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馬車に乗り込んだ私は、ディートヘルムと視線を交わすと抱えていた本を見せた。
「これ……図書室で見つけたの。辞書と、それから──おそらく、母が遺したもの。」
淡い青の表紙を見つめながら、私は本の背に刻まれた古代語と、その裏にあった印章について説明した。
「レーヴェンタール家の家紋が入っていたの。しかも、恐らく母の筆跡でこう書かれていた……“これは鍵。彼はそれを知らない”って。」
しばしの沈黙のあと、ディートヘルムは小さく息をついた。
「……母君は、レーヴェンタール家の何かを知っていた。偶然じゃない。本当に、ここまで繋がっていたんだな。」
「これは……母が残した手がかり。誰かに預けるわけにはいかないの。私自身が、この謎を解いてみせる。」
私は被っていた布を外すと、辞書と本を合わせて布で包み込んだ。
ディートヘルムは、真剣な眼差しで私を見つめ返す。
「分かった。だが、その分、君は危険に近づくことになる。その事は心に留めておいてくれ。」
「ええ。ありがとう、ディートヘルム。」
私は小さく頷いた。
「とりあえず、ユリウスのところへ行こう。君を迎えに行く前に、家で待機するよう伝えてある。」
「それなら良かった。…実は、今邸を出たところで、リディアたちと会ったの。」
「リディアたち? あの三人が、どうして?」
「私の様子を見に来てくれたの。でも事情を説明する時間がなくて……ノルトハイム家の屋敷へ先に向かってもらったの。」
ディートヘルムは納得したようにうなずいた。
「正解だ。君の行動は、もうある程度知られているはずだ。騒ぎを避けるなら、顔を知られた彼女たちが同行するより、別行動の方がいい。」
「ええ……あのとき、少し躊躇ったけれど。でも今思えば、正しかった。」
ディートヘルムが頷き、手綱を引くよう御者に軽く指示を送る。馬車は音もなく進路を変え、静かに通りを走り出した。
ノルトハイム家の屋敷までは、そう遠くない。けれど、胸の内は落ち着かないままだった。
「リディアたちは、君を心配して来てくれたんだな。」
「ええ。……驚いたけれど、嬉しかった。巻き込みたくはないのに、気がつけば、みんなが私の側にいてくれる。」
「君の覚悟に応じる者がいるのは当然だ。人は、ただ強い者にではなく、誠実に戦おうとする者のもとに集まるものだよ。」
私は黙ってうなずく。窓の外、徐々に陽が沈む路を街灯が照らし始めていた。
やがて馬車が小さく揺れて止まった。御者が静かに「着きました」と告げる声が聞こえる。
扉が開けられ、私はディートヘルムの手を借りて外へ降り立った。
目の前に広がるのは、ノルトハイム家の屋敷。重厚でありながら、どこか温かみのある佇まい。既に気づいていたのか、正面の扉が開かれ、リディアが真っ先に駆け寄ってくる。
「アンネリーゼ!」
その声に、ソフィエとエミールの姿も続く。
「……来てくれてありがとう。今、ここで話せてよかった。」
少し緊張を含んだ笑みを浮かべながら、私は三人に向き直った。
これから話すべきことは山ほどある。だが、もう一人で抱え込む時ではない。私を支えてくれる人たちが差し伸べた手を、素直に受け取ろう。
「皆に、手伝ってほしいことがあるの。」
【ノルトハイム家・応接間】
ノルトハイム家の応接間に案内された私たちは、椅子に腰掛け、ようやくひと息ついた。
向かいに並んで座るリディア、エミール、ソフィエ――三人の顔には、不安と、何かを察しているような強い緊張の色がにじんでいた。
私は深く息を吐き、覚悟を決める。
「ありがとう。こんな状況の中、来てくれて本当に嬉しかったわ。」
「…それより、無事でよかった」
リディアは小さく頷いた。ソフィエもじっと私の目を見つめ、エミールは口を引き結んでいた。私はまっすぐ三人を見つめ返し、言葉を選びながら話し始めた。
「……今、私たちはローゼンベルク家を陥れようとする“何者か”と戦っているの。しかもその者は、神託を捻じ曲げて利用しようとしている。」
「神託を……?」
ソフィエが眉をひそめる。
「そんなことができるの?」
「本来なら、できないはずよ。でも、神託を読み上げる“神託審理官”がそれを操作していたとしたら……。」
私がエミールの問いに答えると、 静寂が部屋を包んだ。
「その神託審理官――コンラートという男が、レオポルトという人物を使って、母を死に追いやった可能性がある。そして、今回の冤罪事件も……同じ人物が背後にいると考えているの。」
「貴女のお母様の死と、今の事件が……つながっているのね。」
リディアが小さく呟く。
「でも、証拠はまだ足りないの。だから私たちは、レオポルトという人物について調べようとしているの。彼が何を知っていたのか、どうして母に近づいたのか。何を命じられていたのかを。」
黙って聞いていたソフィエが、少し考えるように口を開いた。
