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 【ヴァレンシュタイン家・大広間】



 夜が深まり、広間の灯も柔らかく揺れる中、私は机に向かって資料を何度も確認していた。証拠の順序、証人の証言、どれも抜かりはないはずだ――そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥には言いようのない不安が広がる。


 静かな足音が近づき、ドアが開いた。



「アンネリーゼ。」



 ディートヘルムの声は低く、夜の静寂に溶けるようだった。


 私は顔を上げ、彼の瞳と目が合った瞬間、心臓が少し速まるのを感じた。



「リディアとリアナは、無事に入れ替わりを戻せたようだ。」



 彼の言葉に安堵が広がると同時に、どこか熱い視線が私を見つめているのを感じた。



「ありがとう……ディートヘルム。」



 小さな声で答える。机越しに彼と向かい合うと、普段は冷静で沈着な彼の瞳が、わずかに柔らかく揺れているのがわかる。


 胸の奥がじんわりと温かくなる。私たちは、言葉ではなく、互いの存在を確かめ合っていた。


 彼はゆっくりと私のそばに座り、手を机に置いた。自然に、私の指先と触れる。



「…明日の裁判で、私は中立な立場を取らなければならない。これでも皇太子だからな。すぐそばで君を支えられたらどんなにいいか。」



 その声に、私は小さく頷く。目を閉じると、指先に触れる彼の手の温もりが心を落ち着かせた。



「大丈夫よ。私は一人じゃないって、ちゃんと分ってる。」



 窓の外には夜風が街灯を揺らし、遠くで市場や宮廷のざわめきがかすかに聞こえる。街全体が、裁判に向けて息を潜めているかのようだった。


 ディートヘルムはそっと私の肩に手を回し、背中に軽く触れる。思わず息が止まる。



「君がどんなに不安に揺れても、私は知っている――その奥にある、揺るがない強さを。だから、大丈夫だ。私はいつだって、君の心に寄り添っている。」



 言葉には重みと優しさが混ざり、私の胸は強く揺れた。そう、戦いは険しいけれど、彼がいる。どんな不安も、この瞬間だけは少し柔らぐ。


 深夜、書斎の灯を落とす頃、私は最後の確認を終え、ディートヘルムと共に大広間を出る。

 

 廊下の冷たい空気に触れると、現実がまた迫る。けれど彼の手がそっと私の手を包むと、すべてを乗り越えられる気がした。寝室に戻る前、私は彼の瞳を見上げる。



「ディートヘルム……ありがとう。」



 言葉を飲み込む。言わなくても、互いの心は通じている。


 裁判前夜、私は静かに目を閉じ、眠りについた。心の奥で、仲間たち、そして彼とともに、明日の朝を祈りながら。









 朝の光が大広間に差し込む。しかし、いつもと違う――窓から入る光は柔らかいはずなのに、なぜか冷たく、鋭さを帯びているように感じられた。街のざわめきも、普段の活気はなく、遠くでかすかに人々の息遣いが聞こえるだけ。今日という日を、街全体が息を潜めて見守っているのかもしれない。


 深夜に確かめた資料や計画の緊張感はまだ胸に残っている。けれど、昨夜ディートヘルムと交わした穏やかな時間が、わずかな安堵を与えてくれていた。



「アンネリーゼ、準備は整っているか?」



 ディートヘルムが穏やかに声をかける。彼の瞳は、昨日とは違い、戦う覚悟に満ちている。



「ええ。みんなも集まっているはずよ。」



 大広間の奥では、仲間たちが静かに出発の準備をしている。ユリウスやソフィエ、リディア、エミール――彼らの視線は、言葉にできない期待と不安を映していた。私たちは言葉を交わさずとも、互いの覚悟を確かめ合う。



「大丈夫だ、皆がついてる。」



 ディートヘルムの言葉に、私は小さく微笑む。手に持った資料を握り直し、深呼吸を一つ。今日という日が、ローゼンベルク家にとってどれほど大切な一歩なのかを思う。


 窓の外では、普段より静かな風が庭の木々を揺らし、街の空気は何かを待ちわびるかのように張りつめている。深く息を吸い、私は覚悟を決めた。


 二人並んで大広間を後にする。外の光に照らされながら、今日という日の戦いが始まる――心の中で、仲間たち、そして家族への祈りをそっと捧げながら。





【皇都・サンクタ・アウレア大聖堂】



 石畳の道を進む馬車の揺れが、胸の奥の鼓動と重なっていた。窓の外に見えるサンクタ・アウレリア大聖堂――数年前、婚約式で訪れたあの荘厳な建物が、今は冷ややかな裁きの場として私を待ち受けている。


