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【ローゼンベルク領・アウレリア聖堂】
教会の敷地内に入ると、正面の入り口近くには、めったに見られない皇帝陛下と皇太子の姿を一目見ようと領民たちが集まっていた。そのまま横を通り過ぎ、裏門近くまで来たところで馬車はゆっくりと停止した。
お兄様とは会話が弾んだわけではなかったけれど、二人の間の気まずさのようなものは少し晴れた気がする。婚約式が終わった後、チャンスがあればもう少しお兄様と話をしてみたい。
扉が開き、お兄様に連れられて馬車を降りると、司教と話し込んでいるお父様の姿があった。お兄様と二人でそちらへ近づくと、司教が先に気づいて挨拶をしてくれた。
「……アンネリーゼ様、お久しゅうございますな。」
その声にお父様もこちらを振り向いた。私とお兄様が手を繋いでいるのを見て、一瞬だけ表情が動いた気がする。
「お久しぶりです、マティアス様。…本日はよろしくお願いいたします。」
マティアス大司教。かつてお父様とお母様の婚約式の際も、見届け人として婚約式を執り行ってくれたそうだ。お母様のことを知っている数少ないうちの一人だ。お兄様から手を放して、淑女として完璧なカーテシーであい挨拶をする。
「…ずいぶんとお大きくなられましたな。最後にお目にかかったのは、確か洗礼の儀のときでしたか……。あのときは、まだ腕に抱かれるほどのお年で……。こうしてご立派になられて、私も嬉しゅうございます。」
その表情は、まるで孫娘を見るような慈しみに満ちていた。今まで気づけなかった――この方は単なる教会の人ではない。かつての私は気づかなかったけど、ローゼンベルク家とは領主とその領地の大司教という関係だけではなのかもしれない。
「…司教、ではまた後程。」
何と答えてよいのか分からずにいると、お父様が促してくれた。マティアス様は去り際、お兄様にもお声を掛けるとゆったりとした足取りでマティアス様は去り際、お兄様にもお声を掛けると、ゆったりとした足取りで聖堂の奥へと向かっていった。
「――さて、我々もそろそろ中へ入ろう。先ほど皇帝陛下と皇太子殿下もお着きになった。」
お父様の声に、私は小さく頷いた。お兄様はまた私のほうへ手を差し出した。少し驚いたが、先ほどよりはスムーズに手を取ることが出来た。どこかぎこちなさの残る私たちを一瞥しつつも、それ以上は何も言わずに歩き出す。そんなお父様の背を見つめながら、私は迷った末に、ほんの少しだけ勇気を出して口を開いた。
「……お父様。」
歩を進めていたお父様が、ぴたりと足を止めた。その背中が、わずかに緊張を帯びたように見えたのは、きっと気のせいではない。
「……今日は、ありがとうございます。このような機会を設けてくださって。」
お父様が振り返る。目が合うと、その瞳に一瞬だけ浮かんだ驚きが、すぐに理知的な静けさに包まれた。
「……そうか。礼を言われるようなことではない。必要なことをしたまでだ。」
それだけを言って、お父様はまた歩き出す。けれどその背中は、ほんの少しだけ、柔らかくなった気がした。お兄様が私の手を軽く握って歩き出す。何も言わずに横を歩くその仕草に、私はふっと微笑んだ。
少しずつでいい。ほんの小さな一歩からでもいい。もう一度、家族としてやり直すために。
厳かで静かな空気に包まれた聖堂の中へ、私たちは足を踏み入れた。
*
今回行われる婚約式は、皇都で行われる正式なものとは違い、ローゼンベルク家を支えてくれている領民たちへのお披露目の意味合いが強いため、簡易的な式次となっている。
まずは、皇帝陛下とディートヘルム様がいる貴賓室へと向かう。いよいよ、彼と対面することになる。
「…緊張しているのか?」
いつの間にかお兄様の手を強く握りしめてしまったらしく、心配そうにこちらを覗き込んだ。指先が少し冷たくなっているかもしれない。お兄様は、私が皇帝陛下やディートヘルム様と直接お会いするのが初めてなので緊張している、と思っているのかもしれない。
「……少しだけ。でも、大丈夫。ありがとう、お兄様」
そう言って、私はぎこちなく笑った。けれど、自分でも分かる。これは昔の私とは違う、ちゃんと向き合おうとする笑顔だ。お兄様は一瞬、何か言いかけたようだったが、結局何も言わず、再び歩き出した。
やがて、装飾の施された重厚な扉の前で立ち止まる。お父様が扉の前で控えている神官に合図を送ると、静かに、ゆっくりと扉が開かれた。
その奥――貴賓室の中央に、ひときわ荘厳な雰囲気をまとった人物が立っていた。金色の飾緒をまとい、鋭くも深い眼差しでこちらを見つめている、皇帝・ハイデンライヒ陛下だ。そしてその傍らに立つ少年こそ——
「……ディートヘルム様……。」
思わず、その名を小さく呟いた。凛と背筋を伸ばし、誇り高い雰囲気をまとっていながらも、その顔立ちにはまだ幼さが残っている。けれど、目が合った瞬間、その瞳の奥に見えたのは、確かに“彼”の面影だった。
心臓の鼓動が速まるのが自分でも分かる。けれど、逃げることはしない。私は彼ともう一度、向き合いに来たのだから。
