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【グラウヴァルト帝国・中央学院大講堂】
中央学院は、皇都にある帝国内最高峰の学術機関だ。国家直属の教育機関として、政治・行政・外交・宗教・軍事など、帝国の中枢を担う人材を育成することを目的として設立された。通称「帝国の頭脳」とも称される。
生徒の大半は初等部、中等部から通う貴族の子弟たちで占められていて、外部編入を許されているのは高等部からのみだ。平民出身の生徒はごくわずかだが、毎年何名かは編入してくる。周辺諸国からの留学も受け入れているので、高等部まで進学すると、それまでの貴族的な空気とはやや異なる雰囲気が漂い始める。
幼いころから学院に通い続けている者が多いため、この高等部には、いわゆる入学式というものは存在しない。
その代わりに行われるのが、「春暁の式典」と呼ばれる簡素な行事である。内容は、学院長による挨拶に続き、全学内の首席──すなわち学徒総代が登壇し、学期の始まりを静かに宣言して締めくくられる。
春の光が差し込む講堂には、清らかな沈黙が広がっていた。高窓からは薄桃色の光が差し込み、深紅の絨毯の上をかすかに照らしている。
壇上ではまず、学院長が一年の方針と祝辞を述べた。簡潔ながらも重みある言葉に、生徒たちは姿勢を正す。続いて学徒院の代表が名を呼ばれると、会場の空気がわずかに張りつめた。
重々しい足音とともに、学徒総代──ディートヘルムが、ゆるやかな段を上がる。帝国の未来を担う皇子であり、学院の最高学年に在籍する彼は、その若さに似つかわしくないほどの威厳を纏っていた。視線を向けた者は誰しも、その堂々たる立ち姿に思わず息を呑む。
「──帝国の未来を担う同志諸君。新たな学期が、今ここに始まる。」
静かで曇りのない声が講堂に響き渡る。感情を排しながらも、芯のある言葉。誰よりも重責を背負う者の宣言に、生徒たちはただ静かに耳を傾けた。
皆が感嘆の声を漏らす中、ディートヘルムは一礼すると颯爽と降段する。その姿を目で追っていると、不意に彼と視線が交わる。こちらに気づいたのか、口元がほんの僅かにほころぶ。誰にも気づかれないほどの、それでも確かな微笑みだった。
「……っ」
胸の奥がくすぐられるような感覚とともに、頬がふっと熱を帯びた。何か言葉を返すことなどできるはずもなく、ただ視線を逸らさぬまま見送る。
気づけば彼の姿はすでに講堂の端へと遠ざかっていた。あの笑みに込められた意図を問い直す間もなく、式典は静かに終わりを告げた。
「皇太子殿下は相変わらずアンネリーゼ一筋なのね。」
式典を終えて教室へ戻る途中、リディアがからかうように囁いた。冗談めいた口調だったけれど、その視線はどこか探るようでもあって、私は思わず歩みを緩める。
「……そ、そんなこと、ないわ。たまたま目が合っただけよ。」
自分でも、なぜ否定したのかわからない。確かに視線は向けられた。それに、笑った――あの穏やかな表情は、自分に向けられていた気がする。けれど、それを口にするのはなんだか、少し怖かった。
「ふぅん? じゃあ私の見間違いかしら。でも、殿下が他の誰かをあんなふうに見るところ、私は見たことないけど。」
リディアが楽しそうに微笑む。彼女は昔から勘が鋭い。しかもこういう時に限って容赦がない。私はそっと視線を落とした。心臓の奥がまだ、少しだけ熱を持っている気がする。
けれどその意味に思いを巡らせるには、まだ――ほんの少し、勇気が足りなかった。
◇
高等部での生活は、中等部のころと然程変わりはなかった。皇太子妃という立場上、下級貴族出身の生徒たちは声を掛けづらいようで、同じクラスでも余り関わりがない。必然的に友人のリディアや、初日に言葉を交わしたエミールと過ごすことが多くなる。
「そういえば、アンネリーゼは学徒院に所属することになるのよね?」
「そうね。ローゼンベルク家としての参加か、皇太子妃としての参加になるかまだ分からないけれど。」
中央学院の高等部に通う貴族子女のうち、ある程度の爵位と血統を持つ者は、原則として学徒院に所属する。名目は「特別進学課程」だが、実態は貴族社会の教養と作法を学ぶ、いわば“未来の上流社交界”の縮図だった。
