補遺:リアナの帰郷――祈りの果てに、聖女ではなく、わたしとして
リアナは、生まれてすぐに教会の前へ捨てられていた。
多くの孤児たちが身を寄せる中で、彼女につきっきりで手を差し伸べてくれたのは――シスター・アマリア。母のように抱きしめ、祈りを教え、愛を惜しまず注いでくれた人。
やがて、リアナが“聖女”として選ばれたとき、当の本人はその力を恐れ、疎んでさえいた。
けれど――アマリアが心から誇らしげに微笑むのを見て、少女はその運命を受け入れた。
(あの人が喜んでくれるのなら。)
その一心で。
けれど、今や彼女はもうこの世にいない。
リアナにとって唯一無二の“よりどころ”は、とうに喪われていた。
――それでも。
彼女が聖女であり続ける限り、天の国からきっと見守ってくれる。
褒めてくれる。誇りに思ってくれる。
それだけが、リアナを支える最後の拠り所だった。
◇
馬車は石畳の上で軋むように止まり、リアナは深呼吸をひとつした。
今日ここへ来るのは、誰にも知られず、密かに訪れるため。裁判の喧騒も、監視の目も、今は関係ない。だが、心の奥では少し緊張していた。
「降ります。」
小声で告げると、レオンハルトは黙って彼女の隣に立ち、馬車の扉を支えた。
そして、なぜか――なぜだろう――彼の手を握らなければならないような気がした。自然と手を差し出してしまい、互いの手が触れ合う。
「……大丈夫ですか?」
彼の低い声に振り返ると、穏やかな笑みが浮かんでいた。リアナは思わず頬が熱くなる。恋ではない、けれどもどこか、身に覚えのない甘い感覚が心をよぎった。
馬車を降りて手を離すと、今まで感じていた高揚感がふわりと霧のように消えた。
(……今のは何だったのかしら。こうしてもらうことが当たり前のようなそんな不思議な感覚…。)
不思議に思ったが、今はそれどころではない。レオンハルトに小さく礼を返してリアナはその地に降り立った。
記憶のなかと変わらない、閑散とした旧市街の奥にその教会はあった。
教会に一歩足を踏み入れると、静寂が重く、そして優しく包んだ。
古びた石造りの壁に染み込む陽光が、ステンドグラスを通して柔らかく揺れる。懐かしい匂いとともに、ここが自分の故郷だという安心感が胸に広がった。
敷地内にある墓地へ向かうと、アマリアの墓が小さな花に囲まれて佇んでいた。リアナは静かに膝を折り、手を合わせる。
「アマリア……。」
声に出して呼ぶこともなく、心で語りかける。彼女の存在は、今もリアナの支えであり、未来への導きでもあった。
しばらく沈黙の中で祈った後、後ろを振り返る。レオンハルトは黙って横に立ち、視線をそらすこともなく、ただ静かに彼女を見守っていた。
「お待たせして、すみません。行きましょう。」
「…もう、よろしいのですか。」
レオンハルトは気遣うようにリアナと目を合わせた。欲を言えば、もう少し長く祈りを捧げたかったが、今はそれよりも確認しなければならないことがある。
「…えぇ。いずれまた会いに来ます。」
リアナはそう言ってアマリアの墓に背を向け、教会の方へと歩き出した。今回の帰郷の目的は、アマリアの手記だ。
教会の扉を押し開くと、子どもたちの声がぱっと耳に飛び込んできた。小さな手を取り合い、机を囲んで祈りを唱える姿は、かつての自分を映す鏡のよう。
胸の奥に懐かしさと切なさが入り混じり、リアナは思わず足を止める。
すると、若いシスターの一人がこちらに気づき、目を見開いた。
「……もしかして、聖女様では……?」
声は小さく、けれども確信を含んでいた。リアナが返事の代わりに、軽く膝を折り、頭を下げ祈るとシスターは慌てたように教会の奥へと走り去った。
ほどなくして、奥から一人の老シスターが呼ばれてきた。
