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3


 翌朝、教室の扉を開けた瞬間――空気が、明らかに違っていた。昨日の講義で語った内容が、早くも学院内に広まっているのだろう。ざわつきはないが、静かに、確実に目線だけが増えているのがわかる。


 多少居心地の悪さは感じるものの、公表したことに後悔はない。これまで、皇太子妃として認められるよう、努力をし続けてきた。今さら、公爵家の縁者を名乗ったところで、家の威光や贔屓だと侮られるような真似はしてきていない。


 減ることのない視線に少し辟易しながら、席に着くとリディアが慌てて近寄ってきた。



「アンネリーゼ、大丈夫だったの?」


「…大丈夫よ。問題なかったわ。」


「でも、ノルトハイム家のユリウス様が貴女を泣かせたとか、挑発して怒らせたとか、噂になってるわよ。」



 リディアが教えてくれた噂話に呆れてしまう。確かに挑発はされたけれど、私は泣いた覚えもなければ怒った覚えもない。



「本当に何もなかったのよ。確かにご挨拶はさせていただいたけれど、講義内容をしっかりこなして、自分の話をしただけ。」


「…そう。じゃあお母様のことお話しできたのね。」


「えぇ。なんだか肩の荷が下りた気分。」



 この言葉は嘘じゃなかった。タイミングを計っていたとはいえ、これまで堂々とお母様の話をすることはなかった。それこそ、近しい間柄の者にしか話していなかった。



「アンネリーゼ、リディア嬢、おはよう。」



 二人で話していると後ろから声がかかる。振り返るとエミールがいつもと変わらずやわらかい微笑みを浮かべて立っていた。



「難しい顔して何の話をしていたの?」


「……もう、貴方って人は!」


「ふふ、何でもないの。さ、一緒に座りましょう。」



 エミールは不思議そうに私たちの顔を見た後、特に気にした様子もなく私の隣に腰を下ろした。予想はしていたがあまりにもいつもと変わらない様子に、肩の力が抜ける。リディアやエミールの存在が私を安心してこの場に居させてくれる。



「今日のアンネリーゼはキラキラした音がしてる。何かいいことでもあったの?」


「そうね、たった今嬉しいことがあったわ。」


「……?」



 本人は分かっていなさそうだがそれでも良い。エミールとは反対隣りに座ったリディアが呆れたような顔をしているのがおかしくて、小さく笑いがこみあげてくる。



「ありがとう、二人とも。」



 そこからは教室の視線は気にならなくなっていた。


 私は、母の名を誇りに思っている。ヴァレンシュタイン家の血を引いていることも同様だ。そして、それを語った昨日。驚きやざわめきの中で、彼は静かに、何も言わずに支えてくれていた。

 

 ――ディートヘルム。

 

 講義を終えた私の手を、言葉もなくそっと取って、微笑んでくれた。その仕草が、どれほど私の心を軽くしてくれたかは、きっと伝わっていない。


 けれど、もう怯える必要はないと、そう思えた。


 何も知らなかった過去の自分とはもう違う。ローゼンベルク家だけでなく、ヴァレンシュタイン家の名が私の背中を押してくれる。それはきっと、今の私にとって何よりも強い支えであり、誇りだった。


 そんなことを思いながら、ふと、教室の扉に目をやる。


 控えめなノックの音。静まり返る教室の中に、新しい風が吹き込んできたのは――その瞬間だった。


 開いた扉の向こうに立っていたのは、見慣れない少女だった。落ち着いたベージュのリボンに、赤茶の髪を後ろでまとめた姿。堂々とした物腰なのに、どこか軽やかで、印象に残る。



「アンネリーゼ=フォン=ローゼンベルク侯爵令嬢よね?」



 声をかけてきた彼女は、まっすぐに私を見て微笑んだ。



「昨日の講義、聞いてたわ。……堂々としてて、格好良かった。」



 その一言に少し戸惑う。だが彼女は、続ける言葉をためらわなかった。



「私はソフィエ=ヴァン=アウデンブルフ。高等部からの編入組よ。……昨日、あのノルトハイム公爵家の坊ちゃんが、偉そうにしてたでしょう? 見てて虫酸が走ったわ。ああいう“血統”が全てだって態度、大っ嫌いなの。」



