表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/64

2


 邸の裏手にひっそりと据えられた温室は、曲線を描く鉄のフレームと硝子の天蓋に覆われ、陽光をやさしく受け止めていた。庭師がいたころは、色とりどりの植物が並んでいたそうだが、お父様の意向で、使用人の数が減ってからは、鉢植えや世話に必要な道具が置かれるだけになっていた。


 そっと中を覗くと、ミーナの予想通り、レオンが静かに道具の手入れをしているところだった。



「レオン、ここにいたのね。」



 レオンに驚いた様子はなかった。私が諦めずに話を聞きに来ると分かっていたのかもしれない。 



「いつもありがとう。中庭や裏庭の手入れを一人でするのは大変でしょう?」


「いえ…。好きでしていることですから。」



 レオンの声はか細く、目を合わせようとしない。その姿が、どこか哀れにすら思えた。



「レオン、ミーナが心配していたわ。『最近、様子がおかしい』って。」


「……ミーナが……?」



 レオンの手が止まる。ようやく、私の方を見た。



「彼女、気づいていたのね。貴方が無理してるってこと。……それに、妹さんの誕生日、今年は忘れなかったそうね。」


「っ……!」



 あからさまに顔色が変わる。



「ミーナが言っていたの。妹の誕生日なんていつも忘れてたのに、今年は早くから準備してたって。……どうして、今年に限って?」



 レオンは視線を彷徨わせたのち、ぎゅっと拳を握りしめた。唇がわずかに震える。



「彼女のために……何かを……守らなきゃならなかったから、でしょ?」


「………………」



 長い沈黙。レオンの肩が、ほんのわずかに震えていた。


 私は、そっと一歩だけ彼に近づいた。



「レオン。私は、貴方を責めたいんじゃないの。ただ……もう一人で背負わないで。私にも、できることがあるかもしれない。」


「お嬢……様……。」



 かすれた声で呼ばれたそのとき、レオンの目には光が宿っていた。張り詰めた糸が、静かにほぐれていく。


「……俺……俺……言えなかったんです。オスヴァルトさんに、もし話せば、妹に――」



 その声は、確かに震えていた。私は、そっと頷いた。



「話して。すべてを。」









 邸の裏手にある門が閉まる音を、私は図書室の窓の外で確かに聞いた。


 それは、オスヴァルトが一時的に邸を離れた合図。宮廷から帰ってきてもらったお父様の手を借りて、彼に急ぎの連絡を届けに行かせた。戻ってくるまで、数時間はある。私たちに与えられた、ほんのひとときの静寂――それは、真実と向き合うための貴重な時間だった。



「レオン、どうぞ、座って。」



 私の言葉に、彼は少し戸惑ったように視線を彷徨わせたが、おずおずと椅子に腰を下ろした。膝の上で指を組み、強く握りしめるその手は、わずかに震えていた。



「もう、大丈夫よ。今は、オスヴァルトもいないわ。誰にも聞かれない。」


「…………」


「レオン。お願い。私に、話して。貴方が何を抱えてきたのか、全部」



 沈黙が流れた。けれどその沈黙は、ただの拒絶ではないとわかっていた。彼の中で、言葉を探している。口にする勇気を、必死に探している。



「……お嬢様。」



 やがて、小さな声が部屋の静けさを破った。レオンは俯いたまま、かすれた声で続ける。



「……誰にも言わないって、約束していただけますか。」


「ええ。私の口から誰かに伝えることはない。けれど、もし貴方が助けを必要とするなら……私は必ず力になるわ。」



 その言葉に、彼はようやく顔を上げた。涙を堪えるように目を伏せたままだが、その表情には、かすかな決意が宿っていた。



「……脅されていました。……妹の命で」


「――レオン」。



 私は思わず声を漏らす。けれど彼は、それを制するように、かぶりを振って続けた。



「オスヴァルトさんに……命じられていたんです。お邸の中で見聞きしたことを報告するようにと。誰がどこに出入りしたか、どんな文書が届いたか……お嬢様のことも。」



 彼の声がかすかに震える。



「最初は……ただの監視だと思っていたんです。でも……ある日から、急に変わって……。」


「何が、変わったの?」


「……妹のいる家の近くに、見知らぬ男たちが現れたり……。通っている学舎の先生の名前を、オスヴァルトさんが何気なく口にしたこともあって……。あれは、偶然なんかじゃなかった。」



