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 クローゼットから薄桃色のティードレスを選んで着替えると、室内を改めて見返した。クローゼット、や姿見、デスクベッドは高級木材製で堅実なデザイン。


 壁紙やカーテンは淡いローズグレーとアイボリーホワイトを基調としていて、やや地味だが品のある色合いだ。


 ベッドのヘッドボードに家紋が彫られており、特注だというのがわかる。どれも使用された形跡はなく、今回のために新しく用意したものだろうか。



(お父様が用意させたのかしら。)



 そんな希望を抱いてしまう自分に、少し戸惑う。まだ信じ切れるほどの距離ではないのに。



「お嬢様、食堂で昼食のご用意が整いました。ご案内いたします。」



 ヘルミーネが呼びに来てくれたので、思考を切り替える。まずはこの邸の使用人たちとしっかり顔合わせをしないと。


 一階の食堂まで向かう途中、ローゼンベルク家の紋章があしらわれた重厚な扉が目に入った。



「ヘルミーネ、この部屋は…?」


「こちらは、執務室になります。旦那様がご在宅の時はほとんどこちらの部屋に籠ってらっしゃいます。」



 忙しく働いているとは聞いていたが、邸に戻ってきても休もうとはしないらしい。かつては、この執務室に足を踏み入れることさえなかったのに。近づいてみたいという気持ちはあったけれど、その場ではどうしても足が向かなかった。


 そのまま執務室の前を通り過ぎ、玄関ホールを抜ける。先ほどは閉まっていた両開きの扉が開かれると、昼食の用意された食堂が広がっていた。


 天井は高く、壁には淡い金色のモールディングと落ち着いた葡萄色の壁紙。陽の光が大きな窓から差し込み、磨き上げられた長いテーブルの上に並ぶ銀器が鈍く輝いている。食卓にはすでに料理が並べられていたが、席には誰の姿もない。控えめに添えられた花瓶の白い花だけが、わずかに温もりを添えていた。


 この場に自分が座ってよいのだろうか、と足を止めたくなるほど、空気は静まり返っていた。



「どうぞ、お嬢様。」



 中で待っていたオスヴァルトの声に促され、アンネリーゼはゆっくりと一歩を踏み出す。オスヴァルトの横には白いコック帽の料理人が軽く会釈をして控えていた。


 席に着くと、オスヴァルトが一礼し、背後に控えていた料理人を紹介した。



「当邸の料理人、ハンス=クロイツァーと申します。現在、食事に関しましては、彼一人に一任しております。」


「よろしくな、お嬢サマ。」



白いコック帽を軽くつまみながら、にっと笑って見せたその仕草は、思いのほか気さくなものだった。



(料理人ってもっと無口で、堅い感じだと思ってた…。)



 一瞬だけ驚いたものの、胸の奥がふっとほぐれるような、不思議な安心感があった。



「ハンス。言葉遣いがなっていませんよ。」



 背後から鋭く飛んできた声に、ハンスが肩をすくめた。振り返ると、腕を組んだヘルミーネが、いかにも「またやったわね」と言いたげに立っていた。 



「せめて『お嬢様』くらいはちゃんと口にしていただきたいものです。まったく……。」


「へいへい、気をつけますよ。」


「その“へいへい”がすでにダメなのです!」


「へいじゃなくて、“承知いたしました”だろ?」



にやりと笑って誤魔化すハンスに、ヘルミーネは深くため息をついた。そんな二人のやりとりを目の当たりにして、私は小さく笑ってしまった。我関せずで目を瞑っているオスヴァルトも含めて何だかおかしい。

 


「それよりも、腕によりをかけて作ったんだ。冷めねえうちに食べてくださいよ!」



 ハンスに促されて、慌てて食器を手に取る。目の前に並べられた昼食は、どれも華美ではないが、丁寧に手間がかけられているのが伝わってきた。


 ――優しい香り。見た目の彩りも、どこか懐かしい。



「今日は、お嬢サマのお口に合うよう、少し控えめな味付けにしてあります。お父上はなかなか食べてくださらないですがね。」



 ハンスがそう言って、得意げに眉を上げる。その横で、ヘルミーネが「また余計なことを……。」とでも言いたげに小さくため息をついたのを、アンネリーゼは見逃さなかった。



(……お父様、偏食気味なのかしら。)



