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朝霧に包まれた皇都を背に、馬車はゆっくりと石畳の上を転がりだす。ローゼンベルク領までの道のりは長い。革張りの座席に身を沈めれば、馬のいななきと御者の掛け声が、窓の外で淡く溶け合っていく。
ローゼンベルク領で、マティアス大司教と面会し確かめなければならないことがある。私は、横の座席に置いた資料の束にそっと手を置いた。
昨日の夜、ローゼンベルクの別邸にユリウスが訪ねてきた。オスヴァルトの暗殺に使われた<遅効性の神経毒>について新たな事実が発覚したためだった。
【皇都・ローゼンベルク家別邸】
「こんな夜分にお訪ねする無礼をお許しください。」
「頭を上げて下さい、ユリウス様。こちらがお願いしたことですから。」
応接間に入ると、ユリウスがたくさんの書類を手に、そこに立っていた。確かに未婚の貴族令嬢を訪ねるには、いささか夜が更けてしまっているが、今回は例外だろう。
ローゼンベルク領へ帰る前に、どうしても手に入れておきたかった情報だ。早速、ユリウスの報告を聞く。
「アンネリーゼ様のご推察の通り、あの<神経毒>は、帝国内で一般流通しているものではありませんでした。薬物研究院の分析により、西方のレト国でしか生息していない植物由来の成分が含まれていたのです。」
「レト国……。」
グラウヴァルト帝国の準友好国の一つで、銃火器の貿易が盛んな国だ。長きにわたって、レト国の軍事産業の恩恵にあずかってきているが、ここ数十年で問題になっているのが移民問題だ。
レト国内では、貧富の差が激しく、居場所を失った貧民たちが周辺諸国へと流れているのだ。
「レオンハルト殿にも協力してもらい、帝国騎士団と神殿会の薬物資料や研究記録の調査を行いました。その結果、十数年前、異国から流入した毒物で地方の施療院で一時保管・研究対象として扱われた物と、今回の<神経毒>が酷似していることが判明しました。」
ユリウスから受け取った資料に目を通す。毒の正式名称や管理していた施療院の名前が明記されており、備考欄には、現在毒物は破棄済とされているが、誰がいつ処分したか不明とある。
管理を任されていた神官の名前を見て、思わずユリウスを仰ぎ見た。
「当時、この施療院で研究資料の管理を行っていたのは、レオポルト=シュタウファーです。」
やはり、彼の名が出てきた。
お母様の死とアレクシスの偽装死――ふたつの事件を結びつける人物。その名が、ここでも浮かび上がってくるということは、偶然では済まされない。
「破棄されたとされる毒物の詳細記録は一部欠損しており、使用記録や処分の証明書に署名がなく、不自然な点がいくつもあります。実際には、研究という名目で確保された毒が密かに持ち出された可能性が高いです。」
ユリウスは資料の束の一部を指差し、淡々と説明を続ける。
「さらに調査を進めたところ、レオポルトは、皇后陛下と遠縁にあたる貴族の血筋に連なっていることが確認されました。アレクシス殿下が“ノエル=サリヴァン”として生き延びた後、後見人として彼が選ばれたのは、その縁故があったからと考えられます。」
「……つまり。」
思わず口元を手で覆う。
「施療院の毒を利用し、アレクシス殿下の“死”を偽装した。そして生き延びた彼を、皇后陛下の庇護下でレオポルトに託した。全て、つながっている。」
自分の声が、やけに冷たく響いた。
お母様の命が失われたあの日よりも、前にレオポルトは、裏でこのような動きをしていたというのか。神殿会の医療部門に所属しながら、命を救うための毒を、命を偽るために用いた――皮肉な話だった。
ユリウスは静かに言葉を継いだ。
「アンネリーゼ様。マティアス大司教にお会いになるなら、この資料をお持ちください。彼なら、当時の施療院やレオポルトの動きを、何かご存知かもしれません。」
「ありがとう、ユリウス。」
彼の手から資料を受け取る。重みのある革製のフォルダー。そこに詰まっているのは、お母様と、そしてアレクシスを取り巻く真実の一端――私の進むべき道を指し示すものだった。
昨夜のやり取りを思い出し、無意識に指先が震えた。マティアス大司教に会わなければならない。あの方ならば、きっと……。
それは、かつてのお母様知り、お父様と信頼を結んだ誠実な人。そして今、失われたはずの希望を、もう一度灯してくれるかもしれない、最後の砦。
私は深く息を吐き、カーテンを少しだけ持ち上げて外を見た。木々の合間に、うっすらと朝の光が差し込んでいる。霧はまだ晴れない。だが、その向こうにある真実だけは、確かに見えている気がした。
◇
【ローゼンベルク領・侯爵邸】
「お帰りなさいませ、お嬢様。」
「ただいま、テオドール。元気そうでよかった。」
馬車を降りると、執事のテオドールが私を温かく迎え入れてくれた。領地に帰ってきたのは、皇都に移り住んで以来初めての事だ。
「お疲れでしょうから、まずは自室で体を休まれてください。」
