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学院での授業を終え、馬車に乗り込む。いつもとは違って邸には帰らずに、皇都のはずれにある教会へと向かう。あの話し合いの後、すぐに慈善事業に協力したい旨を神殿会に申し出ると、快く受け入れてもらった。そして今日、聖女リアナの奉仕活動の後援のため、教会に出向くことになったのだ。
皇都の大通りには、今日も人の波が絶えない。すると、順調に進んでいた馬車が突然停止した。
何事かと窓からのぞくと、人込みの中に、白銀の装束を纏った神殿会の神官たちが、整然と行進していた。子供を抱えた母親が、その列を前にひざまずき、祝福を請う姿も見える。
「……また、神託の内容が的中したそうですわ。」
窓の外から通りすがりの令嬢たちが囁き合う声が、風に乗って届く。
「雨の少なさを予見して、早期に灌漑策を打ち出したとか。やっぱり本物の聖女様なのね。」
街の空気に、どこか熱のようなものが含まれていた。神の声――それが、今やこの皇都の道理になりつつある。
人々は、神官たちの姿が小さくなるまで見送ると、またそれぞれの日常に帰っていく。人混みが散ったことで、馬車もまたゆっくりと進みだした。
「お嬢様、到着いたしました。」
御者に扉が開かれ、私は馬車を降りようとした。だがその瞬間、一つの手が差し出され、思わず息を呑み、顔を上げる。
胸元で静かに揺れる騎士団の証である黒銀のタッセル。レオンハルトがそこに立っていた。
「レオンハルト卿、どうして、ここに…?」
「ディートヘルム殿下から、本日の奉仕活動の間はアンネリーゼ様の護衛につくようにと。」
それ以上は何も言わないレオンハルトに、困惑する。いつまでも馬車を留めておくわけにもいかないので、彼の手を取りそのまま馬車を降りる。
待っていてくれた御者に、また後で迎えに来てもらえるように伝え、一度帰ってもらう。
「今日はありがとう、レオンハルト卿。よろしくお願いします。」
改めてレオンハルトの方へ向き直り、礼を言った。レオンハルトは何も返さず、深々と頭を下げた。
「アンネリーゼ様、こちらです。」
相変わらずの寡黙ぶりに苦笑していると、後ろから声がかけられた。先に到着していたユリウスだ。
「お待たせしたかしら?途中、神官たちの行進にぶつかってしまって…。」
「いえ、私も先ほど着いたばかりですから。」
教会に入ると、入り口前では老若男女が列をなしていた。無料配布される食事や薬のためだと聞いている。
その一角に、大きな布に書かれた神託の言葉が貼り出されていた。
『すべての命は神の光に平等である』
その文言の下、リアナが困窮者に膝をついて手を差し伸べている絵が描かれている。実際の彼女がどこまで手を差し伸べているのか、私にはわからない。
けれど、そこに描かれた“理想の聖女”の姿が、人々に希望を与えているのは事実だった。現実がどうあれ、信じられるものがあるというだけで、人は歩いていける。
――たとえ、それが誰かの手によって巧妙に作られた幻でも。
「アンネリーゼ様?」
急に立ち止まった私を不審に思ったのか、ユリウスが声を掛けてきた。今は、アレクシスの事に集中するべきだ。
「…何でもないわ。彼はいた?」
「はい。狙い通り、今日の巡礼に付き添っているのはノエルです。聖女様はすでに祭壇での祈祷を終え、先ほど衣食の配布を待つ住民たちの奉仕に向かわれたようなので、ノエルは一人のはずです。」
「そう、では行きましょうか。」
レオンハルトには礼拝堂の外で待機してもらい、ユリウスと二人で奥へと進んでいく。
通路を進むにつれ、足音が石造りの床に静かに響く。普段は穏やかな祈りの場であるはずの空間が、今は妙に冷たく感じられるのは、私の心が波立っているせいだろうか。
やがて、彼の姿が見えた。
神殿の奥、献花台の近くで、ノエルは身なりを正し、黙々と仕事をこなしていた。神官らしい慎ましやかな身のこなし。
「あの、少しよろしいですか?」
私が声をかけると、彼は静かに振り向いた。
「…ご用件は、何でしょうか。」
丁寧だが、どこか冷たさを感じる。
「アンネリーゼ=フォン=ローゼンベルクと申します。失礼ですが、ノエル=サリヴァン様でお間違いないですか?」
「えぇ、そうです。…皇太子妃殿下が、私のようなものに用があるとは思えませんが。」
そう言った彼の瞳には、驚きも動揺もなかった。むしろ、最初から私が来ることを予期していたかのような、冷めた静けさがあった。
「貴方に、お話したいことがあります。」
「そうですか……ですが、申し訳ありません。奉仕活動中ですので、長話は控えていただけると助かります。」
私の言葉をやんわりと制しながらも、彼は視線をそらすことなくこちらを見つめていた。
そして、彼は小さく首を傾げると、まるで何かを暗示するように口を開いた。
「……過去を追いかけるのは、時に誰かの未来を損なうことになります。」
「それは、どういう意味です…?」
