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 お兄様と少し距離が縮まったように感じたのは、私だけではなかったらしく、お兄様からも時々話しかけてくれるようになった。


 一方で、私が皇都へと移る日が刻々と迫っていた。


 領地で過ごす日々は、これまでの孤独を思えば夢のようだった。朝にはミーナが淹れてくれる温かな紅茶があり、昼には庭を歩くと季節の草花が香り立ち、夜にはお兄様と何気ない挨拶を交わせるようになっていた。それだけのことが、どれほど胸に沁みたか——過去を思えば、なおさらだった。


 けれど、夢の時間は長くは続かない。皇都へ行けば、また新たな人間関係の中に放り込まれる。お父様との再会も、今の私にはまだ想像がつかなかった。


 そんなある日の午後、前庭で馬の世話をしていたお兄様が、ふと私を見つけて手を振ってくれた。



「引っ越しの準備、進んでるか?」


「……はい。必要なものはミーナが揃えてくれているから。」


「皇都の生活は窮屈かもしれないけど、無理はするな。困ったら、すぐに文をよこせ。」



 素っ気なくも優しい言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。今の私なら、少しだけ素直に、気持ちを返せる気がした。



「ありがとう。お兄様も、どうかお体に気をつけて。」


「……ああ。剣の稽古でもしながら、ちゃんと待ってる。」



 小さく笑ったお兄様の横顔を、私は目に焼き付けた。


 そして数日後、引っ越しの日の朝がやってきた。荷馬車に荷物を積み込み、門前には馬車が用意されている。ミーナとテオドールが手早く準備を進めるなか、私は一度だけ、館の方を振り返った。


 この家には、ようやく少しだけ「家族」が戻ってきた気がする。けれど、私の旅はまだ始まったばかりだ。揺れる馬車の中、窓越しに遠ざかるローゼンベルクの景色を見ながら、私は静かに息をついた。


 皇都には、真実がある。そう信じている自分がいた。



「お嬢様?あの、ちょっと顔が青いような……無理しないでくださいね、すぐに止めてもらえますから!」



 もしかしたら顔が強張っていたのかもしれない。最近ミーナには心配ばかりかけている気がする。



「大丈夫よ。ミーナこそ、昨日はあまり眠れていないんじゃない?」



 私を気遣う彼女の眼の下には薄っすら隈が残っていた。気丈に振舞っているが、ミーナだってまだ16歳だ。家族と離れて侍女見習いとして私と一緒に皇都へ来る決断は簡単にできることじゃない。幼いころからずっと一緒にいるミーナは、私のとって心のよりどころだ。ミーナもまた、私のことをメイドとして仕える以上に最大の信頼をもって接してくれているはずだ。



「私は平気です!皇都に行くのは初めてなので、少し緊張してしまって…。でも、楽しみな気持ちの方が、うんと強いですから!」



 そう言って、ミーナは事前に下調べしたという皇都の市街地の話をしてくれた。ローゼンベルク領にはまだない新作のスイーツの話や、流行の洋服など、長旅の間私を楽しませてくれたのだった。





  【皇都・侯爵家別邸】



 到着した皇都の別邸は、領地の本邸に比べてやや簡素だが、それでも侯爵家の威厳を損なうものではなかった。半円形の中庭には馬車が三台並んで止まれる広い車寄せがあり、石畳の上を蹄の音が心地よく反響する。私たちの乗ってきた馬車のほかに、荷馬車が二台ほどついてきていたが特に心配の必要はなかったらしい。


 馬車の車輪が砂利道を踏みしめ、重々しい音を立てて止まった。扉が開けられ、外の冷たい空気が入り込むと同時に、私は軽く息をのんだ。


 ———お父様の姿は、ない。



「ようこそ、ローゼンベルク家皇都別邸へ。」



 抑揚のない声がそう告げた。黒髪を後ろに撫でつけたその人物が、この別邸の管理を任されている執事 ———オスヴァルト=クレーマー。テオドールよりは二十歳ほどは離れているだろうか。完璧な礼儀と所作。だが、どこか氷のような冷たさがあった。