「……そのレオポルトという人も神殿会の関係者なのよね。」
「そう、白衣修道会の神官よ。地方の施療院にいたころの記録はあまり残っていなみたい。」
私は目を伏せて首を振る。
「白衣修道会は貴族のための医療施設よね。情報提供を求めても、あそこは、外部の者にはほとんど情報を開示しない。」
ソフィエも納得したように頷いた。その時、リディアがぽつりと口を開いた。
「……神殿会の話で思い出したんだけど、うちの兄が前に言ってたの。神殿会には、一般には公開されてないけど、膨大な記録を保管してる“記録保管庫”があるって。」
「記録保管庫……?」
「文書や診療記録、神託の記録、歴代の審理官たちの言動の記録まで、手書きのものから写本まで何でもあるそうよ。でも、関係者以外が中に入るのは不可能に近いって言ってた。」
「……もしその中に、レオポルトの記録や内部報告書などがあれば……。」
私は思わず胸を押さえた。行くべき道がまた一つ見えた気がする。でも、その先は分厚い扉に阻まれている。どうすれば、そこに辿りつけるのか。
その時だった。
部屋の扉が、ひとりでに音を立てて開いた。
「随分、深刻そうな話をしているな。」
その声に皆が振り向いた。
皇族の証である銀髪を持つ青年――ノエルが、部屋の入り口に立っていた。
いつもは深いローブに身を隠していた彼が、今はそのフードを下ろし、視線をまっすぐに私たちへ向けている。
そのすぐ後ろから、ユリウスとレオンハルトが慌てて追いかけてきた。
「申し訳ありません。お止めしたのですが……!」
ユリウスが言いかけたところで、ディートヘルムが片手を上げて遮る。
「……こうして話すのは、初めてだったか? いや――やっぱり、少し変わったな、お前たちは。」
ノエルがディートヘルムの目をまっすぐ見つめて、小さくつぶやいた。その言葉に何か違和感を感じたが、口を開く前にノエルがこちらを制した。
「すまない、気にしないでくれ。少し話がしたかっただけだ。――アンネリーゼ嬢に。」
「私に……?」
私が問い返すと、ノエルは軽く頷く。
「どうやら、お前たちは“とても重要なこと”を追っているようだ。俺にも、それに関わる事情がある。だから、協力を申し出に来た。」
控えめながらも、確信をもって差し出されたその言葉に、場の空気が変わった。
「……というか、貴方いったい何者なの?」
髪色に気づいたソフィエが眉をひそめる。まずい、この三人にはアレクシスの話はしていないんだった。
「…俺の正体については話していないんだな。」
私は返答に困り、ディートヘルムへ視線をやった。彼は、少し考えたあと小さく首を振る。やはり、今ここでノエルの正体について触れるわけにはいかない。
「まあいい。どちらにしろ、今ここで詳細を話すわけにはいかないからな。……お前たちがこの申し出を受け入れるなら、いくつか渡せる情報がある。」
その言葉に、リディアがわずかに目を細める。
「失礼ですが。…見たところ、神殿会の関係者のようですけれど、貴方が確実に味方だと言える証拠があるのでしょうか?」
「当然だ。だから今すぐ答えを求めようとは思わない。ただ――もし君たちが、この先の道で困難に直面することがあれば、僕とリアナは、力を貸す用意がある。」
リアナの名前を聞いた瞬間、皆の顔に警戒の色が浮かぶ。
「……その代わりに、“条件”がある。お前たちがその気になったとき、改めて話がしたい。」
ノエルはそう言い残すと、ふっと笑って一歩下がる。
「それでは、今日はこの辺で失礼する。……焦らず、慎重に選んでくれ。選択を誤れば、未来は二度と戻らない。」
そして彼は再びローブのフードを深くかぶり、静かに部屋を後にした。
残された私たちはしばし沈黙し、それぞれが思案に沈んだ。
「…何だか不思議な人だったね。アンネリーゼと殿下が混ざったみたいな音だったなぁ。」
また何かを感じたらしいエミールが不思議そうに首をひねっている。
「二人は彼が何者か知っているのね。」
未だ口を開かないディートヘルムと私を見て、ソフィエがため息をついた。
「…分かってる。すべてを話せとは言わないけど、言える範囲で教えてちょうだい。」
「神官の恰好をしていたようだけど、らしくない口調だったわ。」
ソフィエはなんとなく察しがついているようだけど、リディアの方は見当もつかないらしい。まさか、皇帝に亡くなった息子がもう一人いて、実は名前を変えて生きていたなんて思いもしないだろう。
しかし、ノエルはなぜ急に自身の正体を明かして、こちらに接触してきたのだろうか。リアナも一緒に、という言葉を信じていいのだろうか。
「…彼の正体についてはまだ明かせないが、コンラートとリアナ、両方と近しい存在であることは確かだ。」
ディートヘルムの説明に、三人は息を飲んだ。
沈黙が落ちる。重い空気が部屋を満たし、誰もがその言葉の意味を測りかねていた。
「でも、リアナよ? あの聖女リアナが、私たちの味方になるって、本当に信じていいの?」