学徒院では通常の授業に加えて、帝国法の基礎や儀礼の実践、各家の来歴や紋章についての講義も組まれている。たとえば来週行われる予定の《帝国貴族文化実践講義》では、生徒一人ひとりが自家の歴史や家紋の意味、爵位の由来などについて壇上で語らねばならないのだという。
「緊張するわね、それ……。公爵家の子たちなんか、代々語り継がれてるような立派な逸話を用意してきそう。」
リディアが小声で囁いた。彼女の家は侯爵家より格は下だが、それでも地方領主として長い歴史を持っている。けれど帝都の公爵家たちとは違い、注目を浴びる機会はそう多くない。
「大丈夫よ。言葉の選び方と話し方次第で、どんな家系も立派に見えるもの。」
そう言って笑ってみせたが、私の心の中には別の思惑があった。
――この《紋章講義》は、ゲーム本編にも登場していたはず。アンネリーゼはそこで、ある公爵家の息子から、身分について揶揄されるシーンがあった。
逆行した今、この講義の舞台もまた、ひとつの分岐点になり得る。私が、ただの“婚約者”で終わるのか、それとも“正統な後継者の血筋”として認められるのか――。
その差は、今後の立場にも大きく影響するはずだった。
「今日が、その特別講義の初日よね?今度詳しく聞かせてちょうだい。」
「ええ、必ず話すわ。」
そう約束を交わしたあと、アンネリーゼはいつもの授業に向かった。
午前中は一般生徒たちと同じように授業を受け、午後から学徒院の特別講義に参加する。講義は学年を問わず行われるため、ディートヘルムと待ち合わせて一緒に向かうことになっていた。
教室で迎えを待っていると、現れたのはレオンハルト卿だった。
「殿下、お迎えに参りました。」
「ありがとう。すぐに行くわ。」
案内に従って歩くと、ディートヘルムがすでに待ち構えていた。
「緊張しているか?」
「…少しだけ。母のことを皆の前で話すのは、これが初めてだから。」
ディートヘルムは当然のことながら、私とヴァレンシュタイン家の関係を知っている。皇族だからというだけでなく、私が自ら彼に話したのだ。――彼には隠したくなかったから。
「閣下もこの件は了承しているんだろう?…大丈夫、君ならきっとやり遂げられる。」
「あなたにそう言ってもらえると、心強いわ。」
これまでは、余計な混乱を避けるため、あえて母方の血筋については伏せていた。これを表に出せば、ヴァレンシュタイン家の影響力で皇太子妃に選ばれたと誤解を生みかねないからだ。それは本意ではないとゲオルク様や曾お祖父様も納得してくれた。
いずれ、この講義が行われることは分かっていた事だ。自分の正当な血筋を隠すことがむしろ他人の憶測を招くこともある。
(ユリウスの事を考えると、あの時の選択は間違ってなかったわね。)
今回のこの公表で、ゲームのシナリオ通りには行かなくなる。これが直接ローゼンベルク家の救済につながるかは不明だが、何が火種になるかわからない今、降りかかる火の粉は早めに払っておいたほうがいいだろう。
「それじゃあ、行こうか。」
差し出された手を取り、ディートヘルムと並んで歩きだす。
講義室へ向かう廊下は、普段の教室とはまるで空気が違っていた。各家の後継者たち、あるいは次代を担う貴族たちが一堂に会する場――社交と権威の縮図。互いの来歴を知り、立場を探り合う場としても、この講義の意味は大きい。
入室すると、すでに多くの生徒が着席しており、講義の開始を静かに待っていた。その空気を切り裂くように、視界に飛び込んできたのは、ひときわ目を引く姿だった。
真っ直ぐに伸びた銀糸のような長髪が、光を受けて艶やかに揺れている。その髪を無造作に後ろで束ねた少年――いや、青年と呼ぶべきか――が、悠然とこちらを見ていた。
(……ユリウス=フォン=ノルトハイム。彼もまた、ゲームの登場人物の一人。)
貴族社会において、長髪は気品と誇りの象徴とされることもある。だが、彼のそれはどこか挑戦的で、意志を主張するような鋭さがあった。公爵家の嫡男であり、皇太子と同じ学年。帝国でも五指に入る家の出であることを隠そうともしない姿勢が、そのまま彼の立ち居振る舞いに表れている。
周囲にいた生徒たちが、彼の一挙手一投足に視線を向けているのがわかった。
ユリウスはゆるやかに立ち上がると、まるで舞台の幕が上がったかのように、こちらへと歩み寄ってきた――。
しばらくの沈黙の後、あくまで丁寧あ言葉で彼は口を開いた。
