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春の風は、ひどく穏やかだった。

 

 こうしてこの場所に立ち、彼を見送るのも、これが最後かもしれない――そんな思いを抱きながら、私は整列する上級生たちの列の中にいた。

 

 皇太子ディートヘルムの卒業式。学園全体が、厳粛さと寂しさに包まれている。


 その空気の中に身を置きながら、私は思い出していた。あの日、ディートヘルムと共に向かった曾祖父様の館で、私はようやく“真実の欠片”に触れたのだ。



 「アレクシス様は……名を変えて生きている。」



 低く絞り出すようなその声が、今も耳の奥に残っている。それ以上の言葉はなかった。けれど、その沈黙こそが、何より雄弁だった――。


 名を変えて生きる。この帝国で、そんなことができるのはただ一つ。光冠の神殿会コロナ・ルーキスをおいて他にない。



 (聖女の神託も、オスヴァルトの死も、アレクシス様のことも。すべては――あの教会に繋がっている。)



 そこまで考えて、私はそっと視線を上げた。


 壇上に立つ彼は、以前と変わらぬ静かな表情で祝辞を述べていた。だが、それを聞くのもこれが最後だ。彼がこの学園を去れば、私たちの間にあった時間も、少しずつ形を変えていくだろう。


 それは寂しいことではある。けれど同時に、私が進むべき道を照らす、ひとつの光でもある。


 なぜなら――私は、知っている。


 新たな嵐が、すぐそこまで迫っていることを。


 そして、その中心に立つのが――かの聖女であるということを。









  【中央学院・大講堂】



 式典が終わり、夕刻からは卒業パーティーが開かれた。普段の厳粛な雰囲気とは異なり、会場には華やかな衣装と香りが満ち、音楽が柔らかく流れている。


 この帝国の未来を担う者たちが、今、ここに集っている。


 本来であれば、卒業生のみが参加できるパーティーだが、私はディートヘルムのパートナーとして出席する。


 卒業生が名を呼ばれ大講堂の中へ入場していく。その列の一番最後に私とディートヘルムは立っていた。



「レオンハルトはもう中に?」


「さすがに一緒に入場するわけにはいかないからな。」



 つい先ほどまで傍にいたレオンハルトは、列を離れ、いつの間にか入り口で近くで待機しているらしい。


 整然と流れる列に従いながら、私はふと、明日からのことを考える。


 私はあと二年はこの中央学院に通う。ディートヘルムのいないこの中央学院に。これまでは学生として学びながら、一緒に公務に向かうことも多々あったが、これからはディートヘルム一人で行うことが増えるだろう。


 静かな回廊の奥で、次々と名前が読み上げられていく。もうすぐ私たちの番だ。その隣で、ディートヘルム殿下は沈黙したまま前を見ていた。


 私はそっと尋ねる。



「……学院を出たら、すぐに忙しくなるわよね?」



 彼はほんのわずかに視線をこちらに寄こす。



「忙しくならないはずがないだろう。だが――。」



 一度言葉を切り、彼はまっすぐに私を見る。



「君の顔を思い出す余裕くらいは、きっとある。」



 胸の奥が不意に熱くなるのを感じた。



「私は……思い出されるような顔をしていたかしら。」



 冗談めかしてそう返すと、彼は珍しく、肩の力を抜いて小さく笑った。



「忘れられるものなら、一度でいいから忘れてみたいものだな。」



 その言葉が本気なのかどうか、私にはわからなかった。けれど、その声音には、少しだけ、寂しさがにじんでいた。


 名が呼ばれる。もうすぐだ。


 私は一歩だけ彼に寄って、小さく囁いた。



「……私も、あなたの姿を忘れないようにします。今のうちに、焼き付けておきますね。」



 ディートヘルムは、少しだけ驚いたように私を見て、そしてまた静かに微笑んだ。



「グラウヴァルト帝国皇太子、ディートヘルム=ツー=グラウヴァルト殿下、アンネリーゼ=フォン=ローゼンベルク嬢」



 彼の手を取り、そっと一歩を踏み出した。


 入場とともに拍手が巻き起こる。煌めくシャンデリアの光に照らされ、会場は祝福と期待の空気に満ちていた。


 会場の一画に待機する楽団の中にエミールの姿も見える。私とディートヘルムに気づいたのか小さく手を振っていた。


 会場の中央まで行くと、彼から手を放し数歩後ろに控える。これから皇太子としての挨拶があるからだ。



「本日は、私たち卒業生のためにこのような場を設けていただき、誠にありがとうございます。


 この中央学院での年月は、私にとってかけがえのない時間でした。学び、迷い、そして出会いのすべてが、私をかたち作ったのだと、今は胸を張って言うことができます。


 ここで過ごした日々の中で、私は多くの友と出会い、多くの試練と向き合ってきました。そのひとつひとつが、私にとっての誇りであり、これから帝国の未来を担う上での糧となるでしょう。