「ありがとう。でも、そんなに悠長にもしてられないの。これからマティアス大司教のところへ伺わないといけなくて…。」
テオドールは私の手から荷物を受け取ると、その品のある佇まいに変わらぬ威厳を漂わせながらも、優しく微笑んだ。目元に刻まれた皺は、歳月の重みと、数えきれぬ思い出の証。それが、まるでひとつひとつの笑顔を記憶しているかのように、深く優しく刻まれていた。
「承知しております。お嬢様が到着され次第、マティアス様がこちらに足をお運びくださるようですよ。今しがた使いのものをやりましたので、いらっしゃいましたらお声がけいたします。」
「そう…。では、少し自室で休むわ。」
「はい、後ほどお茶をご用意いたします。」
恐らくお父様が手配してくれていたのだろう。その好意に甘えて、少し休むことにした。広い中庭を抜けて本館へと足を運ぶ。
数年ぶりに戻ってきたローゼンベルク侯爵邸は、記憶の中よりもずっと温かく、穏やかな場所だった。
以前ここで暮らしていた日々を思い返すと、胸に残るのは言葉少なな家族の気配と、満ちることのなかった静寂ばかりだった。広い石造りの廊下も、大理石の柱も、ただそこに在るだけで、互いを隔てる冷たい距離の象徴のように思えた。
けれど今――久しぶりにこの扉をくぐった私は、その印象がまるで違っていることに戸惑っていた。
冷たいと感じていた大広間は、窓から差し込む光に包まれて明るく、かつて無機質に思えた執務室も、どこか落ち着いた空気をたたえている。使用人たちの挨拶もどこか柔らかく、庭の薔薇の香りが懐かしさと安らぎを連れてくる。
――私が変わったからだ。
皇都の別邸に移ってからいろいろなことがあった。お父様の言葉の裏にある不器用な愛情を知り、お兄様の沈黙が無関心ではなく戸惑いだったと気づいた。いつしか、すれ違い続けていた私たちのあいだにも、確かに絆が育っていたのだ。
その絆が、かつての思い出の色まで塗り替えていく。
同じ場所なのに、まるで違う風景のように見えるのは、不思議で、そしてどこか誇らしかった。
まっすぐ自室に向かい、メイドが淹れてくれた紅茶を飲んで一休みしていると、数か月前に領地に戻っていたヘルミーネが顔を出してくれた。
「まあ、お嬢様!…少しお痩せになったのでは?」
「久しぶりね、ヘルミーネ。あまり自覚はないんだけど、そう見える?」
「ええ、とても。頬が少しこけて……でも、お顔は晴れやかでいらっしゃいますわ。」
そう言ってにこやかに笑うヘルミーネは、相変わらず私の顔を見ただけで細かな変化に気づく。長年仕えてくれている彼女の目は、鏡よりも確かだった。
「最近いろいろあったから。貴女にもずいぶん心配をかけたわ。」
オスヴァルトの捕縛から、間を開けずに領地へと帰ってしまったので、ろくに説明も出来なかった。もちろん、お父様やテオドールから事情は聴いていると思うが、ヘルミーネには、彼のことでは少なからず思うところもあったはずだ。
もともとオスヴァルトとは折り合いが悪かった。表立って口にすることはなかったけれど、彼と顔を合わせるたびに、どこか刺すような沈黙が漂っていた。
「……お嬢様。」
ヘルミーネは、ふと視線を落として、そっと私の紅茶のカップに手を伸ばした。
「温かいうちに、どうぞ。身体の内側からほぐして差し上げたいのです。」
湯気の立つカップを手に取る。花の香りのブレンドは、たぶん、私が好きだったものだ。けれど、味はどこか違って感じられた。懐かしくて、でも、懐かしさだけじゃない。何かが、確かに変わっている。
「ヘルミーネ、庭の薔薇……少し、色が濃くなった気がするの。私の気のせいかしら。」
「まあ、それは……。」
ヘルミーネは一瞬驚いたように私を見て、それからふふっと微笑んだ。
「気のせいではありませんよ。お嬢様がいらっしゃらない間に、品種の入れ替えがあったのです。旦那様のご意向で、花の世話も少し手をかけるようになったそうです。お嬢様のお帰りが、少しでも心地よいものになるようにと。」
「……お父様が?」
驚いた――けれど、すぐに頬が緩んだ。
お父様らしい。言葉ではなく、こうして静かに伝えてくるところが。
皇都の別邸ではいつも花の手入れをしていた。あれは趣味というより、心を整えるための時間だったのかもしれない。お父様は多くを語らずとも、そんな私の姿を見て、覚えていてくれたのだ。
だからこそ、今回の帰郷に合わせて、庭の薔薇に手をかけてくれた。今の私たちには、そういうやり取りの方が、かえって自然だ。無理に言葉にしなくても、もう十分通じ合えている。
そのことが、胸に静かに沁みた。
「ありがとう、ヘルミーネ。そういう話を聞けて、嬉しいわ。」
「……はい。お嬢様が戻られて、私もとても、嬉しく思います。」
やがて、扉の向こうから控えめなノックの音が響く。
「お嬢様。マティアス大司教がお見えです。」
その声に、私は立ち上がった。
「…行かなくちゃね。」
まるで、変わりゆく自分自身を確かめるように、私は静かに一歩を踏み出した。




