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夜の帳がすっかり下りた廊下で、私はただ立ち尽くしていた。先ほどまでそこにいたはずのレオンの姿は、まるで幻だったかのように消えている。
身を低くして足音も立てずに立ち去った。ふらふらとした足元。何かを隠しているとしか思えない、その背中。
(――レオン。あなた、いったい……。)
追いかけることはできなかった。咄嗟に足が動かなかったのは、私の甘さか、彼を信じたいという弱さか。
胸の奥に巣食うざわめきを抱えたまま、私はそっと自室へ戻った。けれど眠れるはずもない。明け方まで浅く目を閉じ、今日の出来事を何度も思い出していた。
(今日は一日にいろいろ起こりすぎよ…。)
アルゼナ王国との文化交流の後、ディートヘルムと交わしたあの会話。彼は逆行前の記憶を取り戻しているようだった。すべてを覚えているのかは定かではないが、私が処刑されたことは知っていた。
彼自身も少し戸惑った様子だったから思い出したのは最近なのかもしれない。夢に見たと言っていたから、断片的に記憶を辿っている最中なのだろう。
けれど、夢であっても、あのときの彼は確かに知っていた。あの処刑台の光景、私が裁かれた最後の瞬間を。
寝台の上で小さく丸まりながら、私はそっと瞼を閉じた。朝日が差し込む直前の、まだ灰色の闇の中。心の中では、レオンの背中と、ディートヘルムの横顔が、何度も交互に現れては消えた。
そして、夜が明けきらないうちに、私は一つの決断をした。
◇
明け方、決意だけが胸に残っていた。レオンのことも、ディートヘルムのことも、このまま見過ごすわけにはいかない。
私は自室を抜け出すと、昨夜レオンを見かけた廊下をまっすぐ進み、執務室の前に立った。まだいつもの起床時間には早いが、お父様なら在室だろう。
扉をノックすると、やはりお父様から返事があった。意を決して、扉を開ける。
「……お父様に、お話ししたいことがあります。」
執務室の中は、薄明の静けさに包まれていた。机の上には書類が積まれ、燭台の炎がかすかに揺れている。お父様は椅子に腰かけたまま顔を上げ、目だけで私を促した。
「……ああ、構わない。そこに掛けなさい。」
勧められるまま椅子に腰を下ろすと、ようやく少しだけ胸の鼓動が落ち着いた。けれど、何から話し始めればいいか迷ってしまう。私が黙っている間に、お父様の方が先に口を開いた。
「……お前の顔に書いてある。なにか、重大なことがあったのだろう?」
私は頷き、少しだけ唇を引き結んだあとで、声を出した。昨夜ディートヘルムと話した内容、そして帰宅後に見たレオンの姿を。
「つまり……殿下は、“夢”で過去の記憶を見たと、そう仰ったのだな?」
お父様は椅子の背に深く身を預け、しばらく思案に沈んだ。
「お前と同じように逆行したとは限らないが、少なくとも、今の殿下は《未来》を断片的にでも知っている。その中に、お前が処刑された記憶があったというのなら――。」
彼の眼差しが静かにこちらを捉える。
「……それは、敵ではないということだ。むしろ、協力者となり得る。」
「……ええ。でも、すべてを覚えているのかは分かりません。戸惑っているようにも見えました。」
「だからこそ、こちらから歩み寄る価値がある。いずれにせよ“話す用意がある”という意思表示は受け取った。あとは、お前次第だな、アンネリーゼ。」
お父様の言葉が胸に染み入る。信じられるのか。信じたいと思っているのか。それとも――信じることで、また裏切られることを恐れているのか。
答えはすぐには出なかった。けれど、それでも、ディートヘルムの瞳に映っていたものを私は忘れられない。
あれは、過去を知る者の目だった。過ちを繰り返したくないと、そう願う人の表情だった。
