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 資料の解読から数日経ち、裁判の準備は着実に進んでいた。


 ノエルのリディアは体調不良を理由に何とかリアナの不在を悟られないようにしているが、恐らく時間の問題だろう。証人の方は都合がつきそうだと返答が来ていたのでそちらは大丈夫だろう。


 リアナの方は先ほど早馬が到着し、無事に故郷へたどり着いた事を知らせてくれた。どうやら、当時一緒にいた別のシスターとも接触できたようで、二、三日以内には戻れるとのことだった。



 順調に進んでいるはずなのに、ぬぐえない不安感が私を押しつぶそうとしていた。


 それはきっと常に隣にいてくれるディートヘルムにも伝わっているだろう。



「……ディートヘルム、順調に進んでいるはずなのに、どうしてこんなに胸がざわつくのかしら。」



 私はそっとため息をついた。重くのしかかる不安は、頭ではなく心を締めつける。


 ディートヘルムは黙って私の手を握り、穏やかな声で言った。



「アンネリーゼ、こういう時こそ私に話してほしい。一人で抱え込まなくていいんだ。」



 彼の瞳は真っ直ぐに私を見据え、その誠実な強さが少しだけ心を落ち着かせてくれる。



「本当は、リアナ様が戻るまで気を抜けない。証人の方々の証言も完璧とは言えないわ。何か小さなことでも、予想外のことが起きたら……。」



私は言葉を飲み込みかけたが、ディートヘルムは首を横に振り、



「…私たちは万全の準備をしてきた。君の冷静な判断力と、皆の協力があれば、この困難も乗り越えられる。」


「でも……。」


「でも、という言葉は必要ない。君が不安を感じるのは自然なことだ。だからこそ、私は傍にいる。共に戦うために。」



 彼の言葉に、胸のざわつきが少しずつ落ち着いていくのを感じた。



「ありがとう、ディートヘルム。あなたがいてくれて本当に心強いわ。」



 私は小さく微笑み、彼の手を握り返した。









【グラウヴァルト帝国・宮廷】



 この日、私は父や兄の元へ面会に訪れていた。二人に今後の方針を伝えるためだ。


 先刻、ノルトハイム公爵の説得をお願いしていたユリウスから、告訴の準備が整ったと連絡が入った。明日には、帝国中に告示文が張り出されるだろう。


 今は形式上の拘束であるため、貴族牢での留置になっているが、告示文が出されれば、ローゼンベルク家は正式に被告人扱いとなり、地下牢へ移される。


 私は、前世の記憶を思い出し強く拳を握った。ローゼンベルク家を救うために、これまで動いてきたのに、結局あの深く暗い地下牢へ二人を送ることになってしまった。


 面会室の扉がゆっくりと開き、薄暗い廊下の向こうからお父様の姿が見えた。痩せた顔に刻まれた疲労の色。続いてお兄様が、少しうつむき加減で私の方を見つめる。二人とも、あの日と比べると確かにやつれていた。



