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 私とディートヘルムは、ヴァレンシュタイン家を後にし、こっそり馬車に乗り込んだ。


 相手はこちらの動きを封じたと思い込んでいるだろう。自由に動けていることは、あまり知られないほうがいい。用心するに越したことはない。



「私、少し気になっていることがあって。一度、邸に行きたいんだけどいいかしら。」


「…恐らく騎士団たちがまだ滞留しているだろう。まずは様子を見てからだな。」



 ディートヘルムが御者に行き先を告げると、馬車はゆっくりと走り出した。到着するまでの間、これからすべきことを改めて整理する。



「私たちの方は、レオポルトについて更に調査を進めたほうが良さそうね。」


「あぁ、コンラートに関してはヴァレンシュタイン家に一任したほうがいい。」



 今は、コンラートとレオポルトの間に接点があったという物的証拠は何もない。レオポルトは既に他界してしまっているので、本人に直接確認するわけにもいかない。


 レオポルトが、コンラートに付き従っていた理由は何なのか。忠誠心からなのか、脅されていたからなのか。


 それを知るためにも、まずはレオポルト自身を深堀しなければ分からないだろう。



「ユリウス様にも、協力を頼むことはできそう?」


「あぁ、心配するな。ここに来る前に声はかけてある。」



 カーテンの向こう、揺れる街路樹をぼんやりと見つめながら、私は隣に座る彼の存在を意識した。


 ――いつから、こんなにも頼るようになったのだろう。


 かつての彼を思い出すたびに、胸が痛む。それでも、今こうして隣にいる彼は、私が信じるべき未来を見据えて共に歩んでくれている。



 「……ありがとう、ディートヘルム。」



 ぽつりと漏れた言葉に、彼は少しだけ目を見開いたあと、静かに微笑んだ。



 「礼を言われるようなことはしていない。君が前を向いて進もうとする限り、俺はその隣にいるだけだ。」



 その言葉が、どれほど心強いか。


 何もかもが疑わしく思える中で、彼だけは、ずっと変わらず私を見てくれていた。その瞳に嘘はない。触れる手の温もりは、これまで失われてきた多くのものを、そっと包んでくれる。



