4.
白い布が、静かに音を立てた。
ミーナが背後で留め具を整えるたび、ドレスは少しずつ私の身体に馴染んでいく。鏡の中に映る私は、見慣れたはずの自分でありながら、どこか別人のようにも見えた。
――結婚式の日なのだ。
そう理解しているのに、胸の奥は不思議なほど静かだった。高鳴りよりも先に訪れたのは、長い戦いを終えた後の、深い息のような安堵だったのかもしれない。
裁判が終わってから、何度目かの春がやってきた。
それでもあの法廷の冷たい空気、交わされた言葉の重さ、真実が白日の下に晒された瞬間のざわめき。思い出そうとすれば、今でも鮮明によみがえる。それでも、今日はそれらが遠い出来事のように感じられた。
「……お母様。」
ふと、目に留まった髪飾りの存在に、私は小さく息を吸う。
誕生日にもらった、母が遺してくれたものだ。
鏡の中の自分の面差しのどこかに、肖像画でしか見たことのない亡き母エリーザの影を探す癖は、今も抜けていなかった。
もし、この姿を見たら。
もし、ここに立つ私を見たら――、何と言っただろう。
少し困ったように笑って、「似合っているわ」と言ってくれただろうか。祝福の言葉よりも先に、娘の姿を確かめるように。
私はそっと目を閉じ、胸の内でその声をなぞる。もう届かないと分かっていても、今日は、どうしても聞きたかった。
思えば――お兄様との確執も、あの髪飾りから始まっていた。
母の形見であるそれを巡る、些細な誤解。けれど、それに気づけなかったのは、当時の私自身だった。
前の人生では、そのまま何も言えず、何も確かめぬまま――。
だから今回は、逃げなかった。言葉にして、向き合って、誤解を解いた。
――そして今。
「……母上もきっと喜んでいる。」
背後からかけられたお兄様の声に、胸の奥が静かにほどける。
振り返ると、お兄様の視線は、私の髪飾りに向けられていた。
「……きれいだな、アンネリーゼ。」
不意に落とされたその言葉に、思わず息が詰まる。
「――断りもなく花嫁の部屋に入るなんて、無礼ですよ。」
そう言いながら、声は自然と小さくなった。
責めるふりをした、その奥で、確かに私は笑っていた。
――やり直せて、よかった。この人と、兄妹として。
「お父様はどちらに?それに、曾お祖父様も……。」
お兄様の後ろを確認するが、そこには誰も立っていなかった。
「父上は、陛下と最後の打ち合わせだ。形式上は今日で一区切りだからな。
曾祖父上は……さっきまでここにいらしたよ。お前の姿を見て、満足そうに戻られた。」
「そう……。」
胸の奥で、小さく息をつく。
曾お祖父様は、きっと私の姿を――かつてのお母様と、重ね合わせていたのだろう。
言葉にせずとも、それで十分だった。
「失礼いたします。アンネリーゼ様、ご友人たちがいらっしゃってますよ。」
フリーデの声に、私はお兄様を見上げた。行ってこいと背中を押すように小さく頷き返してくれる。
あの扉の向こうにいる人たちとも、私は――かつてとは違う関係になった。
私は胸の奥で、そっと息を整えた。
戻れない時間の上に、積み重ね直した関係が、今の私を支えている。
◇
あの裁判から数日後、帝国より正式にコンラートの処刑が言い渡された。その知らせは、驚くほど静かに、そして淡々と伝えられた。
あの場で明らかになった真実のすべてが、人々の前に語られたわけではない。
偽りの神託の存在と、その操作の全容は厳重な緘口令のもとに伏せられ、国民に知らされたのは、ただ一つ――ローゼンベルク家に下された神託のみが虚偽であり、それを用いて皇帝陛下を、そして帝国そのものを欺こうとした者がいた、という事実だけだった。
神の名を借りて人を操り、秩序を揺るがそうとした男として、彼は歴史に名を残すことになる。
すべてを明かさなかったことに、迷いがなかったわけではない。けれど裁判が終わったあの日、私は理解していた。真実を語ることと、人々を守ることは、必ずしも同じではないのだと。
【皇都・サンクタ・アウレア大聖堂】
「……本当に行ってしまわれるのですね。」
旅立ちの日、皇都の空は雲一つなく穏やかだった。見送りに集まったのは、ほんのわずかな人だけ。
それでもリアナは、誰よりも穏やかな顔で笑っていた。
「これで、やっと普通の人生を歩けます。」
裁判の後、帝国と神殿会は一つの結論を選んだ。それは、真実をすべて語ることではなく、信仰を壊さないことだった。
神託が人の手によって操作されていた以上、もはや奇跡をそのまま信じることはできない。だからこそ、「神の御心は怒り、聖女の力は失われた」――そう語られることになった。
神殿会は、これまでの在り方を改めた。聖女の力にすがるのではなく、彼女たちが遺した言葉や祈りを、神意の象徴として編み直していく。神託の代わりに、解釈と対話が求められる時代が始まった。
私が何も返せずにいると、リアナは少しだけ視線を伏せ、それから穏やかに続けた。
「マティアス大司教は……これからの神殿会は、聖女の力に寄りかかる場所ではなくなる、と仰っていました。」
彼女は、大聖堂の高い天井を仰ぐようにして、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「神託があったから信じるのではなく、人が祈り、考え、選び続けることそのものが、神に向き合う姿なのだと。」
その声には、かつて人々の期待を背負っていた頃の張りつめた響きはなかった。
「だから、これまで聖女が遺してきた言葉や祈りは、神の御心を示す“答え”ではなく、迷ったときに立ち返る“道しるべ”として、大切にしていくそうです。」
リアナは小さく笑った。