「私が……。」
「そうだ。お前が信じられるのなら、話を聞くべきだ。怖いのなら、私が同席しても構わない。だが――」
お父様は軽く目を細める。
「いずれ近いうちに、殿下は真実を語りに来るだろう。静観するにしても、準備はしておけ。彼が語る“未来”は、我々がまだ知らない、決定的な何かを含んでいるかもしれない。」
少しの沈黙が、部屋に落ちた。お父様は立ち上がり、窓の外に目をやる。
「……さて、殿下のことは一度ここまでにしよう。お前が彼と話す時は、私にも一報くれ。可能な限り、後方の支援は惜しまない。」
「……ありがとう、お父様。」
私が小さく頭を下げると、お父様はゆるやかにうなずいた。けれど、その瞳にはまだわずかな警戒の色が残っている。
「それよりも――、気がかりなのはレオンの方だな。」
「……ええ。」
私は一度、深く息を吸って、覚悟を決めたように言った。
「最近様子が変だとは思っていました。常に周囲を気にしていて、どこかよそよそしくうて…。何か打明けてくれるまで待とうかと思っていたのですが、昨夜の様子を見ると――。」
「……ふむ。」
お父様は短く唸ると、机の引き出しから筆記用具を取り出し、何かをメモし始めた。
「彼の行動は記録に残してある。先日も私の部屋に届け物に来た際、少し落ち着きがなかった。誰かに怯えているようにも見えたな……。」
「お父様も、気づいていたんですね。」
「勘では済ませられない兆候がいくつかある。……あの少年の背後に、何者かの影があるのなら――。」
筆を止めたお父様の声が、少し低くなる。
「今のうちに白黒をつける必要がある。だが、問い詰めるのは慎重にやらねばならん。下手に追い詰めれば、逆効果になる。」
私は唇を噛みしめた。
「……まずは、私が話してみます。レオンを、疑いたくはありませんが…。彼が”敵”なのか、確かめなければ。」
「いいだろう。……だが、決して一人では動くな。必要なら、私の名を使って構わない。アンネリーゼ、お前は一人ではない。」
「はい、分かっています。」
◇
朝食後、早速レオンから話を聞くために邸内を探すが見当たらない。途中、ヘルミーネやハンストもすれ違ったが今日はまだ見かけていないと言っていた。
大広間まで戻ると、オスヴァルトが本を片手に何かを数えているようだった。邸内で彼を見るのは久しぶりだ。といっても、普段は私も学院に通っているため時間が合わないだけかもしれないが。
黙って彼を見ていると、こちらに気づいたのか姿勢を正し頭を下げた。
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
「…いいえ。レオンを見なかった?」
「―――レオンですか?」
聞き返す彼の声が一瞬こわばったように感じて顔色を窺うが、いつもの感情の読めないまなざしに戻っていた。
「彼なら、朝から買い出しを頼んでおりまして、もうそろろ戻る頃かと思いますが。」
「そう……。仕事の邪魔して悪かったわね。戻っていいわ。」
彼は一礼すると、また作業に戻っていった。初めてこの邸に来た時から、オスヴァルトとは一定の距離感がある。邸のほかの皆や、領地にいたテオドールとはもっと親しく接しているのに、彼とは全く馴染めない。彼が誰に対しても心を許していないのもそうだが、 私も彼への警戒心をなくすことが出来ないからだ。
大広間を出るとき、刺すような視線を感じて振り帰ったが、オスヴァルトは手を留めることなく作業に戻っていた。
勘違いだったか、と玄関ホールへ行くと、タイミングよくレオンが帰ってきたところだった。
「レオン、待ってたわ。」
「……お嬢様。何か御用ですか?」
肩を跳ねさせ返事をするレオン。
「ちょっと貴方に聞きたいことがあってね。今話せるかしら?」
「荷物を厨房へ置きに行きたいのですが…。」