 「……それでも、私はあなたがいてくれて、本当に救われているのよ。」



 顔を上げると、彼の瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。



 「なら、その言葉に報いるためにも――俺は、君の信じる道を共に進む。」



 その言葉に、胸がじんと熱くなる。


 馬車は静かに、夕日に染まる街を進んでいく。たとえどんな暗闇の中であっても、隣に差し出されたこの手がある限り、私はもう一人ではない。





  【皇都・ローゼンベルク家別邸】



 今や私は、名実ともにヴァレンシュタイン家の一員だった。堂々とここを訪れても、誰も文句は言えない。


 ――けれど、それでは意味がない。


 コンラートがこの動きを察知すれば、奴は必ず先手を打ってくる。証拠は消され、口は塞がれ、真実はまた霧の中だ。


  馬車はローゼンベルク家の別邸から少し離れた林道の影に停まった。邸宅が見えるほどには近く、しかし直接の警備の目には入らない絶妙な距離。


 私は窓の隙間から、遠目に別邸を見つめた。以前と変わらぬ重厚な造りの建物。だが、その周囲には数人の帝国騎士団の姿が確認できる。



「やはりまだ、滞在しているのね……。」



 ディートヘルムが小さく頷いた。



「正門から入るのは避けたほうがいい。連中の目的が“監視”なら、ヴァレンシュタイン家の庇護を受けた君であっても、不用意な接触は記録に残る。」



 私は小さく息を吸い、こくりと頷いた。



「正面を避けるなら、裏手の使用人用の搬入口から、ね。あそこなら……。」



 もしもの時の為に、事前の確認をしておいてよかった。変装とまではいかないが、目立たぬように布をまとい、身を小さくする。



「待っていて。すぐ戻るわ。私一人のほうが怪しまれない。」


「……無理はするなよ。何かあればすぐに合図を送れ。」



 ディートヘルムの言葉に頷き、私は馬車から降りた。


 風が草をかきわける音に紛れ、木々の影を縫うように別邸の裏手へと歩を進める。搬入口の扉は、今も昔と変わらず、蔦に覆われていた。


 私は手を伸ばし、決まった節のところを三度、軽くノックした。


 しばらくすると、扉がわずかに軋みを立てて開き、中から顔を覗かせたのは、侍女のニーナだった。



「……お嬢様!?」



 息を飲むニーナに、私は口元に指を当てて見せた。



「ニーナ、お願い。今は人目を避けたいの。」



 ニーナは迷いながらもすぐに頷き、私を手早く中へと招き入れた。



「何があったのか、皆、心配しておりました……。でも、まずはお身体を。」


「あとで話すわ。邸の中にも騎士たちは入ってきてる?」


「はい、数人ですが…。邸内で書類や手紙などを回収しているようです。」



 搬入口を抜けて厨房の方へ入る。身を屈めて周りを確認しながら進むと、驚いた顔をしたハンスが口を開いてこちらを指さしていた。



「元気そうで安心したわ、ハンス。」


「何やってんだよ、こんなところで!騎士サマたちにバレちまうぞ。」



 ハンスは小声で近寄ってくると、私の姿が入り口から見えないように、食材が入ったチェストで隠してくれた。



「お父様たちが邸を離れてから大丈夫だった?」


「私たちには何の事情も教えてもらえなかったんです。とりあえず、宮廷にお連れするだけだの一点張りで…。」



 お父様のいう通りならば、皇帝陛下が本気でローゼンベルク家を疑う気はないだろう。むしろ騎士団の派遣は、表向きの「公平な調査」。誰の贔屓もせず、形だけでも証拠を探し、潔白を示せるようにという配慮だろうか。



「今のところお父様も、お兄様も無事だから安心して。それに今回の連行は、恐らく形だけのものだろうから。」



 二人を安心させるために、出来るだけ明るい声で説明する。しかし、二人の顔から不安の色が消えることはなかった。



「レオンとフリーデは?」


「レオンは、騎士団の方と執務室に。フリーデ様も図書室の方で対応してくださっているはずです。」



 ニーナが声を潜めて答える。



「図書室には、例の……本も?」


「はい。かなり時間をかけて捜索しているようなので、恐らくは……。」



 ヴァレンシュタイン家を出る前に、曾お祖父様から見せていただいた資料の中で気になるものがあった。


 当時、まだお母様とお父様が出会う前に送られてきたであろう縁談を打診する書状。そこにあった署名と横に押印されたレーヴェンタール家の封蝋。私はその封蝋の家紋に見覚えがあった。


 図書室で見つけた、古代語の辞書と何かを解読したようなメモ書き。その辞書の表紙の裏にその封蝋と同じ家紋の印章があったのだ。


 それは、数年前にミーナに取り寄せてもらった、お母様が研究していた本を解読するために使っていた辞書だ。その古代語は、かつて南方にあるヴァルドゥーン連邦で使用されていた言語で、現在の公用語は帝国語であるが、今も一部の民族の間では古代語が使用されているという。


 レーヴェンタール家の家紋と、お母様が研究していた本。ここにもまた妙なつながりを感じてしまう。



「確認してみる価値はあるわ。せめてあの辞書だけでも持ち出せたら…。」



 私は慎重に立ち上がる。



「少しの間だけでも、図書室が無人になれば…。」


「……私に考えがあります。」



 何かいい方法はないか、考えているとニーナが意を決したように呟いた。



「これから私とハンスさんで異臭騒ぎを起こします。今、一階は騎士たちの見回りが手薄です。私がそれをフリーデ様に報告しに行き、騎士団の方を連れてこちらに降りてきますので、お嬢様はその隙に2階の図書室へ。」


