お父様がその名と関わっていることに、奇妙な違和感と、かすかな痛みが走る。

 

 今さらなぜ――という問いが、喉の奥でつかえるように残った。


 けれどお父様はそれに気づく様子もなく、黙々とナイフとフォークを動かしている。私は見てはいけないものを見てしまったような気がして、視線を逸らした。


 どうしてかそれを尋ねる勇気はまだ出なかった。何かが、壊れてしまいそうで――。



「……アンネリーゼ。」



 お父様が静かに名前を呼ぶ。その声音には、どこかためらいと、決意のようなものが滲んでいた。



「明日、少し時間をとる。話したいことがある。」


「……はい。」



 私はうなずく。心の奥がざわつく。お父様は私に、何を話そうとしているのだろう。


 過去のことか。母のことか。それとも――



(……あの帳簿と、関係があるの?)



 燭台の灯りが、かすかに揺れた。









 翌朝、空気の冷たさがまだ残る中庭で、私はミーナと一緒に羽織を借りて屋敷の周りをひと巡りしていた。ヘルミーネが「皇都の空気に慣れるには朝の散歩がよろしい」と勧めてくれたのだ。


 石畳を踏みながら外門へ向かうと、門前に立つひとりの男が目に入った。銀灰色の短髪に、広い背中。着崩し一切なしの衛兵服に、槍を立てて直立不動の姿勢。



「…すごい。大きいですね。」



 ミーナがそっと私に耳打ちした。一般の男性よりも遥かに大きい。


 ――あれが、ブルーノ。


 私が近づくと、ブルーノは姿勢を崩さぬまま、深く一礼した。



 「……お初にお目にかかります、お嬢様。ローゼンベルク家門番、ブルーノにございます。」



 無愛想とも、素っ気ないとも違う。ただ、ひとつひとつの所作が無駄なく丁寧で、言葉よりも背中が信頼を語っていた。



 「こちらこそ、よろしくお願いします。……お父様を、いつも支えてくださってありがとう。」



 そう返すと、ブルーノは一瞬だけ視線を上げて、わずかに頷いた。


 それだけなのに、不思議と心強いものを感じた。言葉が少ないぶん、誠実さが際立つ人――そんな印象が胸に残った。









 散歩から帰り、ミーナに少し乱れた髪を整えてもらいながら、昨夜の光景が何度も脳裏をよぎった。帳簿と、あの手紙。あの紋章。――ヴァレンシュタイン家。お母様の実家。


 けれど、お父様はそのことについて何も触れなかった。ただ淡々と食事をし、ほんの少しだけ表情を和らげてくれただけ。今日は、何を話すつもりなのだろう。昨夜の続きを、聞けるのだろうか。


 執務室の扉の前に立つと、侍女のヘルミーネがそっと一歩引いた。ミーナと共に控えている。



「……お嬢様、おひとりで大丈夫ですか?」



 ミーナの問いに、小さく頷く。



「ありがとう、行ってくるわ。」



 重い扉を叩くと、中から父の低い声が返ってきた。



「入りなさい。」



 扉を開けて足を踏み入れると、父ジークベルトは机の上に数冊の書類を並べていた。昨日見た帳簿の姿はそこになく、代わりに並んでいるのは宛名の伏せられた手紙の束と、帝国式の式次第案と思しき冊子。



「おはようございます、お父様。」


「……ああ、アンネリーゼ。時間を取ってもらってすまない。」



 父は視線を落としたまま、一通の書簡を横へ寄せた。昨夜、見かけたものとは違う封筒。私はこっそり安堵しながら、机の前の椅子に腰かけた。



「……今日は、今後について少し話しておこうと思う。おまえがこの屋敷で過ごすにあたって、準備すべきことがある。」


「……はい。」



 私の返事に、父は小さく頷いた。



「おまえの婚約は、すでに帝国内で広く知られている。ただし、正式な“皇室行事”としての婚約式は二年後になる予定だ。それに向けて、礼儀・言語・教養など、一定の水準に達しておく必要がある。」



 やはり……そういう話か、と内心で思いながら、私は黙って耳を傾けた。



「皇太子妃教育は、式の後に本格化する。それまでの準備期間として、皇都での生活に慣れ、必要な基礎を整えるように。」


「……私に、その素質があると……お父様は思われますか?」



 気づかぬうちに、そんな言葉が口をついて出た。


 父は一瞬、わずかに見開いた、そしてその驚きを隠すようにそっと目を伏せた。



「……素質ではなく、必要だから教える。それだけだ。」



 ぶっきらぼうな言い方。けれどその言葉の裏に、私の可能性を否定してはいない気配があった。



「必要な教養については、専門の教師を迎える。いずれ、数名がこの別邸に出入りすることになるだろう。」


「……外部から、ですか?」


「そうだ。帝都でも有能とされる者たちだ。いずれも、私が信頼できる筋から選んだ。」



 その言い方に、どこか引っかかるものがあった。


 “信頼できる筋”――具体的な名前は出さない。けれど、どこかに含みがあるような、そんな言い回しだった。



(……昨日の手紙。ヴァレンシュタイン家。まさか、そこから……?)



 疑念が一瞬よぎるが、口には出さなかった。私はただ、静かに頷いた。



「わかりました。私、ちゃんと学びます」



 父はそれを聞いて、わずかに目を細めた。



「……そうか。」



 それだけ。けれど、その一言には、確かに父なりの信頼が込められていた気がした。


 会話が一区切りついた後、私は勇気を出して、もう一歩だけ踏み込んでみることにした。



「……お父様。昨日の夜、お話の途中で……帳簿と、一通の手紙が見えました。封にあった紋章が、どこかで見たような気がして……。」



 父の動きが、一瞬止まった。


 けれどすぐに、手元の書簡を束ねると、落ち着いた声で言った。



「仕事の文書だ。気にする必要はない。」


「……そう、ですか。」



 それ以上は聞けなかった。けれど、気にするなと言われても、気になるものは気になる。 机の引き出しにしまわれた封筒。知らないはずの祖父の名前。


 もしかしたらそこに、お母様のことを知る手がかりがあるのかもしれない。


 けれど今は、問いただすよりも、信じたい。この人が、何もかも黙ってきたわけじゃないと。その背に積もる疲労と重責の影を、少しだけ見てしまったから。


 部屋を下がるとき、お父様は最後にぽつりと言った。



「……おまえには、母親が遺したものが、少なからずある。」



 私は驚いて、思わず足を止めた。けれどお父様は、それ以上何も言わなかった。


 その声が、妙に優しくて――。私はそのまま、静かに扉を閉じた。







 ……静かな冬の空の下、私はまたひとつ、知らない世界の扉の前に立った。


 知らないお母様のことも、信じたいお父様のことも――これから、私自身の目で確かめていく。


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