 かつて祝福の鐘が鳴り響いた尖塔は、今朝は沈黙し、ただ鋭い影を落としていた。喜びと未来を象徴したあの日と同じ場所で、今は運命の分かれ目に立たされている。



「アンネリーゼ。」



向かいに座るゲオルク様が、低い声で私を呼ぶ。その瞳には、当主としての冷静さと、家族としての優しさが入り混じっていた。



「緊張はするだろうが、恐れることはない。我らが後ろにいる。」



 隣に腰掛ける曾お祖父様は、静かに頷き、白髪に覆われた頭をわずかに傾けた。



「己の歩みを恥じるな。真実を語るのは、何よりも強い盾になる。」



 その言葉に、胸の奥で小さな炎が揺らめいた。


 ――そう、私は一人ではない。ディートヘルムはここにいないけれど、彼の言葉と、そしてヴァレンシュタイン家の力が背を押してくれている。


 大聖堂の前に馬車が止まる。扉が開かれると、すでに多くの傍聴人が周囲に集まり、ざわめきが広がった。私たちを取り巻く視線は好奇と疑念、そして一部の期待に満ちている。


 ゲオルク様が先に降り、その背に続くように私は大聖堂の階段へと足を踏み出した。冷たい石段の感触が、覚悟を一段ごとに試すかのようだ。


 荘厳な扉が重々しく開かれ、光の差し込む聖堂の内部が現れる。


 かつて婚約を祝福された同じ場所に、今日は裁判官と傍聴人が並び、厳粛な沈黙が支配していた。


 私は深く息を吸い込み、背筋を伸ばす。


――ここが、私たちの真実を示す舞台。

 

 静かに、けれどはっきりと、一歩を踏み出した。









 鐘の音が三度、荘厳な天井に反響した。


 その瞬間、聖堂を埋め尽くしていたざわめきは潮のように引き、誰もが息を潜める。


 大理石の通路を進み、裁判官と廷臣たちが列を成して入廷する。その先頭に立つ首席裁判官は、銀杖を鳴らして壇上に上がると、朗々と声を響かせた。



「これより、ノルトハイム家によるローゼンベルク家への訴訟――帝律に則り、ここに裁く!」



 その声は石壁に反響し、聖歌の代わりに厳しい律の響きとなって場を支配した。


 祭壇上の最も高い席には、黄金の椅子に腰かける皇帝陛下の姿があった。老齢にしてなお背筋を伸ばし、威厳を保つその姿は、誰よりも沈黙を重くする。


 その隣に並ぶのはディートヘルム。冷ややかな表情の裏に、私へ向けられたわずかな眼差しが確かにあった。だが彼は言葉を発することなく、ただ厳格な立場で裁きを見守る。


 聖堂をぐるりと取り囲む傍聴席には、帝国中枢を担う面々が集まっていた。宰相として手腕を振るっていたお父様の元で、長年働いてきた臣下たちもまた、緊張した面持ちを隠せないでいた。


 重厚な衣を纏った大貴族たちは、互いに視線を交わし合い、誰が勝つかを測りながら息を潜めている。光冠の神殿会の高位聖職者たちも列席しており、彼らの表情は一様に硬い。その中でマティアス大司教だけは、表情を変えずにいる。


 さらに視線を巡らせれば、後方には市民代表や下級貴族たちの姿も見える。彼らの目は好奇と恐れに揺れ、ひそひそ声がわずかに混じる。



「大貴族同士の争いが、ここまで公になるとは…。」


「どちらが敗れても、帝国は揺らぐぞ。」



 そんな囁きが空気を震わせ、やがて再び沈黙へと沈んでいった。


 私は正面席に腰を下ろし、指先をきつく握りしめた。

 

 この場には祝福も栄光もない。だが――私には背中を支えてくれる人々がいる。

 

 横に控えるゲオルク様は静かに前を見据え、曾お祖父様は目を閉じて祈るように手を組んでいた。その落ち着きが、私に力を与えていた。


 首席裁判官が高らかに文書を掲げ、声を響かせる。



「原告、ノルトハイム家。被告、ローゼンベルク家。ここに両者を呼び出す。」



 荘厳な大聖堂に、重い緊張が走った。


 帝国騎士団に連れられ、お父様とお兄様が聖堂内へと足を踏み入れた。その後ろから、ノルトハイム家当主と、ユリウスが原告席へと着席する。


 静寂を破り、荘厳な声が響いた。



「原告代理人、ノルトハイム家当主、ライナルト=フォン=ノルトハイム。」



 その名が告げられると、傍聴席にかすかなざわめきが広がる。

 

