7
応接間の扉を開けると、マティアス大司教が深く腰掛けていた。傍らには若い神官も控えている。
「お久しゅうございますな、アンネリーゼ様。どうにもこの頃は、立ち上がるにも時間がかかるようになりまして……座したままのご挨拶、どうかお許しを。」
柔らかな笑みを浮かべながら、マティアス大司教は丁寧に頭を下げる。穏やかな声音は以前と変わらず、けれど少しだけ、声にかすれが混じっていた。
「とんでもございません、マティアス様。わざわざお越しくださって、ありがとうございます。ご無理はなさらないでくださいませ。」
私は思わず背筋を正し、頭を下げた。どれほど体が衰えても、変わらぬ敬意を抱かずにはいられない人物だ。
「いやいや、あれほど幼かったお嬢様が、今やこうして立派にご挨拶をなさるのですから……時の流れというものは、まこと不思議なものですな。」
司教の目尻に刻まれた皺が、優しげに深まる。その温かな視線に、私は自然と表情を緩めた。
「……マティアス様、父からはどこまでお聞きになっていますか?」
私がそう尋ねると、マティアス大司教は静かに頷き、隣に控えていた若い神官へと視線を向けた。青年は無言で一礼し、音もなく部屋を後にする。扉が閉まると、応接間には沈黙が満ちた。
彼は膝の上で手を組み、私をまっすぐ見つめた。その眼差しには、穏やかな光と慎重な思慮が混ざっていた。
「おおよその事情は伺っております。ノエルという名に行き着いた経緯も、レオポルト=シュタウファーの名も。そして――アンネリーゼ様が“未来”を知っているということも」
私は思わず背筋を正す。やはり、お父様はそこまで打ち明けていたのだ。
「……はい。信じていただけるとは思っていませんでしたが――。」
「信じるか否かではなく、私は神に誓って誠実でありたいと願っております。」
マティアス大司教の声は低く、確かな響きを持っていた。まっすぐに見つめるその瞳からは、一切の迷いが感じられない。
「正直に申し上げましょう。レオポルト=シュタウファーの件――私は彼が施療院で行っていたことも、ノエル=サリヴァンという神官についても、これまでまったく知りませんでした。誰よりも信心深い彼が、そんな真似をするとは……にわかには信じ難い。けれど、もし私の知らぬところで何かがあったのなら、それを正すことこそが、教会人としての務めです。」
その言葉に、私は思わず胸をなでおろした。腐敗に蝕まれる神殿会の中で、こうして信じられる人がいる。それだけで、どれほど心強いことか。
マティアス大司教は一瞬だけ視線を伏せ、言いにくそうに口を開いた。
「……ただ、思い当たる節がひとつだけあります。かつてレオポルトが、とある神託審理官と私的にやり取りしているのを、何度か目にしました。」
その頃というと、まだレオポルトが地方の施療院にいた時期だろう。本来、神殿会の中枢にいるような高位審理官と接点などあるはずもない。
「その神託審理官とは……?」
「コンラート=フォン=レーヴェンタールという男です。……実は、エリーザ様、ひいてはヴァレンシュタイン家と、浅からぬ縁のある者なのです。」
その名を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。お母様、そしてヴァレンシュタイン家。なぜ、この場面でその名が出てくるのか。
「何を話していたかは定かではありません。ただ、レオポルトの様子にどこか違和感がありました。何らかの“記録”の扱いについて話していたように見受けられましたが……。確かめる前に、彼は皇都の白衣修道会へ異動になってしまいました。」
記録の扱い――それが、神官名簿や戸籍の操作につながるものであれば……。
「そしてもうひとつ。ノエル=サリヴァンという若者が、現在、聖女リアナ様付きの神官として仕えているのは、そのコンラートの推薦によるものだと聞いております。」
「そんな……。」
マティアス大司教の声は一段と低くなり、慎重さを帯びる。