 なぜだかこの人に関しての記憶があまりない。確か数年前に領地から別邸へと移り住んでいったはず。幼いころは一緒に過ごしたはずだが、あまり印象に残っていない。



「本日より、こちらの屋敷での生活の手配はすべて私が執り行います。ご不便がないよう配慮いたしますので、何なりとお申し付けください。」


「……よろしくお願いします。」



 私は自然と背筋を伸ばし、同じように形式ばった口調で返した。


 心のどこかで期待していたのだ。父がここで待っていてくれるのではないかと。でも、現実は違った。馬車の中で何度も心の準備をしたつもりだったのに、出迎えがなかったことに、胸の奥が少しだけ冷たくなる。



(……やっぱり、距離があるんだ)



 そんな想いが、心にじんわりと滲んだ。



「お部屋にご案内いたします。荷物はこちらで…。」


「お待ちください、お嬢様の身の周りのお世話はあなたの領分ではありませんよ。」



 オスヴァルトの後ろから、冷ややかな声で割って入ったのは侍女長のヘルミーネ=ランツベルクだった。年のころは五十代前半。よく通る声と隙のない身なり、そしてどこか張り詰めた空気をまとった女性だ。領地の本邸にいた頃から、私の侍女たちを束ねていた頼れる存在である。私たちよりも先に皇都入りして準備を整えてくれると言っていたので、姿が見えず気になっていたところだった。


 その瞳が、鋭くオスヴァルトを射抜いていた。表情は柔らかいのに、視線には遠慮がない。オスヴァルトも微かに眉を動かしたが、あくまで涼しい顔のまま一歩下がる。


「もちろん、ヘルミーネ殿。ですが、この屋敷では私がすべてを取り仕切るよう命じられております。念のため、責任の所在は明確にしておきたいだけです。」


 静かな応酬。だが、互いに譲る気のない気配が空気に滲んでいる。私は思わずミーナの袖を握った。彼女はちらりとヘルミーネの方に目をやって、小さく頷いた。



「……では、お嬢様。お部屋へ参りましょう。今日は旅の疲れもあるでしょうし、何より……。」


「お父君がご不在なら、あなたの気持ちを整える時間も必要でしょう?」



 ヘルミーネが私のほうを向いてそっと微笑む。まるで心の奥を見透かされたようだったけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ、少しだけ心がほどける。



「……ありがとうございます、ヘルミーネ。」



 小さな声でそう返すと、彼女はわずかに目を細めて頷いた。


 別邸の石造りの廊下を歩きながら、私は小さく息をつく。お父様がいない寂しさと、それを見抜いてくれる誰かがいるという温かさが、胸の中でせめぎあっていた。


 ——この家で、私はどう振る舞えばいいのだろう。


 そんな思いが、静かに頭をもたげ始めていた。

  








 「ジークベルト様が、本日のお戻りは夕方ごろと仰っていました。ご夕食はご一緒できると思いますよ。」



 ヘルミーネは、部屋へと案内してくれる間に現在の別邸の様子を教えてくれた。



「普段の旦那様は宰相としてのお仕事が忙しく、日中はこの別邸で過ごすことはほとんどありません。夜も遅く帰ってきて軽い食事で済ませ、翌朝も早い時間から宮廷へ出仕してしまいます。」



 それを聞いて、胸の奥がまた少しだけ冷えた気がした。どうやら、お父様とゆっくりお話をできる時間は確保するのは難しそうだ。


 そんな状態のお父様をお世話する使用人も、必要最低限に抑えられているようだった。常駐しているのは、先ほど馬車で通った時に見かけた門番のブルーノと、出仕と帰宅の際にお世話をする小間使いのレオン。人数も少ないので、料理は料理長のハンス一人で切り盛りしているらしい。


 ヘルミーネがこちらに来るまでは、本当にオスヴァルト一人でこの別邸を管理していたようだ。



「レオンは市街地に使いに行っていますので、また後程ご紹介致します。門番のブルーノは、宮廷から新米騎士が派遣されている間は邸に戻ってきますからその時にご挨拶させますね。ハンスは昼食の際に食堂で会うことになりそうです。」



