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【グラウヴァルト帝国・宮廷迎賓の間】
高い天井と磨き上げられた大理石の床が印象的な迎賓の間は、この日特別な目的で使われていた。
アルゼナ王国からの文化使節団との、公式な外交接見――それは、グラウヴァルト帝国にとっても、新しい時代への第一歩だった。
ディートヘルムが案内役を務めるこの式典に、私は皇太子妃として公務に同行することとなった。白に金糸の刺繍が施されたドレスに身を包み、心の中で深呼吸する。
(…私の背には帝国がある。)
そんな自身の心の声に支えられながら、私は彼の隣に立った。
「皆様、ようこそ我が帝国へ」
ディートヘルムの低く澄んだ声が、迎賓の間に静かに響き渡る。その隣で私は、丁寧に会釈をした。視線を感じる。帝国の民として、そして妃として、恥じない立ち居振る舞いをしなければならない。
柔らかな衣擦れの音とともに、ソフィエが一歩前に出る。
「アルゼナ王国より賜った言葉をお伝えいたします。“この新たなる友好の扉が、両国の未来を照らす光とならんことを”」
母国語と帝国語を見事に操るソフィエの言葉に、会場からはわずかな賞賛のざわめきが起こる。
彼女は、外交官としての素養だけでなく、人を惹きつける力をも持っていた。晴れやかで聡明なその立ち姿は、アルゼナ王国の「文化の顔」として、まさに相応しい。
「皇太子妃殿下。」
小声で私に囁いたのはユリウスだった。彼はアルゼナ王国と接する北方を治めるノルトハイム家の嫡男として公爵家を代表してこの場に同席している。あの講義以来の再会で、初めはお互いに気まずい様子だったが、公務が始まれば関係のないこと。彼は実務補佐として私たちの動きをさりげなく支えてくれている。
「次の部屋でお茶を振る舞います。案内をお願いします。」
「ええ、ありがとう。」
ディートヘルムと視線を交わすと、外交官たちを中庭に面した応接のサロンへと誘導する。
視線の端で、レオンハルトが数歩後方に控えているのを確認した。皇太子の護衛として、彼もこの場に同行している。
◇
薔薇が咲き誇る中庭を望むサロンでは、紅茶と季節の果物、アルゼナと帝国の菓子を組み合わせた茶会が用意されていた。
国の違いを越えて、人と人が向き合う場。テーブルには言葉ではなく、感性が並んでいる。
「まるで芸術の使者たちね」
隣のソフィエがつぶやいた。彼女はこの空気が好きなのだろう。生き生きとした表情で、アルゼナの音楽家と帝国の宮廷楽士たちの交流を見つめている。
「音楽が通訳となるのなら、言葉の壁もきっと越えられるわね。」
「アンネリーゼ、あなたってば……すっかり外交向きの妃様じゃない。」
ソフィエがくすくすと笑う。からかうような調子だったが、その目はどこか嬉しそうだった。
「それにしても、ユリウス坊ちゃんのあの変わりようは何なの?」
「今朝会った時に、自ら頭を下げて下さったの。だからもう気にしてないわ。」
その言葉に嘘はない。あの講義の日、母の話をしたことで周りの態度は一変した。私がローゼンベルク家だけでなく、ヴァレンシュタイン公爵家の血縁だと分かったから。
今朝、ユリウスから声を掛けられた時も、私が公爵家の人間だと分かったから態度を改めたのかと思っていた。でもそれは違った。
『アンネリーゼ様。』
真剣な眼差しで、彼は私の名を呼んだ。
『……以前、あなたのことを侮った発言をした。侯爵家の生まれだと、正当に評価していなかった。』
この間のような棘のある声ではなかった。ただ真っ直ぐに、言葉を重ねる。
『でも、あの時の貴女の態度に、僕は目を覚まされた。地位で人を量っていたのは、自分のほうだった。今は、心から恥じている。』
ほんの一瞬、視線を落とした後、彼はまっすぐ私を見た。
『……あの場であなたが声を荒げず、知性で返したことに、感謝している。あれは、僕にとっての敗北だった。でも、きっと必要な敗北だった。だから……申し訳なかった。そして、ありがとう。』