 言葉の端々に棘がありながら、それ以上に真っ直ぐだった。少し戸惑っていた私に、彼女はいたずらっぽく笑って言った。



「……だから言いに来たの。『私はあなたの味方よ』って。」



 さらりと、そう言ってのけた彼女の目は、冗談のように明るく、それでいてどこまでも誠実だった。――そんなことを、迷いなく言える人が、この世界にいたのだと、少し驚いていた。



「それに……貴女と仲良くなれそうな気がしたの。私は、“肩書きの下にいる人間”に興味があるの。貴女の言葉には、それがあったから。」


「あ、ありがとう。」


「言いたいことはそれだけ。またどこかでお茶でもしながら話しましょう。」



 彼女はそれだけ言うと颯爽と教室を出て行った。嵐のように去っていった姿に私だけではなく、その場にいた全員が呆気にとられていた。



「……勢いのある方だったわね。」


「ええ。初めて見る方だったわ。」



 ――アウデンブルフ伯爵家。北の大国「アルゼナ王国」から王女が降嫁されて、この帝国で創設された新興貴族の名だ。一人娘が留学中というのは噂になっていたけれど、どうやら帝国に戻ってきていたらしい。



「僕、彼女のこと知ってるよ~。」


「まあ、エミール様。どちらで彼女の事を?」


「去年まで留学してたアルゼナ王国だよ。彼女、すっごく有名だったよ。」



 どういった理由で有名だったのか気になるところではあるが、先ほどの様子から悪い印象は受けなかった。せっかく好意を持って接してくれているのだから、ここはこちら側からお茶会の招待でもしたほうが筋だろう。



「さっそく、今度の週末にお茶会を開こうと思うの。先ほどの彼女を招待しようと思うから、二人もぜひ出席してくれる?」


「もちろんよ!」


「僕もお邪魔していいの~?」



 最初から一対一で彼女と対面するのは、なんだか心細いので二人を巻き込むことにしたが、二つ返事で返してくれて安心した。


 そうしている内に、朝礼の鐘の音が鳴り響き、教室がざわめき始めた。生徒たちが慌ただしく自席へと戻っていく中、私はふと窓の外に目を向けた。初夏の柔らかな光が差し込み、校庭の緑がきらきらと揺れている。


 さっきまでのソフィエの言葉が、まだ心の中に残っていた。


 ――「肩書きの下にいる人間に興味がある」。


 それは、これまで私が何度も、誰にも気づかれずに抱いていた願いと重なっていた。他人が見るのは、侯爵家の令嬢であり、皇太子妃という立場の“私”であって、その下にある本当の私ではない。そんな中で、彼女の言葉はまるで、奥に隠した本質をまっすぐに見ようとしてくれたようだった。



 「きっと、仲良くなれるかもしれないわね……。」



 思わずそんな言葉がこぼれる。



「ん? 何か言った?」



 隣のエミールが、くるんと首をかしげてこちらを覗き込んでくる。



「ううん、なんでもないわ。」



 私は笑ってかぶりを振る。新しい出会いが、また一つ。


 それは、少しずつ私の世界を広げていく小さな風のようだった。









 昼休み、図書室の裏手にある中庭で、私はディートヘルムと落ち合った。



「今日の授業はどうだった?」



 彼の問いかけはいつも通り穏やかで、静かな声だったけれど、どこか疲れがにじんでいるように感じた。


「無事に終わったわ。昨日の影響で少し注目されはしたけれど、それもすぐに落ち着いたの。……それより、さっきソフィエ=ヴァン=アウデンブルフ伯爵令嬢と話す機会があったの」