「なるほど、そりゃ名案だ。異臭の元は俺に任せとけ、この間手に入れたとっておきがあるからよ!」



 ハンスはそう言ってチェストの中から見たことがない食材を取り出した。



「それは何なの?見たところ野菜か果物みたいだけど…。」


「幻の果物さ。匂いは最悪だが、味は最高級ってね。」



 得意げに笑うハンスに、「確かめてみるか?」と聞かれたが丁重にお断りしておく。異臭騒ぎを起こせるくらいの匂いってどんな匂いなのだろう…。



「……では、私がフリーデ様に伝えに行くタイミングで、ハンスさんは食堂の近くで”騒ぎ”を起こしてください。周囲にできるだけ強い印象を残して、私が駆け込む余地を作ってください。」


「任せとけ。こういうのは得意分野だ」



 ハンスの頼もしい言葉に、ニーナが小さく頷いた。その表情には、緊張と覚悟が入り混じっている。



「お嬢様、図書室に向かうまでの廊下には足音が響きやすい箇所がいくつかあります。絨毯の縁を踏んで行けば音は抑えられますから、気をつけて。」


「ありがとう、ニーナ……あなたがいてくれて心強いわ。」


「お嬢様こそ、お気をつけて。すぐに合図を出しますから。」



 私は小さく頷いた。そしてふたりと別れ、静かに階段脇の陰に身をひそめた。


 図書室に行きたい──ただそれだけなのに、どうしてこんなに慎重にならなければならないのだろう。胸の奥に冷たい怒りのようなものが広がった。けれど今は、感情を抑えなくては。


 数分が過ぎる。


 しんと静まり返った空気の中に、かすかに階下で物が倒れる音が響いた。そして、物置部屋からハンスの声が響く。



「うわ、何の匂いだこれは……!」



 ──始まった。


 私は階段の隙間からそっと覗いた。ニーナが慌てた様子で走って行くのが見える。その少し後、フリーデと数名の騎士団員が足早に彼女の後を追っていった。


 今がチャンスだ。私はそっと立ち上がり、二階へと階段を駆け上った。


 静まり返った廊下。時折、遠くから話声が聞こえる。恐らく執務室の方だろう。慎重に足音を殺して進み、図書室の扉の前へと辿り着いた。


 取っ手に手をかけると、扉は鍵もかかっておらず、すんなりと開いた。


 部屋の中央の大きな机の上には、本棚から出された無数の本たちといくつかの書類が無造作に積まれていた。足元にも机に乗りきらなかった本たちが散乱している。


 その中に、見覚えのある表紙を見つけた。私は駆け寄り、中身を確認する。メモ書きも挟まったままだ。

 


「良かった。本の方は……。」



 辺りを見回すと、空になった本棚の一つが目についた。部屋の奥にある本棚の一番下の段。背板が少し浮いているように見えたのだ。


 私は近づきその背板の隙間に指を入れた。すると簡単に背板が外れ、壁と本棚の隙間に一冊の本が挟まっているのに気が付いた。


 取り出すと、それは見覚えのある表紙。淡い青の表紙に書かれた古代語の文字。



「これ……。私が読んでいたものじゃない。」



 同じものに見えるが、私が読んでいたものよりもかなり古い。ページをめくるとところどころに帝国語で書かれた書き込みが残されていた。そして、辞書と同じように表紙の裏にはレーヴェンタール家の家紋の印章。



