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 バルコニーの夜風は冷たいけれど、不思議と気持ちは落ち着いていた。隣に座るお兄様と、こうして並んで夜空を見上げるなんて、想像もできなかった。


 私はずっと、お兄様の目を見られなかった。話しかけようとされても、避けてしまっていた。――あの夜の、あの言葉が、どうしても胸の奥から消えなかったから。



 きっかけは、お兄様が私に言った言葉だった。


 今でも忘れられない、あの言葉…。









 それは、私が五歳の誕生日を迎えた夜のことだった。



 「アンネリーゼ、お誕生日おめでとう。」



 そう言って、お父様が私の前に差し出したのは、小さな宝石箱だった。中を開けると、そこには真珠の髪飾りが入っていた。銀の細工が施されたそれは、きらきらと光を反射していて、きれいだったけれど――私はただ、どう反応すればいいのか分からなくて、困ってしまった。



「……ありがとう、ございます」



 そう言って受け取ったものの、顔がこわばっていたのを自分でも覚えている。



(お母様がいたら、なんて言ってくれたのかな……)



 頭の中をそんな思いがよぎった、その時。向かいにいたお兄様が、じっとこちらを見ていることに気が付いた。その瞳の奥で、何かが揺れているのが分かった。


 ――悲しみ、怒り、苛立ち。



(……どうして、そんな顔をしてるの?)



 そう思った瞬間、お兄様は立ち上がった。



「……ふざけるな!」



 テーブルの脚がぎしりと鳴った。怒りを堪えていたのが、ついに噴き出したようだった。お兄様は私を見ることもなく、くるりと背を向けて、そのまま大広間を出て行ってしまった。


 突然の行動に驚き声も出せなかった。近くに立っていたお父様を見上げたが、何も言わず私の手に宝石箱を握らせ、その場を去っていった。


 どうして良いか分からず、メイドや執事のテオドールに促されるまま自室へと戻っていった。お兄様がなぜあんなにも怒っていたのか全く分からなかった。あの時のお兄様の目を思い出すと怖くてなかなか眠りにつけなかった。

 

 その内、のどが渇いて誰かを呼びに行こうと部屋を出たとき、たまたま同じタイミングでお兄様も部屋を出ようとしていた。



「お、お兄様…?」


「…お前のせいで、お母様は死んだ!」



 暗い廊下で、そう叫んだお兄様の顔が、月の光に照らされて見えるようになったとき、お兄様の目が怒りで揺れていた。


 ぐさり、と何かが胸に突き刺さった気がした。


 そうして私は泣いた。声を出すこともできず、ただ涙がぽろぽろとこぼれた。兄様はしばらく私を見ていたけれど、やがてくるりと背を向けて、自分の部屋へと戻っていった。









 この出来事があってから、私はお兄様のこと、そしてそれまで以上にお父様のことも避けた。あの夜のお兄様の目が忘れられず、まともに目を合わすこともできなくなっていた。



「あれから、何度か謝ろうとしたけど…。お前を怖がらせてしまったから。」



 私が気付かずにいただけで、お兄様は私に何度も歩み寄ろうとしてくれていたのかもしれない。でも、幼かった以前の私はそれに気づかないまま大人になってしまい、結局家族と和解できないままあの結末を迎えてしまった———。



「今朝、お前の部屋を訪ねた時、数年ぶりに目が合った。その後、おまえはすぐ泣いてしまったから…。」


「…今までごめんなさい。今朝は、なぜだか急に涙が出てきただけなの。もしかしたら、緊張してしまっていたからかも。」



 懐かしいお兄様の声を聴いたから。本当に泣いてしまった理由は明かせないから、そう言ってごまかした。お兄様は怪訝そうに眉をしかめたけど、気づかないふりをしてくれた。



「…謝らないといけないのは俺の方だ。まだ小さいお前に言ってはいけない言葉だった。」



 そう言って、お兄様は私に向かって深く頭を下げた。でも、今ならわかる。お兄様もまた、幼くして母を亡くした一人の子供だったのだと。寂しさとやり場のない怒りを、まだ幼い妹にぶつけてしまっただけだったのだと。