「お噂はかねがね。――婚約式の際にも拝見しましたよ、皇太子妃殿下。」
彼の視線が、私に向けられる。その目には既に評価を下す者の色が宿っていた。
「貴族社会の誰もが見守る場に立たれる姿……さぞお緊張なさったでしょう。ご出自を考えれば、無理もないことですが。」
丁寧な言葉遣いの裏に滲む、明らかな侮蔑。皇太子が隣に立っているにもかかわらず、その口調はまるで貴族社会の“格”をあからさまに誇示するかのようだった。
ディートヘルムが眉をひそめ、一歩踏み出しかけたその瞬間、私はそっとその袖をつかんだ。
「……ありがとうございます。あの式は、私にとって忘れられない一日ですわ。」
微笑んで返す私を、ユリウスは少し意外そうに見た。彼の言葉には、明らかに“侯爵の娘にしてはよくやった”という侮蔑が含まれていた。
この程度のこと、想定の範囲内。むしろ、好都合ですらあった。だからこそ、今はあえて甘んじて受ける。この言葉が、どれほど皮肉に変わるのか――いずれ、彼自身が思い知るのだから。
室内は明らかに静まり返っていた。私たちの会話を固唾をのんで見守っている。
やがて、講師である宮廷顧問官が登壇すると、今日の講義の主旨を説明し始める。
「本日の講義は、貴族社会における家格と来歴、そして紋章について――各家の後継者や縁者に、その由来を語ってもらいます。」
数人の生徒が壇上に立ち、それぞれの家系の歴史や理念について語っていく。公爵家の嫡子、伯爵家の後継者、それぞれが誇り高く語る姿が続いたあと――講師が、こちらを見た。
「次は……アンネリーゼ=フォン=ローゼンベルク殿下。よろしければ、あなたのご来歴を。」
静かに立ち上がり、視線をまっすぐ前に向ける。誰よりも堂々と、けれど気品を失わぬように――その振る舞いこそ、ローゼンベルク家の名に恥じぬものに。
「ローゼンベルク家は、帝国でも古くから辺境を守ってきた侯爵家です。そして私自身は、亡き母の実家、ヴァレンシュタイン公爵家の血を引いております。母は、ヴァレンシュタイン公爵家の長女、エリーザ=フォン=ヴァレンシュタイン――。」
その名を口にした瞬間、講義室の空気がぴたりと張り詰めた。ざわりとした小さなどよめきが、部屋の隅から広がっていく。
壇上から見下ろす視線の先。ユリウスの表情が、わずかに揺らいだのが見えた。驚愕、あるいは困惑――あるいは、自らの言葉が己を貶めたことにようやく気づいたのか。
ディートヘルムを見ると、彼は満足げにうっすら微笑みを浮かべていた。
私はそれに頷きで返して、あの日受け取ったペンダントを取り出すと、皆に見えるようにそれを静かに掲げた。
「……ヴァレンシュタイン家の紋章は、代々《星の聖冠》と呼ばれる意匠を戴き、学術と信仰に多大な貢献をしてきました。私は、その血を継ぐ者として、誇りと責任を胸に、この場に立っております。」
一礼して席へ戻る途中、ユリウスとすれ違う。彼は何か言おうとして、けれど声にならず、視線を逸らした。
――もう、下には見られない。
そう思いながら私は、静かに席へと戻った。
講義室を出た瞬間、周囲の空気が微かに変わったのを感じた。
「……まさか、あのヴァレンシュタイン公爵家の縁者だったとはな。」
背後から聞こえたその低い声に、私は足を止める。
振り返ると、ユリウスが一歩離れた位置で私を見ていた。先ほどの尊大さは薄れ、代わりに見極めようとする視線がそこにあった。
「帝国文化と信仰を司ってきたヴァレンシュタイン家。……あえてそれを隠していたとは、なかなかの策士だ。」
口調は皮肉に近かったが、その言葉の端々には、明らかな慎重さがにじむ。
「……いえ。隠していたわけではありません。ただ、必要のないところで名を借りたくなかっただけです。」
淡々と答えると、ユリウスの目がわずかに細まった。
「必要のないところ、か。……皇太子妃である君が、何を“必要”と定めているのか……その基準には興味が湧く。」
そこで彼は一歩、私に近づいた。
「――君が“あの日”の少女と同じ人間だとは、正直思っていなかったよ。」
それだけを告げると、ユリウスはくるりと背を向け、廊下の奥へと歩き出した。足取りは変わらず堂々としているが、その背中には、彼なりの動揺と、思考の余地が滲んでいた。
(それでいい。すぐに態度を変えるような相手ではないからこそ――。)
私は、ひとつ深く息を吐いた。