 部屋に着くと、ヘルミーネとミーナが持てる分の最低限の荷物を運びこんだ。残りは帰ってきたレオンとブルーノが後で運んでくれるらしい。


 ひと段落して、ミーナが紅茶をいれてくれる間に、もう少しヘルミーネから話を聞くことにした。



「お父様は、お一人でこちらにいる間侍女は付けていなかったのね。」


「はい、小間使いのレオンが代わりにお世話を申し遣ってとブルーノが後で運んでくれるらしい。



 ひと段落して、ミーナが紅茶をいれてくれる間に、もう少しヘルミーネから話を聞くことにした。



「お父様は、お一人でこちらにいる間、侍女をつけていなかったのね。」


「はい。小間使いのレオンが、代わりにお世話を引き受けておりました。」



 貴族の屋敷で侍女をつけないなど、極めて異例のことだ。それはきっと、お父様がそれほどまでに“人を絞っていた”からに違いない。



(……きっと、お父様なりの配慮なのだ)



 敵味方の見極めが難しいこの皇都では、安易に人を増やすわけにはいかない。そういうことなのだろう。



(お父様は、この頃からすでに何かを疑っていらっしゃったの……?)



 誰を信じ、誰を傍に置くべきか。お父様は慎重に、それを見極めようとしていたのだ。たとえ、それが

――少しの寂しさを伴う選択であっても。



「そういえば……ヘルミーネとミーナ以外に、私の身の回りの侍女はいないのよね?」



 私の問いに、ヘルミーネは小さく頷いた。



「はい。『奥様が信頼を寄せた者だけを、娘の傍に』と……旦那様が。」


「……そうだったの。」



 そんな思いやりがあったなんて、当時は知らなかった。むしろ私は、お父様が自分に関心を向けていないのだと、勝手に心を閉ざしてしまっていた。そういえば以前は、ミーナと二人だけでこの別邸に来ていたはず。なのに今回は、ヘルミーネが共にいてくれる――なぜだろう。



「ヘルミーネは、どうして私に着いてきてくれたの?」


「……もともとは、私が志願したのです。けれど旦那様は、私がこちらへ来ることに反対なさいました。理由はおっしゃいませんでしたが……この別邸の状況を見るに、何かを警戒されていたのは間違いありません。」


「じゃあ、どうして……?」


「ルーカス様が、進言してくださったのです。お嬢様の傍にヘルミーネを、と。」



 ヘルミーネの目が、ふと細められた。その表情はどこか懐かしく、そして温かかった。



(お兄様が……。)


(……少しずつだけど。未来は、確かに変わっている。)



 ミーナが運んでくれた紅茶の湯気が静かに室内へ立ちのぼる。ヘルミーネとミーナは必要以上に口を挟まず、私の考えがまとまるのを静かに待っていてくれている。その沈黙が、ありがたかった。


 私は紅茶のカップに口をつけて、そっと目を閉じる。


 お父様が、敵味方の見極めをしながらこの別邸で暮らしていたこと。お母様の意志を汲み取って、信頼できる侍女だけを私のそばに置いてくれたこと。そして、お兄様が、ヘルミーネを傍にと願ってくれたこと。


 気づかないところで、私はたくさんの想いに守られていた。



(……何も知らないふりをしていたのは、私のほうだったのかもしれない)



 遠くで、鐘の音がかすかに鳴った。皇都の正午を告げる音だ。冷たい石造りの屋敷の中に、その音がくぐもって響いた。



「……お昼の支度を始めましょうか。お嬢様も、少しお召し替えなさってからのほうがよろしいでしょう。」



 ヘルミーネの言葉に、私は小さく頷いた。



「…ええ、そうね。ヘルミーネ、ミーナ、お願い。」


「かしこまりました、お嬢様。」



 そうして私は、立ち上がった。ここから始まる新しい日々が、穏やかなものとは限らない。

 

 でも――もう、ひとりではない。


 この家で、私は過去と向き合いながら、もう一度歩き出す。

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