 言葉のひとつひとつが重く、苦しげだった。私の胸の奥に、怒りと痛みがせめぎ合う。



「……『協力しなければ、妹に何が起きても知らない』って、言われたんです。」



 声が詰まり、彼は顔を両手で覆った。



「信じていたんです。オスヴァルトさんは、陛下の密命で動いているんだって。……けれど、最近は……何が正しいのか、もうわからなくなって。」



 私は、そっと椅子を引き寄せ、彼と向かい合った。静かに、まっすぐに目を見る。



「……妹さんの誕生日のために、早くからプレゼントを用意していたのも、そのせいね?」


「……はい。……最後になるかもしれないって、思ったんです。……渡せなくなる前に、せめて今年だけは、ちゃんと祝ってあげたくて……。」



 レオンの目に、涙が溜まっていた。だが、その涙は悔しさと後悔に濡れている。



「レオン、ありがとう。話してくれて。……貴方が悪いとは思わない。誰だって、大切な人を守りたいと思う。その気持ちは、間違っていないわ。」



 私は、そっと彼の手に触れた。その手は冷たく、けれど、その指先にはかすかな力が戻ってきていた。



「もう一人で抱え込まないで。貴方を責めるつもりはない。……これからは、私が一緒に背負うわ。」



 レオンはかすかに唇を震わせながら、深く頭を下げた。



「……ありがとうございます。お嬢様……。」



 帝国騎士団に捕まったあの時、陛下は一族全員を罪に問うと言っていた。おそらくミーナを始め、皇都の使用人たち、領地の皆も捕まったはずだ。おそらくその中にレオンもいたのかもしれない。



「すぐにでも貴方の妹を保護したほうがよさそうね。…誰も言わないとは言ったけれど、お父様には報告させてもらうわ。必ず、何とかして見せる。」



 レオンは静かに頷いた。最優先すべきはレオンの妹だけど、それと同時にオスヴァルトを追い詰めるための証拠を集めなければならない。お父様、それからお兄様の手も借りたほうがいいかもしれない。


 どちらにしても、オスヴァルトが邸に居ない今、出来ることは進めておいたほうがいい。



「レオン、貴方はお兄様を呼んできてもらえる?急ぎのようだと言えばきっと着いてきてくれるはずよ。」


「わかりました。」


「その間に、お父様とあなたの妹をどうやって保護するか、策を練るわ。」



 そう言ってレオンを宮廷へと行かせた。オスヴァルトの手の者が妹さんの周りを監視しているなら、迂闊に動かないほうがいい。まずはお父様に報告して、指示を仰ごう。









 執務室の扉を静かに叩くと、中から短く声が返ってきた。



「入れ。」



 いつもと変わらない声音だが、扉を開けて顔を覗かせた私を見ると、すぐに立ち上がってくれた。



「アンネリーゼ。何かあったのか?」



 お父様のまなざしは鋭く、すでに何かを察しているようだった。私は扉を閉めると、そのまま深く頭を下げた。



「少し……お時間をいただけますか。大事な話です。」



 お父様は静かに頷き、手近な椅子を示してくれた。執務机の前にある応接の椅子に腰掛けると、彼も対面に座り、まっすぐ私を見つめた。



「……レオンが、すべてを話してくれました。オスヴァルトが、裏で彼を脅していたと。……彼の妹を人質に取るような形で、命令に従わせていたそうです。」



 言葉を選びながらも、私はできるだけ事実を整理して話した。レオンがどれだけ苦しみ、黙って従ってきたか。今日ようやく、その口を開いてくれたこと。そして、その背後には、もっと大きな意図を持った存在がいるはずだということも。


 お父様はしばらく黙って聞いていたが、やがて静かに目を伏せ、深く息をついた。



「……やはり、そうか。ようやく繋がった。」


「……ご存じ、だったのですか?」



 私がそう尋ねると、お父様は小さく首を振った。



「確たる証拠はなかった。だが――数年前から、オスヴァルトには幾つか不審な点があった。」



 そう言ってお父様は立ち上がり、執務室の窓辺に歩み寄った。



「元々領地での勤務時代から、彼の報告書には妙な食い違いが散見された。だが、些細なものばかりでな……。直接問いただすには、決定的な材料がなかった。だから、あえてこの邸に異動させ、様子を見ることにしたのだ。」



