6.
ふと、誰かの声がして、私は現実へ引き戻された。
「アンネリーゼ様?」
隣を見ると、ミーナとフリーデが気づかわし気に私を見ていた。
どうやら控室の扉の前で動きを止めた私を心配してくれたようだ。
問題ないと笑顔で返し、私は小さく息を吐いた。
――もう、迷いはない。
今の私は、過去でも物語でもない。
この場所に立ち、この日を迎えた、アンネリーゼ・フォン・ローゼンベルクだ。
控室に入ると、私を支えてくれた大切な友人たちの姿があった。なかには学院を卒業してから久しぶりに会う人たちもいる。
「まあ……。素敵よアンネリーゼ!!」
「ありがとう。」
一番に声を掛けてくれたのはリディアだ。私が視線を向けると、彼女はこちらに駆け寄り、そっと抱きしめてくれた。
逆行前の人生では出会えなかった、大切な親友。皇太子妃として周りから距離を置かれていた私に臆さず、ずっとそばにいてくれた。
抱きしめ返すと、リディアは薄く微笑み、更に後ろに立つソフィエを振り返った。
「ほら、ソフィエも!」
「……まったく。はしゃぎすぎよ。」
声を掛けられたソフィエは、苦笑いしながらリディアを軽くあしらうと、同じように私を抱きしめてくれた。
「しばらく見ない間に痩せたんじゃありませんか、皇太子妃?」
からかうようなソフィエの声に、私は思わず笑った。
「気のせいよ。」
「そう言う人ほど無理をしているものです。」
そんなやり取りを、どこか楽しそうに聞いていたエミールが、ひょいと間に入ってくる。
「はいはい、そこまでそこまで~。今日は久しぶりに会えたんだから、もっと明るくいこうよ。」
相変わらず軽い調子で、場の空気をふわりと緩める。
「それにさ、アンネリーゼはこうしてちゃんと立ってるんだから。それだけで十分すごいと思うけどなぁ。」
冗談めかした口調なのに、妙に核心を突かれて、私は一瞬言葉を失った。
「……ありがとう、エミール。」
「どういたしまして~。」
彼は何でもないことのように肩をすくめる。
学院にいた頃から変わらない。
深く踏み込みすぎず、けれど大事なところはきちんと外さない――そんな距離感。
そのとき、控室の扉が控えめに叩かれた。
「……?どうぞ。」
「失礼します。」
顔を出した青年を見て、私は思わず目を見開いた。
「カイ?」
「お久しぶりです、アンネリーゼ先輩。」
少し緊張した面持ちで、けれど真っすぐな視線。
彼は一歩進み出て、深く頭を下げた。
「この春で学院を卒業します。それから――宮廷文官として働くことになりました。」
「えっ?」
思わずリディアが声を上げ、ソフィエが小さく息を呑む。
「平民で、それは……。」
「異例だねぇ。」
エミールが感心したように呟く。
「ユリウス様と、ノルトハイム公の推薦だそうです。」
そう前置きしてから、カイははっきりと私を見た。
「でも、その縁を繋いでくださったのは、アンネリーゼ先輩です。本当に、感謝しています。
……すみません、こんな場で。でも、どうしても、僕の口から直接伝えたくて。」
私は静かに首を振った。
「私も何もしてないわ。胸を張って。」
その言葉に、カイは少しだけ照れたように笑った。
久しぶりの再会に言葉を探していると、控室の外から控えめなノック音が聞こえた。
その音に、真っ先に反応したのはフリーデだった。
「アンネリーゼ様。」
彼女は扉の外を確認すると、一歩下がって頭を下げ、静かな声で告げる。
「ノルトハイム家のユリウス様がお見えです。少しばかりお時間を頂きたいとのことですが……。」
一瞬、視線がこちらへ向く。
判断を委ねるような、しかし一切の迷いのない眼差し。
「大丈夫よ。入ってもらって。」
そう答えると、フリーデは一礼し、扉のほうへ向き直った。
重厚な扉が静かに開き、ユリウスが中へ入ってくる。
彼は室内へ足を踏み入れると、まず私に向かって丁寧に一礼した。
「お忙しいところ、失礼いたします。皇太子妃殿下。」
「構いません。どうぞ。」
形式的なやり取りを終えてから、ユリウスは視線を移し、部屋の奥に立っていた人物を捉えた。
「――いたな。」
低く、落ち着いた声。名を呼ばれるより先に、カイが背筋を伸ばす。
「ユリウス様。」
「堅くなるな。今日は祝宴だ。」
そう言いながらも、ユリウスの視線は鋭く、しかしどこか温度を帯びていた。
「せっかく多くの貴族が集まっている。顔を覚えてもらうには、これ以上ない機会だ。」
「……ですが。」
「遠慮する理由はないだろう。」
カイは一瞬だけ迷うように視線を伏せ、それから私のほうを見た。
「アンネリーゼ先輩、よろしいでしょうか。」
「ええ、もちろんよ。行ってらっしゃい。」
そう答えると、カイは一歩進み、深く一礼した。
「ここまで来られたのは、アンネリーゼ先輩のおかげです。本当に……ありがとうございました。」
その言葉に、胸の奥が静かに温かくなる。
「あなたが自分で掴んだ道よ。」
「それでも、です。」
そう言い切ってから、カイはユリウスと並び、控室を後にした。
扉が閉まると、残された私たちは自然と息を吐いた。
「……立派になったわね。」
リディアが感慨深そうに呟く。
「ええ。顔つきが違う。」
ソフィエも頷いた。