 威厳ある黒衣に身を包み、ゆっくりと立ち上がったライナルト様の姿は、裁きを待つ場を支配するかのようだった。



「皇帝陛下、そして尊き裁判官諸卿。」



 彼は一礼し、堂々と声を張った。



「我らノルトハイム家は、帝国の正義と秩序を守るために、この場に立ちました。告発するは――ローゼンベルク家。彼らが長きにわたり領民を欺き、帝国財政を乱し、法を踏みにじったのであれば、もはや看過できぬ事態であります。」



 その声は厳しくもよどみなく、聖堂の天井に反響した。


 彼の言葉が放たれるたび、傍聴席の貴族や市民の視線が一斉にこちらに向けられる。



「我らが告発の根拠は、聖律ではなく帝律。すなわち、この帝国に生きるすべての民が従うべき世俗の法でございます。ローゼンベルク家はその法を裏切り、己の利益のために曲げた。その罪は、いかなる家柄をもってしても許されぬもの。」



 一呼吸置き、ライナルト様は視線をこちらへ突き刺した。



「彼らの罪を明らかにし、帝国の正義を示すことこそ、この裁判の目的であると断言いたします。」



 その宣言とともに、傍聴席に再びざわめきが走る。皇帝陛下は動じることなく厳しい眼差しを注ぎ、ディートヘルムはわずかに表情を曇らせた。


 私は椅子の肘掛けを強く握った。


――これが彼らの最初の一撃。だが、私たちには真実がある。


 ライナルト様の声が静まり、重い空気が聖堂に漂う中、ゲオルク様がゆっくりと前に進んだ。



「皇帝陛下、そして尊き裁判官諸卿。」



 彼の声は穏やかだが、確固たる重みがあった。大聖堂に静かに響き渡り、傍聴席のざわめきも抑えられる。



「我らヴァレンシュタイン家は、帝国法に則った公正な裁きを受けるため、ここに立っております。ローゼンベルク家――我が家とは親類であり、盟友関係でもある家門――は決して軽んじられるべき存在ではありません。」



 曾お祖父様も一歩前に出て、低い声で続ける。



「我らはただ、真実を明らかにすることを望むのみ。疑念や噂に惑わされることなく、証拠と証言に基づく裁きを、この場で見届けるつもりです。」



 聖堂内の光がステンドグラスを通して床に落ち、厳かな模様を描く。私はゆっくりと立ち上がった。心臓の高鳴りを感じながらも、顔を上げ、真っ直ぐ前を見据える。



「皇帝陛下、尊き裁判官の皆様。私はローゼンベルク家の娘、アンネリーゼ・ヴァレンシュタインです。」



 その声は緊張でわずかに震えたが、力強さが伴っていた。



「我々は、ローゼンベルク家がどのような家であり、どのように帝国と民に尽くしてきたかを、ここに明らかにいたします。事実に基づき、真実を示すために、この場に立っています。」



 傍聴席の視線が一斉に私に集まる。貴族、役人、市民たち――皆がその声に耳を傾け、緊張と期待が混ざった空気が聖堂に満ちた。



「私たちは、法の下で、帝国の正義が真に守られることを信じています。」



 私は、聖堂の最奥、皇帝陛下へと視線を向けた。光を背にしたその御姿は、わずかな仕草すら掴ませぬほど静かで、表情を覆い隠している。冷徹にも、寛容にも見えてしまうその眼差しに、私は思わず息を詰めた。


