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そこから先は、真っ暗な石造りの通路だった。灯りもないが、私はあらかじめ用意していた小さなランタンを灯し、階段をゆっくりと降り始める。
ひんやりとした空気。閉ざされた空間特有の、重たい沈黙。
階段を下るごとに、私の心臓の鼓動が徐々に早まっていく。
――この先に、いったい何が隠されているのか。
そう思うだけで、足が震えるほどの緊張と、得体の知れない恐怖が胸を満たしていた。
けれど、戻るつもりはなかった、すべてを知るために。私は最下層へと、静かに足を踏み入れた。
上の階と同じように、古くなった扉を開けると、カビの匂いが、鼻をつく。
どこか、土と古紙が腐ったような、時間の堆積した空気が充満していた。石壁の向こうに並ぶのは、木棚にびっしりと詰め込まれた書類箱。ランタンの明かりが揺れるたびに、埃がふわりと舞い上がる。
――ここが、最下層の資料室。
見渡すかぎり、名前も肩書きも読めなくなった箱が整然と並んでいる。まるで、誰にも知られぬまま眠る亡霊たちの納骨堂のようだった。
私は息を殺して歩き出す。
事前に聞いていた通り、この場所に保管されているのは、”既に亡くなった帝国内の貴族たち”の資料。それも、本来なら各家の要望によって破棄されたはずの記録のはず。
「……処分されたというのは、建前だったのね。」
抑えきれないささやきが口をつく。無断で残してあるこの資料を、神殿会が何に使うつもりなのかは知れないが、ここには、封印された真実が、まだ残っている。
それなら、コンラートの家の事や、母の記録も何かほかに残っているかもしれない。
私はまず、レーヴェンタール家の名を探す。古びた札が打ち付けられた木箱の中に、それらしきものを見つけた。
箱を引き出すと、埃が舞い上がった。中には年代ごとに並んだ記録が綴じられており、その最も新しい部分――没落寸前までの時期に、目当ての記録はあった。
《コンラート=フォン=レーヴェンタール 子息・アーヴィン、馬車事故により死亡》
「……やっぱり、あった。」
その記録を素早く抜き取り、私は手のひらでたたんで内ポケットに滑り込ませた。
――次は、母の記録。
私は息を深く吸い、震える指でファイルを戻すと、再び別の箱を探しにかかった。ローゼンベルク家、と記された箱が見つかるまで、それほど時間はかからなかった。
重たい木の蓋を開けると、見覚えのある紋章が目に飛び込んできた。そこには、祖父、曽祖父の記録に混じって――。
「……あった。……お母様の……。」
“エリーザ=フォン=ヴァレンシュタイン”と記された診療録が、一番下に綴じられていた。それをそっと持ち上げると、中には医師による診療記録のほかに、数通の紙片が挟まれている。
丁寧な筆跡。小さく震える文字。
《私の名において、すべての責任を告白する。――レオポルト=シュタウファー》
私は思わず息をのんだ。
母の資料の中に、その名が、確かにそこにあった。けれど、ページをめくろうとしたそのとき――。
ギィ……
静寂を裂くように、背後で扉が軋む音が響いた。私は手の動きを止め、息を潜める。
――誰かが、入ってきた。
扉がきしむ音の直後、かすかな衣擦れが聞こえた。
――神官?
私は母の記録を胸に抱きながら、棚の陰に身を潜めた。足音が一歩、また一歩と近づいてくる。息を詰め、様子を窺おうとしたその瞬間――。
「隠れる必要はありませんよ。」
静かで落ち着いた声だった。恐怖を煽るような響きはなかったが、それだけに心臓が跳ねる。
私はゆっくりと姿を現した。そこには、一人の神官が立っていた。まだ壮年といった年齢だろうか。控えめな金の縁取りがなされた濃紺の法衣をまとっている。見覚えはないが、肩にかけられた刺繍付きのストールは、高位神官の証だった。
「……貴方は。」
「私は、第二記録区の管理を任されている者です。名は重要ではありません。」
男は軽く頭を下げたあと、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
「あなたが、ローゼンベルク家の……。」
その言葉に私はぎくりと身を固くした。どうしてこの男が、私の正体を?