「奇跡を示すことはできなくても……それでも、人が神を求める気持ちまで、否定する必要はないのだと。」
そう言ってから、彼女は一歩、私の前に立った。そして、ためらいもなく、深く頭を下げる。
「アンネリーゼ様。本当に、ありがとうございました。」
突然のことに、思わず息をのむ。リアナは、私が何をしたのかを、すべて知っているわけではない。
それでも――聖女であり続けた先に、今の自分はいなかったのだと、彼女なりに感じ取っているのだろう。
「あなたのおかげで、私は……自分の足で、ここに立っています。」
その言葉は、私の胸の奥に、静かに沈んでいった。逆行前の記憶も、かつて別の世界で物語を紡いでいた時間も、彼女は知らない。けれど、そのすべてが、この瞬間に繋がっているのだと、私は確かに感じていた。
「どうか、幸せになってください。」
そう告げると、リアナはようやく顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
そのとき、遠くから、リディアたちがリアナの名を呼ぶ声が聞こえてくる。
「……呼ばれているみたいですね。」
リアナは名残惜しそうに振り返り、それから軽く手を振って、彼女たちのほうへと向かっていった。
リアナはリディアたちに呼び止められ、少し離れた場所で言葉を交わしていた。その間に、ノエルは私たちのほうへと歩み寄ってくる。
人目を気にするような仕草はなかったが、声は自然と低く抑えられていた。
「……見送りに来てくれて、ありがとう。」
それは聖女の付き人としての言葉ではない。長い間、秘密を抱えて生きてきた、もう一人の皇太子アレクシス、そして兄としての言葉だった。
「当たり前だろう。」
ディートヘルムは短く答えた。
周囲から見れば、ただの知人同士の会話にしか聞こえないはずだ。
「俺はまだ、何も成し遂げていない。だが――貴方が手放した場所を、無駄にはしない。」
ノエルはわずかに目を細めた。それから、彼は私のほうを見た。
「アンネリーゼ。君の協力がなければ、この未来は起こりえなかった。本当に感謝している。」
突然向けられた言葉に、胸が少しだけ詰まる。
「……それでも、全部を救えたわけではありません。」
そう答えると、ノエルは小さく首を振った。
「救いきれないものがあるからこそ、人は選ぶ。君は、最善を選んだ。」
ディートヘルムが一歩、前に出る。
「もう、“ノエル”のままなんだな?」
一瞬だけ、ノエルは言葉を探すように視線を伏せ――それから、はっきりと頷いた。
「ああ。俺は冴えない聖女の付き人だ。」
遠くで、リアナの笑い声が聞こえた。それは、聖女のものではない、ただの少女の声だった。
「行こう。」
ノエルはそう言って、踵を返す。
「……また会えるか?」
ディートヘルムの問いに、ノエルは振り返らなかった。
◇
【グラウヴァルト帝国・中央学院大講堂】
リアナたちを見送ってから、季節が一つ巡った。
皇都の街路樹は淡い緑に包まれ、中央学院にも、卒業の時が訪れていた。
式は、思っていたよりも簡素だった。かつては神託や祝詞が添えられることもあったというが、この年は、静かな祈りだけが捧げられた。
それでも、不思議と不足は感じなかった。学び舎を巣立つという事実そのものが、十分に重みを持っていたからだ。
リディアたちと並んで立ち、私は学院長の言葉に耳を傾けていた。未来を約束する言葉ではなく、自ら選び、責任を負うことの意味を語る、短い訓辞。
その内容が、今の時代にふさわしいものだと、自然に思えた。
式の後、中庭で友人たちと言葉を交わす。先に口を開いたのは、リディアだった。
「私、中央歴史研究所に進むことにしたの。」
少し照れたように笑う彼女の目は、けれど迷いがなかった。兄の背を追うように選んだ道――それだけではない。
あの時、リアナと入れ替わり、神殿会の奥深くに触れた経験が、彼女の視線を過去へと向けさせたのだ。
「神託も、歴史も……知れば知るほど、人の手で紡がれてきたものだって分かるの。だから、ちゃんと記録として残したいのよ。」
その言葉に、私は静かに頷いた。
エミールは相変わらず軽い調子で、
「僕は音楽の道だよ~。」と言った。
皇都の楽団に所属することを打診されたが断ってしまったらしい。
貴族出身の音楽家の道は、おおよそ宮廷楽団へと決まっている。しかし彼の性格上、もっと自由に音楽と触れ合える環境の方が良いのかもしれない。
「いろんな国や、地域で面白い音に出会えるといいなぁ。」
そう言って笑うエミールの横で、彼らしい選択だなと私は微笑み返した。
ソフィエは、少しだけ間を置いてから告げた。
「私は、外務局に行く。」
学園に入った頃の彼女を知っている身としては、意外な答えだった。帝国式の堅苦しさを嫌い、型破りな言動で周囲を振り回していた、あのソフィエが。
けれど、裁判の準備で彼女と肩を並べた時間を思い返せば、納得もできる。
感情に流されず、必要な情報を拾い上げ、時には誰も言えないことを口にできる勇気を持っている。
彼女との出会いからは想像もしてなかったが、気づけば、私が最も信頼する一人になっていた。
「正式な外交官じゃないわ。補佐官。現場に呼ばれたら、行く役。」
そう言って笑う顔は、前と変わらず自由で、少し挑戦的だった。
「型に嵌るつもりはないの。でも、誰かが言わなきゃいけないことは、言う役目も必要でしょ?」
皆がそれぞれの未来を語る中で、私はすでに、自分の答えを持っていた。
それは、この場所で初めて得たものではない。裁判が終わった、あの夜――。
ディートヘルムと向き合い、すべてを話した時から。