「言い訳にしかならないが、父上から、髪飾りの話を聞いているものだと思っていた。…それなのに、嬉しくなさそうな反応をしたお前に、母上の想いまで否定されたような気になってしまったんだ。」



 お兄様はそのまま、髪飾りについての話をしてくれた。この真珠の髪飾りには、私の知らない想いが込められていた。


 ――お母さまがまだ生きていた頃、お腹の中にいる私を撫でながら、お兄様にこう言ったのだそうだ。



『これはね、お母様のお母様からいただいた、特別な髪飾りなの。ルーカスにはあげられないけれど、生まれてくる妹に、大事にしてもらいたいのよ。』



 けれど、当時の私には何も知らされていなかった。だから、あんな大切なものを、うまく受け取ることができなかった。


 ――お兄様は、それを見て、きっと、許せなかったのだ。



(……今なら、わかるよ。)



「……ずっと言いたかったけど、怖くて言えなかった。お前が泣いた顔、ずっと忘れられなかったんだ。」


「もう、いいの。お兄様が本当に私のことを憎んでいるんじゃないって、分かったから。」



 静かな私の言葉に、お兄様は少しだけ目を見開いた。そして、ほんのわずかに表情を緩めて、小さく頷いた。



「……そうか。」



 それ以上、何かを言おうとした気配はあったけれど、結局お兄様は言葉を飲み込んだ。きっと、まだうまく言葉にできない気持ちがたくさんあるのだ。私も、同じだった。


 沈黙が落ちた。でも、それは以前のような、冷たく張り詰めた沈黙ではなかった。ただ、お互いに何かを確かめ合って、胸の奥を整理しているような、そんな静けさ。


 ふと、室内から流れてくる楽団の旋律が耳に届いた。パーティー会場から少し離れたこの広間でも、祝宴の賑わいはまだ続いているようだった。


 気まずさを誤魔化すように、私はそっと立ち上がった。



「そろそろ……戻らないと。ミーナが心配してるかも。」


「……ああ。俺も、父上のところへ顔を出しておくよ。」



 お兄様もゆっくりと立ち上がる。かすかに肩が触れそうな距離だったけれど、どちらからも一歩を踏み出すことはなかった。


 けれど、ふとお兄様が振り返り、躊躇うように口を開いた。



「……アンネリーゼ。また、話そう。」



 その言葉に、私は胸が少し温かくなるのを感じた。



「はい、また…。」


 そう答えると、今度はちゃんと微笑むことができた。お兄様も、それを見て安心したように目を細める。


 再び、何も言わずに私たちは歩き出した。並んで、けれどわずかに距離を置いたまま。それでも、長い年月でできた深い溝の底に、ようやく一筋の橋がかかったような気がしていた。









 あの日を境に、私は少しずつお兄様と向き合うようになった。と言っても、まだぎこちなさは残っていて、日常の中で自然に話しかけられるほどにはなっていない。それでも、食卓で交わす挨拶や、廊下ですれ違ったときの小さな会釈だけでも、以前の私にとっては考えられない変化だった。


 ふとした折に思い出すのは、あの髪飾りの話。お兄様がそれを語るとき、どこか遠い目をしていたこと。きっと、長い間ずっと一人で抱えてきた想いだったのだ。


 あの夜の会話は、私にとっても、お兄様にとっても、きっと小さな転機だったのだろう。


 数日後の午後。邸の裏庭にある訓練場から、鋼のぶつかり合う音が聞こえた。乾いた音と、低く張り詰めた気配。足が自然とその方向へ向かっていたのは、たぶん心のどこかでお兄様と会話する機会を探していたからだろう。