「お父様……お兄様!」



 胸の中でこみ上げる思いを抑えきれず、私は自然と駆け寄っていた。淑女の振る舞いを忘れ、涙がぽろぽろと頬を伝う。



「お父様!」



 私は震える手を伸ばし、背中に腕を回した。お父様は驚いたように目を見開いたが、すぐに優しく微笑み返し、両手で私の身体を包み込む。



「アンネリーゼ……よく来てくれた。」



 その声はかすれていたが、確かな温もりを宿していた。私はその温かさに触れ、涙が止まらなくなった。



「お兄様も……。」



 兄は少し照れくさそうに目を逸らしたが、やがて静かに私の手を取り返した。力強さはないが、それでも確かな絆を感じられる温もりだった。



「泣くなよ、アンネリーゼ」



 私はその言葉に胸がいっぱいになり、そっと抱きしめ返した。二人の体温が私の不安と孤独をそっと溶かしていく。


 面会室の壁に掛かる絵画や重厚な木製の机、外の喧騒とは無縁の静かな空間で、ただ三人の心が寄り添う瞬間が流れていた。



「…取り乱してごめんなさい。」



そう呟く私に、お父様は優しく微笑みかけて言った。



「そんなことは気にするな、アンネリーゼ。今は感情を出すことも大切だ。」



 お兄様も静かに頷き、柔らかい声で続けた。



「俺たちも、おまえの気持ちは痛いほど分かっている。無理に強がらなくていい。」



 私は深く息を吸い込み、気持ちを落ち着かせた。



「ありがとうございます……。これからのこと、しっかり話させてください。」



 二人の目が真剣に私を見つめる。



「まず、以前お話しした通り、黒幕は神託審理官のコンラートで間違いありません。動機は今も調査中ですが、この件に関しては、…お母様も関わってきます。」



 お父様は予想していたのか、その顔に驚きの色は無かった。



「コンラートは神託を理由に、皇帝陛下へお父様たちを拘束するように進言しました。そして、このままだと、神殿会による聖律審理の場に持ち込まれてしまいます。」


「…なるほど、初めからそれが狙いだったのか。」



 お兄様が低くつぶやいた声は静かな怒りを宿して震えていた。



「神託を理由にされている以上、裁判は避けられません。せめて、介入の余地がある帝律での裁判に持ち込めれば、こちらにも反撃の道はあります。」


「それで、明日の告示文なのだな。」



 お父様の言葉に、お二人は既に告示文の事を聞き及んでいることが分かった。



「今のところ、外ではまだローゼンベルク家のことを知る者は限られています。でも、明日ノルトハイム家からの告示文が出されれば、一気に噂は広まるでしょう。」



 私は深く息を吸い込み、二人の顔を見た。



「お父様、お兄様……恐らく、明日からは地下牢に移されることになります。私たちローゼンベルク家の評判も地に落ちることでしょう。しかし、私たちのために、多くの方が動いてくださっています。ノルトハイム公爵様も、ユリウスも、そしてディートヘルムも――みんな、私たちを守ろうと必死です。」



 お父様は静かな目で私を見つめ返し、肩を優しく叩いた。



「アンネリーゼ、気にするな。これは必要な措置だ。私たちが身動きが取れない分、お前に任せきりにしてしまっていることの方が心苦しい。」



 お兄様も、弱々しく微笑んで言った。



「一人で抱え込むな。俺たちもここで耐えている。おまえも自分を責めるなよ。」



 私は涙が溢れそうになるのをこらえながら、強く首を振った。



「違うんです。皆の支えがあるからこそ、私は前に進める。必ず、黒幕であるコンラートを追い詰めて、真実を明るみに出します。そして、家族みんなが平穏に過ごせる日を取り戻します。」



 固く握った拳を胸に当てて誓った。


 二人は目を伏せて小さく頷いた。その姿に、私ももっと強くならなければと改めて感じた。









【ヴァレンシュタイン家・本邸大広間】



 静かな朝の光が窓辺を淡く照らす中、私は告示文を手に取った。ノルトハイム家の名で出されたそれは、まるで鋭利な刃のように私の胸を貫いた。これが、私たちの戦いの新たな一歩になるのだと実感した。


 これまで、ローゼンベルク家の危機は限られた上流貴族の間だけで囁かれていた。密かに、しかし確実に、疑いの目が向けられていたのは事実だ。


 しかしそれは、まだ世の中に広く知られてはいなかった。噂はひそやかに風のように吹き抜け、正確に伝わらずに曲解されていくこともあった。私自身も、その曖昧な空気の中で孤独を感じていた。


 だが、今、それが変わろうとしている。


 ノルトハイム家の告示文は、いわば公的な宣言だった。帝律に則ってローゼンベルク家を訴えるという決意が、貴族社会のみならず広く国民に知らされることになる。


 告示文は大きな掲示板に貼り出され、朝の市場にも、宮廷のサロンにも、街の小さなカフェの壁にも掲げられた。そこに記された文字は、冷静かつ断固とした調子で、裁判の正当性を強調していた。