――まっすぐに謝る彼を、私はただ見つめていた。
彼のプライドの高さを思えば、この謝罪がどれほどの覚悟で口にされたものか、想像がつく。
彼はもう、私の肩書きを見ていない。私という人間に対して、頭を下げている。それだけで、もう十分だった。
「今日だけで何度助けてもらったかわからないわ。私も彼には頭があがらない。」
「…貴女がそう思っているのなら、私がとやかく言う話じゃないわね。」
なぜか彼女のほうが少し不満そうな顔をしていて笑ってしまう。教室でソフィエに声を掛けられた時、ユリウスに対してかなり辛辣な様子だったので、本気で嫌っていたのかもしれない。
そんな話をしながら、両国の歓談を見守っていると、ディートヘルムの近くで控えていたレオンハルトが、私たちに声を掛けてきた。
「アンネリーゼ様、少し柱の陰に移動していただけますか。」
「何かあったのですか?」
すぐに会場内を見回して、ディートヘルムの姿を確認する。彼は先ほどまでと同様、アルゼナ王国の外交官と会話していた。
特に変わった様子はないようで安堵した。
「今のところ問題はありません。ただ少し気になることが…。」
言われて、更に注意深く会場を見渡すと、サロン入り口にさっと動く人影が見えた。
「お下がりください。」
ソフィエと二人で、言われた通り柱の陰に隠れる。幸い、ディートヘルムたちからは距離があるためこちらの動きに気づかれてはいない。
じっと見守っていると、様子を確認しに向かったレオンハルトが戻ってきた。
「申し訳ありません。正体は確認できませんでした。」
「大丈夫よ、ありがとう。殿下には折を見て、私から伝えておくわ。」
レオンハルトは一礼すると、またディートヘルムの周辺の警護に戻っていった。相変わらずの寡黙さだが、やはり彼は優秀だ。
外交中の場を乱さず、周囲に敏感に気を配る姿は、公務を務める皇太子の護衛としてただしい姿だろう。
その後は何事もなく順調に進み、無事に、そして何より穏やかに幕を閉じた。
帝国とアルゼナ王国――長らく形式的な儀礼に留まっていた両国の関係に、初めて「若い世代の対話」という温かな風が吹き込んだのだ。
終わってみれば、すべては拍子抜けするほど滑らかだった。初めはぎこちなく見えた双方の外交官たちも、時間を追うごとに少しずつ言葉を交わし、笑顔を見せるようになっていった。
それは、皇太子ディートヘルムの慎重で的確な案内と、橋渡しを請け負ってくれたソフィエの柔らかく機知に富んだやりとりがもたらした成果だった。
私はその場に皇太子妃として同席し、各所で紹介や接遇を担った。外交の中心には立たなかったものの、立ち居振る舞いや丁寧を心掛けた語り口は、来賓たちに静かな印象を与えたようだった。
「一度お会いしてみたかったのですよ。皇太子殿下が信頼を寄せる方と。」
そう声をかけられたとき、アンネリーゼは何も返せなかった。ただ静かに微笑むことしかできなかったのは、戸惑いよりもむしろ、責任の重さをあらためて噛み締めたからだった。
――その信頼に、応えていけるだろうか。
◇
静けさのなかで、私は窓辺に立ち、夜風を頬に受けた。庭の向こうでは、ソフィエが満足げな顔で外交官と談笑しているのが見える。隣にはディートヘルムが控えており、その様子はまるで信頼で繋がった一つの「絵画」のようだった。
「君も、よくやってくれた。」
背後から聞こえた低く優しい声に、振り向く。そこには、ほんのわずかだけ疲れを見せたディートヘルムがいた。けれどその瞳には、確かな安堵が宿っていた。
「外交としての成果は上々だ。アルゼナ王国側の代表も、今後の文化交流や共同研究に前向きな意向を示してくれた。……その土台が築けたのは、君の支えがあったからこそだ。」
「私はただ、与えられた役目を果たしただけです。」
「それが、最も難しいことだと知っている者は少ない。」
その言葉に、アンネリーゼはふと黙った。彼の言葉は、常に正確で誠実で――そして、ときに胸に深く残る。外交の席では見せなかった優しさが、今、ここにはある。
