2.
聖堂内の視線が徐々に落ち着きを取り戻す頃、私は静かに手元の羊皮紙を確認した。
「次に、原告側から証拠として、ある文書を提出いたします。」
私は深呼吸し、声を震わせないよう注意しながら続けた。先ほど提出したレオポルトの手記を、今一度、廷内に提示する番だ。
「先ほども証拠として提出した手記ですが、改めてここに提出いたします。」
聖堂内に静寂が広がる。コンラートの視線は私のほうに向けられているのか、確かめることはできない。だが、先ほどまでの平静な様子を思い出すと、やはり涼しい顔をしているのだろう。
私は、手記の内容が示す事実を、廷内に向かって静かに語った。
「この手記には、先にお伝えした通り、オスヴァルト暗殺に使われた神経毒について記されています。帝国内でこの神経毒を所持しているのは、西部の教会、もしくはコンラート=フォン=レーヴェンタール氏だけです。つまり、今回の事件に深く関与している可能性があることは否めません。」
私の言葉に、否定的な反応は見られない。流れはこちらに傾いている。
「さらに、先ほどコンラート氏はローゼンベルク家に対し思うところはないと弁明していたました。しかし、この手記によれば……。」
一瞬言葉に詰まり、しばらく沈黙が訪れる。母のことを、話さなければならない。そう思うのに、手記に記されたこの事実を思う度、胸が苦しくなる。
壇上の視線を上げると、ディートヘルムが静かに自分を見つめていた。その瞳が、重く垂れ込めた不安を少しずつ溶かしていく。
胸の奥で、裁判前にディートヘルムがかけてくれた言葉が蘇った。
『君がどんなに不安に揺れても、私は知っている――その奥にある、揺るがない強さを。だから、大丈夫だ。私はいつだって、君の心に寄り添っている。』
深く息を吸い込んだ。大丈夫、言葉にするのは怖いけれど、今なら話せる。
「この手記によれば、私の母、エリーザ=フォン=ローゼンベルクの出産時、医師の到着を遅らせたのも、コンラート氏の指示によるものです。これにより母は命を落としました。ローゼンベルク家に直接的な害を及ぼす行為が、すでにここに記されているのです。」
聴衆は息を呑み、私の言葉に耳を傾ける。コンラートはわずかに顔色を変えたものの、すぐに冷静を装い、声を上げる。
「故人の手記だけで、私の関与を立証することなどできはしない。」
私は静かに頷き、手元の羊皮紙を、首席裁判官へ差し出した。
「その通りです。ですが、こちらをご覧ください。」
それは、白衣修道会で管理されていた医療記録と医師派遣記録だった。公式の印章が押され、お母様が産気づいた際に、ローゼンベルク家からの医師派遣依頼が入った時刻や、医師が派遣された先の詳細が記されている。
「確かに、記録通りならローゼンベルク家からの依頼の後に、担当医師が他家へ派遣されたことが確認できる。」
首席裁判官の肯定に、聖堂内は再びざわめきだした。確認された羊皮紙を受け取り、コンラートへ向き直る。視界の端で、曾お祖父様の手がきつく握りこまれたのが見えた。
「こちらの記録と手記を照らし合わせて考えると、コンラート氏の指示で意図的に医師の到着が遅れたことは明白です。」
私は視線をコンラートに向ける。
彼の顔は相変わらず表情を読み取りにくい。しかし、聖堂内に広がる廷臣たちの視線とざわめきが、暗黙のうちに事実の重さを示していた。
これ以上否定の余地はない。手記と記録が、一つの線で彼のローゼンベルク家への関与をつなげているのだ――。
コンラートは、じっと私を見据え、ゆっくりと口を開いた。
「確かに、私が医師の派遣を調整したことは認めます。しかし、それはエリーザ殿の命を奪うためではありません。かつて親交のあった家への恩義から、医師の派遣を優先したまでです。結果として遅れが生じたのは、誠に遺憾であり、人道に外れた行為でした。」
私は拳を握りしめ、言葉を飲み込む。恩義を盾に、命を軽んじた言い訳――。