《ローゼンベルク家に対する訴訟は、帝国の法体系たる帝律に則って進められる。すなわち、聖律ではなく、世俗の法の下にて公正に裁かれるべきものである》



 その一文に、私の心は強く揺さぶられた。これまで神殿会の力を使い、秘密裏に不正な裁きを企てようとしていたコンラートに対する、強い抗いの意思が込められていた。


 聖律審理は、彼の都合の良いように曲げられ、私たちを闇に葬ろうとする罠だった。それを許さないという決意。そう、私たちは自分たちの手でこの戦いを制さなければならないのだ。


 街の人々の反応は様々だった。市場の店主は「あのローゼンベルク家のことか」と小声で囁き、貴族の女性は眉をひそめながら手紙を読み、若い兵士はちらりと掲示を見上げていた。告示文は、まるで一石を投じたかのように、社会に波紋を広げていた。私もそれを肌で感じる。多くの目が私たちに向けられ、その期待と疑念が入り混じっている。



「これで、ようやく世間も動き出す。」



 横に立つディートヘルムが静かに言った。彼の瞳はいつも冷静で、物事の本質を見抜いている。私たちが歩む道の険しさを、彼は誰よりも理解していた。



「ええ。でも、油断はできないわ。」



 告示文が公に出たことで、コンラートは黙って見過ごすはずがなかった。彼の動きは敏感で、まるで影のように私たちを追いかけていた。貴族社会の中には、彼の味方も多い。噂話の裏で、密かに圧力をかけ、証人に口止めをし、証拠を隠そうとする者もいるだろう。


 そんな空気が、貴族の集会でひそかに蠢いているのを、私は知っている。華やかなドレスや煌めく装飾の裏に、見えない駆け引きと策略が張り巡らされている。私たちの訴えがどれほどの力を持つかを、敵も必死に探っている。


 ディートヘルムと二人で告示文について話していると、ノックと共にゲオルク様が入室された。



「アンネリーゼ、マティアス大司教が到着された。」

 


 ゲオルク様の後ろから現れたのは、若い侍従に支えられながら立つマティアス大司教だった。



「マティアス様、無事に到着されたのですね…!」


「アンネリーゼ様。貴女の方こそ、ご無事で何よりでございます。」



 マティアス大司教とは、ローゼンベルク領で別れたきりだったので、何の連絡もできずに心配をかけてしまったのだろう。私を気遣う視線は、世間がローゼンベルク家に対して風当たりが強くなっても変わらず優しいものだった。



「突然こんな遠方までお呼び立てして申し訳ありません。」


「詳細は、道中伺っております。ご家族と離れているのはさぞお辛いことでしょう。」


「…平気だといえば嘘になりますが、今は裁判に向けて集中することにしています。」



 大広間のソファに腰かけてもらい、今後について話し始めた。


 マティアス大司教は、支えられながらも姿勢を正し、ソファに深く腰を下ろした。年齢を重ねた身体は衰えても、その眼差しには揺るぎない意志が宿っている。



「帝律による裁きは、時に不完全であれど……少なくとも聖律のように一部の者の思惑で捻じ曲げられることはないでしょう。」



 低く響く声に、私は息を呑む。



「ですが、その分、証拠と証言がすべてです。どれほど正義を信じていても、形にできねば法廷では無意味となる。そこを、彼らは突こうとしているでしょう。」


「……証人への圧力や、証拠の隠蔽。」



 ディートヘルムが即座に言葉を継いだ。その横顔は鋭く、戦場に臨む兵士のように冷徹だ。



「我々もその危険を承知しています。」



 マティアス大司教はゆっくりと頷き、私をまっすぐに見つめる。



「アンネリーゼ様。あなたには、その心の強さを示していただきたい。公の場で臆せず語ることが、どれほど大きな力になるか……必ず民は見ています。」



 胸の奥が熱くなる。



「……はい。逃げることなく、向き合います。」


「私は証言台に立ちましょう。」



 マティアス大司教の声は、確信に満ちていた。



「コンラート殿がいかに権威を笠に着ようとも、神の名を盾にした不正は決して許されぬと。聖職者として、そのことだけははっきりと示さねばなりません。」



 ディートヘルムは黙っていたが、拳を膝の上で握り締めていた。その指先に込められた力を見て、私も自然と背筋を伸ばす。


 窓の外では、まだ朝の光が穏やかに広がっていた。しかし、その輝きの下で、すでに数えきれないほどの視線が私たちを見つめている。告示文が放った波紋は、確実に広がっていた