 私がそう告げると、彼の目がわずかに細められる。



「……アウデンブルフ伯爵家。やはり戻ってきていたか。……実は陛下からも、個人的に親交を深めておくよう言われているんだ。」


「やっぱりそうなのね。彼女、はっきり物を言うけど、悪い人ではなさそうだったわ。」


「君がそう感じたのなら、きっとそうなんだろうね。……もう、仲良くなったのかい?」


「まだ“これから”だけれど。週末にお茶会を開こうと思っているの。彼女を招待するつもりだから、リディアとエミールにも声をかけたわ。」



 そう告げると、ディートヘルムは一拍置いてから、ふと目線を逸らして口を開いた。



「僕も、参加してもいいだろうか?」


「……あなたが?」



 思わず問い返してしまったのは、彼にしては珍しく自分から社交の場に加わりたいと申し出てきたからだ。驚きもあったけれど、それ以上に――少しだけ、胸の奥がざわついた。



「外交的な意図があるんだ。ソフィエ嬢は、将来的にアルゼナとの橋渡しになる可能性がある。……個人的な感情じゃないよ。」


「……わかってるわ。」



 そう口では言いつつも、わずかに乱れた鼓動が自分でも不思議だった。


 そのとき、ふと彼の顔色が冴えないことに気づいた。



「ねえ……少し疲れてる?」


「ん。……寝不足なんだ。最近、夢見が悪くてね。」


「夢見?」


「内容はあまり覚えていないんだ。ただ……何度も同じ情景を見ている気がする。懐かしいのに、どこか違う、妙な夢なんだ。」



 彼の言葉に、なぜかひやりとしたものが背筋を伝った。懐かしく、けれど違和感のある夢。どこか、現実にないはずの記憶を追いかけているような――そんな雰囲気があった。


 けれど、それ以上は彼も語らなかった。



「お茶会の日には、きっと顔色、よくなっているといいわね。」


「……ああ、そうだな。楽しみにしてるよ。」



 そう返した彼の声が、ほんのわずかに掠れていた。


 気のせいかもしれない。けれど、その日から――彼の口調が、少しだけ変わった気がした。


 丁寧で、冷静で、優雅だったはずの言葉の端に、どこか懐かしいような、遠い日の感情の名残のようなものが、滲み始めていたのだ。



 放課後、私はローゼンベルク家の皇都別邸に戻り、執務室にいるお父様に声をかけた。



「……お父様。少し、お時間をいただいても?」


「構わない。入ってきなさい、アンネリーゼ。」



 机に向かっていたお父様が顔を上げる。以前よりもずっと、私はこの声を穏やかに受け止められるようになっていた。



「週末、こちらの邸で、お茶会を開こうと思っているの。新しく知り合った方がいて……ソフィエ=ヴァン=アウデンブルフ伯爵令嬢。アルゼナ王国からの帰国子女なのだけれど、面白い価値観を持ってる方だった。」



 お父様は一瞬だけ目を伏せ、何かを思案するような沈黙のあとで言った。



「……そうか。そういう人間と、再び巡り会えたのだな」


「え?」


「いや、構わん。――アウデンブルフ家か。あの家は、新興とはいえ、無視できぬ背景を持つ家だ。……お前が招く価値があると判断したのなら、反対はしない。だが……くれぐれも、用心は怠るな。」



 お父様の声にはどこか、私の“内側”を見透かしているような重みがあった。



「……わかっているわ。今度こそ、間違えたくないの。」


「ならば、お前の判断を信じよう。」


「……ありがとう、お父様。」



 お父様が私の判断を尊重してくれることが、何よりも嬉しかった。



「参加者に、殿下の名も入っているのか?」


「ええ。ディートヘルム様も、ソフィエ嬢との交友を深める必要があるとおっしゃって。」


「陛下の意向もあるのだろうな……まあ、よかろう。」



 そう言って、父はふっと息をついた。



「客の選定、給仕、会話の流れ。すべて自身で采配することになる。お前のことだ、特に心配はしていないが。何かあれば、ヘルミーネに相談すればいい。ミーナやフリーデも手伝ってくれるだろう。」


「はい、ありがとうございます。」


 そうして私たちは、珍しく穏やかな空気のまま、その話を終えた。







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