 学び舎を離れたこれから先、私は皇太子として、公務に専念してまいります。帝国がこれからも平穏と繁栄を保ち、すべての民が安心して暮らせる国であるよう尽力することを、ここに誓います。


 最後に、私と日々を共に過ごした皆へ。この先、たとえ道が分かたれようとも、皆の歩みが実り多きものとなるよう、心より祈っています。」



 静けさが、しばし会場を包んでいた。


 彼の言葉の余韻が、まだ誰の胸にも残っているのだろう。やがて、控えめな拍手が一人、また一人と広がり――それは次第に大きな波となって、会場全体を包み込んだ。


 惜しみない敬意と、あたたかな別れの音。


 その中央に立つ彼の横顔は、どこか寂しげで、けれど毅然としていた。


 それを見つめながら、私は不意に、これが一区切りなのだと実感する。――彼が「学生」だった日々は、もう終わったのだ。


 拍手が収まり、司会者が次の進行を告げる。照明がやや落とされ、正面の楽団席に目が集まる。


 音楽家として招かれたエミールが立ち上がると、場の雰囲気がふっと柔らかくなった。


 会場の空気が次第に、祝賀と余韻、そして未来への祝福へと移り変わっていくのを、私は肌で感じていた。


 会場内に喧騒が戻ったところで、祝辞を述べたディートヘルムのもとへ、次々と人々が挨拶に訪れた。


 それは、彼の長年の努力と立場が生んだ当然の光景だったけれど、その隣に立つ私にも、少なからず視線と声が向けられる。


 卒業生たち、貴族たち、そして教師陣。


 ひとりひとりが言葉を交わし、礼を尽くしては次の者へと譲っていく。まるで儀礼のように繰り返されるそれに、私は微笑を絶やさぬよう心を張りつめさせていた。


 そんな中で、ひときわ静かに現れたのはユリウスだった。


 いつもどこか皮肉めいた余裕をまとった彼は、今も変わらぬ穏やかさで、こちらに歩み寄ってきた。



「ご卒業、おめでとうございます、殿下。……そして、ローゼンベルク嬢も。」



 にこやかに礼を取るその姿は、どこから見ても礼儀正しい青年貴族そのものだった。だが、私の目を一度だけまっすぐに見て――


 彼はごく控えめな声で、ぽつりと囁いた。



 「……あの件、お疲れさまでした。無理はなさらずに。」



 わずかに、その声には温もりが宿っていた。



(――知っているのね。オスヴァルトのことを。)



「ご安心ください。当事者以外でこの件を知っているのは我々ノルトハイム家くらいのものです。」



 私が返す間もなく、ユリウスはディートヘルムに軽く会釈し、すぐに人の波に紛れていった。


 その背を目で追いながら、私は静かに息をついた。いつまでも隠しておけるとは思っていなかったが、皇族に一番近い公爵家の名は伊達ではないらしい。


 ユリウスの背が人波に溶けていったあとも、私の胸の奥には、彼の言葉の余韻が微かに残っていた。


 そのまましばらく、礼を尽くす人々に囲まれて過ごしていると、ふと背後から上級生らしき声が耳に届いた。



「……知ってるか? 春から、あの聖女様が編入してくるって話。」


「本当なのか? 神殿にこもってるって聞いてたけど……なんで今さら学園に?」


「さあな。けど、殿下がいないこの春、変わるのは彼女だけじゃないってことだろ。」



 何気ない噂話として交わされるその会話は、すぐに別の話題に流れていったが、私の耳には妙に残った。



 (……原作のシナリオ通り。)


 

 ローゼンベルク家の断罪が行われるまで、あと一年ほどだ。まだ黒幕の正体は掴めていない。頼みの綱はアレクシス様の存在だけ。


 これから訪れる嵐の予感が、静かな宴の灯火の中で、確かに私の胸を締めつけた。


 知らぬうちに運命の歯車は回り始めている――その重みを、私はひとり感じていた。


 そして夜会の最後を告げる鐘の音が、遠くで静かに鳴っていた。


 煌びやかな照明の下で、人々が名残惜しそうに言葉を交わす。私もまた、誰にともなく頭を下げ、最後のグラスを置く。


 ひとつの季節が、音もなく終わろうとしていた。









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