 私は息をのんだ。そんなにも前から――。



「お前がこの別邸に入ってからは、彼の行動をより注意して見ていた。……それでも奴は慎重で、決して尻尾を出さなかった。だが、レオンの証言があれば、今度こそ動ける。」



 振り返ったお父様のまなざしには、迷いはなかった。



「…オスヴァルトを領地へ使いにやろう。帰ってくるまでに数日は掛かる。その間に調査を進めなければ。」


「それと……レオンの妹も。保護していただけませんか。」



 お父様は頷いた。



「すぐに手配しよう。彼女が無事でいるうちに、迅速に動かねばならない。」



 私の胸に、不安の幕がひとつ外れていく。



「ありがとうございます、お父様……。」


「……アンネリーゼ。」



 私の名を呼ぶお父様の声に、そっと顔を上げる。



「お前が信じた少年のために動こう。……そして、お前がここまで冷静に判断し、行動したことを誇りに思う。」



 その言葉に、私の胸の奥があたたかく満たされた。



「……はい。」



 信じた者を守るために、私は小さな一歩を踏み出せたのだ。今は彼女が無事であることを願うほかない。


 お父様との会話を終えて間もなく、廊下の向こうから二人分の足音が近づいてくるのが聞こえた。


 ――レオンが、お兄様を連れて帰ってきたのだ。


 重たい扉が、音もなく開かれた。



「お嬢様……。」



 レオンが顔を出し、その背後には、お兄様の姿があった。二人の顔には張りつめた気配がある。私は席を立ち、二人を迎えた。



「ありがとう、レオン。それから……お兄様も、来てくれてありがとう。」


「……話は、聞いた。」



 お兄様は短く答えると、私と目を合わせた。その瞳には、微かに驚きと戸惑い、それでも静かな理解があった。



「……オスヴァルトは当面邸を離れて領地へ派遣し、調査と対策を進める。加えて、レオンの妹さんの安全確保を急ぐ必要がある。」



 お父様の声は落ち着いていたが、その目は鋭く、緊張感を漂わせている。



「そこでルーカス、お前に頼みたいことがある。」



 お兄様は真っ直ぐにお父様の目を見返した。



「父上、何なりとお申し付けください。」


「レオンの妹の保護だ。彼女を安全な場所へ連れて行き、しばらくはお前の管理下に置く。外部に知られず、絶対に守るのだ。」



 お兄様は短く頷く。


 レオンは小さく息をついた。長い緊張から解放されたかのように、肩の力が抜けるのが見て取れた。



「……申し訳ありません。こんな、自分のために……。」


「違うわ、レオン。あなたが勇気を出してくれたから、私たちは動けたの。ありがとう」



 そう言って私が微笑むと、レオンの目に涙が浮かんだ。



「具体的には、妹さんはどこにいるのか。保護はどのように行う?」



 レオンが少しだけ緊張しながら答える。



「帝都の下町にある小さな養護院に預けられています。詳しい場所は…僕が案内できます。」


「…この情報は絶対に漏らしてはならない。事態を見守る他の使用人たちにも伝えず、我々だけで対応する。」



 お父様は静かに告げた。


 お兄様と、レオン続けて私も大きく頷く。とにかく時間も人手も足りない。



「…ヴァレンシュタイン家にも協力を仰ごう。力を貸してくれるかもしれん。」


「はい、よろしくお願いします。」



 執務室を出て一息つく。やはりお父様に相談してよかった。方針は固まったので、これからはそれぞれにやらなければならないことを遂行していく。



「大丈夫よ、きっと上手くいくわ。」



 そう口にした私の声は、震えていなかった。それを聞いていたお兄様が、少しだけ目を細める。



「……ほんと、変わったな。お前。」


「……え?」


「八歳の頃から、急に人が変わったように。……まるで何かを悟ったみたいに、大人びて。昔の妹は、もっと泣き虫だったのにな。」



 冗談めかしたようなその言葉に、私は息をのんだ。


 ――お兄様……。


 何も言わず、ただ私の目を見つめる視線に、言葉が喉の奥で引っかかる。


 でも――今はまだ、言えない。



「……大人になったのよ、少しだけ。」



 そう微笑むと、お兄様は小さく頷いた。



「じゃあ、その“少し大人になった妹”の頼みを、兄として聞かせてもらおう。……任せておけ。今夜のうちに動く。」


「ありがとう、お兄様。」


「レオン、案内を頼む。」


「……はい。本当に、ありがとうございます。」



 レオンの瞳に、確かな光が宿っていた。


 こうして、私たちは静かに立ち上がった。長い夜の始まりだった。








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