静かに室内へ足を踏み入れ、私が深々と礼を取ると、ディートヘルムも同じように頭を下げた。
「……初めまして、アンネリーゼ・フォン・ローゼンベルクです。今日という日を、とても光栄に思います。」
顔を上げた視線の先、目が合ったディートヘルムが微かに目を見開いた気がした。次の瞬間、彼はまるで何かを思い出しかけたかのように、一歩こちらへと踏み出した。
「僕こそ……こうして出会えたことを嬉しく思う。」
その声はまだ幼さを残しているのに、不思議なほど落ち着いていた。
「……私も、お会いできて光栄です、殿下。」
言葉を交わしたその一瞬だけ、時間が止まったような錯覚を覚えた。私たちは、ここからもう一度始まる。そう、確かに思えた。
「……これが、ローゼンベルク家の娘か。」
その声は低く、よく響く。
厳しくもあるのに、なぜかどこか冷たいものではなかった。ただそこに立つだけで空気を変える威圧感。鋭く澄んだその眼差しに、思わず息を呑んだ。――皇帝、ハイデンライヒ陛下。
お兄様がそっと私の背中を押した。私は深く一礼し、床に膝をついて頭を垂れる。心臓が小さく跳ねたのを自覚しながらも、ゆっくりと顔を上げると、その眼差しはまっすぐに私を捉えていた。
「なかなか……面白い目をしておるな。」
思わず息を呑む。けれど、目を逸らさずに私は再び頭を下げる。
「もったいないお言葉にございます。陛下のお目に適うよう、精進いたします。」
次の瞬間、ほんのわずか――陛下の口元が、わずかに綻んだ気がした。
「…ローゼンベルク卿。娘の躾は上々のようだな。」
「恐れ入ります、陛下。」
お父様が静かに応じる。おそらく、それが皇帝陛下なりの最大限の好意なのだと、すぐに察せられた。気を緩めてはいけないけれど、敵意はない。少なくともこの場では、私は陛下の目に「皇太子妃候補」として合格点を得たのだろう。
その視線がわずかに横に移る。傍らに控えていたディートヘルム様が、一歩前に出て、丁寧に礼を取る。
「陛下の前で恐縮ですが、僕からも改めて……」
そして、こちらに向き直る。私の手を取って、彼は言った。
「よろしくお願いします、アンネリーゼ嬢。」
――その言葉は、覚えている。
あの日と、まったく同じ言葉だった。けれど今は、ちゃんとその意味がわかる――。幼いながらも背筋をまっすぐに伸ばし、柔らかな微笑を浮かべる姿は、まるで未来を照らす光のようだった。
けれど、あの時の私は、まだ何も知らなかった。その手がいつか遠くに感じる日が来ることも、彼との関係がすれ違いに満ちていくことも――何も。
だから今、もう一度この言葉を聞いた時、胸が熱くなるのは当然だった。あの頃とは違う。静かに、けれどはっきりと私は微笑んだ。この気持ちは憧れだけじゃない。後悔も、決意も、全部を包んだ笑顔だった。
「……はい。よろしくお願いします、ディートヘルム様。」
私の言葉に、ディートヘルム様は安心したように頷いた。ディートヘルム様と向き合ったままの私たちに、陛下は静かに口を開いた。
「この式は、皇都での正式な儀に先立つ、地に根ざした始まりだ。……だが、それゆえに心せよ。始まりこそが、全てを決めることもある」
その声には、凛とした響きとともに、私たちへの期待が込められているように思えた。ディートヘルム様も、静かに「はい」とうなずき、背筋を伸ばした。
そのとき、神官が扉の向こうから控えめに告げた。
「殿下、ローゼンベルク侯爵ご一同。聖堂の準備が整っております」
お父様が軽く頷き、私たちを促す。
「行こう」
お父様と陛下が先に部屋を出る。その後ろを私とお兄様、そしてディートヘルム様が並ぶ形で歩き出す。貴賓室の重厚な扉が開かれ、光の差し込む回廊がその先に広がっていた。
石造りの床に、靴音が静かに響く。まるで鼓動のように。隣を歩くディートヘルム様が一度だけ私を見た。
「……緊張しているか?」
問いかけに、小さく笑って応えた。
「……少し。でも、それ以上に——楽しみです」
彼が少し驚いたように目を見開き、けれどすぐに小さく笑った。その微笑みは、かつての記憶と重なって、私の胸を熱くする。
(前とは違う。…私は、もう一度この場所から始める)
そして扉が静かに開かれる。荘厳な聖堂の中央、祭壇の前へと導かれていく。領民の祈りと祝福が静かに満ちる中、私と彼の、小さな始まりの誓いが交わされようとしていた——
神官が、一歩踏み出した彼に小さな銀の箱を差し出す。中には、婚約の証として交わされる記念の指輪。ディートヘルム様は一瞬だけ私を見て、それから、静かにその指輪を取り出した。
「アンネリーゼ・フォン・ローゼンベルク嬢。
これからの未来、あなたを皇太子妃として迎えることを、ここに誓います。」
よどみなく告げられたその言葉に、胸が締めつけられた。たどたどしさもあるのに、どこか芯の通った響き。こんなふうに言ってくれる人だったのだ。あの頃の私は、その言葉の意味を、重みを、何ひとつ受け取ろうとしなかった——。
「……はい。私も、そのお言葉を光栄に思います」
震える声で返すと、彼がそっと微笑んだ。その表情が、あまりにもあの頃と同じで、けれどどこか違っていて、私は胸の奥にぽうっと小さな火が灯るのを感じた。