手記と医療記録が示す事実の重みを、これで打ち消せるはずもない。
聖堂内の廷臣たちは、微かなざわめきを漏らす。誰も口には出さないが、視線の奥に含まれる疑念が、コンラートの言い訳を決して全面的には受け入れていないことを私に伝えていた。
聖堂内に重い静寂が流れる中、首席裁判官が静かに口を開いた。
「アンネリーゼ殿、この件について、我々は証拠を慎重に検討しなければならぬ。……あえて聞くが、この証拠ではコンラート殿が、貴女の母君やローゼンベルク家を狙ったとは断言できぬのではないか。」
私は深く息をつき、手元の資料を手に取る。お母様が遺してくれたこの古文書と一枚のメモ。これが、コンラートとローゼンベルクを繋ぐカギになる。
「では、この文書をご覧ください――母が残したものです。」
私は慎重に古文書を首席裁判官の方へ差し出した。彼は、受け取った古文書を数枚めくり、怪訝な顔をする。
「これは……古代語で書かれたものだろうか。私は語学には疎くてね。」
近くにいた廷臣が、首席裁判官から受け取り中身を確認していく。言語学に覚えがある者が廷臣に居るのは好都合だ。
「古代語、によく似ていますが、ここなんかはこのままでは意味が通らない……。」
「はい。それは、一見して古代語で書かれたもののように見えますが、実はカルディック語という言語で書かれています。」
「……!そうか、カルディック語……。」
私は目が合った廷臣に大きく頷き返した。カルディック語。この言葉にコンラートは微かに反応を見せた。やはり、お母様がこの本を遺していたとは思っていなかったようだ。
「カルディック語とは、南方のカルドリア公国で今でも使用されている古代語から派生した言語です。カルディック語は古代語によく似ていますが、語順や文法が独特で、同じ単語でも意味が異なったり、全く別の意味になってしまうそうです。」
――カルドリア公国。
その国名が読み上げられた瞬間、玉座に座す皇帝陛下の眉がかすかに動いた。
裁きの一部始終を静かに見守るその顔に、かすかな翳りが差したのを、どれほどの人たちが気づいただろうか。ただ、その眼差しの奥にだけ、過去の因縁を鋭く思い出すような光が閃いていた。
「……ふむ。では、この本の意味するところとは?」
私は首席裁判官の問いに応えるため、興味深そうにページを捲る廷臣に近づき、一言断って古文書を受け取った。そして、背表紙の裏を開き、再び首席裁判官へ手渡した。
「こちらをご覧いただけますか?」
「この、印章は……。」
首席裁判官が目を見開く。その印章は、かつてレーヴェンタール家で使われていたものだからだ。廷臣たちが息をひそめ、古文書に視線が注がれる。
「この古文書は、かつてレーヴェンタール家の蔵書でした。これは、今は亡きコンラート氏のご子息、アーヴァイン=フォン=レーヴェンタール氏から、私の母へと送られ、大切に保管されていたものです。」
廷臣たちはじっと古文書を見つめ、傍聴席から低いざわめきが漏れる。そして私は、コンラートの顔に一瞬走った驚愕を見逃さなかった。
――「なぜあの本がここに。」
彼の表情が、雄弁にそう告げていた。
「この本は、表向きカルドリアの戦史をまとめた記録になっています。しかし、実際は、地名や人名を使って別の意味を隠してある、暗号文となっているのです。」
「なんだって!?」
「さらに、証拠としてこちらの外交文書も提出させていただきます。これは、没落する前のレーヴェンタール家が、カルドリア公国と交わした公文書です。」
私はゲオルク様を振り返り、例の外交文書を首席裁判官の元へ渡してもらうようお願いした。
受け取った首席裁判官は、上から流し読みすると、興味深げに片眉をあげた。
「南方のカルドリア公国との特産品貿易に関する書類のようだが……。」
「はい、表向きはそうです。しかし、この書類にも古文書と同じ、暗号文が組み込まれているのです。」