「……これって。」



 《この本はレーヴェンタール家に返すこと。彼はこれが"鍵"だと知らない》



 心臓が跳ねた。お母様はいったい何を見つけたのだろう。それに、彼とはいったい誰の事なのか。考えられるのは、コンラートの息子だろうか。



――とりあえず、今はここから脱出しないと。



 私はそっと本を抱え、背板を元通りにはめ込むと、図書室を後にした。


 急がなければならない。けれど、足音を立てるわけにもいかず、私は緊張を抑えながら廊下を進んだ。階段へ向かって数歩踏み出したその時、執務室の扉が開きかける音がした。



――まずい。



 とっさに柱の陰に身を隠す。が、すぐに気配を察したのか、扉の隙間からレオンが顔を覗かせた。


 目が合う。一瞬、私の姿を見咎めた彼の瞳が驚きに見開かれた。けれどすぐに、何事もなかったかのように後ろを振り返った。



「あ、あの!確か、後ろの棚にもいくつか書類があったような…。」



 レオンが意図的に声を張りながら、後ろの騎士たちに言った。そのまま彼は扉を半分閉めて、私の方へちらりと目線を走らせる。行け、という合図だった。


 私は軽く頷き、彼らが執務室から出てくる前に階段を駆け下りた。


 階下に降りたところで、物陰から誰かが手招きする。フリーデだった。彼女は騎士たちの輪からうまく抜け出してきたらしく、手早く私の元へ駆け寄る。



「こっちです、お嬢様。荷物の搬入口から出ましょう。騎士たちはあちらに集まってます。」



 私が頷くと、フリーデは私の腕を取り、厨房の奥へと誘導していった。すでに扉は少し開かれていて、ひやりとした外気が中に吹き込んでいた。



「……ありがとう、フリーデ。」


「よくぞご無事で。また、必要とあらばお力になります。」



 そう言って微笑む彼女の顔に、かすかな決意が滲んでいた。


 私は再び本を抱え直し、扉の隙間から素早く外の様子を確認してから、搬入口を抜けて裏路地へと出た。慎重に扉を閉め、足音を殺しながら、石畳の道を進んでいく。ここを抜ければ、ディートヘルムが待つ馬車のはず――。


 と、角を曲がったその瞬間だった。



「あ!……アンネリーゼ?」


「アンネリーゼ!」


 小さく息を呑む。目の前に立っていたのは、リディア、エミール、ソフィエ。息を切らせながら、まるでこちらの様子を見にきたかのように、三人が揃ってこちらを見つめていた。



「どうしてこんなところに?貴女、宮廷にいるはずじゃ…?」



 ソフィエが真剣な顔で問いかけ、エミールは警戒するように周囲を見回す。リディアは私に一歩詰め寄り、顔をしかめて声をひそめた。



「良かった、アンネリーゼ。無事だったのね!ローゼンベルク家が拘留されたって聞いて心配で……。」



 リディアの瞳に宿るまっすぐな想いに、一瞬だけ言葉を詰まらせる。


 けれど、今は説明している時間はない。



「……ありがとう。でも、今は本当に急いでいるの。ごめんなさい、リディア、ソフィエ、エミール。ノルトハイム家の屋敷へ行ってくれる?後で必ず向かうから。」



 三人の顔に戸惑いが走る。それでも、私が決して冗談で言っていないことは伝わったらしい。


 「……わかったわ。」とリディアが静かに頷き、エミールが苦笑しながら言った。



「ちゃんとあとで説明してね。ソフィエが三日くらい拗ねるから~。」



 「エミールっ!」と抗議の声をあげたソフィエだったが、私の表情を見てすぐに口をつぐみ、ゆっくりと頷いた。



「必ず、来てよ。」


「ええ、約束するわ。」



 私は短く返し、三人に背を向けて路地の奥へと駆け出した。


 もうすぐ、馬車が見える。舗装の甘い路地を小さく跳ねながら、私は足早に進んだ。胸の奥には、さっきまでとは違う重みがある。古びた本、手書きの文字、そして“鍵”という言葉――母が残したこの言葉にいったいどういう意味が込められているのか。


 ディートヘルムの姿が見えた。馬車の傍に立ち、こちらを見つけてわずかに目を細めている。私は小さく息を吸い込んで、歩を進めた。


 ……もう、迷わない。母が遺したものを、必ず繋いでみせる。







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