「かつてレーヴェンタール家では、ヴァレンシュタイン家との縁談の話が持ち上がったことがあると聞いています。エリーザ様がご結婚される少し前――ごく一部の限られた間で、密かに交わされた話でしたが。」
「そんな話が……。」
「ええ。結局は立ち消えとなりましたが……その頃から彼は、“家門”というものの力に強く執着を見せていました。特に、“信仰”と“血筋”が結びつく家柄――象徴としてのヴァレンシュタイン家を、何かに利用したがっていたように、今になって思えてなりません。」
私は驚きのあまり、言葉を失った。膝の上で握りしめた拳に、ぎゅっと力が入る。背を伝う冷たい汗に気づき、胸の内がざわめく。
もしこのコンラートという男が、すべての黒幕なのだとしたら――
お母様の死、ノエルの存在、毒、記録の改ざん、そしてローゼンベルク家への冤罪。
すべての陰謀の糸が、まるで蜘蛛の巣のようにこの男へと集束していく。
静まり返った応接間の空気が、急に冷たく重く感じられた。私は唇を噛み、視線を落とす。
「……そうだとすれば、これはもう偶然ではありません。」
ぽつりとこぼれた言葉に、マティアス大司教が目を細めた。
「困惑なさるのも無理はありません。ですが、アンネリーゼ様。どうか、忘れないでください。」
その声は柔らかく、けれど確かな意志を帯びていた。
「貴女の心が“正しきもの”を求めていること。その信念こそが、この闇に光をもたらす鍵となるのです。」
私はゆっくりと顔を上げた。まだ何も決まったわけではない。ヴァレンシュタイン家が関わっていると決まったわけではない――。
ならば、確かめなければ。どれほど厳しい真実であっても、ここで立ち止まるわけにはいかない。
私は静かに息を吸い、目を伏せた。
「……ありがとうございます、マティアス様。少し、心を整理する時間をいただけますか。」
「ええ、もちろん。お気持ちは、よくわかります。」
マティアス大司教の穏やかな頷きと共に、応接間には再び、静かな時間が流れはじめた。
私は瞼を閉じ、胸の奥に渦巻く混乱を、どうにか鎮めようとする。まだ、すべてが明らかになったわけではない。けれど確かに、一歩、核心へと近づいたのだ。
この先に待つ真実が、どれほど過酷であっても――私は目を逸らさない。
その決意を胸に刻んだ瞬間だった。
扉が乱暴に叩かれた。重々しい空気を裂くように、控えていた神官が慌てた様子で駆け込んでくる。
「し、失礼いたします! マティアス様……至急、お伝えすべきことが――!」
神官の顔は蒼白で、肩が震えている。ただ事ではない、と直感する。マティアス大司教が静かに促すと、彼は言葉を選ぶ暇もないまま声を発した。
「ローゼンベルク家の当主、ジークベルト様と、長男ルーカス様が……帝国騎士団によって、捕縛されました。」
「……なに?」
言葉が、喉の奥で止まる。
あまりにも唐突な報せに、思考が追いつかない。誰が、なぜ、今――?
「アンネリーゼ様にも、同様に出頭の命が出ております。騎士団が、迎えの者をこちらへ――すでに門前まで……!」
耳鳴りのような音が頭の奥で鳴る。
さっきまでの静寂が幻だったかのように、空気が一変していた。冷たい現実が、容赦なく私の目前に突きつけられる。
私は、立ち上がった。
「行かなくては。今すぐに。」
震える手を押さえつけながらも、足取りは迷わない。このまま見過ごすわけにはいかない。あの最悪な未来を、繰り返すわけにはいかないのだ。
マティアス大司教は立ち上がり、私の前に一歩進み出る。
「アンネリーゼ様、どうかお気をつけて。何が起ころうと、わたくしは貴女の言葉を信じます。心ある者が必ずいると、信じてください。」
その言葉が、胸の奥に確かな火を灯した。
「……ありがとうございます。必ず戻ってきます。」
顔を上げ、まっすぐに前を見据える。
これは運命ではない。誰かの仕組んだ“筋書き”だ。ならば、それを塗り替えるために、私は立ち向かう。
扉が開かれ、騎士団の紋章を掲げた男たちが私を待っていた。
私は深く息を吸い、歩き出した。
――嵐の中心へと。