 ここに在るのは、誰も抗えぬ威厳そのもの。けれど、陛下が私たちにとって救いの手を差し伸べる存在なのか、それとも無慈悲に裁きを下す存在なのか――判断できない。


 ただ、見据えられているだけで、心の奥を見透かされるような気がした。



「それでは、罪状を確認する。」



 荘厳な沈黙の中、裁判官の声が厳かに響き渡った。



「ローゼンベルク家当主、ジークベルト=フォン=ローゼンベルク。

 汝の家門は、神託により、帝国財庫から多額の国費を不正に流用していたことが示された。

 また、国を傾け、皇統を揺るがさんとする企て――すなわち国家転覆の嫌疑もかけられている。

 これらは帝律において最も重き大逆の罪である。本日、この法廷にて、その真偽を審理する。」



 列席する廷臣の視線を真正面から受け止めながら、お父様は静かに立ち上がった。



「……神託がどう告げようとも、我らが国費を横領した事実はない。

 ましてや、帝国を転覆させるなどという暴挙――ローゼンベルクの名にかけて断じてあり得ぬ。

 これは虚構だ。誰かが我らを陥れるために仕組んだものに他ならぬ。

 ――必ずや真実は明らかになるだろう。」



 お父様の毅然とした言葉に、大聖堂は一瞬の沈黙を挟み――やがてざわめきが広がった。


「神託を疑うのか……。」


「まさかローゼンベルク家が……。」



 廷臣たちの囁きは、重苦しい空気をさらに濁らせていく。


 その中で、裁判官が手を上げ、秩序を取り戻す。



「……静粛に。では、原告側より証拠の提示を求める。」



 立ち上がったライナルト様の声は、堂内に低く響いた。



「我らが訴えの根拠は、神託の記録にある。ここに写しを提出する。」



 廷吏が運んできた羊皮紙を広げ、朗々と読み上げる。



『帝国の中枢にて、誇り高き家門が信を裏切り、腐敗を受け入れ、帝国に災いをもたらすであろう。

 その血は高貴にして深く帝に繋がりしもの。

 されど、かの家の影に根を張る罪はもはや隠せぬ。』



 朗読が終わると同時に、大聖堂にはざわめきが走った。廷臣たちは互いに顔を見合わせ、重苦しい空気が広がる。


 ライナルト様はそのまま続ける。



「この神託を受け、審理官らは皇帝陛下に進言された。調査の結果――ローゼンベルク家の帳簿より、不正な改竄が見つかったのだ。神託の告げる“腐敗”が、ここに証明されている。」



 彼の手には、ローゼンベルク家の印章が施されたファイルが握られていた。私はそれを見て、小さく目を見開く。


 その帳簿には見覚えがあった。ただし、それはお父様がサインしたものではない。あれは、執事のオスヴァルトが作った偽の書類だ。



―――まさか、既に敵の手に渡っていたなんて…。



 ライナルト様の言葉に、貴族席から押し殺した息遣いが漏れる。冷ややかな視線が、次々と私たちローゼンベルク家へと注がれていった。


 朗読された神託と帳簿の記録に、廷臣たちはざわめきを隠せない。



「やはり……。」


「神託と符号するではないか……。」



 視線は次々と、ローゼンベルク家へと突き刺さる。


 その中で、お父様は静かに、けれどはっきりとした声で告げた。



「――帳簿の改竄は、我らの手によるものではない。」



 ざわめきが一層大きくなる。



「ならば誰が……?」


「言い逃れにすぎぬのでは……?」



 お父様は一歩も退かず、毅然とした眼差しを保った。



「我が家は代々、帝国の忠義を支えとし、誇りをもって務めてきた。

 帝国を欺き、財を盗むなど――ローゼンベルクの名を汚すことを、我が一族がするはずがない。

 この帳簿に示された不正は、我らの意思ではなく、何者かが仕組んだものだ。」



 お父様の言葉に大聖堂はどよめいたが、ライナルト様は眉ひとつ動かさず前に進み出た。



「――しかし、記録は偽れぬ。」



 横に控えていたユリウスが改めて帳簿を開き、数枚の紙片を並べる。



「この出納帳では、昨年のローゼンベルク領での交易に関わる支出が一万金貨と記されている。

 だが、実際に財庫から支出されたのは一万五千。差額五千金貨が行方不明となっているのだ。」



 廷臣たちが一斉に息を呑む。



「さらに、本年の祭礼費用に関しても同様の不一致がある。帳簿では二千と記されているが、実際には三千が下げ渡されていた。――このように、記録は繰り返し改竄されていたのだ。」



 ライナルト様の目が鋭く光る。



「神託は“誇り高き家門が腐敗を受け入れる”と告げた。

 帳簿に見られる繰り返しの不正は、その神託を裏づけるものに他ならぬ。

 ――これをなお“仕組まれたもの”と言い逃れられるのか?」



 視線が再び、ローゼンベルク家に突き刺さる。廷臣たちの囁きは、もはや疑惑ではなく確信の響きを帯びていた。


 廷臣たちの視線が鋭く刺さる中、お父様は深く息をつき、重々しい声で告げた。



「――帳簿の不正があったとしても、我らローゼンベルク家がそれを仕組んだのではない。」



 ざわめきが広がる。誰もが、その言葉の真意を確かめようと見守る。



「帳簿は財務担当していた執事が管理していた。もしも不正があったのなら、それは彼の行為であり、家門の意思ではない。我らは常に帝国の忠義を重んじ、財務の公正を誇りとしてきた。この家が国家を裏切ったなどという非難は、事実に反するものである。」



 お父様の言葉に、かすかな重みが場を満たす。彼の背筋は曲がらず、目は冷静に、しかし確固たる誇りを宿していた。


 その姿は、壇上の廷臣たちに――そして、傍聴席にいる者たちにも、微かだが疑念を抱かせるものだった。


 首席裁判官が軽く杖を叩き、場を静める。



「では、原告側に対し、被告の弁護証人を呼び出す。」



 ここから私たちの番だ。まずは、提出された書類が偽物だという事を証明して見せる。









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