ソフィエが口を開いた。声音には迷いと疑念が混ざっている。
「そうよね。彼女が神託審理官の庇護下にあるのは明らかだし、現に、ローゼンベルク家を陥れる神託が下された時も、リアナはそれを否定しなかったわ。」
リディアの言葉に、誰も即座には返せなかった。
「……でもね、リアナって、そんな単純な人じゃないと思うんだ。」
ぽつりと、エミールが呟く。皆の視線が彼に向く。
「この前、少し話す機会があって……その時、カイが来たの。カイが、ふと“昔一緒にいたシスター”の話をしてね。」
「シスター……?」
「うん。たしか、“あの人が生きてたら、今のリアナとは違ったかもな”って、寂しそうに言ってたんだ。」
私は思わず息を呑んだ。その言葉に、ある記憶が呼び起こされる。
原作にはなかった、聖女リアナと名もなきシスターの交流。コミカライズ化するにあたり、プレイヤーだったリアナというキャラクターを掘り下げるために追加された、優しく、切ない物語。
その物語の中で、リアナはまだ聖女でも何でもなく、ただの一人の少女として、シスターに寄り添われていた。
リアナに聖女の力が覚醒したとき、シスターは彼女を抱きしめて、こう言うのだ。
――貴女は、私の誇りよ。
その言葉に、リアナは震えながら首を横に振る。自分にはそんな価値はないと、泣きながら否定しようとする。けれどシスターは、何度もリアナの背を撫でて、静かに言葉を重ねるのだった。
「神に選ばれたからじゃないわ。誰かに認められたからでもない。貴女が誰かの痛みに気づき、手を差し伸べようとする、その心が――私の誇りなの。」
その日、リアナは初めて“救う者”としてではなく、“愛された者”として、誰かの腕の中で泣いた。
けれど、間もなくシスターは亡くなる。病によって命を失い、リアナが神に選ばれたその事実を、誰よりも喜びながら。
そして、それがリアナに残したたったひとつの言葉だった。
――誰かの誇りであること。それは、力よりも尊いものなのだと。
その短編の最後、リアナはその墓前に一輪の花を手向ける。そして小さく、まるで自分に言い聞かせるように呟くのだった。
『私は、貴女の誇りでいられたでしょうか……?』
あの物語は、ゲームのシナリオの中では語られなかった、リアナの“人としての根”を描いたものだった。
プレイヤーの心に深く残り、彼女をただの“清らかな聖女”ではなく、“葛藤しながらも信じようとする少女”として映すために。
――そして今、この世界にいるリアナは、あのリアナなのだ。
彼女を信じていいのか、それとも、疑うべきなのか。私の胸の中で、その問いが、そっと揺れていた。
けれど、本人から話を聞けていない今、どんなに考えたところで答えは出ない。真実がどこにあるのかもわからないまま、議論を重ねたところで、結論を急げばそれはただの憶測にすぎない。
「リアナの事はこれ以上考えても仕方がないわね。……それよりも、記録保管庫に入る手段を考えたほうがいいわ。」
ソフィエが、現実的な一手に話を戻した。
「先ほどの彼の力を借りるしかないのでは?」
リディアの言葉に、ディートヘルムが腕を組み、目を細める。
「彼の申し出が罠じゃないって保証はないけど、他に方法もない。……今は、動ける可能性に賭けるしかないわね。」
私も頷いた。信じたいと思った。彼の言葉が偽りでなければ、必ず道はひらけるはずだ。
けれど、その道は決して穏やかなものではない。私たちが踏み込もうとしているのは、帝国の中枢に巣食う闇。その深部に触れようとすればするほど、危険は増していく。
後日、私とディートヘルムはノエルと改めて接触し、彼の協力を受け入れることを決めた。彼の持つ情報と立場は、神殿会の内部へと迫る唯一の鍵になり得る。
だが――だからこそ、リディアたち三人をこれ以上巻き込むわけにはいかなかった。ノエルとの交渉も、記録保管庫への潜入も、あまりに危うい橋だ。
「ごめんなさい。ここから先は、私たちだけで進まなければならないの。」
私の言葉に、リディアは黙って頷いた。エミールは寂しそうに眉を下げ、ソフィエはほんの少しだけ口を尖らせた。でも、誰一人反対はしなかった。
「だったら、私たちにできることを教えて。貴女の背を押すくらいのこと、私たちにもできるはずよ。」
「兄のところにも連絡してみる。記録保管庫の構造や管理体制、閲覧許可のルート――わずかでも手がかりになりそうなことは全部調べてみる。」
「僕も、記録を見てて違和感のあった部分を整理してみるよ。前に拾った医療記録の断片にも何かあるかもしれないからね。」
三人とも、自分にできる役割をすぐに見つけ、申し出てくれた。その優しさが、何よりも心強い。
私は静かに頷いた。
「ありがとう。本当に、ありがとう。――私、必ず真実を掴んでみせるから。」
それは決意だった。
母が残した謎を解くこと。そして、ローゼンベルク家の名誉を取り戻すこと。
共に戦ってくれる仲間がいる限り、私はきっと、迷わずに進める。