「これからも、僕と共に来てくれるか?」
ディートヘルムは、私をまっすぐ見て言った。その目は、ただの命令ではなく、“共に歩もう”と語っていた。
「ええ。私にできることがあるのなら、喜んで。」
私は笑って頷く。けれどその瞬間――ディートヘルムの視線が、ふっと細くなった。
その奥に、どこか“痛み”にも似た感情が混じっているように見えて――私は思わず首を傾げた。
「……アンネリーゼ。」
「はい?」
「……いや。今、君がそこにいるのが、少し不思議に思えただけだ。」
「……私が?」
私は、瞬きも忘れて彼を見つめた。彼はほんの少し視線を落とし、静かに言葉を継ぐ。
「いや。変な意味じゃない。ただ、今……君がこうして笑って、私の隣にいることが――信じられない。」
「…ディートヘルム?」
少しの沈黙の後、彼は慎重に言葉を発した。
「……君が処刑される夢を見たことがある。あれは……夢にしては、あまりにも鮮明すぎた。」
心臓が、鈍く跳ねた。
「私は、何もできなかった。君は何も語ることなく……一人で。」
その声には、悔しさと、どうしようもない哀しみが滲んでいた。そして私は気づく――これは夢の話ではない。
「……だから、君が生きていてくれて、本当に、よかったと思ってる。」
私が言葉を失っていると、彼はそっと続けた。
「……変なことを言ってすまない。自分でも上手く理解できていないようだ。ただ……ときどき、思い出すのだ。説明のつかない記憶や、言葉や、痛みを。」
ディートヘルムは視線を落とし、わずかに自嘲気味な笑みを浮かべる。
「それが夢なのか現実なのか……区別がつかない。ただひとつ確かなのは――私は、もうあんな後悔を繰り返したくないということだ。」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。ディートヘルムが語るそれは、確かに“記憶”であり――“後悔”なのだ。
「ディートヘルム……まさか、貴方……。」
言葉が喉の奥で詰まる。聞き返したいのに、聞くことができなかった。あの未来を彼が覚えているのだとしたら、私は何を返せばいいのか、わからなかった。
ただ、風がそっと吹き抜けるなか、二人の沈黙だけが夜に溶けていった。
◇
夜の空気は昼間よりもずっと冷たく、気持ちを落ち着けてくれるようでいて、逆に胸のざわめきを鮮明にする。
馬車を降りて邸に戻ると、屋敷はすでに就寝の支度に入っていた。廊下の灯りも絞られ、静寂に包まれている。
――けれど、その静けさの中に、微かに違和感があった。
使用人たちの動きは終わっているはずの時間。なのに、ひとり、背を低くして廊下の端をすり抜ける影があった。
(……レオン?)
彼の背格好はすぐにわかった。軽やかで、けれどどこか怯えるような、妙に周囲を気にする足取り。
私は足音を忍ばせ、廊下の柱の陰からそっとその様子を伺った。レオンは、何か小さな包みを抱えているようだった。それを、屋敷の奥――本来ならば使用人でも立ち入りを制限されている書庫や執務室のある区画の方へと運んでいる。
(こんな時間に、あそこへ……?)
しかもその動きには、どこか焦りと迷いが入り混じっていた。明らかに通常の業務ではない。
私はさらに一歩、彼のあとを追おうとしたとき――。
「……!」
レオンが突然立ち止まり、怯えたように周囲を見回す。一瞬、目が合いかけた気がしたが、レオンは何も見なかったように再び小走りで去って行った。
(――見られた、とは思っていない?)
ただの用事なら、なぜ隠れるようにしていたのか。なぜそんな場所に向かったのか。疑問は膨らむばかりだったが、それ以上追うことはできなかった。
レオンの怯え方は尋常ではなかった――彼は、何かに脅されている。そう直感的に思った。
(……レオン、あなたは一体、何を……)
不穏な予感が胸を過る。彼がただの従僕として振る舞う影で、何者かの手に握られているとしたら――。
私は、手のひらを静かに握りしめた。もう、何も見逃してはいけない。大切なものを、二度と失わないために。