私は手元の資料からもう一冊の本を取り出した。古文書と一緒に遺されていた、カルディック語の辞書だ。ページをめくると、見慣れぬ語形と対訳がぎっしり詰まっている。
「これがあれば、暗号は解けます。」
私は静かに告げ、廷臣の一人に、その辞書と先ほどの取引文書を見せた。
廷臣のうち語学に詳しい者が膝を折り、私のそばに寄る。彼の指先が、文書の中の繰り返し出てくる断片に止まる。
「ここです。繰り返されているこの符号は、地名の代用符号のようだ。辞書の『kald』という語に対応する語形と合致します――カルディア(南方)を示している可能性が高い」
廷臣は辞書をめくり、古文書のページ、そして取引文書を交互に見比べる。ひとつ、ふたつと符号が意味を帯びていく。私もページを指でなぞった。
「ここにあるのは、貨物の種別、日付、運搬経路を示す符号です。例えばこの列は『薬品—輸入—東のウストア』と読めます。」
廷臣が読み上げるたびに、聖堂内の空気が冷たく張り詰めてゆく。匿名の記号が、徐々に固有名詞と結びつく――カルドリアからの特定の貨物が、ある特定の場所への運搬が指定されている。
「この、『東のウストア』とは……。まさか、東方国境近くにあるウストア教会ですか!?」
聴衆から、はっと息を呑む音が漏れた。傍聴席にいる神殿会の関係者たちへ目を向けると、彼らの顔が硬直するのがわかる。
「この暗号をすべて読み解くと、交易が禁止されている薬品や武器などの密輸品がある一人の人物によって受け取られています。」
「……なるほど、この部分ですね。『受領:A——』。このAは、レーヴェンタール家のご子息。アーヴァイン(Avrain)の略記と一致します。」
「――さらに、この外交文書には、カルドリア公国から亡命した元軍人の名と、コンラート殿ご自身の署名が記されています。」
その言葉に、廷臣がざわめき、傍聴席からも小さな悲鳴があがった。
玉座に座すハイデンライヒ陛下の視線が鋭く細まり、場に沈黙が落ちる。
「馬鹿な!」
コンラートは声を荒げ、顔を紅潮させて立ち上がった。
「そんなものは捏造だ! 亡命者の虚言にすぎぬ!」
しかし、すかさずゲオルク様が進み出る。
「その亡命軍人は、この場に証人として控えております。」
場内の視線が一斉に傍らの人物に注がれる。軍服を模した外套を羽織った男が傍聴席から前に出ると、静かに告げた。
「……アーヴァイン様がまとめられた貿易取引の陰で、コンラート殿は私を通じて密輸計画を立てていました。武器も、毒も、運搬経路も、すべてご自身の指示によるものです。」
法廷に重苦しい沈黙が走った。
私は両手に抱いた古文書を見下ろし、そして一枚の紙片を取り出した。
「母が残したこの古文書には、一枚のメモが挟まれていました。――『この本はレーヴェンタール家に返すこと。彼はこれが“鍵”だと知らない』と。」
声が震えそうになるのを必死に抑えながら、私は続ける。
「……推測に過ぎませんが、母はこの古文書に隠された暗号の存在に気づいていたのだと思います。そして、この本を送ってくれたアーヴァイン氏が、その秘密に気づいていないと察したのでしょう。だからこそ、母は“鍵”という言葉を残した……。」
私はまっすぐにコンラートを見据えた。
「――そして、貴方は、この古文書が母の手元にあると知ったのではありませんか?だからこそ、母が狙われた。違いますか?」
私の問いかけに、コンラートは口を開きかけ――しかし、言葉が出てこなかった。
視線が泳ぎ、唇が震え、それでも何も発せられない。聖堂に広がった沈黙が、かえって彼の動揺を露わにする。
「……やはり、そうなのか。」
重々しい声が場を打った。
曾お祖父様が、杖を突きながら一歩進み出る。老いの影を漂わせながらも、その眼差しは鋭く、揺るぎなかった。
「……そなたがレーヴェンタール家を再興させたいと願っていたのは、古くから知っておる。南方との同盟を足掛かりに、未来を切り開こうとしていたのだろう。だが、その夢は潰えた。爵位を奪われ、家は没落。……唯一の希望であった息子までも、思いがけぬ事故で失った。」
