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  【ヴァレンシュタイン家・離れの書斎】



 外から差し込む陽射しが、天幕の布を透かしている。けれど、そのぬくもりが届かないほど、室内の空気は冷え切っていた。



「……裁判、ですって?」



 リディアが繰り返した言葉に、冷たい空気が一瞬で場を覆う。


 ノエルは、躊躇うことなく頷いた。



「神殿会が、“聖律審理”を準備している。場所はサンクタ・アウレア大聖堂。審理官はもちろん――コンラートだ。」



 耳鳴りがした気がした。血の気が引くのが、自分でもわかった。



「……聖律って、まさか最初から…。」


「そう。帝律とは違い、外部からの干渉は一切できない。証言も、証拠も、すべて審理官の裁量に委ねられる。」



 ノエルの声に、怒りと焦燥が滲む。けれど、私の方がもっと動揺していたかもしれない。


 『聖律』。それは帝国法の『帝律』とは別に、神殿会が独自に定める法典。皇族でさえ容易に介入できず、審理も全て神殿内で行われるという、閉ざされた裁きの場。


 一度その座に引きずり出された者は、反論すら許されないまま、処罰されることもある。



「つまり、“最初から黒と決めつけられた者”が、弁明もできずに裁かれる。それが聖律の裁きだ。」



 リディアが小さく息を呑み、エミールは唇を結んだ。



「僕たちも……そこに引きずり出されるの?」


「おそらく、そう仕向けるだろう。君たちの誰か一人でも不敬や神託冒涜の罪に問われれば、神殿会は“聖なる法”を盾に、問答無用で糾弾できる。しかも密室でな。」



 ノエルの言葉が、ずしりと胸にのしかかる。目の前が少し暗くなったように感じた。


 ああ――そうか。そういうことだったのか。


 どうしてあのとき、ローゼンベルク家の処刑があんなにも早かったのか。抗議も届かず、証拠も出せず、ただ一方的に“死”が決められていった理由。



(……あれも、聖律だったんだ。)



 私たちの叫びも、正当性も、何一つ届かなかった理由が、今やっとわかった。


 最初から、コンラートは聞くつもりなどなかった。聖律を使えば、そんな必要すらなかった。――全てを、密やかに、都合よく、裁けるから。


 私の膝の上で、いつのまにか指先が震えていた。けれど、顔には出さなかった。リディアやソフィエが見ている。今、崩れてはいけない。



 ――前と同じには、させない。


 

 それまで黙っていたソフィエが机を叩いた。



「ふざけないで。だったら、帝律に持ち込めばいいわ。皇帝陛下に直訴して、正式な――。」



 そこまで言って、彼女は気づいたように言葉を止めた。



「……いえ、できないのね。神殿会の裁きは、帝国法でも介入できない……。」


「いや、介入できる方法が、ひとつだけある。」


 

 沈黙を破ったのは、ディートヘルムだった。


 扉の前に立っていた彼は、静かに前へと歩み出ると、低い声で続けた。



「ローゼンベルク家が“帝国貴族法”に抵触したという形式で、帝律下の裁判を起こす。そうすれば、審理は神殿会ではなく、帝国の公的な場で行われることになる。」


「……形式で訴える?」


「そう。あくまで“訴える側”は建前で、目的は“審理の場を移す”ことにある。」


「でも、そんなこと……誰が?」



 リディアの疑問にはユリウスが答えた。



「我がノルトハイム家が動きます。公爵自身が動けば、審理の場は帝都の帝国議事堂、もしくは直属の裁定官のもとに置かれるでしょう。神殿会の手が届かない場だ。」



 有難い申し出だが、公爵家がそれをするメリットが分からない。私はそのままユリウスに疑問をぶつけた。

 


「……どうして、そんなことを?」


「ノルトハイム家は皇帝派です。元々、神殿会の勝手な越権行為には、強い危機感を抱いています。今こそ、それを是正する“理”を求める絶好の機会です。」



 ユリウスの言葉に、誰も反論しなかった。


 だが、解決にはまだいくつかの鍵が足りなかった。



「……しかし、それだけでは足りない。」



 静かに、ディートヘルムが言った。



「帝律に移せても、私たちに“証拠”がなければ、何も変わらない。証言も、神託の真実も……足りていない。」



 ノエルは頷きながら呟く。



「神託の原文が、どこかに記録として残っていれば……。」


「あるかもしません。」



 全員の視線が、声の主――扉の外に立つ少女へと向けられた。



「……リアナ?」



 ノエルが驚きに声を上ずらせる。



「どうしてここに……!」



 けれどリアナは、いつもの穏やかな微笑を浮かべたまま、静かに部屋の中へと歩を進める。



「大丈夫。祈りの儀式の合間に抜け出してきたから。監視は着いてきていないはず。」



 ノエルは、まるで言葉を失ったようにリアナを見つめていた。先日のことを思えば――あの、頑なな態度からすると――この行動がどれほど危うい橋を渡っているのかは、誰にでもわかる。


 それでも彼女は、迷いなく私たちのもとにやってきてくれた。



「神託の原文……もしかしたら、見つかるかもしれません。」



 その言葉に、私は思わず息を呑んだ。



「……本当に?」



「今回出された神託は、恐らく、私が五歳の頃、最初の神託を授かったときのものです。でも、内容が違う。あのとき、私はそれが“特別なこと”だなんて分かっていませんでした。ただ夢の話のように、思いついた言葉を口にしていた。でも――。」