「聖女様の光を妨げるような言動には――お気をつけください。」
それだけ言い残して、ノエルは足早に通路の奥へと姿を消した。
私はその場に立ち尽くしながら、自分の心のどこかが凍りつくのを感じていた。
「……警告でしたね、あれは。」
後ろからかけられた声に、私はゆっくりと振り返る。ユリウスが深刻な顔をして私を見つめていた。いつの間にか近くに来ていたレオンハルトもまた、無言で周囲に気を配るように視線をめぐらせている。
「彼は“聖女様の光を妨げるな”と。つまり、リアナの意向――あるいは神殿会の意志に従っている、ということですか?」
「……あるいは、従わされているのかもしれません。」
私の言葉に、ユリウスが目を細める。
「それにしても、彼の反応は――冷静すぎた。まるで、最初からあなたが来ることを知っていたみたいに。」
「……ええ。けど、だからこそ、はっきりしたわ。」
私はゆっくりと前を向いた。
「あの人は、やっぱりアレクシス様だわ。そして、今の彼は、“ノエル”として生きることを選んでいる。その背後にあるのが、自分の意志なのか、神殿会の庇護なのかは、まだ分からないけれど――。」
唇をきゅっと結び、私は拳を握りしめる。
「彼が協力的でないのは確かですね。……もう少し、彼の周辺を探りましょう。」
「そうね…。あの人がああ言ったということは、聖女、ひいては神殿会にまだ“知られては困る何か”があるということ。」
ユリウスが頷き、レオンハルトも無言のまま前に出る。私たちは静かに誰もいなくなった礼拝堂を後にした。
◇
ローゼンベルク家の馬車が、夜の帳が降りた邸宅の門をくぐる頃には、空気にひんやりとした静けさが満ちていた。
『……過去を追いかけるのは、時に誰かの未来を損なうことになります』
それはつまり、私たちがこのまま彼の正体をアレクシスだと突き止めることで、彼や、彼の周りの人間に危険が迫るということなのだろうか。
予想はしていたことだが、彼の口からアレクシスの名が出ることは無かった。過去を捨て、ノエルとして生きることで、彼は何かを守ろうとしているのだろうか。
ノエルとの会話を思い出し、考えを巡らせながら邸に入ると、ミーナが慌てて私を出迎えてくれた。何事かと尋ねると、ミーナは少し眉尻を下げながら申し訳なさそうに答えた。
「お嬢様。お疲れかとは思いますが、皇太子殿下がお嬢様を訪ねていらっしゃってます。」
「ディートヘルムが?」
「はい、応接間で旦那様とお待ちです。」
「そう、わかったわ。」
言われたその足で、奥の応接間に向かう。
「お嬢様。殿下と旦那様がお待ちです。」
応接間の前で控えていたレオンが、軽く頭を下げて扉を開く。中に入ると、険しい表情のお父様とディートヘルムの背中が見えた。
「アンネリーゼ、戻ったのか。」
お父様の声にディートヘルムが振り返る。彼は私の表情を見ると、労わるようにやさしく声を掛けた。
「疲れているところすまない。ユリウスから報告を受けた。……それで、直接話を聞こうと思ってな。」
彼に促され、隣に腰掛ける。お父様の前でどこまで報告していいか分からず、ディートヘルムに確認の視線を向ける。
「兄上の事は一通りお伝えしてある。そのまま話してくれていい。」
「分かったわ。…でも、彼は何も話してくれなかった。ただ――“聖女様の光を妨げるな”って。まるで、警告のように。」
言葉にした途端、喉の奥に苦いものがせり上がる。隣に座るディートヘルムが、沈黙の中で思考を巡らせているのが伝わる。
「彼はアレクシス様だと思う。きっと間違いない。けれど、今の彼は“ノエル”として生きている。“アレクシス”を私たちに見せることはしなかった。」
「…聖女のためか、神殿会のためか。どちらにしろ、兄上にはこちらに協力できない縛りや圧力があるのかもしれない。」
「そうだな……。」と、お父様がゆっくり口を開いた。
「ノエルが何を思い、何を恐れているのかは分からない。しかし、お前たちが追う真実は確かに、彼にとって脅威であり、守るべきものを危うくするのだろう。」
ディートヘルムが深く頷く。
「聖女リアナの存在は、単なる偶像以上の意味を持っている。彼女の光を守るためなら、ノエルは自らの過去も捨ててしまったのかもしれない。」
「それに、あの警告は逆説的だが、調査の方向性が間違っていないことの証明にもなる。」
と、お父様が言葉を継いだ。
ディートヘルムの記憶の事も考えると、黒幕は私たちローゼンベルク家だけではなく、帝国の中枢である宮廷内部にまで手を出していた。
「つまり、リアナやノエルの背後にいる黒幕が、この国の運命を揺るがす真実を隠しているのだろう。だからこそ、我々は慎重に、しかし諦めることなく真実に迫らねばならない。」
お父様の言葉を受け、私は拳を握りしめて力強く言った。
「わかりました。慎重に、でも決して引かずに探り続けます。どんなに闇が深くても、必ず光を見つけ出しましょう。」
ディートヘルムとお父様が私を見つめ、二人とも深く頷いた。
静かな応接間に、新たな決意の火が灯ったのだった。