「いいわ。付き合うわよ。」
話を切り上げたそうにしているレオンを無視して彼について行く。レオンは軽く会釈すると厨房の方へ歩き出した。
厨房へ入ると、珍しくハンスはそこに居なかった。レオンと二人きりになれた今がチャンスかもしれない。
「…レオン。何か隠してることない?」
購入品を仕舞っていく彼を横目に、努めて軽い口調で問いかけた。
「……何もありませんよ。」
レオンは一瞬手を止めたが、誤魔化すように作業を続けた。動揺しているのか、わずかに手が震えているように見える。
私は、静かに言葉を重ねた。
「昨夜、貴方が廊下を歩いているのを見かけたの。足元もふらついていたし、まるで何かから逃げているみたいだった。」
「……偶然です。たまたま通っただけです。」
「レオン……。」
彼は頑なに沈黙を貫いた。そこから私が何を問いかけても、何も返さない。
暫くして作業を終えると、私を振り返って深く一礼した。
「…まだ仕事が残っていますので、これで失礼いたします。」
「レオン…!まだ話は……!」
私の呼び留めにも答えず、彼は足早に厨房を去っていった。慌てて追いかけて邸を出るも、レオンの姿はもうなかった。
「…どこに行ったのかしら。」
「お嬢様、どなたかお探しですか?」
中庭で途方に暮れていると、後ろからミーナが声を掛けてくれた。振り向くと、ミーナの手には可愛らしいリボンが巻かれたクマのぬいぐるみが抱かれていた。
「ちょっと、レオンに用事があって。それよりどうしたの?そのぬいぐるみ。」
「お嬢様もですか?実は、このぬいぐるみ、レオンに頼まれて購入したものなんです。」
「え、レオンが?」
レオンとクマのぬいぐるみが全く結びつかない。彼にこんな少女趣味があったとは知らなかった。
「はい、年の離れた妹さんの誕生日プレゼントだそうです。」
「そういえば、仕送りしてるって言ってたわね。」
「ご両親が亡くなってからは、信頼できる方に面倒を見てもらってると言っていました。」
ミーナはクマのぬいぐるみを撫でると、何かを思い出したようにクスリと笑った。
「一人で買いに行くのは恥ずかしいから、一緒に選んでくれと頼みこまれてしまって。大通りの雑貨店で注文して今朝届いたんです。」
「彼、昔から貴女に懐いていたものね。」
最近開店したばかりの雑貨店は、皇都の貴族令嬢の間で人気の店だ。プレゼントのためとはいえ、男性一人で入るのは気が引けたのだろう。恥ずかしそうにしているレオンの様子が目に浮かぶ。
「…最近、レオンの様子がおかしいんです。」
ふいに表情を暗くしてミーナは続けた。
「いつもであれば、妹さんの誕生日を忘れてたって、慌てて用意するんです。…今年はずいぶん早くから準備していたみたいで。」
「あら、いいことじゃないの?」
「何だか、すごく無理してるように感じるんです。まるで、最後になるかもしれないって思ってるみたいに……怖いんです。」
ミーナの声がかすかに震えていた。私の胸の奥に、不安がひやりと広がる。レオンが、妹のために早々と準備を済ませたというのは、何かを“覚悟”していたからだ。
私の問いかけに何も答えず逃げた理由も、オスヴァルトとの不自然な関係も、すべてが繋がってくるような気がした。
「……ありがとう、ミーナ。教えてくれて。」
ミーナは少しだけ戸惑ったように首をかしげたが、静かにうなずいた。
「レオンは一人になりたいとき、いつも裏庭の温室に行くんです。」
「わかった。そこに行ってみるわね。」
「――お嬢様。レオンを……どうか、助けてあげてください。」
私も、静かにうなずいた。これは、もう“聞き出す”ことではない。彼の中で、必死に押し込めている何かを、“支えてあげる”という覚悟で向き合わなければならないのだ。
私はクマのぬいぐるみを一瞥し、くるりと踵を返した。