その言葉に、コンラートの肩がわずかに震える。
曾お祖父様は目を細め、ひと呼吸置いて告げた。
「古文書を取り返したかったことは理解する。しかし――。」
鋭い眼差しが、まっすぐにコンラートを射抜いた。
「エリーザの命まで奪う必要はあったのか?……方法など、他にいくらでもあったはずであろう。」
その場に緊張が走る。傍聴席からは息を呑む音が洩れ、廷臣たちが固唾を呑んで見守る。
しかし、コンラートは依然として口を開こうとしない。言い逃れはできない証拠を前にしても、自身の罪を認める気はないらしい。
「……一度整理しよう。」
長い沈黙を破るように、首席裁判官は告げた。
「原告側の主張は、コンラート氏がローゼンベルク家を陥れるために神託を偽装し、半額の証拠を捏造、ローゼンベルク家の執事であったオスヴァルトの暗殺に関与し、さらには過去、エリーザ=フォン=ローゼンベルク殿をレオポルト氏を利用して死へ導いたと、そういうことですね?」
「はい、間違いありません。」
私の返答を聞き、彼はさらに続けた。
「その動機は、レーヴェンタール家の再興のため、秘密裏に続けていた南方貿易や同盟関係が表ざたになるのを恐れたことによる口封じ、だと。」
私は深く頷き返した。
「……コンラート殿、貴方は先ほど罪を否認した。ローゼンベルク家を陥れる理由がない。その主張は変わりませんか?」
「…………。」
しかし、コンラートは、頑なに沈黙を守っていた。首席裁判官は、静かに眼を伏せた。重々しい沈黙のあと、低く、しかし明瞭な声が聖堂内に響く。
「貴方は一貫して容疑を否認している。しかし、これほど明確な証拠が提示された以上、否認を続けるのであれば、それを覆すだけの証言や証拠を示す責任がある。沈黙は、時に自己防衛であると理解していますが、今この場では、真実を語る義務があるのではありませんか?」
その言葉は、堂内の空気をさらに張り詰めさせた。傍聴席の誰もが息を呑み、次の瞬間を待った。だが、コンラートは微動だにせず、ただその沈黙を貫いた。
裁判官は一度だけため息をつき、そして、コンラートへ向き合うと伏せていた眼を真っすぐに向け声を掛けた。
「……貴方の息子が不慮の事故で命を落としたことについては、誰もが同情せぬわけではない。親としての無念は察するに余りある。だが――。」
その瞬間、コンラートの顔から血の気が引き、そして憤怒の色が差していった。
「不慮の事故……だと? いや、あれは事故などではない!」
コンラートの怒声が、聖堂の天蓋を震わせた。
「息子が乗った馬車には細工がされていた!夜中に不審者がうろついていたと証言する者もいた……!だが、私が訴える前にその証人は消えたのだ!国中を探しても見つからなかった!」
彼の目は血走り、握る拳は震えていた。
「私は一つの結論に至った。――あれはハイデンライヒの指示だ。ローゼンベルク家の手で、息子は殺されたのだ!」
廷臣たちがざわめき、傍聴席から悲鳴に似た吐息が洩れる。
「当時皇太子だったハイデンライヒは、前皇帝の弟と後継争いを繰り広げていた。その弟を支えていたのは、神殿会派の貴族たちだ。そしてその筆頭は、このレーヴェンタール家だ!……疎まぬはずがあるか!」
彼は声を張り上げ続け、皇帝の玉座へと歩み寄った。その足取りは重く、だが迷いはなかった。
「息子は再興のため南方と手を結ぼうとしていた。だが、あの子は甘かった……同盟などで皇族を動かせるものか!だからこそ、もっと強い力を得る必要があった。……それを邪魔したのが、ハイデンライヒと、その支援者ローゼンベルク家!気づかれた息子は殺された……。そして我が家は没落へと追い込まれた!」
コンラートの瞳は憤怒に燃え、聖堂全体を睨みつける。
「だからこそ、私は誓ったのだ――必ず奴らに報いを与えると!」