「……あ。」



 石畳の通路の先、陽の光にきらめく銀の刃。軽く汗を浮かべたお兄様が、剣を振るっていた。動きに迷いはなく、鋭い風すら巻き起こす。



「……すごい。」



 気づかれないように、庭の影からそっと見つめる。思えば、こうしてお兄様の訓練を眺めたのは初めてかもしれない。庭の奥を見ると、長年ローゼンベルク家に仕える執事のテオドールが控えていた。いつもながら涼しい顔だが、その目は真剣そのものだ。お兄様の動きを目で追い、時折うなずいている。



「お嬢様、危ないっ!」



 お兄様に視線を戻すと、目の前に剣が飛んできた。後ろにいたミーナが手を引いてくれて、間一髪で避けることが出来た。お兄様の剣先が、稽古相手の騎士の剣を弾いて、飛んできたらしい。声で気づいたのか、お兄様がこちらに駆け寄ってきた。



「怪我はないか?」



 お兄様は私の頭からつま先まで一通り見ると、傷一つないことを確認して小さく息をついた。私は何か返そうと口を開いたが、後ろから騎士に声を掛けられ、地面に落ちていた件を剣を拾うと佳子に戻ってしまった。



「お嬢様。」



振り返ると、テオドールが静かに頭を下げていた。



「もしよろしければ、あちらにお掛けください。……旦那様には既に許可を頂いております。」



 促されるままに、並んだ木椅子の一つに腰を下ろす。ミーナが私の腕や足などを念入りに確認してから、自室へ日傘を取りに行くと席を外してしまった。


 考えてみるとテオドールとこんなに長く二人きりになったのは、初めてかもしれない。テオドールは邸の管理を任せている筆頭執事だけど、ほとんどお兄様付きのような立場だったので、あまり関わっていた記憶がない。



「もう少しお小さいころにも、私と一緒にルーカス様のお稽古を見学されていたんですよ。」



 私の考えていることを見透かされたような言葉に驚いた。私の記憶にないのだから、まだ歩くこともできないくらい小さい時の話なのかもしれない。それは、見学というより私の世話をしていたテオドールに抱かれていただけなのではないのか。



「…その時は、旦那様もご一緒でした。」



 衝撃のあまり、思わずテオドールを振り返ってしまった。こちらを見ているテオドールは優しく微笑んでいた。詳しく聞こうとしたが、部屋から戻ってきたミーナがあれこれと私の周りの世話を始めてしまったので、それ以上の事は分からなかった。

 

 程なくして稽古が終わったのか、お兄様がこちらに歩いてきた。



「……ずっと見てたのか。」


「うん。すごかった。」



 簡単な言葉しか出てこなかった。でもそれで良かったのか、お兄様はわずかに目を細める。



「そうか。」



 それだけ言って、頭の汗を拭った。いつもはピシリと整えている前髪が乱れている。なんだか、少しだけ年相応に見えた。



「お疲れ様です、ルーカス様。冷たいお茶をどうぞ。」



 いつの間に用意していたのか、タイミングよく、テオドールが涼やかな声で盆を差し出す。お兄様がそれを受け取る手元を見て、ふと気づく。テオドールにだけは、お兄様は心を許しているのだと。



「……無理に連れてきたんじゃないよな。」


「とんでもない。お嬢様の足が自然と向かわれたのですよ。」


「そうか。……なら、いい。」



 お兄様がぼそりと呟く。誰に向けた言葉かは分からなかったけれど、悪い響きではなかった。



「……また、見に来てもいい?」



 私が勇気を振り絞って尋ねると、お兄様は少し驚いたように目を見開いた。でも、それはほんの一瞬で。



「……好きにしろ。」



 ぽつりと落とされたその言葉に、どこか照れくさそうな気配が混じっていた。


 テオドールが静かに微笑んだのが見えた。彼が控えていてくれるだけで、お兄様は少しだけ、素直になれるのかもしれない――。

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