「……名乗っていません。」
「いいえ、名乗らなくとも構いません。あなたが手にしているその記録が、それ以上に雄弁です。」
男の視線が、私の腕の中――“エリーザ”の記録に注がれる。
「彼女のことを覚えています。礼儀正しく、真っすぐな瞳をした方でした。神殿の者が誰も彼女を救おうとしなかったことを、私は今でも悔いている。」
男の声音に、かすかに悔恨が滲んでいた。その言葉が嘘でないことを、私は直感的に感じ取った。
「……助けていただけますか。この記録を……必ず外へ持ち出したいのです。」
「すでに、貴女の滞在が長すぎるのは明らかです。扉の先に立っている者は、そろそろ不審に思い始めている頃でしょう。」
男は後ろの扉を振り返った。
「私が今から階段の警備を少しの間引きつけましょう。その間に、正規の通路を通って、上にお戻りなさい。今なら目立たずに合流できるはずです。」
私は一瞬だけ迷い、そして頷いた。
「ありがとうございます。……お名前は、本当に教えていただけないのですか?」
「ここで名を残すことに意味はありません。……ご武運を。」
そう言い残し、神官は扉を出て行った。私は資料を再び抱え直し、深呼吸してから、部屋を後にした。
暗く、ひやりとした空気が満ちる最下層の通路を抜け、石階段を一段ずつ踏みしめて昇っていく。
上階へ向かうたび、足音は堂々と響いていた。これは逃走ではない。――証拠を手にした、正当な帰還なのだ。
第二資料室のある階まで差し掛かった時、あたりの様子を確認したが、ディートヘルムの姿も、彼が引き留めていた騎士の姿もなかった。
私はほっと胸を撫で下ろし、第二資料室の扉を開ける。
「アンネリーゼ…!」
中にいたディートヘルムが私に駆け寄ってくる。
「先ほど、一人の神官が階段を上ってきたが…。」
「えぇ。その方に助けていただいたの。」
私の言葉にディートヘルムが怪訝そうにするが、今は詳しく話している時間はない。
「……最下層の資料室で見つけたの、母の記録と、それに……。」
私は手にした書簡を、胸に抱え直すようにして見せた。彼の目が驚きに見開かれたが、それ以上は何も問わなかった。
「もうすぐリアナたちと合流する時間よね。」
「あぁ、急ごう。」
私たちは第二資料室を出ると、やがて第一資料室の前まで戻った。扉をノックして室内に入ると、ノエルとリアナの姿がすぐ近くにあった。
「聖女様、資料の確認が終わりました。」
「ありがとう、こちらも今終えたところです。」
リアナは静かに微笑みながらうなずく。ノエルは私にちらりと視線を寄越し、それだけで“どうだった?”と問いかけてくる。
私は小さく頷いた。答えは、それだけで十分だった。
ふたりのやりとりに気づかぬふりをして、リアナは同行していた神官に視線を向けた。
「ご案内、ありがとうございました。そろそろ退室したいのですが?」
神官は丁重に頭を下げる。
「もちろんでございます。では、出口までご案内いたします」
私たちは再び列を整え、第一資料室を後にする。
ノエルはリアナのすぐ隣を歩き、私たちはその後に続いた。入室時と同様、騎士たちが扉の脇に控えていたが、神官の同行があるためか、誰も詮索はしてこなかった。
外の光が、やがて視界に差し込んでくる。
あの冷たい記録の空間から抜け出し、ようやく人の気配と温度が戻ってきたようだった。
無事に出られた――そう思った瞬間、初めて胸の奥が緩んだ。
物陰で待機していたレオンハルトに、成功の合図を送る。彼は頷くと、塔から少し離れたところでこちらと合流した。
神殿会本部を後にし、リアナとノエルとは人目を避けるために別れを告げた。
「また連絡する。」
ノエルの声に頷く。リアナは一度もこちらを振り返ることなく静かに去っていき、私はディートヘルムやレオンハルトと共にヴァレンシュタイン家へ向かった。
◇
【ヴァレンシュタイン家・離れ】
邸の門をくぐると、ちょうどユリウスが到着したところで、軽く息をついているところだった。
「ユリウス!」
声を掛けた彼の顔に一瞬警戒の色が浮かぶ。その表情で自分が変装していたのを思い出すと、ベールを取り、彼に顔を見せる。
「殿下、アンネリーゼ様。…ご無事で何よりです。」
「ええ、資料の確認もできたの。中で詳しく話すわ。」
安堵の表情を見せたユリウスを連れて、私たちは離れへと入った。
軽く着替えを済ませ、皆が待つ書斎へと入る。
書斎に入ると、リディアとエミール、ソフィエがすでに揃っており、こちらの姿を見るなり立ち上がった。
「おかえりなさい、アンネリーゼ!」
「怪我はない? 本当に大丈夫?」
エミールとソフィエが駆け寄るのを手で制し、私はそっと笑って頷いた。
「ええ、無事よ。資料も……これを見つけたの。」
私は、慎重に懐から一冊の記録簿と、それに挟まっていた数枚の書簡を取り出して机の上に置いた。皆の視線が、無言でそれらに注がれる。
「これは、レオポルトの手記?」
リディアがささやくように言う。
「中を読んだのか?」
ディートヘルムが静かに問いかける。
「ほんの一部だけ。これは……レオポルトが、“自らの罪”を告白すると記した手紙。詳細まではまだ読めていないけれど、間違いなく彼は――。」
「後悔していたのね。」
ソフィエが静かに言った。部屋の空気が一瞬、重く沈む。
ディートヘルムは、レオポルトの手紙を手に取ると、真っ先にそれを私に渡した。
「君から読むべきだ。」
その場にいた皆が、こちらを見て頷いた。
私はゆっくりと頷き、ディートヘルムの手から手紙を受け取った。紙の感触は古く、ところどころインクがにじんでいる。
深く息を吸い、私はその手紙を読み始めた。
文面に視線を落とした瞬間、時間が止まったような錯覚を覚える。周囲の気配がすっと遠ざかり、私は言葉ひとつひとつを追いかけた。まるで、死者の声が紙の上から直接心に語りかけてくるかのように。
やがて、手紙の最後の一文を読み終えた私は、そっと紙を伏せた。
重く、苦しい吐息が自然に漏れる。
「……まだ、これだけでは証拠としては弱い。でも……この手記が、本当に真実を語っているのなら。」
「必ず繋がるわ。私たちの探している黒幕に。」
ユリウスが、私の言葉に力強く頷いた。
「殿下。この資料は、いずれ裁きの場に提出されるべきものです。保管と分析は私が責任を持ちます。」
「頼んだ、ユリウス。」
ディートヘルムの言葉に私も深く頷いた。
こうして、また一歩、私たちは核心に近づいた。
ローゼンベルク家に向けられた冤罪の影を晴らすために。




