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【ローゼンベルク家別邸・サロン】
午後の柔らかな陽射しが、サロンのカーテン越しに降り注ぐ。白磁のティーセットが並ぶテーブルの中央には、季節の花をあしらった小さなブーケ。貴族らしい格式を保ちつつも、堅苦しすぎない雰囲気を意識して、私はこの場を整えていた。
「素敵な邸ね。皇都のど真ん中でこれだけ静けさが保たれているなんて、さすがローゼンベルク家だわ。」
そう言って、ソフィエ=ヴァン=アウデンブルフは堂々と椅子に腰を下ろした。紅茶を一口含んで、満足そうに目を細める。
「うん。ここのお茶はおいしいね~。……このサブレも。」
「エミール様、こぼしてますわ。」
リディアが素早くナプキンでテーブルを整えながら呆れた声を上げる。ソフィエ様はその様子を楽しげに眺めながら笑った。
「あなたたち、面白い組み合わせね。気取ってなくて、好きよ。」
「ありがとう。みんな、私にとって大切な人たちなの。」
そう言いながらふと扉の方へ目を向けると、ちょうどディートヘルムが現れた。いつもと変わらぬ整った服装――けれど、どこか、わずかに雰囲気が違う気がした。
「お待たせしたね。……挨拶は不要だろうか?」
その言葉の選び方が、いつもより少しだけ堅い気がする。気のせいかもしれない。でも――。
「いえ、お忙しいところをありがとうございます。殿下。」
「今日は私的な立場で来ている。肩書きは、ここでは置いておいてくれ。」
リディアとエミールがぴしりと背筋を伸ばしたのとは対照的に、ソフィエ様は微笑みを崩さなかった。
「ふふ。帝国の皇太子殿下と、こうしてお茶が飲めるなんて光栄ですわ。父が知ったら、鼻高々になるかもしれないわね。」
「それはどうかな。むしろ、僕の方こそ、君の話をもっと聞かせてほしい。……アルゼナ王国での暮らしについても、帝国との関係についても。」
さらりと告げるその声音は冷静だったが、どこか硬い。ソフィエ様はその意図をすぐに察したようだった。
「じゃあ、外交の堅苦しい話は一通り終えたら、次はおしゃべりとお菓子の時間ね。」
そう言って笑う彼女を見て、私は心のどこかで安堵した。けれど、ふと隣に目をやったとき、ディートヘルムが小さく額を押さえているのに気づいた。
「……大丈夫? また、頭痛?」
「いや……少し、眩暈がしただけだ。すぐに治るよ。」
そう言った彼の瞳が、一瞬だけ私の名前を呼ぼうとして――けれど、口に出されることはなかった。私は、その沈黙の奥にある何かを感じた気がした。
昨年まで、アルゼナ王国へ留学していたエミールとソフィエ様は面識があるようで、ミーナが運んできた焼き菓子を口にしながら、楽しげに笑っている。
「お二人は、留学先で知り合ったんですよね?」
「エミールの奏でる音楽って本当に素晴らしいわ。アルゼナ王国にはたくさんの音楽家がいるけれど、貴方以上の才能を持ってる人はいないと思う。」
「とっても素敵な国だよね~。みんな面白い音がする人ばっかりだった~。」
隣で話を聞いていたディートヘルムやリディアは、不思議そうな顔をしていたが、初対面で”魂の音”の話をされた私からすると、なんとなく彼の言いたいことが分かった気がする。
「ソフィエも凄い人だよ~。僕、あんなに音が聞こえてくる絵を見たのは初めて!」
「ありがとう。貴方みたいな本物の人に言われると、自信がつくわ。」
「ソフィエ様は、絵画が専門ですのね?」
アルゼナ王国は音楽や哲学、芸術文化など精神的資産が豊富な国だ。ソフィエ様が国交の先駆けである交換留学生に選ばれたのは、彼女の出自だけでなく、類稀なる才能を見込まれてということなのだろう。
「母も絵を描く人でね。小さいころから当たり前のように描いてきたから。」
「陛下も君の存在を評価しておられるよ。君のように、外交を“感性”で動かせる人間は貴重だ。」
「まあ。……それって、褒めてくださったってことでいいのかしら?」
「もちろんだ。」
ディートヘルムはひとつ頷くと、淡く笑んだ。
「私の帰国と一緒にやってきた外交官との橋渡しを希望されてるのね。」
「陛下から案内役を任されている。君のように両国をよく知っている立場の者とは親交を深めておきたい。」
「……つまり、“仲良くしてね”という王命、というわけですわね?」
「率直に言えば、そうなる。」
二人の会話のテンポの良さに、私は少し圧倒されそうになっていた。
――けれど、なぜか。
その瞬間、胸の奥が、すこしだけざわめいた。
会話の流れには何の問題もないし、ディートヘルムは公務の一環として動いている。……わかっている。それでも、彼が他の令嬢と真剣な話をしている姿に、ほんの少しだけ言葉にできない感情が芽生えた。
「アンネリーゼ?」
リディアが小声で囁いて、私は我に返る。
「大丈夫。ちょっと考え事をしていただけよ。」
この心の動きを、今ここで言葉にするつもりはなかった。
「これまでの交流は、単に“王族同士の交流”という扱いだったけれど。これからは、私たち若い世代の役目だと、父がよく言っています。」
その目は、思いのほか真剣だった。明るく自由な印象の彼女からは少し意外な気がしたが――それはきっと、彼女なりの責任感なのだろう。
「まあ、私自身はただ――好きなこと、芸術や言葉を通して人と繋がれたら、それでいいのですけれどね。」
その笑顔には誇張も飾りもなかった。