 初めて聞く食事事情に少し驚きながら、パンプキンポタージュをひと口すくう。とろりとした甘みが舌を包み、胸の奥がふっと温まるようだった。



 (おいしい……。)



 料理は、言葉をかけずとも、その人の想いがにじみ出るものなのかもしれない。


 アンネリーゼは、そっと小さく「ありがとうございます」とつぶやいた。

 

 それにハンスは気づいたのか、しわくちゃな笑みを浮かべ、胸を張った。









 ハーブティーを飲み終える頃、廊下から控えめな足音が近づいてきた。やがて扉がノックされ、オスヴァルトが「入ってよい」と言うと、ひょっこりと少年が姿を現す。



 「し、失礼します。買い出しから戻りました……。」



 やや猫背気味に入ってきたその少年は、包みを丁寧に抱え、部屋の空気を探るように一瞬周囲を見回した。その視線がアンネリーゼと合うと、ぴたりと動きを止め、少し緊張したように目を見開いた。



 「レオン、この方がローゼンベルクのお嬢様だ。ご挨拶を。」



 「はっ、はい……! 初めまして、お嬢様。小間使いのレオンと申します。……あの、何かございましたら、何でもお申しつけください。」



 伏し目がちに、しかし丁寧に深く頭を下げるレオン。その礼儀正しい所作と、おずおずとしながらも真剣な態度に、アンネリーゼは不思議と悪い印象を受けなかった。



 「よろしくね、レオン。」



 そう返すと、レオンはほっとしたように目を細め、どこか安堵の色を浮かべた。



 (……空気を読むのがうまい子。)



 自分の表情や声色を、彼が一瞬で見極めたのが分かった。萎縮しながらも懸命に立ち振る舞おうとする様子に、アンネリーゼは少しだけ肩の力が抜けた気がした。



 「荷ほどきは私が――」


 「それはあとでいい。本日は旦那様が早めにお帰りになる。そちらの準備をしておきなさい。」



 オスヴァルトに言われて、レオンは小さく頷いた。



 「……はい。ではお嬢様、またのちほど。」



 丁寧に頭を下げて退出していく姿は、どこか不器用だが誠実だった。









 昼食を取り終えて、一人で部屋に戻るため廊下を歩いていた時だった。先ほどは閉まっていた執務室の扉が少し開いていて、中が少し見えるようになっていた。



(お父様は、まだお戻りではないはずよね。)



 ほんの出来心で、そうっと部屋の中を覗き込んだ。穏やかな午後の日差しが、重厚なカーテンの隙間から差し込み、部屋を金色に染めていた。


 けれどその柔らかな光の中、ふと目に留まったものがある。


 本棚にしまわれた一冊だけ異質な装丁の帳簿。金文字でタイトルもなく、他と比べて新しそうだった。無性に気になってその帳簿にそっと手を伸ばした。


 整然と並んだ数字と、見慣れぬ筆跡の記録。何のための帳簿なのか、詳しく中身を読み込もうとした。

 けれど――次の瞬間、



「お嬢様、それは……。」



 静かに、けれど確かに制止する声が、背後からかかった。


 振り向くと、そこにはさきほどまで食堂に居たはずのオスヴァルトが、いつのまにか部屋の敷居に立っていた。氷のような灰銀の瞳が、じっと私を見つめている。



「その帳簿は、旦那様の私的な書きつけでございます。お嬢様には……まだ、時期尚早かと。」


(――「まだ」? 今の言い方、どういう意味……?)



 言いようのない違和感が、胸の奥を小さく掻きむしった。



「……失礼いたしました。旦那様宛の封書をお持ちしに参っただけです。ご無礼をお許しください。」



 そう言って、オスヴァルトは静かに頭を下げると、私の手から丁寧に帳簿を抜き取った。それを本棚に戻すと、すぐに背を向けて廊下へと去っていった。



(……あの帳簿の筆跡、お父様のじゃなかった。やっぱり何かがおかしい。)



 冷たい感覚が、首筋を撫でた。これは、単なる「父との距離」だけの問題じゃない。

 この家には、もっと深くて、もっと鋭い何かが、隠れている――。


 そんな予感が、確かに私の中に芽生えていた。

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