エピローグ
ミーナの歩く音は、いつも小さい。
石の床を踏んでいるはずなのに、聞こえるのは服のすれる音くらいで、私はそれが少し不思議だと思っている。私が歩くと、どうしても靴の音が出てしまうのに。
「お嬢様、こちらですよ。」
そう言われて、私は少しだけ歩く速さをゆるめた。今日は帰る日だった。
ヴァレンシュタインのお邸は、見上げるほど大きく、天井が高い。声を出すと、少し遅れて返ってくるくらいだ。嫌いではないけれど、長くいると、なんだか落ち着かない気分になる。
使用人たちに見送られて馬車に乗ると、道の揺れが一定で、少し眠くなってくる。
窓の外では石の色が、少しずつ変わっていく。
「もうすぐですよ。」
ミーナがそう言った時、馬車はゆっくりとスピードを落とし、見慣れた門へと入っていく。
窓の外を覗き込むと、いつもと同じように眉間にしわを寄せて、のっそりと立っているブルーノの姿が見えた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。」
小さく手を振り返すと、満足そうに頷いて、また門の正面を向いてしまった。
馬車はそのまま、敷地の中をゆっくり進んでいき、邸の入り口の前で止まった。
「お疲れでしょう、お嬢様。お荷物をお持ちします。」
扉の前で待ち構えていたのはレオンだ。ミーナから荷物を受け取ると、それを脇に抱えて邸の扉を開いた。
「ハンスがお嬢様のために、ケーキを焼いてくれましたよ。良ければそのまま食堂の方へ。」
「わかったわ。ありがとう。」
レオンにお礼を言って、邸の中へと入る。本当はお兄様も一緒に食べたかったけれど、最近は忙しそうでなかなか午後のティータイムを過ごせていない。
「お、帰ってきましたね。オジョーサマ!今日はレモンケーキですよ!」
ちょうど厨房から出てきたハンスは、私を見ると、いたずらが成功したような得意げな顔をして、焼きあがったケーキを持ち上げた。
私は「手を洗ってくる」と言って、食堂とは反対の方向へ進む。
誰もいない廊下を、一人で歩いた。
人が少ないこの邸は、ヴァレンシュタインのお邸よりも静かだ。時々、少し冷たく感じることもあるけれど――、それでも、私はこの邸の方が好きだった。
◇
廊下を曲がると、奥に続く扉があった。
私はそこを押して、外へ出る。庭は昼の光に満ちていて、さっきまでの静けさが、少しだけやわらいだ気がした。
風が吹いて、木の葉が揺れる。小さな花が、足元に咲いている。
本当は――、お父様とお母様も、それからお兄様も……。一緒に来られたらよかったのに。
みんな、今日は来られない、と言っていた。理由は、ちゃんとは分からない。ただ、「あとで迎えに行く」と言われただけだ。
私は庭の端にある石の縁に腰を下ろした。草を一本、指でつまんでみる。思ったよりも、すぐに切れてしまった。
胸のあたりが、少しだけ重たい。どうして重たいのかは、上手く言えない。
「お嬢様。」
呼ばれて顔を上げると、そこにいたのはレオンハルトだった。
いつも通りの立ち姿で、影が長く伸びている。
「ここにいらしたのですね。」
「……うん。」
それだけ答えると、レオンハルトは何も聞かずに近づいてきた。
「立てますか。」
私がうなずくより先に、身体がふわりと浮いた。レオンハルトが、私を抱き上げたのだ。
急に、目の高さが変わる。
さっきまで見えなかった庭の奥まで、よく見えた。
「ほら。ご覧になってください。」
短く、そう言われる。
風が、少しだけ強くなった。葉の揺れる音が、上から聞こえる。
ここにいると、遠くまで見える。それだけで、少し楽になる気がした。
そのまましばらく、風の音を聞いていると、遠くから足音が重なって聞こえてきた。
レオンハルトの腕の中で、私はそちらを見る。レオンハルトも、同じ方を見ていた。
砂利を踏む音。
それから、少し急いだ足取り。
「遅くなった。」
聞き慣れた声だった。
黒い外套を着たお父様が、先に歩いてくる。その少し後ろで、お母様が歩いていた。長い移動のあとみたいに、二人とも少しだけ疲れた顔をしている。
「……お父様。」
声に出すと、胸の重たさが、すっと軽くなった。
「待たせたな。」
そう言って、お父様は私の方へ手を伸ばした。
レオンハルトは何も言わず、静かにわたしを下ろす。
次の瞬間、少し高い位置から声がした。
「エミリア、こんなところにいたのか。」
振り返ると、お兄様が立っていた。
「ハインツお兄様!」
私よりずっと背が高くて、でも笑うと少しだけ子どもみたいな顔になる。
「一緒にお茶を飲めなくて、すまなかった。」
「……忙しかったんでしょう。」
そう言うと、お兄様は少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「よく分かってるな。」
お母様が、わたしの前にしゃがみ込む。
「寂しかった?」
少し考えてから、私はうなずいた。
「少しだけ。」
「そう。」
お母様はそう言って、私の髪をなでた。その手は、あたたかい。
「帰ろうか。」
お父様が言う。
「今日は、宮廷に戻る日だ。」
その言葉を聞いて、私はうなずいた。
お父様とお母様の間に挟まれて、歩き出す。後ろから、お兄様の足音がついてくる。
門の方へ向かう途中、レオンハルトが少し離れたところを歩いていた。
振り返ると、目が合って、軽くうなずかれる。
馬車に乗り込むと、さっきよりも揺れが小さく感じた。
私は、この世界しか知らない。この日常が、ずっと続いていくものだと思っている。
だから知らない。
かつて、すべてが失われるはずだったこと。
誰かが、その運命を変えて、守ったことも。
ただ知っているのは――
大好きな人たちに囲まれて、私はいま、ちゃんと幸せだということ。
だから今日も、私たちは当たり前のように、宮廷へ帰る。