「……君のような在り方が、国を変えるのかもしれない。僕は、そういう外交ができる未来を望んでいる。」
淡々とした口調で語る彼の姿に、私は改めて、彼が皇太子としての責務を背負っていることを思い知らされた。
けれど――それでも、私は知っている。
彼は命令だからといって人の心を踏みにじるようなことはしない。だからこそ、ソフィエ様にも誠実に向き合っているのだ。
それでも。
胸の奥にある小さなもやが、完全には晴れなかった。
「さあ。堅苦しい話はこれでお終いにしましょう。せっかくアンネリーゼ様に呼んでいただいたんだもの。もっと楽しいお話をしなきゃ!」
ソフィエ様の楽し気な声に、サロンの雰囲気がふわりと明るくなる。
「例えば……好きなお菓子の話とか?」
と、軽くウィンクして紅茶に角砂糖を落としながら、彼女は話題を変えた。それに倣ってリディアがテーブルのお菓子を手に取って続けた。
「それなら私、ここの焼き菓子が大好きなんです。特にこの、バターの香りがする……」
「フィナンシェね。いつもミーナが焼いてくれているの。」
「あら、ミーナさんって貴女の侍女?素敵ね、。アンネリーゼ様はお菓子に恵まれてる!」
「うふふ、ええ。私、甘いものにはちょっと目がなくて……」
そんな他愛もない話から、場はにぎやかに転がっていく。リディアもエミールも加わって、紅茶に合うお菓子の話や、好きな音楽の話、学園での出来事……。
気がつけば、さっきまで“様”づけで呼び合っていたのが、なんとなく不自然に感じるくらいに、笑い声が交じり合っていた。
「ねえ、アンネリーゼ様」
「なあに?」
「もう“様”はいらないわ。私は“ソフィエ”、あなたも“アンネリーゼ”。……駄目?」
彼女の目はまっすぐに私を射抜いていた。最初に教室で話した時のように。
「……ううん。そうね。じゃあ……ソフィエ。」
「ふふっ。ありがとう、アンネリーゼ。やっぱり、その方がしっくり来るわ。」
名前を呼び合った瞬間、ほんの少し距離が近づいた気がした。それを見ていたエミールが感心したように何度もうなずいている。
「アンネリーゼとソフィエの音ってきれいに共鳴しあうんだねぇ。もちろん、リディアや殿下ともだけど。」
「それはもちろん。アンネリーゼの一番の親友は私ですもの。」
「まあ!それじゃあ私もそこに混ぜてもらわないとね、リディア!」
「ふふ。仕方ないわね、ソフィエ。」
リディアとソフィエが目を合わせて小さく笑い声を漏らす。その光景を見ているだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
過去の時間では決して得られなかった“友達とのこんなひととき”が、目の前にある。
誰かと心から笑い合うことも、信頼して呼び合える名前を持つことも、私にはあまりにも遠い夢のようだった。けれど、今は……。
不器用で、まだほんの少し臆病な私だけれど。それでも、こうして手を伸ばせば、あたたかく応えてくれる人たちがいる。それが、何より嬉しかった。
「僕も仲間に入れてほしいな~、アンネリーゼ。」
「もちろんよ、エミール。」
エミールの屈託のない笑顔に、私も自然と微笑みを返した。
――そのとき。
「……君は随分と、親しげに呼ぶのだな。」
ディートヘルムの声が、どこか平坦すぎる調子で割り込んできた。
「え? ああ、アンネリーゼが“呼んでいいよ”って言ってくれたから。」
悪びれずに返すエミールに、彼は一瞬だけ視線を伏せた。
「……そうか。」
それだけ言うと、手元のティーカップを少しだけ持ち上げて口元に運ぶ。その仕草はどこかぎこちなく、表情もどこか冴えない。
「まぁまぁ、殿下ったら……もしかして、焼いていらっしゃるの?」
ソフィエが、にこやかにカップを傾けながら、いたずらっぽく目を細めて言った。
「……そんなことはない。」
即座に返すものの、その語尾はほんのわずかに乱れたようにも聞こえる。
「うふふ、そういう時は素直になった方が可愛いのに。ねえ、アンネリーゼ?」
「えっ、私……?」
突然ふられて目を丸くする私に、ソフィエは楽しそうにウインクしてみせた。私もまた、どう返していいか分からず、ティーカップの縁に視線を落とす。
すると、今度はリディアがくすくすと笑い出す。
「殿下、顔がほんのり赤いわ。可愛らしい。」
「……リディア嬢までからかうとはな。」
珍しくむくれたような顔でそっぽを向いたディートヘルムの姿に、サロンは笑いに包まれた。
「今日は本当に楽しかったわ、アンネリーゼ。お招き、ありがとう。」
そう言ってくれたソフィエの笑顔は、まっすぐで、気取りがなくて、だけどどこか気高い。
「こちらこそ。来てくださって嬉しかったわ。」
素直にそう返せる自分に、少しだけ驚いていた。こんなふうに、誰かと心を通わせる時間がこんなにも心地よいなんて。
リディアもエミールも、変わらず私の傍にいてくれる。そこに、ソフィエという新しい風が加わったことで、何かが少しずつ、変わっていくような気がしていた。
「次のお茶会も、楽しみにしているわ。」
そう言って手を振るソフィエに、私も手を振り返す。
そして――
ふと視線を横に向ければ、椅子に腰かけたままのディートヘルムが、静かにこちらを見ていた。
「……何か?」
「いや。少し、安心しただけだ。」
その言葉の意味は、深く問わなかった。けれど、彼の目が穏やかだったことだけは、ちゃんと覚えている。
こうして、小さなお茶会は幕を閉じた。




