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エピローグ



 ミーナの歩く音は、いつも小さい。


 石の床を踏んでいるはずなのに、聞こえるのは服のすれる音くらいで、私はそれが少し不思議だと思っている。私が歩くと、どうしても靴の音が出てしまうのに。



「お嬢様、こちらですよ。」



 そう言われて、私は少しだけ歩く速さをゆるめた。今日は帰る日だった。


 ヴァレンシュタインのお邸は、見上げるほど大きく、天井が高い。声を出すと、少し遅れて返ってくるくらいだ。嫌いではないけれど、長くいると、なんだか落ち着かない気分になる。


 使用人たちに見送られて馬車に乗ると、道の揺れが一定で、少し眠くなってくる。


 窓の外では石の色が、少しずつ変わっていく。



「もうすぐですよ。」



 ミーナがそう言った時、馬車はゆっくりとスピードを落とし、見慣れた門へと入っていく。


 窓の外を覗き込むと、いつもと同じように眉間にしわを寄せて、のっそりと立っているブルーノの姿が見えた。



「お帰りなさいませ、お嬢様。」



 小さく手を振り返すと、満足そうに頷いて、また門の正面を向いてしまった。


 馬車はそのまま、敷地の中をゆっくり進んでいき、邸の入り口の前で止まった。



「お疲れでしょう、お嬢様。お荷物をお持ちします。」



 扉の前で待ち構えていたのはレオンだ。ミーナから荷物を受け取ると、それを脇に抱えて邸の扉を開いた。



「ハンスがお嬢様のために、ケーキを焼いてくれましたよ。良ければそのまま食堂の方へ。」


「わかったわ。ありがとう。」



 レオンにお礼を言って、邸の中へと入る。本当はお兄様も一緒に食べたかったけれど、最近は忙しそうでなかなか午後のティータイムを過ごせていない。



「お、帰ってきましたね。オジョーサマ!今日はレモンケーキですよ!」



 ちょうど厨房から出てきたハンスは、私を見ると、いたずらが成功したような得意げな顔をして、焼きあがったケーキを持ち上げた。


 私は「手を洗ってくる」と言って、食堂とは反対の方向へ進む。


 誰もいない廊下を、一人で歩いた。


 人が少ないこの邸は、ヴァレンシュタインのお邸よりも静かだ。時々、少し冷たく感じることもあるけれど――、それでも、私はこの邸の方が好きだった。









 廊下を曲がると、奥に続く扉があった。


 私はそこを押して、外へ出る。庭は昼の光に満ちていて、さっきまでの静けさが、少しだけやわらいだ気がした。


 風が吹いて、木の葉が揺れる。小さな花が、足元に咲いている。



 本当は――、お父様とお母様も、それからお兄様も……。一緒に来られたらよかったのに。



 みんな、今日は来られない、と言っていた。理由は、ちゃんとは分からない。ただ、「あとで迎えに行く」と言われただけだ。


 私は庭の端にある石の縁に腰を下ろした。草を一本、指でつまんでみる。思ったよりも、すぐに切れてしまった。


 胸のあたりが、少しだけ重たい。どうして重たいのかは、上手く言えない。



「お嬢様。」



 呼ばれて顔を上げると、そこにいたのはレオンハルトだった。


 いつも通りの立ち姿で、影が長く伸びている。



「ここにいらしたのですね。」


「……うん。」



 それだけ答えると、レオンハルトは何も聞かずに近づいてきた。



「立てますか。」



 私がうなずくより先に、身体がふわりと浮いた。レオンハルトが、私を抱き上げたのだ。


 急に、目の高さが変わる。

 

 さっきまで見えなかった庭の奥まで、よく見えた。



「ほら。ご覧になってください。」



 短く、そう言われる。


 風が、少しだけ強くなった。葉の揺れる音が、上から聞こえる。


 ここにいると、遠くまで見える。それだけで、少し楽になる気がした。


 そのまましばらく、風の音を聞いていると、遠くから足音が重なって聞こえてきた。


 レオンハルトの腕の中で、私はそちらを見る。レオンハルトも、同じ方を見ていた。


 砂利を踏む音。


 それから、少し急いだ足取り。



「遅くなった。」



 聞き慣れた声だった。


 黒い外套を着たお父様が、先に歩いてくる。その少し後ろで、お母様が歩いていた。長い移動のあとみたいに、二人とも少しだけ疲れた顔をしている。



「……お父様。」



 声に出すと、胸の重たさが、すっと軽くなった。



「待たせたな。」



 そう言って、お父様は私の方へ手を伸ばした。


 レオンハルトは何も言わず、静かにわたしを下ろす。


 次の瞬間、少し高い位置から声がした。



「エミリア、こんなところにいたのか。」



 振り返ると、お兄様が立っていた。



「ハインツお兄様!」



 私よりずっと背が高くて、でも笑うと少しだけ子どもみたいな顔になる。



「一緒にお茶を飲めなくて、すまなかった。」


「……忙しかったんでしょう。」



 そう言うと、お兄様は少しだけ目を丸くして、それから笑った。



「よく分かってるな。」



 お母様が、わたしの前にしゃがみ込む。



「寂しかった?」



 少し考えてから、私はうなずいた。



「少しだけ。」


「そう。」



 お母様はそう言って、私の髪をなでた。その手は、あたたかい。



「帰ろうか。」



 お父様が言う。



「今日は、宮廷に戻る日だ。」



 その言葉を聞いて、私はうなずいた。


 お父様とお母様の間に挟まれて、歩き出す。後ろから、お兄様の足音がついてくる。


 門の方へ向かう途中、レオンハルトが少し離れたところを歩いていた。

 

 振り返ると、目が合って、軽くうなずかれる。


 馬車に乗り込むと、さっきよりも揺れが小さく感じた。


 私は、この世界しか知らない。この日常が、ずっと続いていくものだと思っている。




 だから知らない。


 かつて、すべてが失われるはずだったこと。


 誰かが、その運命を変えて、守ったことも。


 ただ知っているのは――


 大好きな人たちに囲まれて、私はいま、ちゃんと幸せだということ。


 だから今日も、私たちは当たり前のように、宮廷へ帰る。





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