 リアナはそっと目を伏せ、懐かしむように呟いた。



「いつもそばにいてくれた人がいて、私の言葉をすべて記録に残してくれていた。……シスター・アマリア。その人は、私が最初に心を許せた“家族”のような存在でした。」



 それは、前にカイが話していたシスターだろう。幼いリアナの心を支え続けた存在。


 リアナは静かに椅子に腰を下ろし、両手を膝の上で組んだ。何かを、深く思い出すような目をしていた。



「私がコンラートに引き取られる前……まだ五歳の頃まで、ある地方の教会で育ちました。」



 彼女の声は、どこか遠くを見ているように淡くて、でもしっかりとした芯があった。



「そこでずっと一緒にいてくれたのが、シスター・アマリア。――私にとって、母のような人でした。」



 目を伏せたリアナの睫毛が微かに揺れた。



「彼女だけは、私が“聖女”だとか“神の声を聞いた”なんて言われる前から、ただの子どもとして接してくれました。食事の時にこぼせば叱られたし、泣けば抱きしめてくれた。夢の話をすれば、毎回丁寧に記録して、『あなたは神さまに大事なお手紙をもらったのよ。』って、笑ってくれた。」



 そこでふっと、言葉が途切れる。



「でもある日、“迎え”が来たんです。中央の神殿会の高位神官が何人もやってきて、『聖女に相応しい教育を施す必要がある。』そう言って、私を無理やり連れていこうとしました。」



 リアナの唇が、ほんのわずかに震えているのがわかった。



「私は泣きじゃくって、行きたくないと言いました。アマリアの服を握って、何度も叫んだ。でも彼女は……最後まで私を責めなかった。ただぎゅっと抱きしめて、耳元でこう言ってくれました。」



 リアナはそっと手を胸に置いた。



『リアナ、あなたは私の誇りよ。神さまが何を望んでも、私はあなたを愛してる。』



「……それが、彼女との最後でした。」



 私は何も言えなかった。言葉を挟むことが、あまりに無粋で、残酷で――。



「中央に来てから、彼女の訃報を聞かされました。『病気で亡くなった。』と。本当かかどうかも、わからないまま。でも……きっと、もう、二度と会えないと思いました。」



 リアナは顔を上げた。その目には、涙は浮かんでいなかった。ただ、静かな決意だけが宿っていた。



「でも、アマリアはよく言っていたんです。神託は“手紙”だって。きっと、どこかに記録を残してくれてる。それが、証拠になるはずです。だから……故郷の村に行きたいんです。今度こそ、ちゃんとお別れを言いたい。アマリアの言葉を、この手で受け取りたいんです。」



 リアナの告白の後、部屋にはしばらく沈黙が落ちていた。誰もが、彼女の言葉の重さを受け止めようとしていた。



「行きましょう、リアナ。あなたがその場所に行くべきだと、私も思う。」



 口を開いたのは、リディアだった。しっかりとした声で、こちらを見据えている。



「ただし、堂々と行くのは無理。あれだけの監視がついてるんですもの。入れ替わるしかないわ、私とね。」


「リディア様……。」


「身長も体型も、私が一番似てるでしょ?後ろ姿で誤魔化せる程度にはね。祈りの儀式の間だけなら、顔をまじまじと見られることもないはず。あとはベールを被ってやり過ごす。少しでも変に思われたら、軽く具合が悪いふりでもしておくわ。」



 かなり危険な賭けだが、コンラートにリアナの動きを悟られないようにするためには、これが最善策なのはわかっている。それでも、私はリディアにこの役目を任せるのは心配だった。



「リディア様、…ありがとうございます。」


「俺もついていく。お前を一人にさせるわけにはいかない。」



 ノエルのその言葉に、ディートヘルムが首を横に振った。



「それは無理だ。ノエルが聖女の側から離れたら、神殿会の連中が気づくのは時間の問題だ。余計に警戒されるだけだ。」


「でも……リアナは外に出るんだぞ?この状況で護衛もなく――。」


「護衛はつける。」



 ディートヘルムが言った。



「レオンハルトに任せる。任務に忠実な男だ。……よく知っているだろう。」



 ノエルが何か言いかけて、口をつぐんだ。眉間にうっすら皺を寄せたまま、沈黙が落ちる。


 

「……彼を?」



 ノエルが低く呟く。


 その声には、わずかな懐かしさと、苦味のようなものがにじんでいた。ノエルはしばらく目を伏せたまま、それから小さく息を吐いて頷いた。



「……彼なら、大丈夫だろう。任せる。」



 ノエルがそう言ったとき、私は彼の瞳にほんのわずかな迷いを感じた。たぶん、前世の記憶の中で見たレオンハルトの姿が、脳裏に浮かんだのだろう。あの冷静で、揺るがない騎士の姿。



「…では、入れ替わるのは今がチャンスね。」



 私は言いながら、自然と気持ちが引き締まるのを感じた。



「リディア、リアナ、あなたたちは服を交換して。リディアがリアナとして祈りの儀式に出る。ノエルは彼女の側についてサポートして。」



 リディアはすぐにうなずいた。冷静な顔で、「任せて。」とだけ言う。



「リアナとレオンハルトは、故郷の村へ向かう。」



 リアナが小さく息を吸い込む。



「本当に、ありがとうございます。」


「いいえ、それに私たちのためでもあるわ。」



 私は皆の顔を見渡す。ソフィエ、エミール、ディートヘルムもそれぞれに覚悟を決めている。



「ユリウスにはお父上に、帝律の裁判を根回ししてもらう。私たちはレオポルトの手記を元に証拠集めを急ぐわ。」



 計画は動き始めた。誰もが必死だった。けれど、私の胸の奥には、確かな希望の光が灯り始めていた。













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