 昼下がり、重い足音とともに扉が開いた。


 振り返ると、宮廷へ戻っていたディートヘルムが厳しい面持ちで立っていた。



「――皇帝陛下が裁可を下された。」



 その言葉だけで、部屋の空気が張りつめる。



「ローゼンベルク家の裁判は、帝律に則って五日後、皇都大聖堂の法廷にて開廷される。」



 告げられた瞬間、私は息を止めてしまった。


 ついに、決戦の日が定められたのだ。



「五日後……。」



 小さく繰り返した声は、自分の耳にも震えて聞こえた。


 ディートヘルムは静かに頷き、視線を逸らさなかった。



「短い猶予だ。だが、この五日で勝敗の形は固まる。油断はできない。」



 私はうなずきながらも、胸の奥の鼓動が早まっていくのを感じていた。



「レオンハルトからも、証拠の品を揃えて皇都へ戻ると連絡が来ていた。リアナの方はおそらく間に合うだろう。」



「…ノエルとリディアの方は大丈夫かしら。」



 神殿会側の監視の目の中、リアナのふりをしているリディアが危険な目に合っていないか心配だ。無暗にこちらから連絡を取るわけにもいかないため、ノエルからの接触を待つしかない。



「陛下の裁可はすでに伝えられているはずだ。この五日の間に何かしらの報せがあるだろう。」



 私たちができることはすべてやりつくした。あとは、協力してくれた皆が無事に皇都へ集結できることを祈るしかない。



「先ほど、ソフィエが顔を出してくれて、街の様子を話してくれたわ。」



 告示文が出されて以来、人々の関心は日に日に高まっていた。


 市場では、果物を並べる商人たちが「大貴族同士の裁きなど久しくなかった」と囁き合い、宮廷のサロンでは貴婦人たちが噂を交わし、酒場では若い兵士たちが「どちらが勝つか」と賭けまでしているという。


 貴族たちの反応は様々であった。


 ある者は「ローゼンベルク家も終わりか」と肩をすくめ、己の立場を守ることにのみ汲々としていた。


 一方で「帝律の下で裁かれるのなら、まだ望みはある」と囁き、陰でわずかに期待を寄せる者もいた。


 中立を装いつつ、密かにノルトハイムに書簡を送る者。逆に、こちらの様子を探ろうと使者を走らせる者。どの顔にも計算が宿り、華やかな笑みの裏には鋭い刃が隠されていた。


 ――その全てが、告示文ひとつであぶり出された。


 その動きを耳にしていたディートヘルムは、低い声で言った。



「――今回の件は、ローゼンベルク家の命運だけに留まらない。」



「……どういうこと?」



 私は問い返した。



「帝律で裁かれると正式に決まった。つまり、神殿会が望んでいた“聖律審理”は退けられたということだ。」



 彼は窓辺に立ち、外のざわめきに耳を傾けながら続けた。



「これは、光冠の神殿会にとって前例となる。これまで聖律を盾に権勢を振るってきた彼らの立場は、今後、帝国内で大きく揺らぐだろう。」



 私は息を呑んだ。


 確かに――もし今回、神殿会の意向が退けられ、帝律による裁きが堂々と行われるのなら、それは宗教勢力に対する明確な牽制となる。



「だからこそ、敵は必死になる。自分たちの威信を守るために。」



 彼の言葉は鋭く、私の胸の奥を突き刺した。


 私は、机の上にある、証拠の資料に手を置き、ゆっくりと指でなぞった。


 外では夜風が窓を揺らす。街はまだざわめいている。


 ――五日後。私たちはその日を迎える。









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