その様子を見ながら、私はふと、お父様のことを思い出していた。
裁判の後、お父様は宰相の座へ復帰した。それは多くの者にとって、驚きよりも安堵の知らせだった。
かつての人望と実績。帝国を揺るがす混乱の中で、彼の存在は確かな支えとなっていた。
けれど、すべてが歓迎一色だったわけではない。
表立って反対の声を上げる者はいなくとも、宮廷の水面下では、複雑な思惑が交錯していた。
――それでもお父様は、長く留まるつもりはなかった。
ハイデンライヒ陛下が、ディートヘルムへ皇位を譲る。その時を、自らの退き際と定めていたのだ。
本来ならば、お兄様がもっと経験を積むまで、宰相として支えるつもりだったのだろう。けれどお父様は、あえて早く身を引く道を選んだ。
後任として名が挙がったのは、ヴァレンシュタイン家のゲオルク様。
実務に長け、派閥に偏らず、今の帝国には最も適した人物だと、多くが認めている。
その先――、次代の宰相候補として囁かれているのは、お兄様か、あるいはユリウス。
だからこそ、先ほどの彼の背中には、どこか割り切れないものが滲んでいたのだろう。
「……政治の話は、今日には似合わないわね。」
エミールが空気を読んだように言って、軽く笑った。
「せっかくの晴れの日だもんね~!」
「そうね。」
私は頷き、控室を見渡した。
ここにいるのは、私が選び、私を選んでくれた人たち。前世では決して手に入らなかった時間と関係。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
――けれど、それと同時に。
遠くから、鐘の音が微かに聞こえた。
式の刻限が、もうすぐそこまで来ている合図だ。誰かが息を整え、誰かが背筋を正す気配が伝わる。私自身も、無意識に指先へ力を込めていた。
控室の中に、わずかな緊張が走った。
それは音ではなく、気配だった。
扉の向こうに立つ存在を察して、ミーナが静かに一歩前へ出る。
「アンネリーゼ様。」
彼女は控えめに声を落とし、しかしはっきりと告げた。
「皇太子殿下がお迎えにいらっしゃいました。」
その言葉に、胸の奥がすっと静まるのを感じた。ざわついていた思考が、すべて元の位置に収まっていく。
「……ええ。通して。」
ミーナが一礼し、扉を開く。
そこに立っていたのは、ディートヘルムだった。
式服に身を包んだ姿は、いつも以上に凛としていて、王太子としての威厳を隠しもしない。
けれど、その視線が私を捉えた瞬間、わずかに緊張が緩むのが分かった。
彼はまず、室内にいる友人たちへ簡潔に一礼した。
「今日は、ありがとう。」
多くを語らないその一言に、リディアたちがそれぞれ微笑み、道を譲る。
そして、私の前で足を止めた。
一瞬、言葉がなかった。
ただ、視線だけが交わる。
その空気を最初に察したのは、リディアだった。
「……じゃあ、私たちはここまでね。」
わざと明るい声でそう言い、ソフィエとエミールに視線を送る。
「そうね。これ以上は、野暮というものだわ。」
ソフィエが小さく肩をすくめる。
「主役の時間を邪魔しちゃだめだよね~。」
エミールも軽く笑いながら同意し、三人は揃って一礼した。
「お幸せに、アンネリーゼ。」
「……ありがとう。」
扉が閉まり、控室に残ったのは、私とディートヘルム、それから少し離れた位置で控えるミーナとフリーデだけだった。
フリーデは一歩下がり、静かに言う。
「お時間になりましたら、お声がけいたします。」
「ええ。」
それを合図に、二人も控室を出ていった。
扉が閉まり、完全に二人きりになる。
急に、空気が柔らいだ。
「……行く前に、少しだけ。」
ディートヘルムがそう言って、私の前に立つ。
控室という狭い空間で、彼との距離が自然と縮まる。
「緊張している?」
「いいえ……不思議と、落ち着いてるわ。」
本当だった。
裁判のときよりも、告白のときよりも、今が一番静かだ。
「君は、強いな。」
「そう見えるだけです。」
そう返すと、彼はわずかに苦笑した。
「それでも、君はここまで来た。」
私の視線が、彼の胸元へ落ちる。
式服の下で、彼の心臓が確かに生きているのが分かる気がした。
「……ねえ、ディートヘルム。」
「なんだ。」
「手を、貸してもらえる?」
彼は何も言わず、静かに手を差し出した。
私はその手を取り、少しだけ指に力を込める。
「大丈夫。」
言い聞かせるようなその言葉に、彼の親指が、私の手の甲をなぞった。
「それは、君が自分に言っているのか。」
「……両方、です。」
一瞬、彼の表情が柔らぐ。
「なら、俺はそばにいる。」
約束の言葉ではない。
それでも、何より確かな宣言だった。
「離れない。」
私は小さく息を吸って、顔を上げる。
「……はい。」
彼の手は、強くも弱くもなく、ちょうどいい力で私を支えていた。
不安を消すためではない。共に歩くための、距離。
「行こうか。」
「ええ。」
その言葉に、もう迷いはなかった。
この人となら、どんな未来でも歩いていける。
そう、静かに確信していた。
もう過去に引き戻されることはない。
もう、この先を一人で歩く必要もない。
私は、この世界で生きていく。
アンネリーゼ・フォン・ローゼンベルクとして。
そして――彼と共に。