リアナが幼い日々を過ごしていた頃から仕えていた古参の人――。
「まあ……こんなに美しく成長なされて……。」
感慨を胸に湛えつつも、その瞳は礼節を失わず、静かにリアナを迎える。
リアナはここに来た事情を明かした。今、皇都で何が行われようとしているのか。
「…伺いたいのです。アマリアの遺品や手記は残っていないでしょうか。」
リアナが切り出すと、老シスターはためらいながらも、手紙の束を差し出した。
「もし、貴女に会えたらお渡ししようと思っていました。」
「これは……。」
「貴女宛に、アマリアが何度も書いた手紙です。ですが、返送されてきてしまって……」
リアナは震える手で封を切った。
この手紙に見覚えはなかった。恐らく、コンラートか中央の高官が中身も確認せず送り返していたのだろう。
最初の手紙には、聖女に選ばれたことを心から喜び、励ます言葉が綴られていた。
しかし、次第に文面は変わっていく。返事のない不安、彼女を気遣う言葉。
そして最後の方は――
『中央で不憫な目にあってはいませんか。私が言った『聖女として誇りに思う』という言葉が、あなたの重荷になってはいませんか。』
そんな痛切な問いかけで結ばれていた。
リアナの胸を締めつけるものがあった。
――あの日の言葉は、聖女という役割を誇ったものではなく。
聖女であろうと、なかろうと、自分自身を愛し、支えようとする“母の心”から紡がれたものだったのだ。
ふと、リアナは思い出す。アマリアは毎日、日記をつけていた。
「アマリアの日記は、今どこに……?」
問うと、老シスターは静かに答えた。
「アマリアの願いで、棺の中に納めました。」
本来ならば、墓を掘り返すことなど許されない。だがリアナは、強い声で訴えた。
「どうしても、今必要なのです。彼女が残した言葉は、この裁きの鍵となるかもしれない。」
暫くの沈黙の後、老シスターは深く息をつき答えた。
「………分かりました。掘り起こしましょう。」
「し、しかし…!」
「アマリアは私の娘も同然です。彼女もきっとこれを望むでしょう。」
周囲の反対を受けながらも、老シスターは深く頷いた。
渋々といった様子の墓守とレオンハルトが力を合わせ、土を掘り返して棺を開く。そこには黒衣に包まれた白骨と、数冊の厚い日記帳が静かに眠っていた。
「これは、あなたが持っていてあげてください。きっとアマリアも喜ぶでしょう。」
老シスターは首飾りと共に、それをリアナに託した。
ページをめくれば、そこには――初めて赤子のリアナを抱いた日のことから、欠かさず書き連ねた記録。聖女としての力に目覚めた日の出来事も記されている。羊皮紙の端には、殴り書きのように神託の言葉が刻まれていた。アマリアは、リアナが口にした神託を一字も漏らすまいと、その場で書き留めていたのだ。
そして日記には続く。
“清書したものは、中央から来た神官に提出した”――。
やはり、リアナが授かった神託は、審理官たちの手によって歪められ、利用されていた。リアナは、静かに本を閉じる。
これまで自分は、聖女であるために、審理官の解釈に従うしかないと思っていた。だが、アマリアが誇りに思ったのは“聖女”という称号ではない。ただリアナという一人の少女が、自ら選び、歩み出そうとする強さと優しさだったのだ。
――もう迷わない。
聖女という仮初めの名ではなく、リアナという一人の人間として。自分の声で、真実を語ろう。アマリアが愛し、誇ってくれたのは、称号を背負った“聖女”ではない。歩みを選び取る、この私自身なのだから。
リアナは胸に日記を抱きしめ、静かに瞳を閉じた。そこには悲しみも後悔もなく、ただ凛とした決意だけがあった。
――裁きの場で、必ず証言する。
それが、彼女を愛した母への答えであり、自らの未来への第一歩だった。




