5.
裁判が終わった日の夜、皇都は異様な静けさに包まれていた。ただ――すべてが終わったという事実だけが、重く街に沈んでいる。
私はローゼンベルク家の自室で、一人きりで窓の外を眺めていた。灯りの落ちた街並みは、まるで何事もなかったかのように穏やかで、その落ち着きが、かえって現実感を遠ざける。
――生きている。
何度そう言い聞かせても、胸の奥に実感は落ちてこなかった。
前世で私は、何も知らないまま処刑された。お父様の事も、お兄様の事も、そしてディートヘルムの真意も――何ひとつ知らないまま。
私の人生は、「国家反逆者」として終わった。
あの冷たい石の感触。視線を上げることも許されず、弁明の機会すら与えられなかった、あの瞬間。
けれど私は、運命を変えた。家族を、仲間たちを、そして――愛する人を信じて、ここまで来た。
それは、アンネリーゼとしての記憶だけでなく、桐原杏奈としての記憶のおかげでもある。
すべてが終わった今、心は不思議なほど静まり返っていた。
――彼に、本当のことを話さなければ。
その夜、私は短い手紙を書いた。
すべてを綴ることはできなかった。ただ、「直接お話ししたい」という一文だけを残して。
◇
【皇都宮廷・皇太子執務室】
手紙を送った翌日、私は返事を待たずにディートヘルムの元を訪れた。
皇都は久しぶりに穏やかな陽射しに包まれていた。裁判の余波が消えたわけではない。それでも、人々は日常へ戻ろうとしている。
私は外套を整え、宮廷へ向かった。
返事を待たなかったことに、迷いがなかったわけではない。けれど、この気持ちを胸に抱えたまま、さらに時間を重ねることはできなかった。
昼の宮廷は、夜とは違う顔をしている。
人の気配があり、陽光が差し込み、それでもどこか張りつめた空気が残っていた。
彼の執務室の前で、私は一度だけ足を止め、深く息を吸う。
扉を叩くと、すぐに返事があった。
「……どうぞ。」
中へ入ると、ディートヘルムは書卓から顔を上げ、私を見るなり、わずかに表情を和らげた。
「アンネリーゼ。手紙は受け取っている。」
責めるでもなく、ただ静かに。
「今日でなくてもよかった。君は、十分すぎるほど――。」
「分かってる。」
私は彼の言葉を遮るように、けれど穏やかに答えた。
「それでも、今お話ししたいの。時間を置いてしまうと……。私はまた、言葉を選んでしまう気がするから。」
沈黙し、従い、それが最善だと信じていた過去が、胸の奥をかすめた。
ディートヘルムはしばらく私を見つめ、そして、ゆっくりと頷いた。
「……君が、そこまで言うのなら。」
椅子を勧める仕草は、いつもと変わらない。その変わらなさに、胸の奥が少しだけ緩んだ。
私は腰を下ろし、両手を重ねる。
「これからお話しすることは、きっと信じがたいことだと思う。」
逃げるつもりはなかった。
「けれど――あなたにだけは、知っていてほしい真実なの。」
しばしの、沈黙。
ディートヘルムは、すでに察していたかのように言った。
「逆行の記憶だけではない、ということだろう。」
否定も、驚きもない。その静かな声音が、覚悟を後押しした。
「……私は、この世界の人間ではありません。」
胸の奥がひりつく。
「前世での私は、桐原杏奈という名の編集者だった。物語を外から見つめ、整える側の人間。」
彼の視線が、初めて揺れた。
「この世界は……私にとって“物語”だった。あなたも、私も、リアナも。すべてが、書かれた運命の中にあった存在。」
残酷な告白だと分かっていた。それでも、目を逸らさなかった。
「私はその結末を知っていた。ローゼンベルク家は断罪され、私は処刑される。でも、知らないこともあった。私の処刑の後、貴方やこの帝国がどうなったのか。それは、”物語”にも書かれていなかったから。」
沈黙が深まる。
それでも、彼は怒らなかった。
「だから私は、変えようとしたの。物語の筋書きではなく、ここに生きる人たちを。」
私は、彼を見つめる。
「けれど――誤解しないでほしい。」
そっと、胸に手を当てた。
「桐原杏奈の記憶があるからといって、私はアンネリーゼではない何かになったわけではない。」
言葉を、噛みしめるように続ける。
「逆行前のアンネリーゼが感じた恐怖も、悔しさも、家族を想う気持ちも、確かに私の中にある。
そこへ、編集者としての視点が重なった。二つは対立したのではなく、溶け合ったの。」
私は、微かに笑った。
「どちらかが消えたわけではない。二つが重なって、今の私になったの。」
彼を、まっすぐに見据える。
「あなたの前にいるのは、物語の外から来た誰かではなく――。
アンネリーゼ・フォン・ローゼンベルクです。」
短い沈黙のあと、ディートヘルムは立ち上がり、私の前に来た。
「君は、この世界が虚構だと知りながら、それでもここで生きることに一度も迷わなかった。」
「はい。」
「それは、王妃として生きる覚悟でもある。」
私は、迷わず頷いた。
彼は、私の手を取る。
「ならば私は、君を伴侶として迎えよう。」
それは皇太子としての言葉ではなく、一人の男としての選択だった。
「物語ではなく、人生として。君と共に、この先を生きる。」
その言葉に、私は初めて、心から息をついた。
――ここが、私の居場所だ。




